2012年08月22日

歴史学  柴崎  3年次〜  水曜・2時限  参照許可物等なし

1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。(1個4点、計100点)
遠目に見ると、A→Cと変化しているように見えるものも、接近して観察するとA→B→Cと、Bの段階が間に入っていたことに気づく。Bの段階として理解できる事例を、講義内容から列挙して見る。
(1) 鎖国により海外との出入が規制されていた江戸時代の日本と、航空機で世界中に旅行に行ける現在との間に、19世紀半ばから20世紀半ばにいたる地表交通の時代があった。大陸を横断する______________________、あるいは、大洋と大洋の間を隔てる狭い陸地である地峡に建設された______________________や大洋と大洋を結ぶ狭い自然水路である____________________を通って世界を結んだ航路により、世界規模の旅行が可能となった。
<選択肢> 運河網、大陸横断鉄道、道路、運河、地峡、海峡

(2) 日本国内における遠隔地交通の歴史を考えると、江戸時代の交通体系と明治時代に始まる鉄道交通の時代の間に、江戸時代と同じ交通ルートを、別の技術段階の交通手段が行き交った時代が存在した。沿岸航路や内陸河川水路においては、江戸時代と同様の動力源の船舶も運航していたが、新たに___________が導入されることで運航速度が向上し、また、定時運航が可能となった。陸上では街道は砂利で舗装され、そこを車輪を用いた交通手段である___________
や____________が行き交った。
<選択肢> 帆船、蒸気船、馬車、人力車、自転車、自動車

(3) 鎖国下の時代と、お金さえあれば一般人の海外渡航が可能となった__________年以降の時代との間に、当時の中央政府である徳川幕府の公務をもつ者のみが正規の海外渡航者であった時代がある。幕府派遣の外交使節、および、幕府派遣の__________が正規出国者の内訳である。また、幕府から見れば密航者であるこれ以外の渡航者には、自分の属する___________の命令による海外渡航者、ならびに、個人的な動機による私的密航者がいた。
<選択肢> 1853、1866、外交官、留学生、藩、府県

(4) 江戸時代以来の伝統技術と、西洋の近代的な先端技術が普及した段階の間には、先端技術の要素を取り入れつつ伝統技術を改良し従来の伝統技術とは質的に異なる生産性をもつ技術が普及した段階があった。第二次世界大戦後の開発援助の経験のなかからこうした技術の発展段階や、その段階にある技術を___________と呼ぶようになった。綿紡績における___________がその実例である。手回しや水車の力でで十数本の糸を同時に紡ぐことができる木製の簡易製糸機械であった。また、輸入した金属製ジャガード織機を、木製フレームで模造した京都西陣の職人の努力も、この技術段階の一例と言えるだろう。
<選択肢> 中間技術、模倣技術、ガラ紡、製糸機

(5) 江戸時代の身分制社会と、現在の日本、すなわち、日本国籍保持者が国民と___________という二つの法的に区別される身分から構成される社会の間に、明治維新から戦後改革までの時代の日本があった。この時代には、法的に区別される身分として、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵という五つの爵位に1884年以降区分されることになった___________があった。
<選択肢> 皇族、華族、士族、平民

また、この講義では、国内の出来事と国外の出来事とを関連づけ、相互の繋がりとして説明することを心がけた。以下はその実例である。

(6) 国外での世界交通の変化と、国内の交通体系の変遷は相互に関連する。世界交通で言えば、最初の北アメリカ大陸横断鉄道が開通し、スエズ運河が竣工した1869年以降、日本から北アメリカ大陸、さらに大西洋航路を経て西ヨーロッパにいたる経路の日本国内からの出発点は__________________港であり、瀬戸内海・関門海峡・上海・香港・マラッカ海峡・スエズ運河を経由し、フランスの地中海沿岸の港町マルセイユにいたる航路の出発点は、神戸であった。シベリア鉄道が1902年に開通することで地表交通の時代はつぎの段階に入ったが、その際、日本国内からの出発点も変化した。日露戦争後、明治末年までを視野に入れると、シベリア鉄道経由西ヨーロッパ行きの日本本土からの出発港は、下関と___________________となった。この変化を目にした日本海沿岸の各府県では、本州中央部と自らの地域を鉄道で結び、新たに整備した近代的な港湾に鉄道を繋げ、さらに、日本海の向こう岸の外国の地域との国際貿易の拠点としたいとの思いから、当時_______________________と呼ばれた地域発展策を試みることとなる。
<選択肢> 横浜、新潟、敦賀、長崎、対岸貿易、環日本海経済圏

