2005年08月09日

大阪工業大学工学部の夜間課程は、今年4月の入学生を最後として募集を停止する。その最後の学年に出講し、前期14週のうち、前半の7週間を担当した。科目「人文社会入門 I」である。

「私のメディア接触行動の特色」
(学生が自分自身の<メディア接触行動>について事実を記述し、他者や以前の自分と比較し、その特色を考察する)

「19世紀後半の社会における情報化と、現在我々が経験しつつある情報化とを比較し、その共通点と相違点を指摘せよ」

二つの課題について、事前に採点基準を詳細に説明し、下書きに対してコメントし、最終答案の出し直しを認めるというやり方で書かせた。それぞれ、4週目と7週目に実施した。非常に意欲的でいい答案が多かった。

rshibasaki at 19:50コメント(0)トラックバック(0)『日記』「情報化から見る近代日本」工・人文社会入門 2005-2013終了 

2005年07月31日

7日28日(木)に行いました「歴史学 I」の定期試験の採点をしている。
明後日8月2日(火)には、7号館8階の人文・語学事務室前に正解を貼り出す。

rshibasaki at 14:24コメント(0)トラックバック(0)『日記』 

2005年07月27日

なぜ、明治の国民は、日本海員掖済会・帝国水難救済会・帝国海事協会のような海事団体の会員になり、義金醵出に応じたのだろうか。

その背景にはどのようなイメージの世界があったのか。

「早速丸の沈没」(防長新聞、明治36年5月5日3面2〜3段、早速丸は「はやみまる」と読む)
「海事思想(承前)(菅野商船学校長の演説)」(防長新聞、明治35年10月17日2面1段)

この二つの史料を読み合わせることで、一つの説明の可能性に気づいた。定期試験が終った後、このブログに書くことにする。


[2005年12月13日〜、追記]

「○早速丸の沈没 去一日一大惨事は伊予の海上に起れり。特に我が同業者藝備日々新聞社の分身たる早速社の所有船早速丸か七十三名の乗客を載せながら外国船の為め万蕁の海底に葬られたるに至つては何ぞ酸鼻に堪へんや。同船は午後十一時頃伊予国温泉郡睦月島と野忽那島との間を航進しつゝある折しも、東方より来りし韓国汽船漢城号に俄然衝突したり。此の怪しき音響耳朶を貫くや乗客の一人、関佐一郎氏はスワ衝突よと心づき率然身を起しつ。急遽船室を立出でゝ甲板上に出づる間もなく船体は已に沈没しかゝり、其身も共に沈没し去らんとするより、更に身をかはして上等室の屋根に登り急ぎ漢城号に向つて綱を卸せと叫びぬ。時に四面暗黒にして大船前に横たはり物色凄然たるありしが、軈て漢城号より綱を卸すや、関氏は之に取つきて同号に飛乗りしに、乗客中にありし軍艦富士乗組の水夫渡辺新蔵、溝田民蔵、井上友次郎、野田保次郎、本田種春の五氏は如何なしたりけん、此時早く已に漢城号のブリッヂの上にありて船長たる独人パンネールに厳談して頻りに救助を迫りつゝありき。其行動の機敏なる遉に帝国軍人よと関氏をして舌を捲かしめぬ。然るに漢城号船長以下の者は言語不通なるのみならず、船長は甚だ冷淡にして頓に救助に着手すべきもあらざれば、前記五氏は大に之を憤り非常の決心を以て彼等に迫り遂に水夫をしてボートを卸さしめ、己れ之に乗込み水夫を指揮しつゝ漂へる乗客等を救助し、尚船中にありし救命具、板切、其他浮遊すべきものは悉く之を放流して、縋り付かしめん便りとはなしき。時に第一早速丸の船員も身の危きを顧みるに暇なく、船中の板ぎれ等を放流して救助に備へ、而して関氏はボートに依て救助せられしもの及び板片等に縋りつきて救助せられしものを漢城号デツキの上に引揚げつゝありしが、何れも濡着を纏へることとて船員を叱咤しつゝ毛布其他の物を持出さしめ、之を引揚げられしものゝ身に纏はしめ、機関室等に連行きて暖を取らしむることとなし、頗る救助に尽力したりき。時しも早速丸の船員等は追々漢城号に泳ぎ付き、船長永井元も亦た九死に一生を得て到り着きしが、何分此は百廿六噸余の小船、彼は千百噸の大船にして、加ふるに船腹を衝突せられ衝突より全沈没に到るまでの時間僅に五分間なりしこととて、死者及び行衛不明の者あるを見たるはかへすがへすも遺憾の事と謂ふべし。是より先き漢城号は此悲劇を眼前に見つゝ船長等は直ちに門司に航行せんとする模様なりしが幸ひにして同船事務長たる韓国釜山港草梁村の人、金聖源は日本語に通ずるを以て前記五氏は之をたよりに尚厳談を試み、航行するならばして見よとて、帝国軍人の意気を示しつゝ其侠骨を以てして之を遮ぎり、此腕摧[くだ]かば摧けよとばかり力争せん気色を示しぬ是に於て彼等は航路の知れざるを口実とし、三津浜に寄港するの危険を説きてその場を逃れんとしたるが、恰も好し此時早速丸船長永井元の漢城号に泳付けるありし。疲労の中にも自ら進で其水先案内たらんことを言出しより、漢城号も今は是非なく三津浜に寄港することとなり、乃ち永井は船長バンネールと共にブリツヂの上に立ちて航路を指示することとはなりぬ。斯る折から三津浜警察署より第一愛媛丸来りて、松山地方裁判所予審判事奥村正人、検事正入交好雄、検事田村光栄の三氏及書記三名、並に愛媛県警察部保安課長田中瀧三郎、愛媛県属平野勝の二氏及山田海務署長等出張し来り、漢城号船長、事務長は更なり、第一早速丸船長及事務員等を三津浜警察署に同行したりき。右衝突の箇所は明治二十五年十一月千島艦が英国商船ラベンナ号の衝突する所となりて沈没したりし箇所を距ること遠からざる所なり、乗組総人員七十二名の内男四十六人、女二十六人にして生存者四十七名、死体発見二名、行衛不明者二十三名なり。本県人は玖珂郡御庄村字関戸の重富信一なるものありしが、幸に救助せられたり。又同船へは東京吉原の芸妓一行十七名中九名は行衛不明となれりといふ」
(防長新聞、明治36年5月5日3面2段)


