2005年07月26日

以下、第10回(2005年6月16日)。


明治42、43年の記事を読んでいると、日露戦争が歴史になりつつあることが感じとれる。新しい時代に向かって通覧するのは明治43年(1910年)末で終りとした。この週末からは、日露戦前に遡ることにする。

「●鴻城丸船員の名誉  下関水上警察署の汽船鴻城丸船長三井豊造、機関士村田寿八の両氏は三十七八年戦役の際の功に依り金五十円宛下賜の辞令賞勲局より到達し廿八日下関警察署より交付ありたり」
(防長新聞・明治41年8月30日2面4〜5段)

「●露国水兵の遺骨伝送  日本海々戦の際阿武郡及び豊浦郡に露国水兵八名の屍体漂着し夫々仮埋葬に附しありしが今回露国に送還することとなり阿武郡役所書記一名は八名の遺骨を携さへ十九日夜佐世保鎮守府に向ひたり」
(防長新聞・明治42年6月22日2面5段)

「●東郷大将と鴻城丸  下関水上警察署長杉警部は旅順表忠塔除幕式参列のため客月二十日来関の東郷海軍大将を鴻城丸にて送迎の途中同船が日露戦役中特に日本海々戦に於て須佐に漂着せる捕虜五十名を収容し之を水雷艇に引渡したること及び常陸丸佐渡丸等遭難の際の如きも連昼夜遭難者の救助に尽瘁せしこと等の事実談を為したるに今回計らずも閣下を本船に迎ふることを得たるは洵に無上の光栄にて千古忘るべからざる好個の記念なりとの旨を語りたるに同大将は其後帰京後縦一尺六寸横二尺九寸五分の紙面に鴻城の二字を揮毫せる額面を当時の随行岩村少佐をして書留郵便を以て十三日杉署長に宛て送らしめたる由」
(防長新聞、明治42年12月15日2面4段)


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社説「寄附勧誘と官庁」(防長新聞、明治42年7月2日2面1段、時事評論欄)。
「金銭物品の寄附は、其の性質に於て各人の任意行為たるや論を俟たず。然れども之を勧誘するに知事郡長徴村長駐在巡査等の口を以てすれば、被勧誘者の心的状態に一種の強制を感じ、若し其の勧誘を拒絶すれば、他日不利益なる報復を受くべしとの恐を抱かしむ。此の如く人民の弱点に乗じ出資を促すは、仮令其の目的義侠慈善に在りとするも、個人の自由意思を侵害するものにして、且つ一定の職務を帯ぶる地方官吏が、公務を取扱ふ時間を割きて私設事業に斡旋し、其の斡旋の功労に依り、手当金又は有功章等を受領するは、規律を紊乱するものと謂はざるべからず。〔中略〕。地方人民の頭上に落下する寄附の重立ちたるものを列挙すれば、赤十字社、武徳会、水難救済会、海員掖済会、愛国婦人会、軍人後援会、義勇艦隊資金等屈指に遑あらず。此等の事業は博愛慈善又は尚武愛国の精神に基くものにして、何人も之に賛成を表せざるものなしと雖も、其の賛成を表する為め寄附を為すや否やは、自ら別問題に属す。私人としては不義理の借財に責められ、自家の経済は収支相償はざるに拘はらず、奮つて公共事業に巨額の寄附を為すものゝ如き、其の事業のみより見れば恩人なれども、家長としては良家長に非ず、国民としては良国民に非ず、自ら修めて以て人に及ぼすの順序を顚倒するものなり。本県の官庁は近来稍や寄附勧誘の手を緩にせるものゝ如し。是れ消極的の一進歩なり」
(下線太字は引用者による)
「義勇艦隊」とは帝国海事協会による試み。平時は高速商船として就航し、戦時には仮装巡洋艦として軍用に用いる船舶を建造するために募金を募っていた。


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「●旧式銃器の払下  村田歩兵銃其他左の物は学校及び在郷軍人其他に対し夫々払下を許可せらるゝ事となりたれば希望者は左の価格を諒し注意事項により願書を差出すべしとなり〔以下略〕」
(防長新聞、明治43年11月3日2面4段)

実包および空包付で払い下げている。長谷川慶太郎氏が指摘していた民間の武器所有を別史料で確認したことになる。


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私設消防組から公設消防組への改組。資産あり、教育ある有力家が中核になり、消防組員を在郷軍人が占めることになるとの趣旨の記事が散見される。それが望ましい変化として報道されている。


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「遭難船の数々」(防長新聞、明治43年3月13日3面3段)。水難救済会の救護所のない海域で遭難が発生した場合、沿岸の警察官が地元漁民を指揮して救助に当たることになっていた。その事例。→水難救護法


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「ウラジオ巡洋艦戦隊行動図(1904年2〜8月)」(『日露戦争(二)---戦いの諸相と遺産---』軍事史学会編、錦正社、2005年6月新刊)が届いたので、配布した。第3週の内容と照合すると各救護所からの報告が理解しやすい。




以上、第10回(2005年6月16日)。

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以下、第9回 (2005年6月9日)。



記事「原内相大浦男の確執について 武徳会員募集の件」を配布。
「武徳会」「赤十字社」「愛国婦人会」を、「公共団体」として一括し、その会員募集に、警察官以外の地方官吏の関与はよいが、警察官は関与すべきでないと原敬内相が訓令したとの内容。

これ以後の山口県では、海難救済会の会員募集に警察官が関与したとの記事が見られなくなる。

なお、他の公共団体と異なり、実行組織としては、海難救済会は警察の指揮下で活動する。その点、公設消防組と同様である。この経緯から、警察官の関与が全くなくなってしまったとも考えにくいのだが、今後の史料探索と確認を待つほかない。


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防長新聞・明治41年5月1日3面(広告欄)には、
(1) 5月24日に防府町で開催される「帝国水難救済会山口支部発会式」の広告
(2) 6月1日に山口県庁で開催される「愛国婦人会山口支部総会」の広告
という二つが隣り合わせて掲載されている。寄付や会費を納入した「会員」を集めて、県レベルでのイベントを組むという共通性が見て取れる。

この日の講義では、水難救済会山口支部発会式の新聞記事を順番に読んで、そのイベント制を確認することをした。

山口支部副長である県警務長・大味久五郎の「事務報告」(防長新聞・明治41年5月26日2面)のなかで、「明治三十年七月山口県委員部を置き各郡市に郡市委員部を設置し地方有志の士に訴へ会員募集を図りたるに続々入会者を得」とあるように、下関救難所が設置された同じ年に、会員募集もスタートしている。支部発会式までに11年かかっている。


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水難救済事業における山口県の特徴と、水難救済会を赤十字と対比する視点を詳説していることから、防長新聞の社説に相当する「時事評論」欄に掲載された「水難救済会支部発会式」(明治41年5月24日2面)をつぎに示す。

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水難救済の事業は、戦時に於ける赤十字の傷病者救護事業と其の性質を同くし、友愛慈悲の至情に基くものなれば、人類の高尚なる一義務に属せり。本県は三面海に瀕し、特に内外船舶の交通頻繁なる下関海峡を有す。故に年々遭難船続出し、之が為め直接には船舶及び人命を害し、間接には海事思想の発達を妨ぐ。是を以て藩政時代より小規模の救済方法は設定せられ、沿岸に於ける遭難船を保護しつゝありしも、費用なく器械なく、且つ其の機関の組織的ならざりし為め、十分の目的を達すること能はざりしも、今や水難救済会は全国の同情者が寄附せる巨額の資金と、政府の補助とを以て設立せられ、山口県支部は他府県よりも先んじて本日発会式を挙行するの盛況を呈せるは、亦た以て自ら祝するに足る。水難救済の事業を赤十字の事業に対比するに、其の異なる点は、彼の活動は戦時に限ると雖も、此の妙用は戦時と平時とを問ず、二六時中継続す。彼の資金は其の大部を中央機関に吸収せらるれども、此の資金は僅少なる幾部分を本会に納むるのみにして、其の多額は地方に保貯して必要の使途に充つるを得べし。其の同じき点は、彼は敵と味方とを問はず、戦時の傷病者全体を救護す。此も内国船と外国船とを問はず、遭難せる船舶と人命とを救護す。彼は弾丸雨飛の険を冒して傷病者を収容し、此も激浪怒濤の間を衝いて遭難者を収容す。然らば則ち其の必要にして利益ある点は、彼よりも寧ろ此に在り。其の公平にして勇壮なる点は、彼此異なる所なし。水難救済の事業が、海に於ける赤十字として歓迎せらるゝは、実に其の理由ありといふべし。聞く本日演習に用ゐる救命砲は、米合衆国より日本の於ける本事業の発達を欣んで、特に寄贈し来りたるものなりと。浦賀に於ける米艦の砲声が、日本鎖国夢を破りし如く、華浦湾に於ける救命砲の轟音は、本事業の奮発を誘起すべきは、信じて疑はざる所なり。〔後略〕
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以上、第9回 (2005年6月9日)。


