2012年04月05日

国会図書館のデジタル化雑誌のなかを彷徨っていたら、タイトルの雑誌に出会った。帝国海事協会の海事雑報以前の時期のもののようである。関わっている人物も重複している。今後、精査の必要あり。

rshibasaki at 16:14コメント(0)トラックバック(0)『日記』<海事・海軍史> 

2012年03月29日

ブログ「Collections of modern Japanese history」を消してしまったようだ。どうしたのかな

rshibasaki at 01:50コメント(0)トラックバック(0)『日記』 

2012年03月09日

論文
明治期山口県における水難救済会の組織形成」(Implications of Forming Marine Rescue Japan's Yamaguchi-Prefectural Branch in Meiji-Era)

研究ノート
早速丸沈没事件に見る20世紀初頭海事領域の象徴性」(Hayami Maru Sinking Incident's Symbolism of Maritine Affairs in Early 20th Century Japan)

大阪工業大学紀要 人文社会篇56巻2号、2012年2月29日発行

rshibasaki at 07:52コメント(0)トラックバック(0)『日記』<海事・海軍史> 

2012年02月19日

歴史学供 2年次〜 木曜・2/4時限  参照許可物等なし

1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。    (1個4点、計100点)

(1) 本講義では、1863年(文久3)年に肥後国葦北郡____________(現在は同名の市となっている)に生れ、1957(昭和32)年、静岡県熱海市伊豆山で逝去した徳富蘇峰の生涯を中心に置き、その背景となった19世紀・20世紀の日本史を概観した。蘇峰は、郷里の熊本県で____________運動に加わり、大江義塾を経営した後、公刊された最初の著作であるデビュー作『_______________』の刊行が1886年に決まると上京し、「_____________」「生産主義」「平和主義」を主張した。従来の蘇峰研究においては、この日清戦争前の時期と、日清戦争後から、昭和戦前、太平洋戦争敗戦を経て逝去するまでの後半生に生涯を二分し、対比的に取り上げるのが通例であった。この二分法が通説化したことには奇妙な経緯がある。
<(1)の選択肢> 水俣、熊本、荒尾、尊皇攘夷、自由民権、大正デモクラシー、将来之日本、大日本膨脹論、時務一家言、貴族主義、平民主義、国家主義

(2) 最初に日清戦争で生涯を二分する説明をしたのは蘇峰自身であった。1913年刊『____________』が初出であり、講義中に関連部分を配布した1935年刊『_____________』においてもその説明は繰り返された。蘇峰は、日清戦争前を若気の至り、未熟さがあった時代とみなし、日清戦争以降を肯定的に評価し、現在の自分にいたる時代と位置づけた。蘇峰は、太平洋戦争中に__________________を務め、ラジオ放送に登場し戦意高揚の演説を行った。この蘇峰の姿を見、戦時中の_______________的な蘇峰の言動に強い印象を受けた青年たちがいた。戦後、その世代が担い手となり、蘇峰研究がスタートした。初期の蘇峰研究者は、日本国憲法の平和主義の理念に代表される戦後___________的な価値意識に類似した歴史的先例を求め歴史を遡上し、日清戦争前の蘇峰を「発見」した。こうした事情があり、先ずは、上京直後から日清戦争の数年後まで雑誌『_____________』を発行した時代の蘇峰について研究が蓄積されることとなった。
<(2)の選択肢> 将来之日本、大日本膨脹論、時務一家言、蘇峰自伝、勝利者の悲哀、国民新聞社社長、京城日報社監督、大日本言論報国会会長、国家主義、民主主義、国民之友、蘇峰会誌、欧文極東

(3) 日清戦争講和の___________の国民新聞に掲載された「欧米周遊に就て江湖の諸友に告く」(欧米周遊に出かけるに際した蘇峰から読者への挨拶文)には、1913年の著作や1935年の著作とは異なる三国干渉への論及がある。「我が朝野に於ける世界時務的知識の欠乏」「単に国力のみ進みて、国民の眼界の進まざりし不権衡」が原因となって_______________を引き起こしたとする把握が示されている。
<(3)の選択肢> 一年後、五年後、十年後、遼東還付、台湾占領、韓国併合