(7) まず、19世紀中頃、欧米諸国の艦船が日本近海に出現し、太平洋が航路として着目されることで日本の開国、開港以降の歴史が始まった。明治維新や明治憲法体制は、地球全体が世界規模の交通・通信ネットワークに組み込まれる趨勢に対応した日本の反応から生み出されたものであった。つぎに、第一次世界大戦を契機として、ヨーロッパ文明世界は、第一に、1917年の革命で皇帝を戴く帝国が共産主義国家のソ連に変わった___________________、第二に、ファシズム国家となった____________________、イタリアなど、第三に、民主主義と資本主義を維持したイギリス、アメリカと、三つのモデルに分かれた。こうした情勢の国内への反映が大正時代後半から昭和時代戦前の国内政治であった。さらに、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国とソ連との間の東西冷戦の時代に対応した国内政治体制が、_____________________による長期政権だとすると、最後の四番目の時期、すなわち、1991年のソ連解体、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降の国際情勢に対応したものが、現下の日本の政治の姿であると見ることができる。
<選択肢> ロシア、トルコ、ドイツ、フランス、自由民主党、日本社会党

最後に、近代日本の舞台設定とそこでの出来事を階層構造として捉えた。|詫的条件、地理的条件の上に各時代の技術によって可能となった交通、通信インフラ、そのインフラの上で展開された産業、政治、軍事、教育など各分野の出来事、い修涼罎農犬譟∪長し、年老い、死んで行った各時代の人々による地域、日本、世界への理解とその場における自意識、イ海譴蕕鮟鳥紊箸靴督屬犬觜駝厩餡鳩狙のプロセス。こうした諸側面について講義した。

(8) 明治時代の国民国家形成のプロセスを観察すると、産業、政治、軍事のそれぞれが縦糸として機能した。地域(都道府県や市町村)、日本(日本国家全体)、世界(国際社会での日本の位置)という三領域をつなぐ、政治、産業、軍事の役割が相似形を示す。産業競争では、まず、地域の産物を府県内の共進会や近隣府県合同の地域博覧会へ出品し、その評価が出品元の市町村の評価として参加範囲全体へフィードバックされる。つぎに、政府が主催する日本全体の博覧会である____________________________に各府県から出品された産物は、品目ごとに金・銀・銅メダルなどの賞を天皇臨席の場で授与され、表彰のあり様が全国に報道されることを通じて、受賞地域の名声が日本全国に伝わる。さらに、世界的な博覧会である万国博覧会への出品は、現地での評判が報道記事として国内の全国紙・地方紙に掲載され、出品した府県の評価が日本全国に定着した。政治にも同様の構造があった。当時、府県会・郡会・市町村会からなる地方議会は、総称として              とよばれていたが、まず、その議員を選挙する。その自らの村や町から選出された議員の活躍が地方紙に報道され、府県内の各郡や各市町村における評判となった。つぎに国レベルでは、1890年に第一回総選挙が行われ、第一回______________________が召集されると、速記術によって議事録が作られ官報に掲載された。全国紙も地方紙も議会での演説や質疑を議事録にもとづき詳細に報道したため、地域から選出された議員の活躍が全国的に報道され、国内全域での評価対象となり、その評価が地域に還流するようになる。うちの府県の先生(代議士)たちはこんな活躍をしているという国内各府県間の「お国自慢」の対象となった。さらにその上に国際的な評価の世界がある。議員たちは、日本の国外から投射された「非白人の有色人種の国が憲法を定着させ、議会政治を運営出来るものか」という欧米諸国の視線を意識しつつ議場に臨んだ。その緊張感を選挙区の有権者も共有していた。政治における国際的契機はこうした国外からの評価への姿勢として存在した。
<選択肢> 内国勧業博覧会、全国産業博覧会、地方民会、地域議会、国民議会、帝国議会      