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以下、第8回 (2005年6月2日)。


山口県立山口図書館の県民資料室に、吉村富雄著『丸尾の歴史あれこれ』(2000年3月刊)という本があるのに気づいた。
宇部市東岐波区丸尾に住む郷土史家の方の著作である。

丸尾崎救難所の位置(詳細図)。
丸尾崎(5万分の1図)。
丸尾崎(広域図)。

聴講生の方々は、コピーして配布した「救難所跡」の内容を確かめて欲しい。
(1) 「救命艇 神島丸 (昭和6年3月・進水式)」という写真が載っている。片側に櫓が4つ付いた八丁櫓の和船である。原動機付き救命艇が用いられるようになるのは昭和に入ってからである。日露戦争当時の「救助船」も同様のものであったろう。
(2) 昭和に入り、帆船が機帆船や大型汽船に代わることで出動の必要がごく僅かとなっていった。
「明治三八年から大正一四年までの、丸尾崎救難所の救助活動の状況については、次ページのような記録がある。明治、大正にかけての救助活動は、救難所の救命艇の出動だけでなく、救助隊員以外の漁師も漁船を出動させるなど、丸尾地区民一帯となって救助に参加したことも度々あったと言われている。大正時代になって、以前の帆船が機帆船や大型汽船に代わり、昭和になるとラジオの発達と共に、気象情報の伝達も正確敏速になって遭難は減少し、従って、救難所の役目は昭和六年頃より殆どなくなったものと思われる」(同書、166頁)
手漕ぎ和船による沿岸海域での海難救助は、帆船が実用船舶として用いられていた時代に対応していたと考えてよいだろう。


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小学館・日本百科全書から「在郷軍人」「帝国在郷軍人会」「大日本武徳会」「愛国婦人会」の項目を提示し、内容を確認。

防長新聞より、「在郷軍人団条例」(明治40年8月3日1面)、および、「在郷軍人会の活動」(明治40年9月5日2面)を示した。
後者は招魂場敷地の地ならしのため在郷軍人百八十余名を召集し、地ならしを終えた後の宴会で、県会議員候補者の他薦や自薦の演説が行われている。地方選挙直前の在郷軍人の集まりがどのようであったのか興味深い。


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防長新聞・明治41年5月3日1面に「原内相 大浦男の確執について 武徳会員募集の件」を説明するために、
(1) 原敬日記・明治40年8月11日の条
(2) 原敬、大浦兼武、北垣国道、渡辺昇を人名辞典などで紹介

日曜日の夕刻、図書館のコピー申込み締切り時間後に、上記記事があることに気づいた。メモしたが、コピーを持ち帰るのは翌週になったため、この日、記事全文は配布していない。


以上、第8回 (2005年6月2日)。

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以下、第7回 (2005年5月26日)。



この間、入手した防長新聞の記事からつぎのものを示した。
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〔記事−1〕明治38年12月22日2面
「○吉井伯爵の一行 一昨日午前十時来山、湯田松田楼に投宿せる帝国水難救済会長伯爵吉井幸蔵氏は、村田同会幹事と共に仝日午後二時県庁を訪ひ、渡辺知事以下同会に関係せる人々に面会し、本県東南海岸一帯に水難救済所の新設を見るに至りしは本県の尽力容易ならざりしを謝し、尚ほ将来、長門北海岸にも同様設置さるゝに至らん事の希望を述べて帰宿し、当夜知事、林、依田の一四両部長、原保安係主査、湯浅同警部等を招きて晩餐を饗応されたり。因に同伯は貴族院開会の期迫りたるより他への巡回を止めて昨日正午出発、直に帰東の途につけり」

〔記事−2〕明治39年3月10日2面
「○水難救済会徳山組の役員選挙 同組は当分都濃郡内太華村字櫛ヶ浜、粭島〔すくもじま〕及徳山町の三カ所を管轄し居る事なるが、此程役員の選挙を行ひ、部長中村右一、組合長田島広吉、粭島組合長石丸安次郎、太華村浜田才吉、徳山高橋嘉助の諸氏と定まり、外に救助夫各組に八名宛を置く事となり、此程夫々本会より辞令書を交付せり。右に就き来る四月中旬を期し発会式を挙行すべき筈」

〔記事−3〕明治39年7月20日2面
「○水難救護会員募集奨励 大津郡西部各村に於ける同会員募集奨励は、前人〔ぜんびと〕丸垰〔まるだほ〕警察分署長警部長谷川和介氏が、三宅巡査部長を従へ、前月以来各村を巡回、頗る熱心之れが募集に勉め、其成績何れも良好にして特に向津具村大字川尻の如きは海事思想発達し、同地有力家は悉く此の事業を賛助するの情態なるが、長谷川署長他に転任以来、三宅部長は鋭意事に当りたる結果、同地に於いては千円以上の拠金を造りたる由。就中天野清太氏の如きは一百五十円拠出することに決定し其他村々にも続々申込者ある由」

〔記事−4〕明治39年7月27日2面
「○水難救済会義金募集成績 玖珂郡高森分署詰中村巡査部長は其管内へ出張し、水難救済会義金募集を為したるに、成績良好にて、予定配当額五千六百円に対し、最早半数以上の応募者あり。遠からず全部収納し得る見込みなりと」

〔記事−5〕明治39年8月21日2面
「○水難救済会委員副長会 既報の如く帝国水難救済会本県各郡委員副長会を県庁構内なる巡査教習所講堂に開き着席定るや、委員総長渡辺融〔とほる、県知事〕氏の事務上に関する一場の訓示ありたる後、依田事務官は告別の挨拶を為し、夫より一同は紀念〔ママ〕の為め県会議事堂傍に於て撮影せり」

〔記事−6〕明治39年12月13日3面
「○下関の赤十字社員勧誘 下関市役所に於ては、先般来各課とも赤十字社員勧誘に努め、毎週日曜の如きには、殆んど総出にて尽力する処ありしが、已に三百名に垂んとする〔なんなんとする〕の加盟者を得、尚進んで五百名に達せしめんと、目下頻りに勧誘中なりと云ふ」
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最後の〔記事−6〕は下関市役所職員が休日出勤をして日本赤十字社社員募集活動を行っているという内容である。前回紹介した水難救済会にとっての対照事例としての赤十字社の実態を示す。しかしこれは現在においても地方自治体と日本赤十字社の関係として、基本形は変化していない。『日本赤十字の素顔』(赤十字共同研究プロジェクト・著、2003年)第1章「町内会と日赤の奇妙な関係 --- あなたもわたくしも『日赤社員』?」に詳しい。

〔記事−5〕は、県知事が水難救済会の県の「委員総長」という名の責任者を務めていることを示す。

〔記事−3〕〔記事−4〕は、警察官が水難救済会に対する寄付「義金」の募集に従事していることがわかる。 

〔記事−2〕は、実働組織として沿岸地域で救難活動の携わる「救難組合」の役員選挙の記事である。内部的には、選挙で役職者を選んでいることがわかる。

〔記事−1〕は、救難所の新設などに際しては、本部と地元県庁・警察の協力で進められたことが読み取れる。

なお、第3週の末尾に示した三つの記事も参照のこと。救助夫長は本部からの任命であり、会員募集に尽力した警察官には本部から賞与が与えられたことがわかる。



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前週からの間の史料探索で得た最大のものは、山口県の地域関係者に向けた水難救済会当事者からの発言を見つけたことである。


