2011年12月20日

帝国時代の関連する諸歴史。という副題の付く会議が、ハイデンベルク大学であるみたい。事後でいいから、会議報告書を見てみたい。



rshibasaki at 15:41コメント(0)トラックバック(0)<世界交通線> 

2011年11月26日

歴史学機 。嫁次〜   木曜・2/4時限    参照許可物等なし

1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。    (1個4点、計100点)

(1) 本講義の前半は「__________________________」という主題のもとに、毎回副題を変えて講義した。第2回は副題「水路部に勤務して」であった。配布したプリントには、肝付が_________の適地として選定し、1889年(明治22年)に鎮守府が置かれることになる西日本の沿海都市___________市のホームページをコピーして配布した。この回では海上保安庁水路部が編集した団体史『________________』(財団法人日本水路協会、1971年)から日本の沿岸測量の進捗を説明するページを配布した。それを見ると、肝付が、先の沿海都市となる沿岸部を測量に訪れたのは、1883年(明治16年)であった。
<選択肢> 肝付兼行の多面性、海軍と貿易立国、商港、軍港、漁港、舞鶴、呉、佐世保、日本水路史、日本海軍史、日本海運史

(2) (1)に出てきた団体史は、水路部が兵部省海軍部水路局として創設されてから百年目に刊行された。その百年前に当たる1871年(明治4年)、初代の水路部長となる_________________が北海道測量を実施した。その北海道沿岸測量の際、北海道開拓使に勤める肝付兼行を知り、東京の水路局にスカウトしたものと推測される。この初代の水路部長となった人物は、現在の日本数学会と日本物理学会の前身______________を、1877年(明治10年)に発起人の一人として組織し、また、__________________を1882年(明治15年)に組織した。この後者の団体については、肝付兼行も日露戦争後にいたり、同会が設置した漁船船員養成所の所長を務めた。第7回の講義では、この団体と帝国海事協会が共催した海事水産博覧会を記念し発行された書籍『_______________』(1916年=大正5年刊)の序・緒言・目次を参考資料として配布した。
<選択肢> 柳楢悦、勝海舟、榎本武揚、東京数学会社、日本測地学会、大日本帝国水難救済会、日本海員掖済会、大日本水産会、海国日本、帝国日本、陸奥湾之将来

(3) 肝付兼行が活躍した時代は、海洋がフロンティアとして登場した時代であった。それは、19世紀の半ば、大洋を______________が横断し、世界交通路が形成された時代に始まる。この新しい動力源をもつ船は、商船だけでなく、軍艦としても用いられた。日本にとって、四囲を海に囲まれた国土のかたちが、欧米列強に対して___________を提供するかたちとなった。ただし、日本にとって幸いだったのは、当時のエネルギー源は___________であり、このエネルギー源は日本国内に産出し、日本はエネルギー自給国家たりえたことである。
<選択肢> 帆船、外洋形カヌー、蒸気船、防壁、侵入路、薪、石炭、石油、原子力

(4) 新たにフロンティアが登場すると、その空間に関連する職業分野も同時に登場する。肝付は、1883年(明治16年)に創立された________________に参加し、次世代を担う小学校生徒に、海についての理解を深めさせる教科を設置することを主張した。当時、海についての理解を深めされることを____________の涵養あるいは普及と呼んだ。また、日清戦争後の1897年(明治30年)に富山県高岡市での講演では、知育・徳育・体育に加えて_______________の重要性を強調している。これは、当時、肝付が講演などでしばしば言及した米国海軍のアッフレッド・セイヤー・マハンから学んだものである可能性がある。第10回で紹介したように、現在の英米海軍史家である_____________________は、マハンには「国家指導者や提督たちが行なう決断がもっとも重要」とした側面があることを指摘している。
<選択肢> 大日本教育会、全国教育会、海軍思想、海事思想、情育、胆育、奥山真司、ジョン・テツロウ・スミダ