(9) 政治に比べると軍事は判りやすい。軍事における国際的な契機、世界的な評価とは、実際の____________________である。1894年〜1895年の日清戦争、1900年の北清事変、1904年〜1905年の日露戦争への欧米列強からの評価そのものである。ここで重要なのは、当時の軍隊は______________________を基盤として構成された兵士と、職業軍人からなる将校によって成り立っていたことである。全国が師団管区に分かれ、師団管区が連隊区に分かれていたので、連隊番号何番の連隊がどこどこの戦闘に勝利したとか、師団番号何番の師団がどこの地域を占領した等のニュースは、特定の府県や郡から出征した兵士が戦闘に勝利した、あるいは、占領に成功したことを意味した。これも、世界的・全国的な場での地域の評価が世界的・全国的に広まり、その評価が地域にフィードバックした一例である。戦前の日本には「郷土部隊」という言葉があった。当時の日本国民には、地域出身の兵士からなる陸軍部隊が国内的・世界的な場で評価の視線を浴びるという意識があり、日本のなかの我が郷土、世界のなかの我が地域という自意識をもっていたことを示す用語であった。
<選択肢> 戦争、演習、徴兵制、志願兵制

(10) 文部省編『尋常小学歌集』1911年刊は、義務教育の小学校で用いられた文部省編の唱歌集の第3版である。この教科書に初めて掲載された新作の唱歌「__________________________」には、「囲炉裏のはたに縄なう父は過ぎしいくさの手柄を語る」という歌詞が含まれる。(9)で述べた時代を無事に過ごし、自分の子供たちに戦争体験を語る父の姿が歌われている。
<選択肢> 螢の光、冬の夜


rshibasaki at 18:04コメント(0)トラックバック(0)知・歴史学「日本近代の舞台設定」 2004-2013終了 

2012年08月15日

 歴史学機 ー萄蝓  々学部・2年次〜   木曜・2/3時限    参照許可物等なし

1. 前半のテーマ「ニカラグア運河と日本」において、海上交通線の政治史という捉え方により新たに視野に入ってきた研究課題を、箇条書きで列記せよ。(16点)













2. 後半のテーマ「仮装巡洋艦をめぐる言論と運動」において前提となった「広義の海軍」という明治時代の海軍を捉える際の視角は、平間洋一氏の論文「「陸奥海王国」の建設と海軍---大湊興業を軸として」から学んだものであった。「広義の海軍」とはどのようなことか説明せよ。なお、説明の文中に「戦時」「平時」「戦闘組織」の三語を一度ずつ用いること。(12点)









3.下線部に最も良く適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。 (1個4点、計72点)
(1) 本講義で海上交通線ないしは海上交通路という言葉を用いた。この語に対応する SLOCs という英語は、Sea Lines of _________________の短縮形である。前半のテーマ「ニカラグア運河と日本」では、海上交通線の将来的な変化に敏感な一群の人びとの存在を扱った。後半のテーマ「仮装巡洋艦をめぐる言論と運動」では、_________の社会的支持基盤の問題を扱った。そして、後期・歴史学兇任蓮日清戦争開戦前における「台湾占領のコンセンサスの形成」を海上交通線への着目から講義する予定である。
<選択肢> Communication、Commerce、海軍、陸軍

(2) 1860年代前半、世界交通路に当たる________________________には、連絡鉄道が建設されているのが通例であった。1860年に幕府がアメリカ合衆国に派遣した使節団は、中部アメリカの____________に建設されていた連絡鉄道に乗り、太平洋岸から大西洋岸(カリブ海側)へ移動し、そこから別の船に乗りアメリカ東部にある首都ワシントンへ向かった。この地形の制約を越えるには二つの方法があった。一つはこの地形に人工的な水路を建設し、そこを船が通航することである。すなわち、____________の建設である。但しこの場合、船舶自体が自らの力で移動できる必要があり、土木技術の発展だけでなく、____________の時代を迎える必要があった。 もう一つの方法は、その地形によって遮られた海と海の間に存在する大陸のうち、長距離鉄道を建設しやすい経路に、大陸横断鉄道を建設することであった。北アメリカ大陸における最初の大陸横断鉄道の開通は、__________年であり、ユーラシア大陸における大陸横断鉄道としてのシベリア鉄道が開通したのは、__________年であった。
<選択肢> 地峡、海峡、パナマ、スエズ、ニカラグア、運河、用水、帆船、蒸気船、1869、1902、1914

(3) 1891年(明治24年)1月27日、________________において、米国アジア艦隊旗艦アライアンス号艦長、テイロル大佐は、ニカラグア運河計画についての講演を行なった。その講演を通訳したのは地理学者で新聞『_____________』の記者をも勉めていた_______________であった。講演の行なわれた講堂の壁には、______________によって作成されたニカラグア運河を中心に位置づけた世界航路図が掲示されていた。
<選択肢> 東邦協会、東京地学協会、国会、東京日日、志賀重昂、稲垣満次郎、日本郵船、逓信省管船局