「  ○海国的国民の大覚悟(十二)
    (廿一日県立師範学校に於ける演説の要旨)
  帝国水難救済会理事  海軍中将 肝付兼行君述
    第四章 水難救済機関の必要(上)
余は水難救済会創立以来事に参与し三十一年から各県を巡回しつゝあるが、本県の如きは成績の佳良なる全国第一に位し、割当額に達する亦近きにあらんとす。此上ながら県民諸氏の公徳心に訴へて本会事業の御賛同を望みます。我国に此水難救済会が起ましてから即ち二十二年から三十七年迄の各国統計がありますが、欧州にては白耳義は二十里にも足りない海岸を有して居るに過ぬが官有で、他は国民事業の方が多い。米国は政府事業で、欧州ては比較上英国が第一に発達し、其次が露国で全国に九百八十ヶ所ありて、英国では管船局の所轄に属するものが三百九十四ヶ所で私立のものが三百もある。民業の方は例の公徳心の高き国のことであるから、人民が志望すると其遺産を這般の公共的事業に惜気もなくポンポン寄付する。そこで一番多額に出して居るのは一人にして三万磅(六十万円)も出して居るのがある。我国の水難救済会事業の起源は故黒田伯爵が露西亜に使し、親しく仝国に於ける水難救護事業発達の情況を視察し大に感ずる処あり、明治二十二年帰来其創立を企画されたが、先づ最初には昔からの慣習があるから船神様と云ふ因縁から、讃岐の琴平社に崇敬社と云ふを設けて、船舶所有者其他から毎月三銭宛の寄付を募集し、是れが基礎となつて今日の水難救済会が出来たのである。それで創立明治三十二年より三十七年迄の統計に徴すると、其救済成績は救済度数が二千一百九十三度其中で西洋形船は二百九十三隻其噸数二万七千余噸日本形船は線八百五十二隻の多きに上り、救護人員が一万八百四十一人海から拾揚げた石炭とか何とか云ふ様な物の価額だけでも二百七十三万円にも達し、総体から救済された積荷の価額は四百六十二万円にも及で居る。是れに船舶の価額八百三十万円を加へたなれば、約千三百万円も空しく海底に沈む物を救ふて、貴重なる人命の一万三千八百四十七も救助した訳であるから、人道の上より観ると一方国家の富と云ふ典から考えても大に社会に貢献したもので、是で何程位金を要したかと云ふに僅々四十万円を使用したのみで、即ち四十万円の資本で金で買はれぬ一万三千八百四十七の人命と千三百万を利益した訳であり、此顕著なる国家経済から苟も公徳心ある物は是に向て十分の注意を払ふであらう。欧州から来る外国船はまず長崎に来りそれから神戸横浜と航行する。それに其視界に水難救済所の目標々燈なぞが多く見ゆると、成程日本人は公徳心に富で居る善い国ちゃ感心な国民じゃと安心して来航する。若し這般の設備が整頓せぬと日本人は公徳心が発達せぬ面白からぬ国危険なる海であると、自然に其感情が幾分か通商貿易の上に障礙を及ばす様なことになつて来る」
(防長新聞、明治39年5月6日2面)

一つめの下線。明治31年とは、第2週で示した年表によれば、逓信省からの補助金がでることになった翌年度である。法人格をもち、全国的な組織形成に取り組み始めた時点であろう。その時から、全国行脚を始めている。山口県は、会員へ応募、義金の醵出が全国上位であるという。

二つ目の下線。金刀比羅宮の信者団体は、救助活動の実行組織の基礎となったというよりも資金的な基礎を提供したことを、この記事のこの文言で初めて知った。

三つ目の下線。下関から神戸への瀬戸内航路は国際航路であるということがわかる。そこでの救助体制の整備が欧米との文明国としての立場の基礎になり、また、通商貿易の基礎となるとの認識が読み取れる。



「  ○海国的国民の大覚悟(十二)
    (廿一日県立師範学校に於ける演説の要旨)
  帝国水難救済会理事  海軍中将 肝付兼行君述
    第四章 水難救済機関の必要(下)
明治十八年のことであるが、米人「カシミル」以下九名の乗組みたる風帆船、琉球沖にて風波の難に遭遇して沈没したので、一同は一隻の短艇に身を委ねて食ふに食物無く干大根を齧りながら渺茫たる洋中を漂流し、其内五人は果敢なくも船内で死でしまい、四人だけ鹿児島県の種ヶ島に漂着した。其とき同嶋の住民が色々親切に労はり世話をして、其筋の手を経て夫々帰国の手続をしてやつた所が、是に就て米国民の感情を動かしたことは非常なもので、日本人は親切な者である感心ぢやと、終にサンフランシスコの某市会議員の如きは時の国会に建言して之に酬ゆるあらんことを請求した。而して其建議は一瀉千里の勢を以て怱談にして可決し、金貨五千円を種ヶ嶋村民に寄贈することになつて、外務省を経て送つて来た。それから其費途に就て種々研究の末、是を小学校の基本財産とすることゝなつて其由来を時の鹿児島県知事渡辺千秋氏が書ゐて碑文を建てた。其頃余も同嶋に立寄ることになつたので、其碑文を英訳し其写真を添へて、余が嘗て米国に在りて教育を受けた師匠に送つてやつたが、是が先方の雑誌に掲載されてあつた。日本には廃兵院のことは議会に可決され盲唖学校の如きも追々隆運に向ひつゝあるが、水難救済機関のことに対しては国民が頗る冷々淡々たるは洵とに痛恨事であるのに、県民諸子の熱誠なる本県に於て頗る好成績を得つゝあるは、余の深く感謝する処である。余が曾て矢張水難救済会の事で、秋田県羽後の象潟と云ふ処に行つて、午前中に用事を了り午後酒田まで五里の途を超ゆることにしたが、此間は随分道路険悪を以て有名な処であるから、二人曳の腕車を駆て出発した発する時は天気が頗る快晴であつたのに、所謂名月や北国日和定めなきで、東北地方程天気の変転定まり無き処は無い。途中驟かに暴風吹狂いて困難一方ならぬ。それを辛くも凌いで二里程行きて或る小阪の下迄達すると、車夫も終に辛抱仕切れなくなり、何程金を頂戴致しましても此時化では兎ても行かれませぬので是非此辺に宿泊て呉れろ、と頼むので、止む無く車夫に導かれて一軒の家に至つた。積雪の甚だしい国だけありて、家垂下も広く其処に車なぞも沢山置かれる様になつて居て、障子を明けて内に入て見ると広い中庭があつて、そこには見るも悸とする様な荒くれ男が数名、八月の炎天であるのに焚火をして暖まつて居る。八月に焚火をすさなぞ、是が即ち北国日和の定めなき処で、宛然此家は山賊の棲家としか思はれぬ。何だか小気味の悪い家だと思ひながら、主婦に導かれながら行くと、丁度其日が旧暦の盆で、仏壇で光明を点されて称名唱へて礼拝して居るものがある。仏信心をするからには真逆山賊の棲家でも有るまゐと、漸つとのことで安心して、我室に宛てられた長押付の八畳敷二間に寝すむことを得た。若し此時に余が仏壇を見なかつたなれば、到底も安心しては寝られなかつたであらう。救済会の事業は実に此仏壇である。是ありてこそ、内外幾多の船舶は心安けく航海することが出来るのではあるまいか。人道の上より又国家経済より打算しても、決して軽怱に付すべきものであるまゐ。以上余が説明したる趣旨を充分咀嚼して、此上にも国家の為め一層諸子の熱心なる同情を希望致します云々。(完)」
(防長新聞、明治39年5月9日2面)


水難救済会は、国家経済からの打算(戦略的な判断)から必要と判断される社会インフラであるとの認識が読み取れる。



以上、第7回 (2005年5月26日)。

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2005年07月25日

学期当初より5月21日(土)までの7週間は、土曜日夜間に夜間課程の1年次生相手の講義「人文社会入門」を持っていたため、山口市での史料探索は毎週日曜の日帰りとするほかなかった。5月28日(土)以降は、土曜・日曜の一泊二日での山口通いとなった。直前にどのような史料を読んだのかとその週の講義内容とは密接な関係がある。以下、示しておく。