(5) ___________港は、日本海に面する本州の港湾のなかでは最も早く太平洋岸との連絡鉄道が開通した。かつて、1892年(明治25年)に、肝付兼行が「西比利亜鉄道に対する日本の開港場を論す」において、「 浦塩港より____________への航路に当る」開港場に最適と指摘した港湾である。ここから西の隣接府県では「西比利亜鉄道に対する日本の開港場を論す」を抄録した『_____________________』が印刷に付された。
(6) ___________港は、「 浦塩港より_____________への航路に当る」開港場に最適と、肝付が指摘した港湾である。地元の新聞『東奥日報』主筆が、『________________』を1894年(明治27年)に著し、地元発展の期待を表明した。同書には、軍港としてライバル関係に当たる北海道の軍港候補地、_______________への対抗意識を読み取ることができる。なお当時、海峡に面したもう一つの直近の位置にある北海道の港湾は道内中央部との鉄道が開通しておらず、石炭搭載の便を欠いていた。
(7) ___________は、現実には築港がなされることなく、港湾としての歴史をもつことはなかった。「西比利亜鉄道に対する日本の開港場を論す」では、対馬海峡に面する位置から、「 浦塩港より____________への航路に当る」開港場に最適とされ、北九州の炭鉱地帯の石炭を供給する役割が期待された。
<(5)(6)(7)の選択肢> 亜米利加、我国、上海、仮屋、宮津、舞鶴、小浜、敦賀、伏木、函館、青森、大湊、室蘭
日本海港湾調査報告書、陸奥湾之将来、肝付大佐演説の要領

(8) 1891年(明治24年)1月27日、東京地学協会において、米国アジア艦隊旗艦アライアンス号艦長、テイロル大佐が行なった演説は、_______________運河建設計画についてのものであった。
<選択肢> パナマ、ニカラグア

















【正解】
(1) 肝付兼行の多面性、軍港、呉、日本水路史
(2) 柳楢悦、東京数学会社、大日本水産会、海国日本
(3) 蒸気船、侵入路、石炭
(4) 大日本教育会、海事思想、胆育、ジョン・テツロウ・スミダ
(5) 敦賀、我国、日本海港湾調査報告書
(6) 大湊、亜米利加、陸奥湾之将来、室蘭
(7) 仮屋、上海
(8) ニカラグア


rshibasaki at 18:29コメント(0)トラックバック(0)「肝付兼行とその時代」工・歴史学2009-2011 
歴史学  3年次〜  水曜・2時限  参照許可物等なし

1.つぎの各文章の下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入しなさい。    (1個4点、計100点)

(1) 地球上の2点を最短で結ぶ経路を______________と言う。関西国際空港から飛び立ったロンドン行きの便は、沿海州のハバロフスク上空から、ロシアの北極圏のツンドラ地帯上空を飛行し、北欧三国の上空経由で目的地へ向かう。ニューヨークへ向かう便は、千島列島沿いに飛び、ベーリング海からアラスカ上空に入り、カナダ上空を横断し、五大湖付近にいたる。こうしたほぼ直線の経路が可能となったのは_____________が航空輸送の主力となり、成層圏まで上昇し、対流圏の気象の影響を受けずに飛行経路を設定することが可能となったからである。
<選択肢> 等角航路、同緯度航路、大圏航路、プロペラ機、ジェット機、飛行船

(2) 地表交通の時代において世界一周航路を描く場合、陸地は障害となりえた。第一に、細い水路が向こう側の大洋に繋がっている場合、その水路を探し出し航路として利用した。日本にとっては、太平洋(南シナ海南部シンガポール付近)とインド洋(ベンガル湾南東部のアンダマン諸島付近)の間を結ぶ_____________海峡が1862年初めに幕府遣欧使節団が通過して以降、重要な海峡となった。
<選択肢> ボスポラス、マラッカ、スンダ

(3) 第二に、陸地の向こう側に別の大洋、ないしは、大洋に繋がる海がある地形がある。海と海の間に狭い陸地があり、船の行く手を阻む。この地形を_________と呼ぶ。1862年の幕府遣欧使節団は、エジプトでピラミッドとスフィンクスを見学している。インド洋から紅海を経て、________________を経由し、地中海に入り、フランスのマルセイユに至った。

(4) 1860年代前半、世界交通路に当たる(3)で取り上げた地形には、連絡鉄道が建設されているのが通例であった。1860年に幕府がアメリカ合衆国に派遣した使節団は、中部アメリカの____________に建設されていた連絡鉄道に乗り、太平洋岸から大西洋岸(カリブ海側)へ移動し、そこから別の船に乗りアメリカ東部にある首都ワシントンへ向かった。
<(3)(4)の選択肢> 陸橋、地峡、交通線、パナマ、スエズ、コリント、マゼラン

(5) (3)の地形の制約を越えるには二つの方法があった。一つは(3)の地形、すなわち海と海の間を遮る狭い陸地に人工的な水路を建設し、そこを船が通航することである。すなわち、____________の建設である。但しこの場合、船舶自体が自らの力で移動できる必要があり、土木技術の発展だけでなく、____________の時代を迎える必要があった。
<選択肢> 運河、用水、インクライン、帆船、蒸気船