「○海事思想(承前)
(菅野商船学校長の演説)
近時新聞紙の報道する処に依れば、英国皇帝陛下は皇后陛下と共に健康にされる事ありとてヨツトに乗じて英国近海を航海されつゝありと。実に英国に於ては船を病院の如く思惟す。我国に於ても神戸横浜に在る外国会社の社員等は僅に十間内外の扁舟に依りて帆走するを楽[たのしみ]となし居れり。我国人にして船を楽しみ海を喜ぶもの果して幾人かある。病を養はん為めに殆んど全くは山地に入り温泉に浴す。果して山間の空気は海風に比して新鮮なりや。否な、海面の空気の新鮮にして病を養ふに足るものあるは予の言を俟たざるなり。斯く海は一国を富強ならしむると共に又人の健康に利ある前述の如し。今や四大航路は開かれ六千噸の船を以て盛に航海され居れり。然るに其船舶の主脳たる船長、機関長は誰を以て充られたりや。我国の金を以て造られ我国の国旗を挙げ我国の国際証書を有する船は実に外人に委托され居るは、二百幾十年鎖国主義の余弊と云はざる可らず。於是吾人は国人にして船長たり、機関長たる人物を養成し早く之に更らしむるは刻下の急務なりと信ず。是れ即ち商船学校の県下に設置されたる所以なり。而して高等海員の欠乏は、唯僅かに是等大航路のみならず、下関より神戸に至る所謂浪平かに平地に在るが如き瀬戸内海を航海する船舶の水先案内者の多くは西洋人にして、我国人の之に従事する者僅かに五人のみなり。是れ自己の家の案内を他人に頼むと一般ならずや。而して利益の点よりすれば神戸より下関間僅かに二十四時間の航海の給料は百円と法定せられたれば、一ヶ月十回の航海をなさんには千円の収入あり。是等の利益は皆な外人に占められつゝあるを見て諸氏は如何の感かある。今後水先案内者の年齢を制限し外人の水先案内者を減ずる事になり居れども、是等海員の欠乏には如何ともする能はず。本県萩出身にして本県の商船学校第一回卒業生なる加屋洋介氏は瀬戸内海の水先案内に従事し、其初めは一年七千二百円の収入ありしと。実に国務大臣六千円の年俸以上に在り。斯の如く利益の点に於ても大なるものにて其実権を外国人に占らるゝは一大恨事なりとす。故に是等は教育ある商船学校卒業者を以て之に更らしむるより外なく、之をなさんには実に海事思想を発達せしめ、海運の道を開き高等なる海員を養成するは目下の急務なりと信ず」
(防長新聞、明治35年10月17日2面1段)

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以下、第13回(2005年7月7日)。

つぎのように書いたメモを配布。
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 先週から今週・第13回までの間、山口県立図書館で防長新聞の1902・明治35年を閲覧した。この年2月、日英同盟締結が公表されたが、しかし、直ちに日露戦争に直結する動きは出ない。中央では、第三次海軍拡張の予算をどうするかについて議会が紛糾し、地租増徴が継続されることとなった。山口県では、武徳会の山口支部が設置され、支部旗が本部からもたらされた。また、海員掖済会の会員募集の記事も散見される

 同年8月26日2面3段のつぎの記事が目につく。先週配布した『山口県警察施設ノ主眼』(山口県警察部、明治42年)のうち「附 関門間海難減少策ニ関スル意見」と照合すると、海軍の艦隊運用にとって関門海峡のもつ重大性と、その関連で、海軍水路部(水路調査)・逓信省管船局(民間船舶管理)・内務省土木局(港湾整備)・山口県および福岡県警察部(下関水上警察署、門司水上警察署)が関連する課題が存在したことが推測される。

「○水雷敷設の付属船  呉水雷団敷設隊付属船那沙美丸は去る二十三日下関港に碇泊し同港附近に於ける海上の調査に従事しつゝありしが、同船には牧村海軍中佐以下十九名乗組み居れり」
「○富士艦の通過  帝国軍艦富士艦は一昨日午後六時六連島沖合に投錨、昨日一日間は碇泊し、本日午前十時抜錨、東に向ひ関門海峡を通過する筈なるが、同艦は実に一万二千六百八十七噸の大戦闘艦にして、此の海峡を通過するは今回を以て之を嚆矢とす。右に付水上警察署は他船に於て此航路を妨害せんことを慮かり、一昨日港湾内に繋泊の船舶に対し相当の注意を促したる由」
(防長新聞、明治35年8月26日2面3段)

