2005年07月24日

以下、第5回(2005年5月12日)。


先行研究の検討(その1)。
"ARMING AMERICA: THE ORIGINS OF A NATIONAL GUN CULTURE", Michael A. Bellesiles
ハードカバー版(2000年9月刊)
ペーパーバック版(2003年11月刊)
前回最後の塚本学さんからの引用の末尾に「太閤刀狩り以来、日本人には、自分で安全を守る習慣なしといった歴史像」という文言があった。日本の場合の「非武装社会日本の伝統」という神話と、「銃砲によって自衛してきたアメリカ人」という神話とは、形は逆だが、同じ種類の史実と違う歴史像が社会に共有されてしまっているという現象であろう。

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先行研究の検討(その2)
鈴木淳・著『町火消たちの近代----東京の消防史』(1999年11月刊)
鈴木淳・著『関東大震災---消防・医療・ボランティアから検証する』(2004年12月刊)

一つ目の『町火消たちの近代』のうち「全国消防組の模範」という節の冒頭(146〜147頁)につぎのように記されている。
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 明治二七年(一八九四)二月9日、勅令第一五合消防組規則が制定された。これは、府県知事が消防組を設置する場合の準拠法規であった。
 消防が警察行政の一環であることは、東京では川路利良の主張が受け入れられるかたちで、明治六年末から制度的に明示されていた。しかし、それ以外の地方では規定がなく、消防組は市町村の条例に準拠して、あるいはまったく私的に設けられていた。内務省は、これら従来の消防組をすべて廃止し、府県知事の警察権にもとづく官設の機関として消防組を設置することを命じた。これにより、基本的に市町村を単位としてその費用負担によりながら、府県の警察部が任免する人員からなり、警察署長が指揮監督する官設消防組が各地に設置された
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『防長新聞』に出てくる山口県の事例では、日露戦争前後に、私設消防組から公設消防組への転換が順次起こっている。なお「私設消防組」「公設消防組」という表現は防長新聞で一貫して用いられている。


二つ目の『関東大震災』では、第四節「大正の震災ボランティア」の末尾「ボランティアと統制」(219〜220頁)で、現在と当時の地域社会を対比している。
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 震災の記録に頻出する青年団・在郷軍人会という言葉は、ボランティアとは一件かけ離れている。しかし、それらの団体ではほとんどの場合、個人が活動に加わるか否、地域の小単位が何をするか、自分達で判断していた。また青年団という言葉は既成組織をさす場合のほか、避難所で青年団を作らせるという表現が見られるように、地域や避難民集団の中から自主的に救護作業に参加した若者たちを指す場合もあった。地域住民や町村有志の来援を含め、震災時には多くのボランティアが活躍したのである。そして、一部市街地の焼け残りも、早い時期からの医療や救護の一定の展開も彼らの活動に支えられていた。
 しかしボランティア的な活動は多くが、のちに自警団活動に収斂して行ったがゆえに、個々の善行とはなっても自主的な動きそのものとしては高く評価されにくかった。自主的なだけに事を好む人が主導権を握って事態を混乱させがちであったという反省は、官憲の統制を受けた活動が好ましいとの教訓を残した。また、その後に町内単位で取り組まれた配給品の運搬や配給活動は、区から割り当てられた物資を運ぶというまさに統制の下で働くことで初めて機能する活動であった。それゆえに、震災時のボランティアの活躍にもかかわらず、結果としては諸団体への指導の強化や行政の下請けの性格が強い町内会が生み出されたのである。
 災害に立ち向かう、無償で罹災者に力を貸すといった意識や行動は同じでも、時代背景の違いによって、それが次の時代に与えた影響は異なってくる。
 群馬県に象徴される来援ボランティアは、少なくとも初期に大きな貢献をしたが、その指揮や宿泊の面で問題があり、行政はこれを今後のあるべき形とは考えなかった。確かに市内山の手の青年団が日帰りで出頭してくれた方がはるかに合理的であるし、自警団現象さえなければそれは不可能ではなかった。さらに、指揮や宿泊の問題が緩和された時期になると、地域内の失業対策が優先されて無償奉仕は排除された。月給や年金による生活者が多い現代とは異なり、日給で就業する、あるいは中小経営で働く人が多く、職場の破壊や消失が時差なく失業に結びついたからである。
 現代の眼から見れば、震災時の人々の活動は、基本的に地縁集団である青年団、在郷軍人会、町内会、また家族や同僚、知己、出入先、郷里といった人々の縁に規定されていた。固い結束が可能だった地域が火を食い止める可能性を持ち、見舞いを兼ねた人の縁による救助や収容や救護が主流であった。
 地域外からの来援ボランティアの活躍が注目される現代ではやや違和感があるが、関東大震災と同様に大規模な災害が発生した場合にはやはり、被災地域内や直近の人々の活動に待たなくてはならないところが多い。この時代以上に地位のつながりが薄く、通勤距離が長い我々がどう動けるか、人間や社会の知恵が問われる。
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先行研究の検討(その3)。
金指正三(かなさししょうぞう)著『近世海難救助制度の研究』(1968年刊)