(6) (3)の地形の制約を越えるもう一つの方法は、(3)の地形によって遮られた海と海の間に存在する大陸のうち、長距離鉄道を建設しやすい経路に、鉄道を建設することであった。すなわち、大陸横断鉄道である。北アメリカ大陸における最初の大陸横断鉄道の開通は、__________年であり、ユーラシア大陸における大陸横断鉄道としてのシベリア鉄道が開通したのは___________年であった。
<選択肢> 1869、1902、1914

(7) 現在、日本海側の道府県のうち、最も、________________構想に適合し、地域の発展を国内交通路と、日本海対岸との国際交通路を繋ぐ役割を実現しているのは新潟県である。ロシア共和国沿海州の州都ハバロフスクや、シベリア鉄道の起点都市_____________とを結ぶ国際航空路が新潟空港を発着している。しかし、明治時代にまで遡ると、新潟と東京を結ぶ鉄道は碓氷峠をアプト式で越える信越本線であり、1931年に上越線が開通する以前は、新潟は港湾都市としては国内交通路に恵まれていなかった。その時代、すなわち、明治・大正期に日本海側の港湾都市として国際貿易港の地位を得て繁栄したのは____________であった。東京発のシベリア鉄道連絡列車がこの港の桟橋に直結し、日本海対岸のシベリア鉄道の起点の都市との間を連絡船が往復した。
<選択肢> 対岸貿易、環日本海経済圏、ウラジオストク、大連、釜山、秋田、酒田、敦賀

(8) 江戸時代の日本では、街道は、一部の例外を除き、人か馬が歩く道であった。_____________は船に積まれ、河川や沿岸を水運によって運ばれた。例えば、山形県内陸部で収穫した米は、最上川の水運で河口の酒田に運ばれ、ここから_______________まで、関門海峡を経由し、沿岸航路の帆船である北前船で運ばれた。また北前船は、蝦夷地(現在の北海道)で昆布を積み、もう一方の起点でそれを販売した。現在、大阪で昆布が多く消費されるのはこの時代の名残である。
(9) 山形県の一つ北側の秋田県を、この講義では事例として取り上げた。現在の県庁所在地、秋田市に河口がある雄物川を遡った位置にある内陸都市が横手市である。この横手の名望家の家に生れた伊藤直純が1887年(明治20年)に、_________________を求めて陳情活動を行なうため上京した際の日記の一部を紹介した。厳冬期に横手を徒歩で出発した伊藤は、江戸時代同様の馬橇(そり)や徒歩での移動で山形県北部まで移動すると、そこから先の雪が消えた道は、明治以降に普及した_____________に乗った。車両が道路を通行する近代的交通体系の第一の段階に出会った。栃木県北部の黒磯まで来ると、そこから東京までは、近代の第二段階の交通体系の時代、すなわち、______________を中心とする陸上交通体系が実現していた。
<(8)(9)の選択肢> 軽量貨物、重量貨物、江戸、京都、大坂、鉄道建設、河川改修、人力車、自動車、鉄道

(10) 1887年(明治20年)の東京で、秋田県横手から上京した伊藤直純は、九州から上京した陳情活動のグループと交流を深めた。この九州グループの希望が実現し建設された鉄道が現在の鹿児島本線、長崎本線である。講義中では、徳富___________を事実上の主人公とする自伝小説『冨士』の一部を紹介した。1895年(明治28年)の冬、東京から郷里_____________県に戻る旅行の途上の主人公が、九州に上陸し、門司駅(現在の門司港駅)で、駅員に電報の発信を依頼している場面を紹介した。
<選択肢> 蘇峰、蘆花、一敬、熊本、長崎、佐賀

(11) 幕末、徳川幕府が欧米諸国と外交関係を結び、続いて、通商関係を開いた。開国と開港である。しかし、明治維新の数年前、1866年(慶應2年)までは、一般人の海外渡航が許されていなかった。現在で言えば、公用旅券のみ存在し、一般旅券のない時代とも言えよう。この時代に正規に出国したのは、___________が派遣する外交使節と留学生であった。一方、不正規出国者、密航者もいた。具体的には、藩命による渡航者と私的な渡航者がその内訳となる。長州藩が英国に派遣した留学生も藩命による密航者であった。かれらは「長州ファイブ」と呼ばれる__________、井上馨、野村弥吉(井上勝)、山尾庸三、遠藤謹助の5人であった。
<選択肢> 幕府、諸藩、朝廷、山県有朋、伊藤博文、木戸孝允