 明治39年か40年に、この時の艦長へのインタピュー記事あり。メモ未採取
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この日、講義全体のまとめを試みたが上手く行かなかった。翌週までに出会った史料と視点を欠いていたためと思われる。

以上、第13回(2000年7月7日)。







以下、第12回(2005年6月30日)。

国立国会図書館の近代デジタルライブラリーを「山口県」and「海難」で検索すると、『山口県警察施設ノ主眼』(山口県警察部、明治42年)がヒットする。同書50〜51頁に、「関門間海難減少策ニ関スル意見」という文章がある。
一、潮流の急激
一、暗礁碁布
一、帆船出入
一、漁船出入

関門海峡で海難事故が多い原因として、上記四点が挙げられている。三番目は、汽船が出入りする海峡に「櫓や櫂で進むには大きすぎ、しかも動力をもたない帆船」も混在することが、衝突事故の原因となっているとの指摘である。その帆船の大部分は「石炭艀船」であるという。防長新聞の遭難記事も、石炭船の難破が多く報道されていて符合する。

*

つぎのような、直接今回の講義のテーマに関係しないが、当時の山口県、さらに日本の状況を窺い知るのに面白い記事を、『防長新聞』から紹介した。
「西比利亜鉄道の現状」(明治34年4月11日1面3段)
「柔道教師の嘱托」(同34年2月22日2面3段)
「在清軍人と家族間との私電報」(34年3月1日2面3段)
「新聞販売者の大競争」(34年3月7日3面4段)
「憲兵の渡韓」(34年5月9日2面5段)
「馬匹の蹄鉄に就て」(34年3月14日1面2〜3段)
「小郡駅発車時刻」(34年5月15日3面3段)
「山鉄全通と徳山駅員の減員」(34年5月16日3面4段)
「電気通信技術伝習生の募集」(34年5月25日3面5段)
「山陽鉄道厚狭馬関間開通式」(34年5月28日3面2段)
「三田尻小郡間電信線路測量」(34年5月30日3面2〜3段)
「山鉄全通後に於ける徳山の影響」(34年5月30日3面4段)
「交通機関と郵便物の速達」(34年5月31日2面4〜5段)
「野津少佐の朝鮮談」(34年7月6日2面2〜3段)
「陸海軍人恩給請求権に就て」(34年7月6日2面3段)
「台湾巡査の試験」(34年8月13日2面5段)
「海外渡航者と旅行券」(34年8月14日2面2段)
「憲兵の渡韓」(34年11月10日2面5段)

以上、第12回(2005年6月30日)。

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以下、第11回(2005年6月23日)。



前週「遭難船の数々」の続き。以下3つの新聞記事を対比して読む。

〔事例−1〕遭難した船舶の漁具であることを知りながら隠匿したことで罰金に処せられた。水難救護法違反。
「○漂流物隠匿者罰せらる  昨年十二月二十三日は非常なる暴風の吹き荒みたる為め沿海各村の漁民は夥しく惨死を遂げたりしは世人の今に尚ほ記憶に存せる処なるが、此の日備中国神島字福浦居住船乗業西本栄次郎外数名も亦た大津郡向津具村大字向津具下村字水の口浜に於て海難に遭遇し、憐はれむべし船舶は転覆して船具は大抵漂流したりしも当時は辛ふして其の生命のみ助かりたるの有様なりしが、無惨にも同郡字津賀村平民小池幾太郎(五十一)池田宇吉(三十六)中野道蔵(三十一)岡崎伊兵衛(五十九)西島熊吉(二十七)荒川勝次郎(五十)の六名は、西本栄次郎等の船具なるを知りながら、同村字立石浦大坪川尻の沖合をカガソ製の錨綱六七十尋(価額三十円)の漂流しつゝあるを拾得して帰り、共謀して或は大桶の中或は土穴の中に隠匿したりしこと漸く此程に至りて発覚したれば、忽ち漂流物隠匿罪を以て告発せられ去る二日萩区裁判所に於て公判開廷の上原田景介氏弁護したりしも遂に六名各五円宛の罰金に処せられたりとは能ひ気味」
(防長新聞、明治33年5月5日)

〔事例−2〕遭難者救助した漁民が山口県知事から賞金を受ける。この種の記事は非常に多く紙面に見られる。他県の漁民でも山口県周辺海域での遭難救助者には山口県知事が賞金を与える。
「○難破船を救助して賞金を受く  阿武郡見島村居住平民漁業村田弥二郎(五十四)及び同村居住平民漁業小畑清次郎(四十六)の両名は昨冬十二月一日同村山田村字玉江浦居住漁業者上領平右衛門、藤崎伊勢松、西村伊勢松、網屋紋蔵の四名が漁業中、見島を距る二十四海里の沖合に於て、暴風の為め其の船体を顛覆し辛くも船底に取り附き漂流しつゝ已に三日間無食の侭にて将に凍死に瀕せんとするを救助して各々七十銭宛の賞金を受け、又た同見島村居住平民船乗業三間菊太郎(三十四)及び同村居住平民船乗業幸徳甚九郎(五十三)の両名は、昨冬十一月二十六日同村居住平民船乗業古谷嘉七外一名が同郡三見村字三見浦を距る二里の沖合にて怒濤激浪の為めに其の荷船を顛覆し今や乗組両名共溺死せんとしつゝあるを救助したるを以て、各一円宛を何れも古澤本県知事より賞金として附与せられたり」
(防長新聞、明治33年1月23日3面)