(4) 有地品之允「海防意見書」は、政府・軍の_____________に配布された意見書である。年間650万円の政府予算の余剰を、毎年1隻の戦艦の建造に充て、6年で6隻の戦艦部隊を海に浮かべることを主張した。
一方、寺島成信『_________________』は、政府・軍の_____________に配布された小冊子である。当初の3年間、650万円の半額=325万円を巡航商船隊の建造と、商船学校の拡張・海兵団の増設に充てることを主張した。その内訳は、300万円×3年で巡航商船15隻を建造し、25万円×3年を商船学校と海兵団の充実に充てる。結果として、約650万円で1隻建造可能な戦艦6隻の完成は、有地案よりも1年半遅れ、7年半かかることになる。
<選択肢> 外部、内部、兵商論、帝国海運政策論

(5) 帝国義勇艦隊とは、______________帝国義勇艦隊に倣い、帝国海事協会が国民からの募金により建造した戦時に仮装巡洋艦として用いることを想定した高速商船隊のことである。平時には海軍軍人が乗組み、非営利の貨物船・旅客船として運航することが計画された。_________________の戦時下である1904年に提唱され、さくら丸、うめが香丸、さかき丸の3隻が建造された。実際に戦時に仮装巡洋艦として用いられたのは、_________________におけるさかき丸だけであった。
<選択肢> フランス、イタリア、ロシア、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦











【正解】
1.
・東アジアと中米地峡運河を結ぶ大圏航路上に位置する日本の地理的条件の自覚が当時の国家戦略に関わる日本人にどのように影響を与え、判断の前提となったのかという研究課題。

・戦時を考慮した運河の国際共同管理への参加という政策課題を当時の日本人はどのように捉え、対処したのかという研究課題。

・大圏航路を意識した函館港での石炭供給のための北海道内での鉄道建設、ならびに、横浜港の整備と大型ドックの建設という課題が当時の国内政治史にどのような影響を与えていたのかという研究課題。


2.
広義の海軍とは、戦時における戦闘組織として捉えるだけでなく、平時を含めて民間商船・漁船の海洋活動、海外居留民の保護を任務とする国家組織として海軍を捉える把握・発想である。


3.
(1) Communication、海軍
(2) 地峡、パナマ、運河、蒸気船、1869、1902
(3) 東京地学協会、国会、志賀重昂、日本郵船
(4) 内部、兵商論、外部
(5) ロシア、日露戦争、第一次世界大戦



【成績報告】 問題の難易度が高かったので、受験者全員に「+8」して成績とした。

rshibasaki at 19:23コメント(0)トラックバック(0)「海洋フロンティアと明治日本]工・歴史学2012 

2012年07月30日

平野龍二「日露開戦の決断---海軍力均衡と海軍戦略の視点から」(法学政治学研究82、2009年)を読む。軍事から見ないと開戦外交が説明仕切れない部分があることに改めて思いいたす。斎藤聖二『日清戦争の軍事戦略』(芙蓉書房出版、2003年)を読んだ時の感想と類似する。

rshibasaki at 18:06コメント(0)トラックバック(0) 

2012年04月24日

1894年6月から翌年にかけて、英国海軍の軍艦が、かつて1885年から1887年に占領していたことのある朝鮮南岸のポートハミルトンこと、巨文島を占拠していた。対馬海峡と黄海とににらみを效かせる地点。

rshibasaki at 20:53コメント(0)トラックバック(0) 

2012年04月06日

匿名の論者「Q.S.T.」が、寺島成信であることに気付いていない発言もそのまま残してある。等々、古い発言も研究上の過去としてそのままにしてある。〔註記〕を付して訂正の文言を追加した場合もあるが、必ずそうしているわけではない。

rshibasaki at 21:25コメント(0)トラックバック(0)このブログの使い方 
今年度の前期、工学部の歴史学気蓮⊂綉テーマの講義を行なう。

世界交通路を大きく変化させる中米運河のうち、ニカラグアに運河を建設するという米国の試みが続いたのが1891年〜1902年だった。前半ではこの動きに反応した日本の人物と組織を取り上げる。いまの時代、北極海航路が気候変動の結果可能となり、世界規模の海上交通路が変化する可能性が語られている。それに比する120年余前の事例である。