(12) 1871年(明治4年)の廃藩置県以後、1890年(明治23年)の帝国議会開設までの時代は、次第に地方議会が誕生したが、国全体の議会がいまだ存在しない時代であった。この時代の地方議会は、府県議会・郡会・町村会をまとめて、総称として、____________と呼ばれた。また、いまだ存在しない国全体の議会のことは、この時代においては、______________という一般名詞を用いて呼ばれた。
<選択肢> 地方議会、地方民会、帝国議会、国会

(13) 技術導入において、先端技術と伝統技術の中間の存在があった。先端技術の要素を簡略化した先端技術の廉価バージョンを一時的に採り入れ、技術としての最高度のものではないが、その時代の必要を満たし、利益を挙げて先端技術導入の基盤をつくる中間技術という存在を指摘した。明治初期から中期における_____________はその実例である。
<選択肢> ガラ紡、オート三輪車、固定焦点カメラ、軽便鉄道


rshibasaki at 17:52コメント(0)トラックバック(0)知・歴史学「日本近代の舞台設定」 2004-2013終了 

2011年11月22日

2月末発行の紀要に載ることになった。

論文
明治期山口県における水難救済会の組織形成

研究ノート
早速丸沈没事件に見る20世紀初頭海事領域の象徴性



rshibasaki at 17:29コメント(0)トラックバック(0)「明治期山口県における水難救済会」工・歴史学2006<海事・海軍史> 

2011年11月20日

書評
前田亮介
「三谷太一郎著『ウォール・ストリートと極東--政治における国際金融資本』」
史学雑誌120-9、2011年9月

三谷太一郎著『ウォール・ストリートと極東--政治における国際金融資本』
東京大学出版会、2009年12月

三谷太一郎著を通読し始めた。勝海舟について捉えている21〜22ページに、思わず身震いする。明治に入ってから、海軍と海事、貿易立国について勝がどのような言説を行なっているのかを確認する必要がある。

あと、添田寿一も『軍備論集』に、雑誌『富国』1号(1890年1月1日)掲載「帝国海軍振起論」が収録されている。添田も、系統的に追跡する必要がありそうだ。







rshibasaki at 20:18コメント(0)トラックバック(0)<海事・海軍史><世界交通線> 

2011年11月16日

昨日、CiNiiの論文データベースの全文検索が公開された。早速「ニカラグア 運河」で検索すると、つぎの論考の存在を知ることができた。

金澤宏明「中米地峡運河とハワイ---アメリカ海外膨脹のレトリックと実態
太平洋学会誌98号、2009年3月


ニカラグア運河(未着工)とパナマ運河(1914年竣工)の総称が「中米地峡運河」と表現可能なことを知った。

rshibasaki at 12:12コメント(0)トラックバック(0)<世界交通線>『日記』 

2011年11月14日

事典という名から、もっと項目数の多い大部な書籍を想像していた。15,750円という価格からも当然と思われる。

この本は、数を絞った項目を、小論文形式で著述し、排列している。「交通線」ないし「海上交通線」という項目を期待したが、それはなく、他の項目のなかに自分の探す情報が実質的に含まれていないかを通覧せねばならない。

そういう意味で、全文を通読することを読者に要求する著作物であった。








rshibasaki at 21:35コメント(0)トラックバック(0)『日記』<世界交通線> 

2011年11月08日

国家将来像と陸海軍備をめぐる海軍と徳富蘇峰
(Rivalry between TOKUTOMI Soho and Imperial Japanese Navy on Ground Strategy of Military Buildup)
大阪工業大学紀要 人文社会篇56巻1号



rshibasaki at 21:47コメント(0)トラックバック(0)<徳富蘇峰>「国家将来像をめぐる海軍と徳富蘇峰」工・歴史学2009-2010 

2011年03月08日

紀要につぎの研究ノートを掲載した。

海軍の広報を担当した肝付兼行」(PDFファイル)

rshibasaki at 21:30コメント(0)トラックバック(0)『日記』<海事・海軍史> 

2010年11月11日

紀要に研究ノートを2つ掲載した。図書館の紀要情報のページからたどるか、直接クリックして開いてください。

海軍少将から代議士に転じた井上敏夫」(PDFファイル)
仮装巡洋艦を提唱した寺島成信」(PDFファイル)


rshibasaki at 17:49コメント(0)トラックバック(0)『日記』<海事・海軍史> 
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