〔事例−3〕水難救済会の救助夫が、水難救済会の活動として難破船乗組員を救助した際には、帝国水難救済会(本部)より賞与を受取ることになる。
「○遭難船救助者の賞与  豊浦郡彦島村居住下の関救済会の救助夫植田権吉外八名は去る一月十五日同島沖合に於て遭難船住吉丸を認め、亦た同村居住和田六松外三名は同日福浦港に於て英福丸の遭難を認め、共に救助に尽力したる段奇特なりとて去る三日大日本帝国水難救済会より二十銭又は三十銭宛の賞与を受領せり」
(防長新聞、明治32年2月5日2面)


*


『香川県統計要覧』(香川県、明治36年11月刊)に、「壮丁赤十字社表(水難救済会、日本海員掖済会、大日本武徳会、篤志看護婦会、愛国婦人会)」という項目がある。これは、県庁が関与している公共団体の一覧である。

この週は、海員掖済会と帝国海事協会について説明した。




まず、つぎの四つの記事を紹介。

「○日本海員掖済会山口支部」(防長新聞、明治32年2月23日2面)。山口県では、明治31年11月に日本海員掖済会の県支部が置かれている。「赤十字社の組織の如く」という文言が見え、日本赤十字社が組織形成のモデルとなっていた事情を窺わせる。

「○徳山村長の管船事務取扱  逓信省令第二十六号を以て船員法第七十九条の規定により本県都濃郡徳山村長を管船事務を行ふべきを命ぜられたり」
(防長新聞、明治32年6月15日2面)

「○大島郡に海務署を置かんとす  従来海員雇入雇主公認の事務は市町村長に於て取扱ひ居しが客年六月逓信省令第三号を以て其の事務を海務署又は海事局へ引継きたるより大島郡の如き海員多き所は本県内にては赤間関或は徳山の外取扱はざるより其の不便少からず爾来其の手続をなし得ざるもの多かりしか聞く所によれば近々の内同郡へ海務署を開庁する由にて其の位置は和田村大字小泊なりと云ふ」
(防長新聞、明治33年1月23日2面)

「○海員掖済会幹事の談話」(防長新聞、明治33年3月11日2面)


つぎに、現在の社団法人日本海員掖済会のホームページから「掖済会のあゆみ」を示した。明治期にはつぎの事業をしていた。

宿泊の提供
乗船の斡旋
船員の教育訓練 → 現在では商船学校が行う仕事
遭難船遺族への弔意・慰安
船員に対する医療の提供



最後に、『日本海事協会---その100年の物語』(財団法人日本海事協会、1999年刊)を用い、日本海事協会について概略を示した。
「義勇艦隊建設章」(徽章)→個人に交付
「義勇旗」       →市町村に交付

これは、日本赤十字社が、徽章を個人に交付し、「忠愛旗」を市町村に交付するのと同じかたちである。なお日赤は、現在も「有功章」を出している。



以上、第11回(2005年6月23日)。

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2005年07月26日

以下、第10回(2005年6月16日)。


明治42、43年の記事を読んでいると、日露戦争が歴史になりつつあることが感じとれる。新しい時代に向かって通覧するのは明治43年(1910年)末で終りとした。この週末からは、日露戦前に遡ることにする。

「●鴻城丸船員の名誉  下関水上警察署の汽船鴻城丸船長三井豊造、機関士村田寿八の両氏は三十七八年戦役の際の功に依り金五十円宛下賜の辞令賞勲局より到達し廿八日下関警察署より交付ありたり」
(防長新聞・明治41年8月30日2面4〜5段)

「●露国水兵の遺骨伝送  日本海々戦の際阿武郡及び豊浦郡に露国水兵八名の屍体漂着し夫々仮埋葬に附しありしが今回露国に送還することとなり阿武郡役所書記一名は八名の遺骨を携さへ十九日夜佐世保鎮守府に向ひたり」
(防長新聞・明治42年6月22日2面5段)

「●東郷大将と鴻城丸  下関水上警察署長杉警部は旅順表忠塔除幕式参列のため客月二十日来関の東郷海軍大将を鴻城丸にて送迎の途中同船が日露戦役中特に日本海々戦に於て須佐に漂着せる捕虜五十名を収容し之を水雷艇に引渡したること及び常陸丸佐渡丸等遭難の際の如きも連昼夜遭難者の救助に尽瘁せしこと等の事実談を為したるに今回計らずも閣下を本船に迎ふることを得たるは洵に無上の光栄にて千古忘るべからざる好個の記念なりとの旨を語りたるに同大将は其後帰京後縦一尺六寸横二尺九寸五分の紙面に鴻城の二字を揮毫せる額面を当時の随行岩村少佐をして書留郵便を以て十三日杉署長に宛て送らしめたる由」
(防長新聞、明治42年12月15日2面4段)