後半では、戦時に仮に武装させて軍艦として用いる民間商船を予め建造する試みについての言論と運動を扱う。陸→海→空→宇宙→サイバースペースと、商用・軍用の活動領域が拡張する長期トレンドのなかで、海がフロンティアであった時代における、その海での軍民関係を取り上げる。現在、JAXA(宇宙航空研究開発機構)が置かれている位置を連想させる事例である。



rshibasaki at 21:14コメント(0)トラックバック(0)「海洋フロンティアと明治日本]工・歴史学2012<世界交通線> 

2012年04月05日

国会図書館のデジタル化雑誌のなかを彷徨っていたら、タイトルの雑誌に出会った。帝国海事協会の海事雑報以前の時期のもののようである。関わっている人物も重複している。今後、精査の必要あり。

rshibasaki at 16:14コメント(0)トラックバック(0)『日記』<海事・海軍史> 

2012年03月29日

ブログ「Collections of modern Japanese history」を消してしまったようだ。どうしたのかな

rshibasaki at 01:50コメント(0)トラックバック(0)『日記』 

2012年03月09日

論文
明治期山口県における水難救済会の組織形成」(Implications of Forming Marine Rescue Japan's Yamaguchi-Prefectural Branch in Meiji-Era)

研究ノート
早速丸沈没事件に見る20世紀初頭海事領域の象徴性」(Hayami Maru Sinking Incident's Symbolism of Maritine Affairs in Early 20th Century Japan)

大阪工業大学紀要 人文社会篇56巻2号、2012年2月29日発行

rshibasaki at 07:52コメント(0)トラックバック(0)『日記』<海事・海軍史> 

2012年02月19日

歴史学供 2年次〜 木曜・2/4時限  参照許可物等なし

1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。    (1個4点、計100点)

(1) 本講義では、1863年(文久3)年に肥後国葦北郡____________(現在は同名の市となっている)に生れ、1957(昭和32)年、静岡県熱海市伊豆山で逝去した徳富蘇峰の生涯を中心に置き、その背景となった19世紀・20世紀の日本史を概観した。蘇峰は、郷里の熊本県で____________運動に加わり、大江義塾を経営した後、公刊された最初の著作であるデビュー作『_______________』の刊行が1886年に決まると上京し、「_____________」「生産主義」「平和主義」を主張した。従来の蘇峰研究においては、この日清戦争前の時期と、日清戦争後から、昭和戦前、太平洋戦争敗戦を経て逝去するまでの後半生に生涯を二分し、対比的に取り上げるのが通例であった。この二分法が通説化したことには奇妙な経緯がある。
<(1)の選択肢> 水俣、熊本、荒尾、尊皇攘夷、自由民権、大正デモクラシー、将来之日本、大日本膨脹論、時務一家言、貴族主義、平民主義、国家主義

(2) 最初に日清戦争で生涯を二分する説明をしたのは蘇峰自身であった。1913年刊『____________』が初出であり、講義中に関連部分を配布した1935年刊『_____________』においてもその説明は繰り返された。蘇峰は、日清戦争前を若気の至り、未熟さがあった時代とみなし、日清戦争以降を肯定的に評価し、現在の自分にいたる時代と位置づけた。蘇峰は、太平洋戦争中に__________________を務め、ラジオ放送に登場し戦意高揚の演説を行った。この蘇峰の姿を見、戦時中の_______________的な蘇峰の言動に強い印象を受けた青年たちがいた。戦後、その世代が担い手となり、蘇峰研究がスタートした。初期の蘇峰研究者は、日本国憲法の平和主義の理念に代表される戦後___________的な価値意識に類似した歴史的先例を求め歴史を遡上し、日清戦争前の蘇峰を「発見」した。こうした事情があり、先ずは、上京直後から日清戦争の数年後まで雑誌『_____________』を発行した時代の蘇峰について研究が蓄積されることとなった。
<(2)の選択肢> 将来之日本、大日本膨脹論、時務一家言、蘇峰自伝、勝利者の悲哀、国民新聞社社長、京城日報社監督、大日本言論報国会会長、国家主義、民主主義、国民之友、蘇峰会誌、欧文極東

(3) 日清戦争講和の___________の国民新聞に掲載された「欧米周遊に就て江湖の諸友に告く」(欧米周遊に出かけるに際した蘇峰から読者への挨拶文)には、1913年の著作や1935年の著作とは異なる三国干渉への論及がある。「我が朝野に於ける世界時務的知識の欠乏」「単に国力のみ進みて、国民の眼界の進まざりし不権衡」が原因となって_______________を引き起こしたとする把握が示されている。
<(3)の選択肢> 一年後、五年後、十年後、遼東還付、台湾占領、韓国併合

