2005年08月24日

山口県立山口図書館にて、『防長新聞』明治36年6月〜10月上旬を読む。

7月上旬、武徳会山口県支部の発会式。

10月上旬、系統農会の県支部が未設置だった沖縄県・山口県のうち、山口県の支部が発足。知事渡辺融は、知事や郡長が長となるのは避けるべきとの意志を示し、実際、県農会長にはなっていない。県知事が県支部長になる官製団体とそれ以外の組織形態との境界がどこにあり、なぜそうなのかという疑問から気になった事柄。

*

戦艦富士が二度目の関門海峡試航を実施。今回は弾薬、石炭を満載にした状態での通過。開戦後の運用を意識したもの。艦長井上敏夫は間もなく艦長職を離れる。

井上は、明治39年、予備役に編入。帝国海事協会の義勇艦隊募金の遊説に参加。第10回・第11回総選挙に三重県より選出。第2次桂内閣時に、船舶検査法の中改正案を議員提案し、立憲政友会を基盤に成立させている。

第一次西園寺公望内閣時に原敬内務大臣の手によって行われた関門海峡の港湾・航路整備が、政友会と海軍の接近の伏線になっているのではないかと気づく。日露戦争後の主力戦艦が関門海峡を通過できるように航路を整えることは、なによりも海軍にとって重要なこと。


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2005年08月19日

昨日、一年次生科目の採点を終え、前期学期の成績報告をすべて完了。やっと史料を見に出歩けることになります。

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2005年08月12日

九州工業大学教授で、アーネストサトウ研究を主要研究テーマとしている方。
大学のウェッブlulu.comというインターネット書店内のページ

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2005年08月11日

教務課に、「歴史学 I」の成績報告書を提出した。山口市に通って読んだ史料をそのまま講義としていた内容を思い出していた。
学期末の成績処理のために、4週間出歩けない時間が続いている。採点は、「人文社会入門」の成績があと一クラス残っているだけ。

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2005年08月09日

大阪工業大学工学部の夜間課程は、今年4月の入学生を最後として募集を停止する。その最後の学年に出講し、前期14週のうち、前半の7週間を担当した。科目「人文社会入門 I」である。

「私のメディア接触行動の特色」
(学生が自分自身の<メディア接触行動>について事実を記述し、他者や以前の自分と比較し、その特色を考察する)

「19世紀後半の社会における情報化と、現在我々が経験しつつある情報化とを比較し、その共通点と相違点を指摘せよ」

二つの課題について、事前に採点基準を詳細に説明し、下書きに対してコメントし、最終答案の出し直しを認めるというやり方で書かせた。それぞれ、4週目と7週目に実施した。非常に意欲的でいい答案が多かった。

rshibasaki at 19:50コメント(0)トラックバック(0)『日記』「情報化から見る近代日本」工・人文社会入門 2005-2013終了 

2005年07月31日

7日28日(木)に行いました「歴史学 I」の定期試験の採点をしている。
明後日8月2日(火)には、7号館8階の人文・語学事務室前に正解を貼り出す。

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2005年07月27日

なぜ、明治の国民は、日本海員掖済会・帝国水難救済会・帝国海事協会のような海事団体の会員になり、義金醵出に応じたのだろうか。

その背景にはどのようなイメージの世界があったのか。

「早速丸の沈没」(防長新聞、明治36年5月5日3面2〜3段、早速丸は「はやみまる」と読む)
「海事思想(承前)(菅野商船学校長の演説)」(防長新聞、明治35年10月17日2面1段)

この二つの史料を読み合わせることで、一つの説明の可能性に気づいた。定期試験が終った後、このブログに書くことにする。


[2005年12月13日〜、追記]