*


社説「寄附勧誘と官庁」(防長新聞、明治42年7月2日2面1段、時事評論欄)。
「金銭物品の寄附は、其の性質に於て各人の任意行為たるや論を俟たず。然れども之を勧誘するに知事郡長徴村長駐在巡査等の口を以てすれば、被勧誘者の心的状態に一種の強制を感じ、若し其の勧誘を拒絶すれば、他日不利益なる報復を受くべしとの恐を抱かしむ。此の如く人民の弱点に乗じ出資を促すは、仮令其の目的義侠慈善に在りとするも、個人の自由意思を侵害するものにして、且つ一定の職務を帯ぶる地方官吏が、公務を取扱ふ時間を割きて私設事業に斡旋し、其の斡旋の功労に依り、手当金又は有功章等を受領するは、規律を紊乱するものと謂はざるべからず。〔中略〕。地方人民の頭上に落下する寄附の重立ちたるものを列挙すれば、赤十字社、武徳会、水難救済会、海員掖済会、愛国婦人会、軍人後援会、義勇艦隊資金等屈指に遑あらず。此等の事業は博愛慈善又は尚武愛国の精神に基くものにして、何人も之に賛成を表せざるものなしと雖も、其の賛成を表する為め寄附を為すや否やは、自ら別問題に属す。私人としては不義理の借財に責められ、自家の経済は収支相償はざるに拘はらず、奮つて公共事業に巨額の寄附を為すものゝ如き、其の事業のみより見れば恩人なれども、家長としては良家長に非ず、国民としては良国民に非ず、自ら修めて以て人に及ぼすの順序を顚倒するものなり。本県の官庁は近来稍や寄附勧誘の手を緩にせるものゝ如し。是れ消極的の一進歩なり」
(下線太字は引用者による)
「義勇艦隊」とは帝国海事協会による試み。平時は高速商船として就航し、戦時には仮装巡洋艦として軍用に用いる船舶を建造するために募金を募っていた。


*


「●旧式銃器の払下  村田歩兵銃其他左の物は学校及び在郷軍人其他に対し夫々払下を許可せらるゝ事となりたれば希望者は左の価格を諒し注意事項により願書を差出すべしとなり〔以下略〕」
(防長新聞、明治43年11月3日2面4段)

実包および空包付で払い下げている。長谷川慶太郎氏が指摘していた民間の武器所有を別史料で確認したことになる。


*


私設消防組から公設消防組への改組。資産あり、教育ある有力家が中核になり、消防組員を在郷軍人が占めることになるとの趣旨の記事が散見される。それが望ましい変化として報道されている。


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「遭難船の数々」(防長新聞、明治43年3月13日3面3段)。水難救済会の救護所のない海域で遭難が発生した場合、沿岸の警察官が地元漁民を指揮して救助に当たることになっていた。その事例。→水難救護法


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「ウラジオ巡洋艦戦隊行動図(1904年2〜8月)」(『日露戦争(二)---戦いの諸相と遺産---』軍事史学会編、錦正社、2005年6月新刊)が届いたので、配布した。第3週の内容と照合すると各救護所からの報告が理解しやすい。




以上、第10回(2005年6月16日)。

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以下、第9回 (2005年6月9日)。



記事「原内相大浦男の確執について 武徳会員募集の件」を配布。
「武徳会」「赤十字社」「愛国婦人会」を、「公共団体」として一括し、その会員募集に、警察官以外の地方官吏の関与はよいが、警察官は関与すべきでないと原敬内相が訓令したとの内容。

これ以後の山口県では、海難救済会の会員募集に警察官が関与したとの記事が見られなくなる。

なお、他の公共団体と異なり、実行組織としては、海難救済会は警察の指揮下で活動する。その点、公設消防組と同様である。この経緯から、警察官の関与が全くなくなってしまったとも考えにくいのだが、今後の史料探索と確認を待つほかない。


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防長新聞・明治41年5月1日3面(広告欄)には、
(1) 5月24日に防府町で開催される「帝国水難救済会山口支部発会式」の広告
(2) 6月1日に山口県庁で開催される「愛国婦人会山口支部総会」の広告
という二つが隣り合わせて掲載されている。寄付や会費を納入した「会員」を集めて、県レベルでのイベントを組むという共通性が見て取れる。

この日の講義では、水難救済会山口支部発会式の新聞記事を順番に読んで、そのイベント制を確認することをした。

山口支部副長である県警務長・大味久五郎の「事務報告」(防長新聞・明治41年5月26日2面)のなかで、「明治三十年七月山口県委員部を置き各郡市に郡市委員部を設置し地方有志の士に訴へ会員募集を図りたるに続々入会者を得」とあるように、下関救難所が設置された同じ年に、会員募集もスタートしている。支部発会式までに11年かかっている。


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水難救済事業における山口県の特徴と、水難救済会を赤十字と対比する視点を詳説していることから、防長新聞の社説に相当する「時事評論」欄に掲載された「水難救済会支部発会式」(明治41年5月24日2面)をつぎに示す。

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水難救済の事業は、戦時に於ける赤十字の傷病者救護事業と其の性質を同くし、友愛慈悲の至情に基くものなれば、人類の高尚なる一義務に属せり。本県は三面海に瀕し、特に内外船舶の交通頻繁なる下関海峡を有す。故に年々遭難船続出し、之が為め直接には船舶及び人命を害し、間接には海事思想の発達を妨ぐ。是を以て藩政時代より小規模の救済方法は設定せられ、沿岸に於ける遭難船を保護しつゝありしも、費用なく器械なく、且つ其の機関の組織的ならざりし為め、十分の目的を達すること能はざりしも、今や水難救済会は全国の同情者が寄附せる巨額の資金と、政府の補助とを以て設立せられ、山口県支部は他府県よりも先んじて本日発会式を挙行するの盛況を呈せるは、亦た以て自ら祝するに足る。水難救済の事業を赤十字の事業に対比するに、其の異なる点は、彼の活動は戦時に限ると雖も、此の妙用は戦時と平時とを問ず、二六時中継続す。彼の資金は其の大部を中央機関に吸収せらるれども、此の資金は僅少なる幾部分を本会に納むるのみにして、其の多額は地方に保貯して必要の使途に充つるを得べし。其の同じき点は、彼は敵と味方とを問はず、戦時の傷病者全体を救護す。此も内国船と外国船とを問はず、遭難せる船舶と人命とを救護す。彼は弾丸雨飛の険を冒して傷病者を収容し、此も激浪怒濤の間を衝いて遭難者を収容す。然らば則ち其の必要にして利益ある点は、彼よりも寧ろ此に在り。其の公平にして勇壮なる点は、彼此異なる所なし。水難救済の事業が、海に於ける赤十字として歓迎せらるゝは、実に其の理由ありといふべし。聞く本日演習に用ゐる救命砲は、米合衆国より日本の於ける本事業の発達を欣んで、特に寄贈し来りたるものなりと。浦賀に於ける米艦の砲声が、日本鎖国夢を破りし如く、華浦湾に於ける救命砲の轟音は、本事業の奮発を誘起すべきは、信じて疑はざる所なり。〔後略〕
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以上、第9回 (2005年6月9日)。