5月1日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治38年6月〜8月
5月2日(月)、国立国会図書館、雑誌『海』(同館所蔵分全部を通覧)
5月8日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治38年9〜11月

第5回 (05/12) 〔視角の設定〕Michael A. Bellesiles『ARMING AMERICA』。/鈴木淳『町火消たちの近代:東京の消防史』『関東大震災:消防・医療・ボランティアから検証する』。/金指正三『近世海難救助制度の歴史』。

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5月15日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治38年12月〜39年6月中旬
5月17日(火)、神戸市立中央図書館にて、次の二冊を閲覧
     (1)『神戸水上警察百年の歩み』(神戸水上警察署水交会、1982年)
     (2)『海の赤十字』(帝国水難救済会、1928年)
     ↓
第6回 (05/19) 〔視角の設定〕海難救助の近代化、西洋基準との出会い。/日本赤十字社との対比。オリーブ・チェックランド『天皇と赤十字』。

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5月22日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治39年6月下旬〜40年2月上旬
     ↓
第7回 (05/26) 〔探索の拡大〕『防長新聞』の記事を読む。本部との関係、会員募集・義金募集に警察官が関わる、知事が委員総長。下関市で赤十字会員募集に市役所職員が関わる。肝付兼行「海国的国民の大覚悟」。

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5月28日(土)・29日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治41年3月まで終了
     ↓
第8回 (06/02) 〔探索の拡大〕丸尾救難所。公共団体の会員募集に警察官は関わるべからず(原内相)。武徳会、愛国婦人会、在郷軍人会の紹介。

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6月4日(土)・5日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治42年6月まで終える
     ↓
第9回 (06/09) 〔探索からまとめ〕記事「原内相大浦男の確執について 武徳会員募集の件」。水難救済会山口県支部発会式。

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6月11日(土)・12日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治43年12月まで終了
6月14日(火)、神戸市立中央図書館にて、次の二冊を閲覧
     (1)『海国日本』(帝国海事協会・大日本水産会、1916年)
     (2)『日本海軍エレクトロニクス秘史』(田丸直吉、1979年)
     ↓
第10回(06/16) 〔探索からまとめ〕明治42、43年の記事、日露戦争が歴史に。社説「寄附勧誘と官庁」。「旧式銃器の払下」(地域社会の武器所持と在郷軍人会)。私設消防組から公設消防組への改組。

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6月16日(木)、大阪府立中央図書館、『海事雑報』明治36〜38年(帝国海事協会機関誌)
6月18日(土)・19日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治32年2月〜6月<同年後半は欠>、33年1月〜34年3月まで見た
     ↓
第11回(06/23) 〔探索からまとめ〕賞与(水難救済会救助夫)→賞金(一般漁民の救助活動)→処罰(海難物品分捕り)。会員掖済会、帝国海事協会。海難救助の二つの意味。

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6月25日(土)・26日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治34年12月まで
     ↓
第12回(06/30) 〔視野を広く〕1904(明治35)年のいろいろな記事。「関門間海難減少策ニ関スル意見」。

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7月2日(土)・3日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治35年1〜12月
     ↓
第13回(07/07) 〔補足とまとめ〕主力戦艦の関門海峡通過。いままでのまとめ

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7月9日(土)・10日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治36年1〜5月
     ↓
第14回(07/14) 〔補足とまとめ〕当時の人々にとって海事とは---海員掖済会・水難救済会・海事協会の背景に在るもの、記事「早速丸の沈没」から考える。テストの予告


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以下、第6回(2005年5月19日)。



前回最後の事例。岩手県における英国船遭難と海難物掠奪について、関連する新聞記事を見つけた。これを見ると、遭難があった年代が1881年11月であり、塚原周造の回顧とは食い違う。他の史料にもあたり事実確定の必要があろう。
なお遭難地は「ひがしへいぐんおもえむら」と読み、現在の宮古市重茂である。
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○昨年の十一月英国の商船が一艘難風に出遇ひ岩手県下東閉伊郡重茂村の海岸へ漂着せしかば同県庁より官吏を差向け救助のうへ函館まで護送せしに、彼等は何と思ひしにや、其後横浜へ廻り岩手県の官吏は我等を海賊の如く取扱ひ、また村民共は手に手に船貨を掠め取りたりなど該領事へ訴へ出でしにぞ、此事を領事より我が外務省へ照会に成りしに付き、先頃同省より石橋大書記官とお雇英人ブロンの両氏を岩手県へ派遣せしめ事実を聞糺せしに、県官の申し立には、最初右船が重茂村へ漂着し乗組一同上陸して該地に滞留中其人々は何の為めか知らねども折々短銃を放つに、村民共は恐怖するゆえ宮古警察署より保護のため近傍へ巡査を配置せしを、彼は却つて我等を怪しむと思ひ錯りたる者ならん、又上陸の節船貨を掠め取りたり抔とは思ひも寄ぬ事にて、彼等が上陸すると間もなく船は覆没したり。殊に此際は言語も通ぜざるゆゑ県官は申すに及ばず郡吏等も彼此奔走して随分心配いたしたる儀に候との事なれば、石橋大書記官を初め是に関係の人々は一同重茂村へ出張して昨今村民をも取調べ且つ該船の沈没せし海浜を捜索し沈没の品物なども取調中の由、同地より通信。
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(読売新聞、1882(明治15)年3月11日、朝刊、3面)

記事のトーンからは、欧米船の遭難やそれにともなうトラブルに際したナショナリスティックな雰囲気を感じさせる。



また、同紙には、水難救済会組織前の自主的に地域で結成された救助組織の例が出ている。
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○大島海防組  福岡県下宗像郡大島は神湊の西北を距る凡そ六海里にして玄界洋中の一孤島なり。人民は概ね純朴にして甚だ愛すべきの風あり。然れども開進の度は同県下の最下等に位ゐし、男女を論ぜず都て裸体にして白昼路上を徘徊し恬として愧づるの色なく、其鄙野なる実に見るに忍びざるものあり。戸数は三百余にして打ち六七分は純粋なる漁戸より成立ち其他は農漁兼業の者なりと云ふ。夫は扨置き同島は日本海中の一難航路たる玄界洋中の一孤島なれば、年々歳々暴風波濤の時に際し難船の此に漂着するもの其数幾干なるを知らず。或ひは往々洋中の波間に漂ひ遂に海底の藻屑と化するものも亦少しとせず。去ば爾后斯る危急に方つて之を救助するの方策を予じめ設けざるべからずとて、今回同島の戸長吉村発典外数名の発企にて普く義捐金を募集し堅固なる規約を結びて題号の如き組合を設け此程県庁へ認可を出願せしとぞ。その組織は総員七十名を四組とし毎組に小頭二人、伍長四人、組員十五日とし、現に客月三十一日組合員一同が同村沖津宮前に整列して各自規約書に捺印し夫より一艘に十五人づゝ乗組み四艘の艀船にて競漕会を催したるよし
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(読売新聞、1887(明治20)年8月20日、朝刊、3面)

本講義で扱う山口県豊浦郡彦島村の近隣であり、状況も類似していたであろう。

なお、インターネット上のサイトしては、「沼津救難所(MRJ沼津)の歴史 沼津市我入道青年会」も、水難救済会結成以前の沿岸での海難救助組織の様相を窺わせる。



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帝国水難救済会を理解するための比較対照の素材として、日本赤十字社を取り上げた。水難救済会自体、自らを「海の赤十字」と呼んだように、理念や組織について先行する模範として考えていた。
現在の日本赤十字社のホームページから「赤十字を知る」のコーナーに入り、「創立」「沿革」⇒「明治」を示した。オリーヴ・チェックランド著『天皇と赤十字: 日本の人道主義100年』(2002年刊)を紹介した。