「○早速丸の沈没 去一日一大惨事は伊予の海上に起れり。特に我が同業者藝備日々新聞社の分身たる早速社の所有船早速丸か七十三名の乗客を載せながら外国船の為め万蕁の海底に葬られたるに至つては何ぞ酸鼻に堪へんや。同船は午後十一時頃伊予国温泉郡睦月島と野忽那島との間を航進しつゝある折しも、東方より来りし韓国汽船漢城号に俄然衝突したり。此の怪しき音響耳朶を貫くや乗客の一人、関佐一郎氏はスワ衝突よと心づき率然身を起しつ。急遽船室を立出でゝ甲板上に出づる間もなく船体は已に沈没しかゝり、其身も共に沈没し去らんとするより、更に身をかはして上等室の屋根に登り急ぎ漢城号に向つて綱を卸せと叫びぬ。時に四面暗黒にして大船前に横たはり物色凄然たるありしが、軈て漢城号より綱を卸すや、関氏は之に取つきて同号に飛乗りしに、乗客中にありし軍艦富士乗組の水夫渡辺新蔵、溝田民蔵、井上友次郎、野田保次郎、本田種春の五氏は如何なしたりけん、此時早く已に漢城号のブリッヂの上にありて船長たる独人パンネールに厳談して頻りに救助を迫りつゝありき。其行動の機敏なる遉に帝国軍人よと関氏をして舌を捲かしめぬ。然るに漢城号船長以下の者は言語不通なるのみならず、船長は甚だ冷淡にして頓に救助に着手すべきもあらざれば、前記五氏は大に之を憤り非常の決心を以て彼等に迫り遂に水夫をしてボートを卸さしめ、己れ之に乗込み水夫を指揮しつゝ漂へる乗客等を救助し、尚船中にありし救命具、板切、其他浮遊すべきものは悉く之を放流して、縋り付かしめん便りとはなしき。時に第一早速丸の船員も身の危きを顧みるに暇なく、船中の板ぎれ等を放流して救助に備へ、而して関氏はボートに依て救助せられしもの及び板片等に縋りつきて救助せられしものを漢城号デツキの上に引揚げつゝありしが、何れも濡着を纏へることとて船員を叱咤しつゝ毛布其他の物を持出さしめ、之を引揚げられしものゝ身に纏はしめ、機関室等に連行きて暖を取らしむることとなし、頗る救助に尽力したりき。時しも早速丸の船員等は追々漢城号に泳ぎ付き、船長永井元も亦た九死に一生を得て到り着きしが、何分此は百廿六噸余の小船、彼は千百噸の大船にして、加ふるに船腹を衝突せられ衝突より全沈没に到るまでの時間僅に五分間なりしこととて、死者及び行衛不明の者あるを見たるはかへすがへすも遺憾の事と謂ふべし。是より先き漢城号は此悲劇を眼前に見つゝ船長等は直ちに門司に航行せんとする模様なりしが幸ひにして同船事務長たる韓国釜山港草梁村の人、金聖源は日本語に通ずるを以て前記五氏は之をたよりに尚厳談を試み、航行するならばして見よとて、帝国軍人の意気を示しつゝ其侠骨を以てして之を遮ぎり、此腕摧[くだ]かば摧けよとばかり力争せん気色を示しぬ是に於て彼等は航路の知れざるを口実とし、三津浜に寄港するの危険を説きてその場を逃れんとしたるが、恰も好し此時早速丸船長永井元の漢城号に泳付けるありし。疲労の中にも自ら進で其水先案内たらんことを言出しより、漢城号も今は是非なく三津浜に寄港することとなり、乃ち永井は船長バンネールと共にブリツヂの上に立ちて航路を指示することとはなりぬ。斯る折から三津浜警察署より第一愛媛丸来りて、松山地方裁判所予審判事奥村正人、検事正入交好雄、検事田村光栄の三氏及書記三名、並に愛媛県警察部保安課長田中瀧三郎、愛媛県属平野勝の二氏及山田海務署長等出張し来り、漢城号船長、事務長は更なり、第一早速丸船長及事務員等を三津浜警察署に同行したりき。右衝突の箇所は明治二十五年十一月千島艦が英国商船ラベンナ号の衝突する所となりて沈没したりし箇所を距ること遠からざる所なり、乗組総人員七十二名の内男四十六人、女二十六人にして生存者四十七名、死体発見二名、行衛不明者二十三名なり。本県人は玖珂郡御庄村字関戸の重富信一なるものありしが、幸に救助せられたり。又同船へは東京吉原の芸妓一行十七名中九名は行衛不明となれりといふ」
(防長新聞、明治36年5月5日3面2段)