(4) 日清戦争前後の蘇峰の社会的活動形態の変化が、国家将来像・組織的基盤・国内政治観の三側面にわたって、1891(明治24)年、および、1898(明治31)年に生じたとする把握(1991年工大紀要に掲載)を講義した。後者の転換点に際し、蘇峰は、1898年8月末で『国民之友』『家庭雑誌』『欧文極東』を廃刊し、9月より『国民新聞』に統合した。これは、________________として国民新聞が遇されることを求めて、日清戦争前には批判の対象とした_______________のリーダーに接近したことにより生じた組織的基盤の編成替えであった。
<(4)の選択肢> 独立新聞、準政府機関紙、準政党機関紙、藩閥、民権派、在野

(5) 1913(大正2)年は、徳富蘇峰の生涯において後半生の発端となった年である。第一に、日露戦争以前から盟友関係にあった長州系陸軍出身の藩閥政治家______________が政治的に失脚し、ついで病死することにより、蘇峰が現役の政治記者である時代に終止符が打たれた。第二に、米国カリフォルニア州で排日土地法が成立したことを知り、欧米系の白人国家を指して「______________」という用語を初めて用いた。以後、太平洋戦争にいたる米国との対立が顕在化し始めた。第三に、日清戦争講和にロシア・ドイツ・フランスが干渉してきたことにより自分は「________________」に目覚めたという言説を用いるようになった。後半生の主な仕事となる『_________________』の執筆開始は1918年からであるが、そのきっかけが生起したのは1913年であった。
<(5)の選択肢> 山県有朋、桂太郎、寺内正毅、藩閥、白閥、力の福音、黄人の重荷、近世日本国民史
公爵桂太郎伝、吉田松陰

(6) 2011年3月11日以降の時代から徳富蘇峰の生涯を捉えた研究はまだ存在しない。蘇峰は、1923(大正12)年9月1日の________________により、国民新聞社の社屋が全焼し、その後の経営再建に失敗した自然災害により影響を受けた歴史上の人物である。いまのところ最新の研究は、2011年3月刊、澤田次郎『徳富蘇峰とアメリカ』である。同書本文末尾で、著者は、「生涯を通じてアメリカと心理的に格闘した蘇峰の体験は、現在のアメリカと日本の関係はもちろんのこと、アメリカと_____________、あるいはアメリカと______________世界の関係を考える上でも、比較の材料をもたらしてくれる」と述べる。2001年9月11日の同時多発テロ以降の世界状勢を踏まえて、日本近代を代表する歴史的人物として徳富蘇峰を位置づけていることが読み取れる。
<(6)の選択肢> 濃尾地震、関東大震災、南海地震、中国、東南アジア、イスラム、ヨーロッパ

(7) 澤田氏の前著、1999年刊『近代日本人のアメリカ観』は、日露戦争から_______________終結までを扱った。この時代は日米対立が漸次増幅し、戦争に至る過程であった。「______________」と題された日露戦争直後の社説で、かつて蘇峰が危惧を示した将来シナリオ、すなわち、日本が有色人種のリーダーとして白人諸国家と戦うという望まない未来像が現実化する過程であった。
<(7)の選択肢> 第一次世界大戦、第二次世界大戦、高度経済成長、東西冷戦、黄人の重荷、朝鮮統治の要義
国民自覚論

(8) 澤田氏の2011年刊『徳富蘇峰とアメリカ』は、日清戦争後、日露戦争にいたる時代において、蘇峰は「シーパワーの日英________が結束してランド・パワーの_____________を封じ込める」という基本戦略を構想したと指摘する。この構想が長い中断の時期を経て、第二次世界大戦後、日米安全保障条約という日米提携によりソ連を盟主とする共産主義陣営の拡大阻止の構想として復活する。蘇峰の全生涯を対象としたことで初めて可能となった澤田氏の最新作の独自な主張である。
<(8)一つ目の空白の選択肢> 清、露、独、仏、米
<(8)二つ目の空白の選択肢> 清国、ロシア、ドイツ、フランス、アメリカ















【正解】
(1) 水俣、自由民権、将来之日本、平民主義
(2) 時務一家言、蘇峰自伝、大日本言論報国会会長、国家主義、民主主義、国民之友
(3) 一年後、遼東還付
(4) 準政府機関紙、藩閥
(5) 桂太郎、白閥、力の福音、近世日本国民史
(6) 関東大震災、中国、イスラム
(7) 第二次世界大戦、黄人の重荷
(8) 米、ロシア



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