以上、第6回(2005年5月19日)。

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2005年07月24日

以下、第5回(2005年5月12日)。


先行研究の検討(その1)。
"ARMING AMERICA: THE ORIGINS OF A NATIONAL GUN CULTURE", Michael A. Bellesiles
ハードカバー版(2000年9月刊)
ペーパーバック版(2003年11月刊)
前回最後の塚本学さんからの引用の末尾に「太閤刀狩り以来、日本人には、自分で安全を守る習慣なしといった歴史像」という文言があった。日本の場合の「非武装社会日本の伝統」という神話と、「銃砲によって自衛してきたアメリカ人」という神話とは、形は逆だが、同じ種類の史実と違う歴史像が社会に共有されてしまっているという現象であろう。

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先行研究の検討(その2)
鈴木淳・著『町火消たちの近代----東京の消防史』(1999年11月刊)
鈴木淳・著『関東大震災---消防・医療・ボランティアから検証する』(2004年12月刊)

一つ目の『町火消たちの近代』のうち「全国消防組の模範」という節の冒頭(146〜147頁)につぎのように記されている。
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 明治二七年(一八九四)二月9日、勅令第一五合消防組規則が制定された。これは、府県知事が消防組を設置する場合の準拠法規であった。
 消防が警察行政の一環であることは、東京では川路利良の主張が受け入れられるかたちで、明治六年末から制度的に明示されていた。しかし、それ以外の地方では規定がなく、消防組は市町村の条例に準拠して、あるいはまったく私的に設けられていた。内務省は、これら従来の消防組をすべて廃止し、府県知事の警察権にもとづく官設の機関として消防組を設置することを命じた。これにより、基本的に市町村を単位としてその費用負担によりながら、府県の警察部が任免する人員からなり、警察署長が指揮監督する官設消防組が各地に設置された
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『防長新聞』に出てくる山口県の事例では、日露戦争前後に、私設消防組から公設消防組への転換が順次起こっている。なお「私設消防組」「公設消防組」という表現は防長新聞で一貫して用いられている。


二つ目の『関東大震災』では、第四節「大正の震災ボランティア」の末尾「ボランティアと統制」(219〜220頁)で、現在と当時の地域社会を対比している。
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 震災の記録に頻出する青年団・在郷軍人会という言葉は、ボランティアとは一件かけ離れている。しかし、それらの団体ではほとんどの場合、個人が活動に加わるか否、地域の小単位が何をするか、自分達で判断していた。また青年団という言葉は既成組織をさす場合のほか、避難所で青年団を作らせるという表現が見られるように、地域や避難民集団の中から自主的に救護作業に参加した若者たちを指す場合もあった。地域住民や町村有志の来援を含め、震災時には多くのボランティアが活躍したのである。そして、一部市街地の焼け残りも、早い時期からの医療や救護の一定の展開も彼らの活動に支えられていた。
 しかしボランティア的な活動は多くが、のちに自警団活動に収斂して行ったがゆえに、個々の善行とはなっても自主的な動きそのものとしては高く評価されにくかった。自主的なだけに事を好む人が主導権を握って事態を混乱させがちであったという反省は、官憲の統制を受けた活動が好ましいとの教訓を残した。また、その後に町内単位で取り組まれた配給品の運搬や配給活動は、区から割り当てられた物資を運ぶというまさに統制の下で働くことで初めて機能する活動であった。それゆえに、震災時のボランティアの活躍にもかかわらず、結果としては諸団体への指導の強化や行政の下請けの性格が強い町内会が生み出されたのである。
 災害に立ち向かう、無償で罹災者に力を貸すといった意識や行動は同じでも、時代背景の違いによって、それが次の時代に与えた影響は異なってくる。
 群馬県に象徴される来援ボランティアは、少なくとも初期に大きな貢献をしたが、その指揮や宿泊の面で問題があり、行政はこれを今後のあるべき形とは考えなかった。確かに市内山の手の青年団が日帰りで出頭してくれた方がはるかに合理的であるし、自警団現象さえなければそれは不可能ではなかった。さらに、指揮や宿泊の問題が緩和された時期になると、地域内の失業対策が優先されて無償奉仕は排除された。月給や年金による生活者が多い現代とは異なり、日給で就業する、あるいは中小経営で働く人が多く、職場の破壊や消失が時差なく失業に結びついたからである。
 現代の眼から見れば、震災時の人々の活動は、基本的に地縁集団である青年団、在郷軍人会、町内会、また家族や同僚、知己、出入先、郷里といった人々の縁に規定されていた。固い結束が可能だった地域が火を食い止める可能性を持ち、見舞いを兼ねた人の縁による救助や収容や救護が主流であった。
 地域外からの来援ボランティアの活躍が注目される現代ではやや違和感があるが、関東大震災と同様に大規模な災害が発生した場合にはやはり、被災地域内や直近の人々の活動に待たなくてはならないところが多い。この時代以上に地位のつながりが薄く、通勤距離が長い我々がどう動けるか、人間や社会の知恵が問われる。
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先行研究の検討(その3)。
金指正三(かなさししょうぞう)著『近世海難救助制度の研究』(1968年刊)

著作当時、海上保安大学校の教授だった著者による江戸時代の日本の海事法制の研究である。「序説」「一 研究の目的」はつぎのように書き出している。
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 わが国における現行の海難救助制度は、水難救護法およびその附属法・船員法・船舶安全法施行規則・海上保安庁法・商法および海難救助条約等の諸法令に基づき、一方において他人の利益を保護すべき義務に従って、海上における危険を積極的に克服すべきことを命じ、他方かかる義務なくして第三者が危険克服に寄与した場合、救助者に救助の報酬すなわち救助料請求権を認め、救助を奨励して海上交通の安全を期し、公益を計ると共に商業の便宜を増進することを目的とするものである。而して、この制度は、明治以降、明治政府が範を西欧に採り、西欧に発達した該法制を採り入れ、累次改廃の過程を経て現在に至ったのである。
 この制度の特色は、一面において道徳に根底をおくと共に、他面において救助を奨励する政策を加味していることである。これは、この制度が確立するまでに、次の如き変遷をたどったからである。すなわち、西欧においては古代から沿海住民に遭難物占取の慣行があり、中世には更に遭難物占取権なる観念が普遍化し、遭難物は挙げて海岸権所有者の取得に帰すると考えられていた。これに対して、教会はかかる慣行を禁止し、海商都市の海法は、占取権廃棄の規定を設けたが、その実効は見られなかった。しかるに、近世に至り国家がその権力をもって、遭難物占取を禁止すると共に、海難救助を義務とし、救助者に救助報酬請求権を与え、救助を奨励する積極的政策を採ったので、遭難物占取の慣行は消滅し、近代に至って現行制度が確立するに至ったからである。
 しかるに、かかる慣行はわが国においても古くからあり、これに対する政策も西欧におけると同様に、中世の遭難物占取禁止という消極的立場から、近世に至り救助を義務付け、これを奨励するという積極的立場に移り、わが国にはわが国固有の海難救助制度が発達し、明治におよんだのである。明治政府がその初め施行した「浦高札」による制度がそれである。前記の如く、明治政府は、このわが国固有の制度を数年にして廃止し、西欧に発達した制度を採用したが、遭難物占取の慣行はもはやほとんど廃滅し、その効果の見るべきものがあったのは、わが国民が江戸時代以来、この法制に慣らされ、その法の精神をよく理解していたからに外ならない。明治政府が採用した西欧のこの制度は、一六八一年のルイ十四世の「海事勅令」によって始まるといわれるが、それと同じ立法精神であり、制度として比較するも何ら遜色を見ないわが国固有制度はこれより早く一六二一年(元和七年)、江戸幕府によって創められたものであり、わが国海法発達史上、極めて重要視さるべきものである。
 ゆえに、この法制に関しては、学者によって早くから研究されていた。中田薫博士の「徳川時代ノ海法」(『法学協会雑誌』三二の三・四)、竹越与三郎氏の『日本経済史』(第八巻)、住田正一博士の『日本海事法』、生島広治郎博士の「徳川時代に於ける海難救助の建議希有」(『国民経済雑誌』三四の五、三五の二)等の論者はそれである。しかし、これらの諸研究においては、遠隔的研究がなされておらず、また、いずれも江戸幕府の法令を挙げたに止まり、諸藩の法令におよばず、津々の申合せ、郷村における漁民間の慣行等に至っては、これを説くものほとんど皆無といってよい。著者は深くこれを遺憾とし、海難救助に関する海事慣行とその法制の実施状態の究明に意を用い、江戸時代の海難救助制度の全貌を明らかにせんとした所以である。
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つぎのようなワープロ打ちのメモを配布。
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○国立国会図書館で帝国水難救済会機関誌『うみ』のバックナンバーを見る。
(1) 第1号(1900年7月)から第10号(1901年3月)は、海事思想の涵養を目的とする面と海難救済会の救難所設置の進展を報告する記事が見られる。
(2) 残念なことに、日露戦争中の分は残っていない。
(3) 第8年1号(1907年1月)〜第8年9号(1907年9月)は、寄付会員向けの色彩の強い雑誌となる。
(4) 第8年4号(1907年4月25日発行)に掲載された、塚原周造(帝国水難救済会理事、元・管船局長)の執筆した記事「水難救済事業」がおもしろい。
 明治以後も、外国船に対して分取りを働き、英国公使パークスが取締りを日本政府に求めたことがあった。その結果、明治11(1878)年、難破船漂流物取扱規則を定め、翌明治12(1879)年、米国政府よりの申し入れの結果、難破漂流民送致に関する条約を締結。