「○海事思想(承前)
(菅野商船学校長の演説)
近時新聞紙の報道する処に依れば、英国皇帝陛下は皇后陛下と共に健康にされる事ありとてヨツトに乗じて英国近海を航海されつゝありと。実に英国に於ては船を病院の如く思惟す。我国に於ても神戸横浜に在る外国会社の社員等は僅に十間内外の扁舟に依りて帆走するを楽[たのしみ]となし居れり。我国人にして船を楽しみ海を喜ぶもの果して幾人かある。病を養はん為めに殆んど全くは山地に入り温泉に浴す。果して山間の空気は海風に比して新鮮なりや。否な、海面の空気の新鮮にして病を養ふに足るものあるは予の言を俟たざるなり。斯く海は一国を富強ならしむると共に又人の健康に利ある前述の如し。今や四大航路は開かれ六千噸の船を以て盛に航海され居れり。然るに其船舶の主脳たる船長、機関長は誰を以て充られたりや。我国の金を以て造られ我国の国旗を挙げ我国の国際証書を有する船は実に外人に委托され居るは、二百幾十年鎖国主義の余弊と云はざる可らず。於是吾人は国人にして船長たり、機関長たる人物を養成し早く之に更らしむるは刻下の急務なりと信ず。是れ即ち商船学校の県下に設置されたる所以なり。而して高等海員の欠乏は、唯僅かに是等大航路のみならず、下関より神戸に至る所謂浪平かに平地に在るが如き瀬戸内海を航海する船舶の水先案内者の多くは西洋人にして、我国人の之に従事する者僅かに五人のみなり。是れ自己の家の案内を他人に頼むと一般ならずや。而して利益の点よりすれば神戸より下関間僅かに二十四時間の航海の給料は百円と法定せられたれば、一ヶ月十回の航海をなさんには千円の収入あり。是等の利益は皆な外人に占められつゝあるを見て諸氏は如何の感かある。今後水先案内者の年齢を制限し外人の水先案内者を減ずる事になり居れども、是等海員の欠乏には如何ともする能はず。本県萩出身にして本県の商船学校第一回卒業生なる加屋洋介氏は瀬戸内海の水先案内に従事し、其初めは一年七千二百円の収入ありしと。実に国務大臣六千円の年俸以上に在り。斯の如く利益の点に於ても大なるものにて其実権を外国人に占らるゝは一大恨事なりとす。故に是等は教育ある商船学校卒業者を以て之に更らしむるより外なく、之をなさんには実に海事思想を発達せしめ、海運の道を開き高等なる海員を養成するは目下の急務なりと信ず」
(防長新聞、明治35年10月17日2面1段)

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以下、第13回(2005年7月7日)。

つぎのように書いたメモを配布。
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 先週から今週・第13回までの間、山口県立図書館で防長新聞の1902・明治35年を閲覧した。この年2月、日英同盟締結が公表されたが、しかし、直ちに日露戦争に直結する動きは出ない。中央では、第三次海軍拡張の予算をどうするかについて議会が紛糾し、地租増徴が継続されることとなった。山口県では、武徳会の山口支部が設置され、支部旗が本部からもたらされた。また、海員掖済会の会員募集の記事も散見される

 同年8月26日2面3段のつぎの記事が目につく。先週配布した『山口県警察施設ノ主眼』(山口県警察部、明治42年)のうち「附 関門間海難減少策ニ関スル意見」と照合すると、海軍の艦隊運用にとって関門海峡のもつ重大性と、その関連で、海軍水路部(水路調査)・逓信省管船局(民間船舶管理)・内務省土木局(港湾整備)・山口県および福岡県警察部(下関水上警察署、門司水上警察署)が関連する課題が存在したことが推測される。

「○水雷敷設の付属船  呉水雷団敷設隊付属船那沙美丸は去る二十三日下関港に碇泊し同港附近に於ける海上の調査に従事しつゝありしが、同船には牧村海軍中佐以下十九名乗組み居れり」
「○富士艦の通過  帝国軍艦富士艦は一昨日午後六時六連島沖合に投錨、昨日一日間は碇泊し、本日午前十時抜錨、東に向ひ関門海峡を通過する筈なるが、同艦は実に一万二千六百八十七噸の大戦闘艦にして、此の海峡を通過するは今回を以て之を嚆矢とす。右に付水上警察署は他船に於て此航路を妨害せんことを慮かり、一昨日港湾内に繋泊の船舶に対し相当の注意を促したる由」
(防長新聞、明治35年8月26日2面3段)