(4) 日清戦争前後の蘇峰の社会的活動形態の変化が、国家将来像・組織的基盤・国内政治観の三側面にわたって、1891(明治24)年、および、1898(明治31)年に生じたとする把握(1991年工大紀要に掲載)を講義した。後者の転換点に際し、蘇峰は、1898年8月末で『国民之友』『家庭雑誌』『欧文極東』を廃刊し、9月より『国民新聞』に統合した。これは、________________として国民新聞が遇されることを求めて、日清戦争前には批判の対象とした_______________のリーダーに接近したことにより生じた組織的基盤の編成替えであった。
<(4)の選択肢> 独立新聞、準政府機関紙、準政党機関紙、藩閥、民権派、在野

(5) 1913(大正2)年は、徳富蘇峰の生涯において後半生の発端となった年である。第一に、日露戦争以前から盟友関係にあった長州系陸軍出身の藩閥政治家______________が政治的に失脚し、ついで病死することにより、蘇峰が現役の政治記者である時代に終止符が打たれた。第二に、米国カリフォルニア州で排日土地法が成立したことを知り、欧米系の白人国家を指して「______________」という用語を初めて用いた。以後、太平洋戦争にいたる米国との対立が顕在化し始めた。第三に、日清戦争講和にロシア・ドイツ・フランスが干渉してきたことにより自分は「________________」に目覚めたという言説を用いるようになった。後半生の主な仕事となる『_________________』の執筆開始は1918年からであるが、そのきっかけが生起したのは1913年であった。
<(5)の選択肢> 山県有朋、桂太郎、寺内正毅、藩閥、白閥、力の福音、黄人の重荷、近世日本国民史
公爵桂太郎伝、吉田松陰

(6) 2011年3月11日以降の時代から徳富蘇峰の生涯を捉えた研究はまだ存在しない。蘇峰は、1923(大正12)年9月1日の________________により、国民新聞社の社屋が全焼し、その後の経営再建に失敗した自然災害により影響を受けた歴史上の人物である。いまのところ最新の研究は、2011年3月刊、澤田次郎『徳富蘇峰とアメリカ』である。同書本文末尾で、著者は、「生涯を通じてアメリカと心理的に格闘した蘇峰の体験は、現在のアメリカと日本の関係はもちろんのこと、アメリカと_____________、あるいはアメリカと______________世界の関係を考える上でも、比較の材料をもたらしてくれる」と述べる。2001年9月11日の同時多発テロ以降の世界状勢を踏まえて、日本近代を代表する歴史的人物として徳富蘇峰を位置づけていることが読み取れる。
<(6)の選択肢> 濃尾地震、関東大震災、南海地震、中国、東南アジア、イスラム、ヨーロッパ

(7) 澤田氏の前著、1999年刊『近代日本人のアメリカ観』は、日露戦争から_______________終結までを扱った。この時代は日米対立が漸次増幅し、戦争に至る過程であった。「______________」と題された日露戦争直後の社説で、かつて蘇峰が危惧を示した将来シナリオ、すなわち、日本が有色人種のリーダーとして白人諸国家と戦うという望まない未来像が現実化する過程であった。
<(7)の選択肢> 第一次世界大戦、第二次世界大戦、高度経済成長、東西冷戦、黄人の重荷、朝鮮統治の要義
国民自覚論

(8) 澤田氏の2011年刊『徳富蘇峰とアメリカ』は、日清戦争後、日露戦争にいたる時代において、蘇峰は「シーパワーの日英________が結束してランド・パワーの_____________を封じ込める」という基本戦略を構想したと指摘する。この構想が長い中断の時期を経て、第二次世界大戦後、日米安全保障条約という日米提携によりソ連を盟主とする共産主義陣営の拡大阻止の構想として復活する。蘇峰の全生涯を対象としたことで初めて可能となった澤田氏の最新作の独自な主張である。
<(8)一つ目の空白の選択肢> 清、露、独、仏、米
<(8)二つ目の空白の選択肢> 清国、ロシア、ドイツ、フランス、アメリカ