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以下、第8回 (2005年6月2日)。


山口県立山口図書館の県民資料室に、吉村富雄著『丸尾の歴史あれこれ』(2000年3月刊)という本があるのに気づいた。
宇部市東岐波区丸尾に住む郷土史家の方の著作である。

丸尾崎救難所の位置(詳細図)。
丸尾崎(5万分の1図)。
丸尾崎(広域図)。

聴講生の方々は、コピーして配布した「救難所跡」の内容を確かめて欲しい。
(1) 「救命艇 神島丸 (昭和6年3月・進水式)」という写真が載っている。片側に櫓が4つ付いた八丁櫓の和船である。原動機付き救命艇が用いられるようになるのは昭和に入ってからである。日露戦争当時の「救助船」も同様のものであったろう。
(2) 昭和に入り、帆船が機帆船や大型汽船に代わることで出動の必要がごく僅かとなっていった。
「明治三八年から大正一四年までの、丸尾崎救難所の救助活動の状況については、次ページのような記録がある。明治、大正にかけての救助活動は、救難所の救命艇の出動だけでなく、救助隊員以外の漁師も漁船を出動させるなど、丸尾地区民一帯となって救助に参加したことも度々あったと言われている。大正時代になって、以前の帆船が機帆船や大型汽船に代わり、昭和になるとラジオの発達と共に、気象情報の伝達も正確敏速になって遭難は減少し、従って、救難所の役目は昭和六年頃より殆どなくなったものと思われる」(同書、166頁)
手漕ぎ和船による沿岸海域での海難救助は、帆船が実用船舶として用いられていた時代に対応していたと考えてよいだろう。


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小学館・日本百科全書から「在郷軍人」「帝国在郷軍人会」「大日本武徳会」「愛国婦人会」の項目を提示し、内容を確認。

防長新聞より、「在郷軍人団条例」(明治40年8月3日1面)、および、「在郷軍人会の活動」(明治40年9月5日2面)を示した。
後者は招魂場敷地の地ならしのため在郷軍人百八十余名を召集し、地ならしを終えた後の宴会で、県会議員候補者の他薦や自薦の演説が行われている。地方選挙直前の在郷軍人の集まりがどのようであったのか興味深い。


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防長新聞・明治41年5月3日1面に「原内相 大浦男の確執について 武徳会員募集の件」を説明するために、
(1) 原敬日記・明治40年8月11日の条
(2) 原敬、大浦兼武、北垣国道、渡辺昇を人名辞典などで紹介

日曜日の夕刻、図書館のコピー申込み締切り時間後に、上記記事があることに気づいた。メモしたが、コピーを持ち帰るのは翌週になったため、この日、記事全文は配布していない。


以上、第8回 (2005年6月2日)。

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以下、第7回 (2005年5月26日)。



この間、入手した防長新聞の記事からつぎのものを示した。
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〔記事−1〕明治38年12月22日2面
「○吉井伯爵の一行 一昨日午前十時来山、湯田松田楼に投宿せる帝国水難救済会長伯爵吉井幸蔵氏は、村田同会幹事と共に仝日午後二時県庁を訪ひ、渡辺知事以下同会に関係せる人々に面会し、本県東南海岸一帯に水難救済所の新設を見るに至りしは本県の尽力容易ならざりしを謝し、尚ほ将来、長門北海岸にも同様設置さるゝに至らん事の希望を述べて帰宿し、当夜知事、林、依田の一四両部長、原保安係主査、湯浅同警部等を招きて晩餐を饗応されたり。因に同伯は貴族院開会の期迫りたるより他への巡回を止めて昨日正午出発、直に帰東の途につけり」

〔記事−2〕明治39年3月10日2面
「○水難救済会徳山組の役員選挙 同組は当分都濃郡内太華村字櫛ヶ浜、粭島〔すくもじま〕及徳山町の三カ所を管轄し居る事なるが、此程役員の選挙を行ひ、部長中村右一、組合長田島広吉、粭島組合長石丸安次郎、太華村浜田才吉、徳山高橋嘉助の諸氏と定まり、外に救助夫各組に八名宛を置く事となり、此程夫々本会より辞令書を交付せり。右に就き来る四月中旬を期し発会式を挙行すべき筈」