 明治39年か40年に、この時の艦長へのインタピュー記事あり。メモ未採取
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この日、講義全体のまとめを試みたが上手く行かなかった。翌週までに出会った史料と視点を欠いていたためと思われる。

以上、第13回(2000年7月7日)。







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以下、第12回(2005年6月30日)。

国立国会図書館の近代デジタルライブラリーを「山口県」and「海難」で検索すると、『山口県警察施設ノ主眼』(山口県警察部、明治42年)がヒットする。同書50〜51頁に、「関門間海難減少策ニ関スル意見」という文章がある。
一、潮流の急激
一、暗礁碁布
一、帆船出入
一、漁船出入

関門海峡で海難事故が多い原因として、上記四点が挙げられている。三番目は、汽船が出入りする海峡に「櫓や櫂で進むには大きすぎ、しかも動力をもたない帆船」も混在することが、衝突事故の原因となっているとの指摘である。その帆船の大部分は「石炭艀船」であるという。防長新聞の遭難記事も、石炭船の難破が多く報道されていて符合する。

*

つぎのような、直接今回の講義のテーマに関係しないが、当時の山口県、さらに日本の状況を窺い知るのに面白い記事を、『防長新聞』から紹介した。
「西比利亜鉄道の現状」(明治34年4月11日1面3段)
「柔道教師の嘱托」(同34年2月22日2面3段)
「在清軍人と家族間との私電報」(34年3月1日2面3段)
「新聞販売者の大競争」(34年3月7日3面4段)
「憲兵の渡韓」(34年5月9日2面5段)
「馬匹の蹄鉄に就て」(34年3月14日1面2〜3段)
「小郡駅発車時刻」(34年5月15日3面3段)
「山鉄全通と徳山駅員の減員」(34年5月16日3面4段)
「電気通信技術伝習生の募集」(34年5月25日3面5段)
「山陽鉄道厚狭馬関間開通式」(34年5月28日3面2段)
「三田尻小郡間電信線路測量」(34年5月30日3面2〜3段)
「山鉄全通後に於ける徳山の影響」(34年5月30日3面4段)
「交通機関と郵便物の速達」(34年5月31日2面4〜5段)
「野津少佐の朝鮮談」(34年7月6日2面2〜3段)
「陸海軍人恩給請求権に就て」(34年7月6日2面3段)
「台湾巡査の試験」(34年8月13日2面5段)
「海外渡航者と旅行券」(34年8月14日2面2段)
「憲兵の渡韓」(34年11月10日2面5段)

以上、第12回(2005年6月30日)。

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以下、第11回(2005年6月23日)。



前週「遭難船の数々」の続き。以下3つの新聞記事を対比して読む。

〔事例−1〕遭難した船舶の漁具であることを知りながら隠匿したことで罰金に処せられた。水難救護法違反。
「○漂流物隠匿者罰せらる  昨年十二月二十三日は非常なる暴風の吹き荒みたる為め沿海各村の漁民は夥しく惨死を遂げたりしは世人の今に尚ほ記憶に存せる処なるが、此の日備中国神島字福浦居住船乗業西本栄次郎外数名も亦た大津郡向津具村大字向津具下村字水の口浜に於て海難に遭遇し、憐はれむべし船舶は転覆して船具は大抵漂流したりしも当時は辛ふして其の生命のみ助かりたるの有様なりしが、無惨にも同郡字津賀村平民小池幾太郎(五十一)池田宇吉(三十六)中野道蔵(三十一)岡崎伊兵衛(五十九)西島熊吉(二十七)荒川勝次郎(五十)の六名は、西本栄次郎等の船具なるを知りながら、同村字立石浦大坪川尻の沖合をカガソ製の錨綱六七十尋(価額三十円)の漂流しつゝあるを拾得して帰り、共謀して或は大桶の中或は土穴の中に隠匿したりしこと漸く此程に至りて発覚したれば、忽ち漂流物隠匿罪を以て告発せられ去る二日萩区裁判所に於て公判開廷の上原田景介氏弁護したりしも遂に六名各五円宛の罰金に処せられたりとは能ひ気味」
(防長新聞、明治33年5月5日)