【正解】
(1) 水俣、自由民権、将来之日本、平民主義
(2) 時務一家言、蘇峰自伝、大日本言論報国会会長、国家主義、民主主義、国民之友
(3) 一年後、遼東還付
(4) 準政府機関紙、藩閥
(5) 桂太郎、白閥、力の福音、近世日本国民史
(6) 関東大震災、中国、イスラム
(7) 第二次世界大戦、黄人の重荷
(8) 米、ロシア



rshibasaki at 17:08コメント(0)トラックバック(0)「徳富蘇峰研究史を通して見る近代日本」工・歴史学2011-2012 

2011年12月20日

帝国時代の関連する諸歴史。という副題の付く会議が、ハイデンベルク大学であるみたい。事後でいいから、会議報告書を見てみたい。



rshibasaki at 15:41コメント(0)トラックバック(0)<世界交通線> 

2011年11月26日

歴史学機 。嫁次〜   木曜・2/4時限    参照許可物等なし

1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。    (1個4点、計100点)

(1) 本講義の前半は「__________________________」という主題のもとに、毎回副題を変えて講義した。第2回は副題「水路部に勤務して」であった。配布したプリントには、肝付が_________の適地として選定し、1889年(明治22年)に鎮守府が置かれることになる西日本の沿海都市___________市のホームページをコピーして配布した。この回では海上保安庁水路部が編集した団体史『________________』(財団法人日本水路協会、1971年)から日本の沿岸測量の進捗を説明するページを配布した。それを見ると、肝付が、先の沿海都市となる沿岸部を測量に訪れたのは、1883年(明治16年)であった。
<選択肢> 肝付兼行の多面性、海軍と貿易立国、商港、軍港、漁港、舞鶴、呉、佐世保、日本水路史、日本海軍史、日本海運史

(2) (1)に出てきた団体史は、水路部が兵部省海軍部水路局として創設されてから百年目に刊行された。その百年前に当たる1871年(明治4年)、初代の水路部長となる_________________が北海道測量を実施した。その北海道沿岸測量の際、北海道開拓使に勤める肝付兼行を知り、東京の水路局にスカウトしたものと推測される。この初代の水路部長となった人物は、現在の日本数学会と日本物理学会の前身______________を、1877年(明治10年)に発起人の一人として組織し、また、__________________を1882年(明治15年)に組織した。この後者の団体については、肝付兼行も日露戦争後にいたり、同会が設置した漁船船員養成所の所長を務めた。第7回の講義では、この団体と帝国海事協会が共催した海事水産博覧会を記念し発行された書籍『_______________』(1916年=大正5年刊)の序・緒言・目次を参考資料として配布した。
<選択肢> 柳楢悦、勝海舟、榎本武揚、東京数学会社、日本測地学会、大日本帝国水難救済会、日本海員掖済会、大日本水産会、海国日本、帝国日本、陸奥湾之将来

(3) 肝付兼行が活躍した時代は、海洋がフロンティアとして登場した時代であった。それは、19世紀の半ば、大洋を______________が横断し、世界交通路が形成された時代に始まる。この新しい動力源をもつ船は、商船だけでなく、軍艦としても用いられた。日本にとって、四囲を海に囲まれた国土のかたちが、欧米列強に対して___________を提供するかたちとなった。ただし、日本にとって幸いだったのは、当時のエネルギー源は___________であり、このエネルギー源は日本国内に産出し、日本はエネルギー自給国家たりえたことである。
<選択肢> 帆船、外洋形カヌー、蒸気船、防壁、侵入路、薪、石炭、石油、原子力

(4) 新たにフロンティアが登場すると、その空間に関連する職業分野も同時に登場する。肝付は、1883年(明治16年)に創立された________________に参加し、次世代を担う小学校生徒に、海についての理解を深めさせる教科を設置することを主張した。当時、海についての理解を深めされることを____________の涵養あるいは普及と呼んだ。また、日清戦争後の1897年(明治30年)に富山県高岡市での講演では、知育・徳育・体育に加えて_______________の重要性を強調している。これは、当時、肝付が講演などでしばしば言及した米国海軍のアッフレッド・セイヤー・マハンから学んだものである可能性がある。第10回で紹介したように、現在の英米海軍史家である_____________________は、マハンには「国家指導者や提督たちが行なう決断がもっとも重要」とした側面があることを指摘している。
<選択肢> 大日本教育会、全国教育会、海軍思想、海事思想、情育、胆育、奥山真司、ジョン・テツロウ・スミダ