研究史上、金指正三著『近世海難救助制度の研究』(吉川弘文館、1968年)という著名な業績がある。この内容から近代海事史への展開について、研究状況を確認する必要。

○『九州日報』1904年6月5日号3面「軍隊と漁業隊の渡海」という記事を見ると、日韓協定によって「我漁業権確定」。香川、和歌山、鳥取、山口の各県では県庁が漁民に渡海操業を奨励することになった、という趣旨が書いてある。

○『防長新聞』1905年10月26日号2面
「○見島の望楼廃止 本県北海の一孤島たる阿武郡見島には、昨年日露開戦の後、望楼を設置せられたりしが、両国媾和の成立して平和克復の今日に於ては最早必要なきを以て、本月十九日限り全く之れを廃止せられ昨今其引揚げの準備中なり」
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二番目と三番目の記事は、手元にあった調査ノートから面白そうなものを書き抜いただけ。特に説明はしなかった。

塚原周造は分捕りの旧慣が明治になっても残り、それを廃絶し、近代海事法制を実現した自分の業績を協調する立場にある。金指正三さんは、ずっと後、日本近代を近世との連続性として捉える視角をもち得る時代から振り返っている。


『海』掲載の塚原周造執筆の記事に対応する記述が『塚原夢舟翁』(塚原周造氏海事関係五十年紀年祝賀会委員・編集発行、1925年刊)にある。第二章「在官時代(上)海事行政上の努力」四「海難救助に関する規則の制定並に条約の締結」(22〜23頁)である。近代海事にかかわった人々に共有された昔語りの一つであろう。この辺については、海事法制の近代化について、今回は深入りしないが、別途調査が必要な課題である。
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 明治十一年一英国船が岩手県下で遭難の際、其の地の貧民の為めに掠奪を蒙つたと云つて、英国公使パアクス氏が外務省に呶鳴り込んで来たことがあつた。外務当局は直ちに君の意見を徴して善後策を講じ、管船課雇英人ブラウン氏と外務大書記官石橋政方氏を遭難地に急行せしめ、地方警察と協力して実地を調査し、掠奪品を取り戻した上犯人は警察の処分に委し、遭難の英人には相当救護を加へて陸路横浜に送還し、英領事へ引渡したことがあつた。
 翌十二年になつて、難破救護の費用は日英両国とも相互に政府で立替へることゝし、英国の申出に依つて一の条約が締結されることになつたが、我難破救護の方法は英法に準拠したものであつたから、英国は早速我提案を認めたのであつた。事は小なりと雖も、我国が外国と対等条約を締結したのはそもそも此の協約が嚆矢である。次で明治十三年には米国とも英国と同様の条約が結ばれた。
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以上、第5回(2005年5月12日)。



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以下、第4回(2005年4月28日)。


学生から聞いたつぎのエピソードを導入とした。

ある関西の有力企業に就職した学生から、在学していた頃、聞き取った話しである。
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彼が、原付に乗った若い女性が四輪自動車と接触事故を起こした場面に出会った。その女性は、足を骨折したらしく立ち上がることが出来ない。自分で携帯電話を取り出し、警察に110番通報した。それを見ていた自動車の運転手の方がおろおろしてしまっている。
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この話しを聞いて、当時、わたくしはつぎのように思った。「現在われわれが持ち歩いている携帯電話は、明治時代の護身用のピストルと等価物(equivalent)である」。明治時代、辺鄙な土地に配達に出向く郵便配達夫はピストルを携帯した。また、当時の新聞には護身用のピストルの広告が堂々と掲載されている。一方現在は、情報化(交通と通信の発達)が進み、110番(警察)や119番(消防)、そしてさらに118番(海上保安庁)に連絡すれば、緊急自動車や船舶、ヘリコプターが直ぐに駆けつけてくれる。そういう時代にわれわれは暮らしている。一方、百年余り前を考えてみると、強盗が村に押し入っても、火災でも、海難でも、その場に居合わせた人々が自分たちの力で対処するほかなかった。治安維持、消防、自然災害、緊急医療などについてである。

とすれば、情報化の進展の裏面として「地域の自立性の漸次的低下」という側面があり、その両面を念頭において近代の地域社会は捉えねばならない。となるだろう。

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この発想の傍証として、『京都府警察史 第三巻』(京都府警察本部、1980年)622~625頁を配布し、提示した。

まず、制服警察官が拳銃を所持することになる戦後のプロセスが622~623頁に出ている。1946年1月、連合国軍最高司令部(GHQ)は警察官の拳銃所持拡大を容認する姿勢をとることとなった。

一方、624~625頁には「民間の武器回収(昭和の刀狩)」という項目があり、つぎのように記されている。
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 戦後の武装解除に引続き、連合国最高司令官一般命令第一号第十一項により民間所有の武器回収が行われた。戦後の刀狩りがそれである。けん銃、小銃を回収する事が主目的であったが、その適用範囲は刀剣、槍に至るまで拡大され回収が開始されたのは昭和二十年(一九四五)九月十五日からであった。ただし、美術の目的物と考えられる刀剣に関しては特例が認められるが、たとえ美術品であっても軍刀として試用さたものは対象外とされた。従って軍籍のない民間人の所持していた美術刀剣のみが回収をまぬがれることになったのである
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占領下において、民間の非武装化と制服警察官の拳銃携帯が同時に進行した。

民間に武器が所有されていた戦前社会において、通常はサーベルのみを佩用する警察官がその任に当たりえたのは、地域社会自体に治安維持機能が組み込まれて存在していたと考えるほかない。高度経済成長期までのニュースに「犯人が山に逃げ込んだので地元消防団の協力を得て、警察が捜索に当たっている」というタイプのものがあった。現在では警察機動隊が動員される任務に、地元の常設ボランティア組織たる「消防団」が補助警察力として動員されるということが戦後しばらくは残った。

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こうした視角・視点についての先行研究として、1927年生まれの二人の論者を紹介した。