〔事例−2〕遭難者救助した漁民が山口県知事から賞金を受ける。この種の記事は非常に多く紙面に見られる。他県の漁民でも山口県周辺海域での遭難救助者には山口県知事が賞金を与える。
「○難破船を救助して賞金を受く  阿武郡見島村居住平民漁業村田弥二郎(五十四)及び同村居住平民漁業小畑清次郎(四十六)の両名は昨冬十二月一日同村山田村字玉江浦居住漁業者上領平右衛門、藤崎伊勢松、西村伊勢松、網屋紋蔵の四名が漁業中、見島を距る二十四海里の沖合に於て、暴風の為め其の船体を顛覆し辛くも船底に取り附き漂流しつゝ已に三日間無食の侭にて将に凍死に瀕せんとするを救助して各々七十銭宛の賞金を受け、又た同見島村居住平民船乗業三間菊太郎(三十四)及び同村居住平民船乗業幸徳甚九郎(五十三)の両名は、昨冬十一月二十六日同村居住平民船乗業古谷嘉七外一名が同郡三見村字三見浦を距る二里の沖合にて怒濤激浪の為めに其の荷船を顛覆し今や乗組両名共溺死せんとしつゝあるを救助したるを以て、各一円宛を何れも古澤本県知事より賞金として附与せられたり」
(防長新聞、明治33年1月23日3面)

〔事例−3〕水難救済会の救助夫が、水難救済会の活動として難破船乗組員を救助した際には、帝国水難救済会(本部)より賞与を受取ることになる。
「○遭難船救助者の賞与  豊浦郡彦島村居住下の関救済会の救助夫植田権吉外八名は去る一月十五日同島沖合に於て遭難船住吉丸を認め、亦た同村居住和田六松外三名は同日福浦港に於て英福丸の遭難を認め、共に救助に尽力したる段奇特なりとて去る三日大日本帝国水難救済会より二十銭又は三十銭宛の賞与を受領せり」
(防長新聞、明治32年2月5日2面)


*


『香川県統計要覧』(香川県、明治36年11月刊)に、「壮丁赤十字社表(水難救済会、日本海員掖済会、大日本武徳会、篤志看護婦会、愛国婦人会)」という項目がある。これは、県庁が関与している公共団体の一覧である。

この週は、海員掖済会と帝国海事協会について説明した。




まず、つぎの四つの記事を紹介。

「○日本海員掖済会山口支部」(防長新聞、明治32年2月23日2面)。山口県では、明治31年11月に日本海員掖済会の県支部が置かれている。「赤十字社の組織の如く」という文言が見え、日本赤十字社が組織形成のモデルとなっていた事情を窺わせる。

「○徳山村長の管船事務取扱  逓信省令第二十六号を以て船員法第七十九条の規定により本県都濃郡徳山村長を管船事務を行ふべきを命ぜられたり」
(防長新聞、明治32年6月15日2面)

「○大島郡に海務署を置かんとす  従来海員雇入雇主公認の事務は市町村長に於て取扱ひ居しが客年六月逓信省令第三号を以て其の事務を海務署又は海事局へ引継きたるより大島郡の如き海員多き所は本県内にては赤間関或は徳山の外取扱はざるより其の不便少からず爾来其の手続をなし得ざるもの多かりしか聞く所によれば近々の内同郡へ海務署を開庁する由にて其の位置は和田村大字小泊なりと云ふ」
(防長新聞、明治33年1月23日2面)

「○海員掖済会幹事の談話」(防長新聞、明治33年3月11日2面)


つぎに、現在の社団法人日本海員掖済会のホームページから「掖済会のあゆみ」を示した。明治期にはつぎの事業をしていた。

宿泊の提供
乗船の斡旋
船員の教育訓練 → 現在では商船学校が行う仕事
遭難船遺族への弔意・慰安
船員に対する医療の提供



最後に、『日本海事協会---その100年の物語』(財団法人日本海事協会、1999年刊)を用い、日本海事協会について概略を示した。
「義勇艦隊建設章」(徽章)→個人に交付
「義勇旗」       →市町村に交付

これは、日本赤十字社が、徽章を個人に交付し、「忠愛旗」を市町村に交付するのと同じかたちである。なお日赤は、現在も「有功章」を出している。



以上、第11回(2005年6月23日)。

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