〔記事−3〕明治39年7月20日2面
「○水難救護会員募集奨励 大津郡西部各村に於ける同会員募集奨励は、前人〔ぜんびと〕丸垰〔まるだほ〕警察分署長警部長谷川和介氏が、三宅巡査部長を従へ、前月以来各村を巡回、頗る熱心之れが募集に勉め、其成績何れも良好にして特に向津具村大字川尻の如きは海事思想発達し、同地有力家は悉く此の事業を賛助するの情態なるが、長谷川署長他に転任以来、三宅部長は鋭意事に当りたる結果、同地に於いては千円以上の拠金を造りたる由。就中天野清太氏の如きは一百五十円拠出することに決定し其他村々にも続々申込者ある由」

〔記事−4〕明治39年7月27日2面
「○水難救済会義金募集成績 玖珂郡高森分署詰中村巡査部長は其管内へ出張し、水難救済会義金募集を為したるに、成績良好にて、予定配当額五千六百円に対し、最早半数以上の応募者あり。遠からず全部収納し得る見込みなりと」

〔記事−5〕明治39年8月21日2面
「○水難救済会委員副長会 既報の如く帝国水難救済会本県各郡委員副長会を県庁構内なる巡査教習所講堂に開き着席定るや、委員総長渡辺融〔とほる、県知事〕氏の事務上に関する一場の訓示ありたる後、依田事務官は告別の挨拶を為し、夫より一同は紀念〔ママ〕の為め県会議事堂傍に於て撮影せり」

〔記事−6〕明治39年12月13日3面
「○下関の赤十字社員勧誘 下関市役所に於ては、先般来各課とも赤十字社員勧誘に努め、毎週日曜の如きには、殆んど総出にて尽力する処ありしが、已に三百名に垂んとする〔なんなんとする〕の加盟者を得、尚進んで五百名に達せしめんと、目下頻りに勧誘中なりと云ふ」
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最後の〔記事−6〕は下関市役所職員が休日出勤をして日本赤十字社社員募集活動を行っているという内容である。前回紹介した水難救済会にとっての対照事例としての赤十字社の実態を示す。しかしこれは現在においても地方自治体と日本赤十字社の関係として、基本形は変化していない。『日本赤十字の素顔』(赤十字共同研究プロジェクト・著、2003年)第1章「町内会と日赤の奇妙な関係 --- あなたもわたくしも『日赤社員』?」に詳しい。

〔記事−5〕は、県知事が水難救済会の県の「委員総長」という名の責任者を務めていることを示す。

〔記事−3〕〔記事−4〕は、警察官が水難救済会に対する寄付「義金」の募集に従事していることがわかる。 

〔記事−2〕は、実働組織として沿岸地域で救難活動の携わる「救難組合」の役員選挙の記事である。内部的には、選挙で役職者を選んでいることがわかる。

〔記事−1〕は、救難所の新設などに際しては、本部と地元県庁・警察の協力で進められたことが読み取れる。

なお、第3週の末尾に示した三つの記事も参照のこと。救助夫長は本部からの任命であり、会員募集に尽力した警察官には本部から賞与が与えられたことがわかる。



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前週からの間の史料探索で得た最大のものは、山口県の地域関係者に向けた水難救済会当事者からの発言を見つけたことである。


「  ○海国的国民の大覚悟(十二)
    (廿一日県立師範学校に於ける演説の要旨)
  帝国水難救済会理事  海軍中将 肝付兼行君述
    第四章 水難救済機関の必要(上)
余は水難救済会創立以来事に参与し三十一年から各県を巡回しつゝあるが、本県の如きは成績の佳良なる全国第一に位し、割当額に達する亦近きにあらんとす。此上ながら県民諸氏の公徳心に訴へて本会事業の御賛同を望みます。我国に此水難救済会が起ましてから即ち二十二年から三十七年迄の各国統計がありますが、欧州にては白耳義は二十里にも足りない海岸を有して居るに過ぬが官有で、他は国民事業の方が多い。米国は政府事業で、欧州ては比較上英国が第一に発達し、其次が露国で全国に九百八十ヶ所ありて、英国では管船局の所轄に属するものが三百九十四ヶ所で私立のものが三百もある。民業の方は例の公徳心の高き国のことであるから、人民が志望すると其遺産を這般の公共的事業に惜気もなくポンポン寄付する。そこで一番多額に出して居るのは一人にして三万磅(六十万円)も出して居るのがある。我国の水難救済会事業の起源は故黒田伯爵が露西亜に使し、親しく仝国に於ける水難救護事業発達の情況を視察し大に感ずる処あり、明治二十二年帰来其創立を企画されたが、先づ最初には昔からの慣習があるから船神様と云ふ因縁から、讃岐の琴平社に崇敬社と云ふを設けて、船舶所有者其他から毎月三銭宛の寄付を募集し、是れが基礎となつて今日の水難救済会が出来たのである。それで創立明治三十二年より三十七年迄の統計に徴すると、其救済成績は救済度数が二千一百九十三度其中で西洋形船は二百九十三隻其噸数二万七千余噸日本形船は線八百五十二隻の多きに上り、救護人員が一万八百四十一人海から拾揚げた石炭とか何とか云ふ様な物の価額だけでも二百七十三万円にも達し、総体から救済された積荷の価額は四百六十二万円にも及で居る。是れに船舶の価額八百三十万円を加へたなれば、約千三百万円も空しく海底に沈む物を救ふて、貴重なる人命の一万三千八百四十七も救助した訳であるから、人道の上より観ると一方国家の富と云ふ典から考えても大に社会に貢献したもので、是で何程位金を要したかと云ふに僅々四十万円を使用したのみで、即ち四十万円の資本で金で買はれぬ一万三千八百四十七の人命と千三百万を利益した訳であり、此顕著なる国家経済から苟も公徳心ある物は是に向て十分の注意を払ふであらう。欧州から来る外国船はまず長崎に来りそれから神戸横浜と航行する。それに其視界に水難救済所の目標々燈なぞが多く見ゆると、成程日本人は公徳心に富で居る善い国ちゃ感心な国民じゃと安心して来航する。若し這般の設備が整頓せぬと日本人は公徳心が発達せぬ面白からぬ国危険なる海であると、自然に其感情が幾分か通商貿易の上に障礙を及ばす様なことになつて来る」
(防長新聞、明治39年5月6日2面)