一人目は、長谷川慶太郎さん。ふつうは評論家、エコノミストなどという肩書で出てくるが、防衛研修所の教官を務めていて、軍事・警察問題にも明るい。1987年3月刊の著作『日本の革命----世界の大国をめざす』(205~207頁)には、つぎのような記述がある。
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 日本の社会秩序の安定を確保する大きな要素は、国民にピストルなど銃器を所持させない制度である。密輸ピストルで武装した「アウトロー」の気ままで、わがままで、秩序を攪乱する行動に対しては、ピストルをもたない一般市民は、警察の力を借りる以外に対抗する手段を持ち合わせていない。
 米国のように、だれでも銃器の所持が許される憲法のある国では、「アウトロー」が地域社会の秩序を攪乱する行動に出た場合、地域住民自身が「武装」し、彼らの行動を抑制する。日本ではこうした「武装」を禁じられている以上、一般市民の「武装」に代替する機能を警察が果たす以外に「アウトロー」を押さえ込む方法が存在しない。この意味では、日本の警察は、社会の「公僕」としての機能を、他の先進国に比べていっそう強く持つこととなる。
 また、一般市民の「武装」を前提とした、自律的、自主的な秩序維持機能を、プロの警察が全面的に肩代わりしているからこそ、日本の国内の犯罪防止力は高いし、その高い検挙率を通じて、間接的に犯罪防止機能を強める一面もあることを見落としてはなるまい。
 市民がみずから「武装」する社会ては、当然のことながら、市民間の争いはすぐさま銃撃戦の形に発展する。
 〔略〕
 これから近未来の日本では、この市民「非武装」という社会制度がつづくものと考えてよく、また継続すべき制度のなかに含まれるにちがいない。
 戦後の日本がとった国ベースでの「軍事小国路線」は、戦前よりも密接に市民の「非武装」と強く結びついている。
 戦前は予備役にあった軍人がピストル、軍刀を保持することは義務とされ、また明治維新以前武士だった家系には、刀槍がかならずといってよいほど残されていた。戦後の日本の社会は、こうした個人所蔵の「武器」をまず占領軍が、ついで警察が徹底して回収した。このため、保有を許された刀槍は美術的な価値を持つものに限定され、いっそう市民の「非武装」化が定着した。
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(引用中の下線は引用者が付した)


もう一つ、2001年4月刊『デフレ時代の成功法則』「第5章 特殊法人改革なしに日本経済の復活はない」(169~170頁)において、特定郵便局長会を郵政民営化によって解体されざるをえない自民党の地盤として紹介した後につづいてつぎのように記述している。
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 似た組織に、地方の消防団がある。
 地方自治体の消防署の現場組織として、今でも村々の消防活動を実際に担当している。すべての集落ごとに分団が置かれ、ポンプ小屋が作られていて、成人になると、全員が加入させられる。季節ごとにちゃんと消防訓練もやっている。
 戦前は、その組織にさらに軍隊帰りの在郷軍人会が重なっていた。
 そういうものが保守の地盤だった。
 戦後は、まず在郷軍人会がなくなり、代わって一時期は遺族会が盛んだったが、それも衰え、減反で農協の力が弱くなり、また公共事業費の削減と建設不況で、一時期乱立して盛大だった、村の土建屋にも金がなくなった。
 そうなると、全国の村ごとに組織を持っている特定郵便局長会というのは、自民党に残された数少ない全国的な地盤ということになる。
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(引用文中の下線は引用者による)


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二人目は、近世史家の塚本学さん。1993年刊『小さな歴史と大きな歴史』の冒頭近く「二 近世史で考えなおしたいこと」(6~8頁)に、つぎのような記述がある。
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 よく知られているように、近世の体制では、武士身分の者は、一般に城下町に集住した。ある村で、集団強盗におそわれるという事件があったとする。そのとき武士身分の武力が、治安維持機能を果すことは、まず不可能である。電話もパトカーもない時代なのだ。当時いちばんの機動力、騎馬軍団が駆けつけても、到着の際にはすでに強盗群は立去ってはるか後であろう。だいたい、城下町の武士が、常時、いざことあれば騎馬軍団を編成して出動できるような用意をしていたか。そもそもそうした考え方もとられなかったであろう。お城の出火は、主君の九だから駆けつけるにしても、人民の生命財産の危険を、それほどの緊急事とはみなさない。理屈の上からすると、人民の生命財産は、主君が役義をつとめる上での貴重な財だから、これを守ることも必要のはずだが、実際には武士の、そうした意味での「護民」「安民」機能は、さほどはたらかないのである。そこまで及ばなかったのではない。はじめからそのつもりではなかったというべきだろう。
 村の治安維持機能を担当したのは、一般には村自体であり、幕府や藩の支配も、それを前提として成立していた。幕府や藩の法は、一般に、そのような集団強盗に対して、村民が共同で対処すべきことを命じている。十七世紀信濃の、松本・上田等諸藩の法では、そうした場合に賊を殺害することをも認めており、松本藩法の場合は、その趣旨が最後までかわらない。そのような例が、どの程度ひろく存在するかについては、今後のしらべが必要であるが、武士の武力が有効でない以上、武力をもった賊に対して、村民自身の武力行使をなにがしかの程度認める、むしろ求めるのは一般的であって当然といえよう。
 集団強盗に対するのと同じことが、耕地や人畜をおびやかす野獣に対する場合にもいえる。江戸時代の多くの山村では、猪や鹿・狼などに対して鉄砲をもつ村民がかなりたくさん存在したし、幕法もこれを認めていた。これも武士の武力で対処できる相手ではない。もっとも鉄砲の使用についての規制は当然存在したし、とくに集団強盗の類に対する武力として鉄砲を利用させることは、例外的にしかないといえる。ヒトを殺傷する用途だけに純化した道具を武器とよぶなら、江戸時代の農山漁村に原則的に武器は存在しなかったという通説的理解に、異議をとなえる余地はなかろう。けれども、武力は、そのような意味での武器を不可欠とするものではない。鍬やてんぴん棒のような道具も、場面と使い手によっては、名刀以上にヒトを殺傷するのに有効である。石ころやときには素手も、ときには十分に戦う手段となり得よう。なによりも戦う意志をもつひとびとの結集が、外敵に対して有効な武力である。
 武士が集住した城下町でも、武士の武力が治安維持機能を果したとは必ずしもいえない。十八世紀末、寛政初年に江戸の町に集団強盗が横行したとき、被害は実は武家邸に大きく、町人の町では、町民が共同で声をかけあうことでこれを撃退した例が少なくなかった。そうした例は、武力というものについて考えさせるだけでなく、江戸時代の体制自体にも、そしていうならば近世という時代に限定されない問題についても、再考を求めるものになる。
 江戸時代が終って半世紀余もたった時点の例だが、関東大震災にあたって、多くの朝鮮人を殺傷したのが、右のような村の武力であったことにも、目をそむけるわけにはいかない。一面で、戦前・戦中の男たちの多くは、夜、痴漢が出没するなどという噂を聞けば、枕元にステッキをおいて寝、悲鳴を聞いたら飛び出ようとしていた。現代の団地住宅での痴漢問題で、住民の自発的な組織が生まれる場合もあるが、警察官による各家への取締りだけを求める声が出ることもある。後者の思考法は、また通勤電車内での暴力等にも見てみぬふりをするひとびとに通じる。そして、太閤刀狩り以来、日本人には、自分で安全を守る習慣なしといった歴史像が、そうした思考法と通じあう役割をももつ」
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長谷川さんは戦後・現代の日本から戦前の日本に遡り、塚本さんは江戸時代の日本から明治維新以後の時代を望んでいる。それは、先の塚本さんからの引用の直前に、つぎのように叙述されている時代であった。

「帝国憲法下では、村々に駐在のお巡りさんがいた。村民のささいなバクチなどを取り締まりもしたし、村に盗賊が入りでもしたら頼りにされる存在でもあった。地主には頼られ、小作人には警戒され、ないし恐れられるという面もあった」

この講義では、沿海地域の村々における海難救助組織から、この時代を見て行くことになる。



以上、第4回(2005年4月28日)。

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2005年07月23日

既に14週の授業を終えた後で、その内容を当ブログに書いている。7月7日、第13週に配布したプリントにはつぎのように毎回の大まかな内容を記した。

第1回から第3回は「日露戦争と水難救済会」について初歩的な史料を確認した段階。
第3回から第6回は、授業開始以前に先行研究として関連が念頭にあったものを紹介するとともに、史料調査のなかから見つけた新たなデータや視角を紹介した時期。
第7回以降は、山口県の県紙『防長新聞』を精査するなかで、関連する場面や事項を一つ一つ拡大して行った時期。