(5) ___________港は、日本海に面する本州の港湾のなかでは最も早く太平洋岸との連絡鉄道が開通した。かつて、1892年(明治25年)に、肝付兼行が「西比利亜鉄道に対する日本の開港場を論す」において、「 浦塩港より____________への航路に当る」開港場に最適と指摘した港湾である。ここから西の隣接府県では「西比利亜鉄道に対する日本の開港場を論す」を抄録した『_____________________』が印刷に付された。
(6) ___________港は、「 浦塩港より_____________への航路に当る」開港場に最適と、肝付が指摘した港湾である。地元の新聞『東奥日報』主筆が、『________________』を1894年(明治27年)に著し、地元発展の期待を表明した。同書には、軍港としてライバル関係に当たる北海道の軍港候補地、_______________への対抗意識を読み取ることができる。なお当時、海峡に面したもう一つの直近の位置にある北海道の港湾は道内中央部との鉄道が開通しておらず、石炭搭載の便を欠いていた。
(7) ___________は、現実には築港がなされることなく、港湾としての歴史をもつことはなかった。「西比利亜鉄道に対する日本の開港場を論す」では、対馬海峡に面する位置から、「 浦塩港より____________への航路に当る」開港場に最適とされ、北九州の炭鉱地帯の石炭を供給する役割が期待された。
<(5)(6)(7)の選択肢> 亜米利加、我国、上海、仮屋、宮津、舞鶴、小浜、敦賀、伏木、函館、青森、大湊、室蘭
日本海港湾調査報告書、陸奥湾之将来、肝付大佐演説の要領

(8) 1891年(明治24年)1月27日、東京地学協会において、米国アジア艦隊旗艦アライアンス号艦長、テイロル大佐が行なった演説は、_______________運河建設計画についてのものであった。
<選択肢> パナマ、ニカラグア

















【正解】
(1) 肝付兼行の多面性、軍港、呉、日本水路史
(2) 柳楢悦、東京数学会社、大日本水産会、海国日本
(3) 蒸気船、侵入路、石炭
(4) 大日本教育会、海事思想、胆育、ジョン・テツロウ・スミダ
(5) 敦賀、我国、日本海港湾調査報告書
(6) 大湊、亜米利加、陸奥湾之将来、室蘭
(7) 仮屋、上海
(8) ニカラグア


rshibasaki at 18:29コメント(0)トラックバック(0)「肝付兼行とその時代」工・歴史学2009-2011 
歴史学  3年次〜  水曜・2時限  参照許可物等なし

1.つぎの各文章の下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入しなさい。    (1個4点、計100点)

(1) 地球上の2点を最短で結ぶ経路を______________と言う。関西国際空港から飛び立ったロンドン行きの便は、沿海州のハバロフスク上空から、ロシアの北極圏のツンドラ地帯上空を飛行し、北欧三国の上空経由で目的地へ向かう。ニューヨークへ向かう便は、千島列島沿いに飛び、ベーリング海からアラスカ上空に入り、カナダ上空を横断し、五大湖付近にいたる。こうしたほぼ直線の経路が可能となったのは_____________が航空輸送の主力となり、成層圏まで上昇し、対流圏の気象の影響を受けずに飛行経路を設定することが可能となったからである。
<選択肢> 等角航路、同緯度航路、大圏航路、プロペラ機、ジェット機、飛行船

(2) 地表交通の時代において世界一周航路を描く場合、陸地は障害となりえた。第一に、細い水路が向こう側の大洋に繋がっている場合、その水路を探し出し航路として利用した。日本にとっては、太平洋(南シナ海南部シンガポール付近)とインド洋(ベンガル湾南東部のアンダマン諸島付近)の間を結ぶ_____________海峡が1862年初めに幕府遣欧使節団が通過して以降、重要な海峡となった。
<選択肢> ボスポラス、マラッカ、スンダ