一つめの下線。明治31年とは、第2週で示した年表によれば、逓信省からの補助金がでることになった翌年度である。法人格をもち、全国的な組織形成に取り組み始めた時点であろう。その時から、全国行脚を始めている。山口県は、会員へ応募、義金の醵出が全国上位であるという。

二つ目の下線。金刀比羅宮の信者団体は、救助活動の実行組織の基礎となったというよりも資金的な基礎を提供したことを、この記事のこの文言で初めて知った。

三つ目の下線。下関から神戸への瀬戸内航路は国際航路であるということがわかる。そこでの救助体制の整備が欧米との文明国としての立場の基礎になり、また、通商貿易の基礎となるとの認識が読み取れる。



「  ○海国的国民の大覚悟(十二)
    (廿一日県立師範学校に於ける演説の要旨)
  帝国水難救済会理事  海軍中将 肝付兼行君述
    第四章 水難救済機関の必要(下)
明治十八年のことであるが、米人「カシミル」以下九名の乗組みたる風帆船、琉球沖にて風波の難に遭遇して沈没したので、一同は一隻の短艇に身を委ねて食ふに食物無く干大根を齧りながら渺茫たる洋中を漂流し、其内五人は果敢なくも船内で死でしまい、四人だけ鹿児島県の種ヶ島に漂着した。其とき同嶋の住民が色々親切に労はり世話をして、其筋の手を経て夫々帰国の手続をしてやつた所が、是に就て米国民の感情を動かしたことは非常なもので、日本人は親切な者である感心ぢやと、終にサンフランシスコの某市会議員の如きは時の国会に建言して之に酬ゆるあらんことを請求した。而して其建議は一瀉千里の勢を以て怱談にして可決し、金貨五千円を種ヶ嶋村民に寄贈することになつて、外務省を経て送つて来た。それから其費途に就て種々研究の末、是を小学校の基本財産とすることゝなつて其由来を時の鹿児島県知事渡辺千秋氏が書ゐて碑文を建てた。其頃余も同嶋に立寄ることになつたので、其碑文を英訳し其写真を添へて、余が嘗て米国に在りて教育を受けた師匠に送つてやつたが、是が先方の雑誌に掲載されてあつた。日本には廃兵院のことは議会に可決され盲唖学校の如きも追々隆運に向ひつゝあるが、水難救済機関のことに対しては国民が頗る冷々淡々たるは洵とに痛恨事であるのに、県民諸子の熱誠なる本県に於て頗る好成績を得つゝあるは、余の深く感謝する処である。余が曾て矢張水難救済会の事で、秋田県羽後の象潟と云ふ処に行つて、午前中に用事を了り午後酒田まで五里の途を超ゆることにしたが、此間は随分道路険悪を以て有名な処であるから、二人曳の腕車を駆て出発した発する時は天気が頗る快晴であつたのに、所謂名月や北国日和定めなきで、東北地方程天気の変転定まり無き処は無い。途中驟かに暴風吹狂いて困難一方ならぬ。それを辛くも凌いで二里程行きて或る小阪の下迄達すると、車夫も終に辛抱仕切れなくなり、何程金を頂戴致しましても此時化では兎ても行かれませぬので是非此辺に宿泊て呉れろ、と頼むので、止む無く車夫に導かれて一軒の家に至つた。積雪の甚だしい国だけありて、家垂下も広く其処に車なぞも沢山置かれる様になつて居て、障子を明けて内に入て見ると広い中庭があつて、そこには見るも悸とする様な荒くれ男が数名、八月の炎天であるのに焚火をして暖まつて居る。八月に焚火をすさなぞ、是が即ち北国日和の定めなき処で、宛然此家は山賊の棲家としか思はれぬ。何だか小気味の悪い家だと思ひながら、主婦に導かれながら行くと、丁度其日が旧暦の盆で、仏壇で光明を点されて称名唱へて礼拝して居るものがある。仏信心をするからには真逆山賊の棲家でも有るまゐと、漸つとのことで安心して、我室に宛てられた長押付の八畳敷二間に寝すむことを得た。若し此時に余が仏壇を見なかつたなれば、到底も安心しては寝られなかつたであらう。救済会の事業は実に此仏壇である。是ありてこそ、内外幾多の船舶は心安けく航海することが出来るのではあるまいか。人道の上より又国家経済より打算しても、決して軽怱に付すべきものであるまゐ。以上余が説明したる趣旨を充分咀嚼して、此上にも国家の為め一層諸子の熱心なる同情を希望致します云々。(完)」
(防長新聞、明治39年5月9日2面)


水難救済会は、国家経済からの打算(戦略的な判断)から必要と判断される社会インフラであるとの認識が読み取れる。



以上、第7回 (2005年5月26日)。

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