即ち、以下の通り。
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第1回 (04/07) 〔導入〕「日露戦争」and「水難救済会」で検索した三つの読売新聞の記事。
第2回 (04/14) 〔予備調査〕インターネット、年表、『帝国水難救済会五十年史』「救難所配置図」「救難所発達史」。
第3回 (04/21) 〔予備調査〕五万分の一地形図「小倉」、『帝国水難救済会五十年史』日露戦争中の記述。
第4回 (04/28) 〔視角の設定〕地域社会の武力、秩序力、自立性の観点。現代から振り返る長谷川慶太郎、近世史研究から近代を見る塚本学『小さな歴史と大きな歴史』。
第5回 (05/12) 〔視角の設定〕Michael A. Bellesiles『ARMING AMERICA』。/鈴木淳『町火消たちの近代:東京の消防史』『関東大震災:消防・医療・ボランティアから検証する』。/金指正三『近世海難救助制度の歴史』。
第6回 (05/19) 〔視角の設定〕海難救助の近代化、西洋基準との出会い。/日本赤十字社との対比。オリーブ・チェックランド『天皇と赤十字』。
第7回 (05/26) 〔探索の拡大〕『防長新聞』の記事を読む。本部との関係、会員募集・義金募集に警察官が関わる、知事が委員総長。下関市で赤十字会員募集に市役所職員が関わる。肝付兼行「海国的国民の大覚悟」。
第8回 (06/02) 〔探索の拡大〕丸尾崎救難所。公共団体の会員募集に警察官は関わるべからず(原内相)。武徳会、愛国婦人会、在郷軍人会の紹介。
第9回 (06/09) 〔探索からまとめ〕記事「原内相大浦男の確執について 武徳会員募集の件」。水難救済会山口県支部発会式。
第10回(06/16) 〔探索からまとめ〕明治42、43年の記事、日露戦争が歴史に。社説「寄附勧誘と官庁」。「旧式銃器の払下」(地域社会の武器所持と在郷軍人会)。私設消防組から公設消防組への改組。
第11回(06/23) 〔探索からまとめ〕賞与(水難救済会救助夫)→賞金(一般漁民の救助活動)→処罰(海難物品分捕り)。海員掖済会、帝国海事協会。海難救助の二つの意味。
第12回(06/30) 〔視野を広く〕1904(明治35)年のいろいろな記事。「関門間海難減少策ニ関スル意見」。
第13回(07/07) 〔補足とまとめ〕主力戦艦の関門海峡通過。いままでのまとめ。
第14回(07/14) テストの予告
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上記プリントを配布した時には、まだ第14回はやっていない。実は、地域住民にとって「海事」とはどのようなイメージのもので、それゆえに、寄付金を払うなど参加に値する対象であったのかに気づかせてくれる史料を見つけて紹介することで最終回とした。

わたくしは最初
(1) 地域史を日露戦争という断面で切ってみるという関心から水難救済会に接近した
つぎに、
(2) 日本赤十字社や愛国婦人会などの愛国的Charity Organizationの一つとしての水難救済会の側面を見た
そして最後に、
(3) 水難救済会というテーマを通じて史料をたぐることで、海事という領域に導かれていたことに気づいた

この辺の事情を説明するつもりで、以下、授業の概要を記して行きたい。

rshibasaki at 20:21コメント(0)トラックバック(0)「海難救助ボランティアの日露戦争」工・歴史学2005 

2005年07月16日

「○武徳会員の応募者  阿武郡萩警察署管内に於ては、巡査部長吉安源太郎氏巡回の都度、各部落或は最寄りの場所へ町村民中中流以上の有志者を会し、熱心以て直接に武徳会設立の趣旨理由来歴目的等を縷々懇話して、大に会員の募集に尽力したりしが、即席応募する者尠なからず。已に会費収納済みの通常会員六百七十八名の多きに達し、尚外に昨今申込み中のものも三百五六十名ありて、就中最も感ずべきは萩町大字熊谷町小川亀吉及び山田村字玉江浦原田三介の両名にして、一時金五円宛を納め特別会員となりたりと云ふ」
(防長新聞、明治32年4月7日2面3段)

「○武徳会山口県支部の設置  此程の本紙に記載したる武徳会山口県支部設置の事は、本会との交渉纏り愈々設置することに確定せり。右に付、河島保安課長は支部旗請求のため明日より京都へ出張の筈」
(防長新聞、明治35年5月1日2面5段)

「○武徳会支部旗の着山  武徳会に於て山口県支部に対してその支部旗を授与する事となり居れば、それが為め一昨日河島保安課長は京都なる本部に出張、直ちに支部旗の授与を受け帰山の途に着きたるが、多分昨日午後四時頃に帰山する筈なるより、県庁よりは新道附近、湯田派出所は湯田町端[まちはずれ]、小郡警察署は小郡停車場へ出迎をなせり」
(防長新聞、明治35年5月10日2面2段)

「○大日本武徳会支部発会式  前号の紙上に掲載せしが如く河島保安課長は京都に出張して大日本武徳会支部旗を受領し、一昨日午後三時小郡駅に着するや、同地の警察署員は盛んに之れを出迎へ、山口警察署員は湯田町に出迎へ、県庁に到着せしは午後六時頃なりしが、庁員も当日は特に居残りて門前まで出迎へ夫れより警察部に奉置せり。而して支部発会式は来六月上旬に挙行する予定にて、其の準備に着手し居れり」
(防長新聞、明治35年5月11日2面2段)

「○武徳会山口県支部設置に就て  今回武徳会本県支部設置に就ては来る六月中に其発会式を挙げん予定なるが、発会式挙行までには現在会員一万七千余名の外更らに二万人の会員を募集する筈にて、武田本県知事は郡市町村会議員等へ其の依頼状を発送せり。何れ遠からざるうちには小松総裁宮殿下より委員の嘱托あるべく、支部拡張の上は撃剣射的大弓等の演武場をも設置せん計画なりと云ふ。同会に於て設けたる武術家優遇例は左の如し。
   武術家優遇例
第一条 本会の武術家優遇の趣旨を明かにせん
 が為め左の各項の資格を具備する者に就き詮
 衡委員会の推薦に依り総裁殿下の御裁可を経
 て範士、教士の称号を授与す
  範士の称号を授くべき者の資格
 一 斯道の模範となり兼て本会の為め功労ある者
 二 丁年に達したる後四十年以上武術を鍛練したる者
 三 教士の称号を有する者
  教士の称号を授くべき者の資格
 一 品行方正にして本会より精錬証を受けたる者
 二 武徳大会に於て武術を演じたる者
第二条 詮衡委員は会長之を推薦す
第三条 範士の数は各武術を通して三十人を超
 るを得す
第四条 範士教士の称号には其術の名称を冠す
第五条 範士には終身弐拾五円以内の年金を贈
 与す
第六条 本会の教授は範士、教士の称号を有す
 る者より之を招聘す
第七条 範士、教士にして其栄誉を汚辱するの
 行為ありたるときは詮衡委員会の決議に依り
 其称号を褫奪す
第八条 本例施行細則は会長之を定む      」
(防長新聞、明治35年5月14日2面2〜3段)

「○武徳会地方委員(柳井)  柳井地方は旧来武術盛にして武徳会員の如きも非常に多き由なるが、本県支部長武田千代三郎氏は、同地の剣客東剣岩太郎、盛川才次郎、星出善平の三氏に、武徳会山口県地方委員を嘱托せしより、目下会員募集中なりと」
(防長新聞、明治35年5月30日2面3〜4段)

「○武徳会地方委員の嘱托  這回阿武郡彌富村松井賢介、豊田吉太郎、小川村須郷要介、原庄之助の四氏は、武徳会山口県支部長より地方委員を嘱托せられたり」
(防長新聞、明治35年6月3日2面2段)

「○武徳会の加入者  武徳会員募集中の処、山口、宮野、大内、小鯖、平川、吉敷、上下両宇野令の一町七ヶ村に於て入会したる者約二千名ありと云ふ」
(防長新聞、明治35年11月8日2面4段)


[参照] 『山口縣剣道史』山口県剣道史編集委員会・編集、財団法人山口県剣道連盟・発行、2004年10月、p.112〜133。



rshibasaki at 13:31コメント(0)トラックバック(0)<山口県の諸団体> 
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