(3) 第二に、陸地の向こう側に別の大洋、ないしは、大洋に繋がる海がある地形がある。海と海の間に狭い陸地があり、船の行く手を阻む。この地形を_________と呼ぶ。1862年の幕府遣欧使節団は、エジプトでピラミッドとスフィンクスを見学している。インド洋から紅海を経て、________________を経由し、地中海に入り、フランスのマルセイユに至った。

(4) 1860年代前半、世界交通路に当たる(3)で取り上げた地形には、連絡鉄道が建設されているのが通例であった。1860年に幕府がアメリカ合衆国に派遣した使節団は、中部アメリカの____________に建設されていた連絡鉄道に乗り、太平洋岸から大西洋岸(カリブ海側)へ移動し、そこから別の船に乗りアメリカ東部にある首都ワシントンへ向かった。
<(3)(4)の選択肢> 陸橋、地峡、交通線、パナマ、スエズ、コリント、マゼラン

(5) (3)の地形の制約を越えるには二つの方法があった。一つは(3)の地形、すなわち海と海の間を遮る狭い陸地に人工的な水路を建設し、そこを船が通航することである。すなわち、____________の建設である。但しこの場合、船舶自体が自らの力で移動できる必要があり、土木技術の発展だけでなく、____________の時代を迎える必要があった。
<選択肢> 運河、用水、インクライン、帆船、蒸気船

(6) (3)の地形の制約を越えるもう一つの方法は、(3)の地形によって遮られた海と海の間に存在する大陸のうち、長距離鉄道を建設しやすい経路に、鉄道を建設することであった。すなわち、大陸横断鉄道である。北アメリカ大陸における最初の大陸横断鉄道の開通は、__________年であり、ユーラシア大陸における大陸横断鉄道としてのシベリア鉄道が開通したのは___________年であった。
<選択肢> 1869、1902、1914

(7) 現在、日本海側の道府県のうち、最も、________________構想に適合し、地域の発展を国内交通路と、日本海対岸との国際交通路を繋ぐ役割を実現しているのは新潟県である。ロシア共和国沿海州の州都ハバロフスクや、シベリア鉄道の起点都市_____________とを結ぶ国際航空路が新潟空港を発着している。しかし、明治時代にまで遡ると、新潟と東京を結ぶ鉄道は碓氷峠をアプト式で越える信越本線であり、1931年に上越線が開通する以前は、新潟は港湾都市としては国内交通路に恵まれていなかった。その時代、すなわち、明治・大正期に日本海側の港湾都市として国際貿易港の地位を得て繁栄したのは____________であった。東京発のシベリア鉄道連絡列車がこの港の桟橋に直結し、日本海対岸のシベリア鉄道の起点の都市との間を連絡船が往復した。
<選択肢> 対岸貿易、環日本海経済圏、ウラジオストク、大連、釜山、秋田、酒田、敦賀

(8) 江戸時代の日本では、街道は、一部の例外を除き、人か馬が歩く道であった。_____________は船に積まれ、河川や沿岸を水運によって運ばれた。例えば、山形県内陸部で収穫した米は、最上川の水運で河口の酒田に運ばれ、ここから_______________まで、関門海峡を経由し、沿岸航路の帆船である北前船で運ばれた。また北前船は、蝦夷地(現在の北海道)で昆布を積み、もう一方の起点でそれを販売した。現在、大阪で昆布が多く消費されるのはこの時代の名残である。
(9) 山形県の一つ北側の秋田県を、この講義では事例として取り上げた。現在の県庁所在地、秋田市に河口がある雄物川を遡った位置にある内陸都市が横手市である。この横手の名望家の家に生れた伊藤直純が1887年(明治20年)に、_________________を求めて陳情活動を行なうため上京した際の日記の一部を紹介した。厳冬期に横手を徒歩で出発した伊藤は、江戸時代同様の馬橇(そり)や徒歩での移動で山形県北部まで移動すると、そこから先の雪が消えた道は、明治以降に普及した_____________に乗った。車両が道路を通行する近代的交通体系の第一の段階に出会った。栃木県北部の黒磯まで来ると、そこから東京までは、近代の第二段階の交通体系の時代、すなわち、______________を中心とする陸上交通体系が実現していた。
<(8)(9)の選択肢> 軽量貨物、重量貨物、江戸、京都、大坂、鉄道建設、河川改修、人力車、自動車、鉄道

(10) 1887年(明治20年)の東京で、秋田県横手から上京した伊藤直純は、九州から上京した陳情活動のグループと交流を深めた。この九州グループの希望が実現し建設された鉄道が現在の鹿児島本線、長崎本線である。講義中では、徳富___________を事実上の主人公とする自伝小説『冨士』の一部を紹介した。1895年(明治28年)の冬、東京から郷里_____________県に戻る旅行の途上の主人公が、九州に上陸し、門司駅(現在の門司港駅)で、駅員に電報の発信を依頼している場面を紹介した。
<選択肢> 蘇峰、蘆花、一敬、熊本、長崎、佐賀

(11) 幕末、徳川幕府が欧米諸国と外交関係を結び、続いて、通商関係を開いた。開国と開港である。しかし、明治維新の数年前、1866年(慶應2年)までは、一般人の海外渡航が許されていなかった。現在で言えば、公用旅券のみ存在し、一般旅券のない時代とも言えよう。この時代に正規に出国したのは、___________が派遣する外交使節と留学生であった。一方、不正規出国者、密航者もいた。具体的には、藩命による渡航者と私的な渡航者がその内訳となる。長州藩が英国に派遣した留学生も藩命による密航者であった。かれらは「長州ファイブ」と呼ばれる__________、井上馨、野村弥吉(井上勝)、山尾庸三、遠藤謹助の5人であった。
<選択肢> 幕府、諸藩、朝廷、山県有朋、伊藤博文、木戸孝允

(12) 1871年(明治4年)の廃藩置県以後、1890年(明治23年)の帝国議会開設までの時代は、次第に地方議会が誕生したが、国全体の議会がいまだ存在しない時代であった。この時代の地方議会は、府県議会・郡会・町村会をまとめて、総称として、____________と呼ばれた。また、いまだ存在しない国全体の議会のことは、この時代においては、______________という一般名詞を用いて呼ばれた。
<選択肢> 地方議会、地方民会、帝国議会、国会

(13) 技術導入において、先端技術と伝統技術の中間の存在があった。先端技術の要素を簡略化した先端技術の廉価バージョンを一時的に採り入れ、技術としての最高度のものではないが、その時代の必要を満たし、利益を挙げて先端技術導入の基盤をつくる中間技術という存在を指摘した。明治初期から中期における_____________はその実例である。
<選択肢> ガラ紡、オート三輪車、固定焦点カメラ、軽便鉄道


rshibasaki at 17:52コメント(0)トラックバック(0)知・歴史学「日本近代の舞台設定」 2004-2013終了 

2011年11月20日

書評
前田亮介
「三谷太一郎著『ウォール・ストリートと極東--政治における国際金融資本』」
史学雑誌120-9、2011年9月

三谷太一郎著『ウォール・ストリートと極東--政治における国際金融資本』
東京大学出版会、2009年12月

三谷太一郎著を通読し始めた。勝海舟について捉えている21〜22ページに、思わず身震いする。明治に入ってから、海軍と海事、貿易立国について勝がどのような言説を行なっているのかを確認する必要がある。

あと、添田寿一も『軍備論集』に、雑誌『富国』1号(1890年1月1日)掲載「帝国海軍振起論」が収録されている。添田も、系統的に追跡する必要がありそうだ。







rshibasaki at 20:18コメント(0)トラックバック(0)<海事・海軍史><世界交通線> 

2011年11月16日

昨日、CiNiiの論文データベースの全文検索が公開された。早速「ニカラグア 運河」で検索すると、つぎの論考の存在を知ることができた。

金澤宏明「中米地峡運河とハワイ---アメリカ海外膨脹のレトリックと実態
太平洋学会誌98号、2009年3月


ニカラグア運河(未着工)とパナマ運河(1914年竣工)の総称が「中米地峡運河」と表現可能なことを知った。

rshibasaki at 12:12コメント(0)トラックバック(0)<世界交通線>『日記』 
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