著作当時、海上保安大学校の教授だった著者による江戸時代の日本の海事法制の研究である。「序説」「一 研究の目的」はつぎのように書き出している。
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 わが国における現行の海難救助制度は、水難救護法およびその附属法・船員法・船舶安全法施行規則・海上保安庁法・商法および海難救助条約等の諸法令に基づき、一方において他人の利益を保護すべき義務に従って、海上における危険を積極的に克服すべきことを命じ、他方かかる義務なくして第三者が危険克服に寄与した場合、救助者に救助の報酬すなわち救助料請求権を認め、救助を奨励して海上交通の安全を期し、公益を計ると共に商業の便宜を増進することを目的とするものである。而して、この制度は、明治以降、明治政府が範を西欧に採り、西欧に発達した該法制を採り入れ、累次改廃の過程を経て現在に至ったのである。
 この制度の特色は、一面において道徳に根底をおくと共に、他面において救助を奨励する政策を加味していることである。これは、この制度が確立するまでに、次の如き変遷をたどったからである。すなわち、西欧においては古代から沿海住民に遭難物占取の慣行があり、中世には更に遭難物占取権なる観念が普遍化し、遭難物は挙げて海岸権所有者の取得に帰すると考えられていた。これに対して、教会はかかる慣行を禁止し、海商都市の海法は、占取権廃棄の規定を設けたが、その実効は見られなかった。しかるに、近世に至り国家がその権力をもって、遭難物占取を禁止すると共に、海難救助を義務とし、救助者に救助報酬請求権を与え、救助を奨励する積極的政策を採ったので、遭難物占取の慣行は消滅し、近代に至って現行制度が確立するに至ったからである。
 しかるに、かかる慣行はわが国においても古くからあり、これに対する政策も西欧におけると同様に、中世の遭難物占取禁止という消極的立場から、近世に至り救助を義務付け、これを奨励するという積極的立場に移り、わが国にはわが国固有の海難救助制度が発達し、明治におよんだのである。明治政府がその初め施行した「浦高札」による制度がそれである。前記の如く、明治政府は、このわが国固有の制度を数年にして廃止し、西欧に発達した制度を採用したが、遭難物占取の慣行はもはやほとんど廃滅し、その効果の見るべきものがあったのは、わが国民が江戸時代以来、この法制に慣らされ、その法の精神をよく理解していたからに外ならない。明治政府が採用した西欧のこの制度は、一六八一年のルイ十四世の「海事勅令」によって始まるといわれるが、それと同じ立法精神であり、制度として比較するも何ら遜色を見ないわが国固有制度はこれより早く一六二一年(元和七年)、江戸幕府によって創められたものであり、わが国海法発達史上、極めて重要視さるべきものである。
 ゆえに、この法制に関しては、学者によって早くから研究されていた。中田薫博士の「徳川時代ノ海法」(『法学協会雑誌』三二の三・四)、竹越与三郎氏の『日本経済史』(第八巻)、住田正一博士の『日本海事法』、生島広治郎博士の「徳川時代に於ける海難救助の建議希有」(『国民経済雑誌』三四の五、三五の二)等の論者はそれである。しかし、これらの諸研究においては、遠隔的研究がなされておらず、また、いずれも江戸幕府の法令を挙げたに止まり、諸藩の法令におよばず、津々の申合せ、郷村における漁民間の慣行等に至っては、これを説くものほとんど皆無といってよい。著者は深くこれを遺憾とし、海難救助に関する海事慣行とその法制の実施状態の究明に意を用い、江戸時代の海難救助制度の全貌を明らかにせんとした所以である。
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つぎのようなワープロ打ちのメモを配布。
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○国立国会図書館で帝国水難救済会機関誌『うみ』のバックナンバーを見る。
(1) 第1号(1900年7月)から第10号(1901年3月)は、海事思想の涵養を目的とする面と海難救済会の救難所設置の進展を報告する記事が見られる。
(2) 残念なことに、日露戦争中の分は残っていない。
(3) 第8年1号(1907年1月)〜第8年9号(1907年9月)は、寄付会員向けの色彩の強い雑誌となる。
(4) 第8年4号(1907年4月25日発行)に掲載された、塚原周造(帝国水難救済会理事、元・管船局長)の執筆した記事「水難救済事業」がおもしろい。
 明治以後も、外国船に対して分取りを働き、英国公使パークスが取締りを日本政府に求めたことがあった。その結果、明治11(1878)年、難破船漂流物取扱規則を定め、翌明治12(1879)年、米国政府よりの申し入れの結果、難破漂流民送致に関する条約を締結。

研究史上、金指正三著『近世海難救助制度の研究』(吉川弘文館、1968年)という著名な業績がある。この内容から近代海事史への展開について、研究状況を確認する必要。

○『九州日報』1904年6月5日号3面「軍隊と漁業隊の渡海」という記事を見ると、日韓協定によって「我漁業権確定」。香川、和歌山、鳥取、山口の各県では県庁が漁民に渡海操業を奨励することになった、という趣旨が書いてある。

○『防長新聞』1905年10月26日号2面
「○見島の望楼廃止 本県北海の一孤島たる阿武郡見島には、昨年日露開戦の後、望楼を設置せられたりしが、両国媾和の成立して平和克復の今日に於ては最早必要なきを以て、本月十九日限り全く之れを廃止せられ昨今其引揚げの準備中なり」
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二番目と三番目の記事は、手元にあった調査ノートから面白そうなものを書き抜いただけ。特に説明はしなかった。

塚原周造は分捕りの旧慣が明治になっても残り、それを廃絶し、近代海事法制を実現した自分の業績を協調する立場にある。金指正三さんは、ずっと後、日本近代を近世との連続性として捉える視角をもち得る時代から振り返っている。


『海』掲載の塚原周造執筆の記事に対応する記述が『塚原夢舟翁』(塚原周造氏海事関係五十年紀年祝賀会委員・編集発行、1925年刊)にある。第二章「在官時代(上)海事行政上の努力」四「海難救助に関する規則の制定並に条約の締結」(22〜23頁)である。近代海事にかかわった人々に共有された昔語りの一つであろう。この辺については、海事法制の近代化について、今回は深入りしないが、別途調査が必要な課題である。
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 明治十一年一英国船が岩手県下で遭難の際、其の地の貧民の為めに掠奪を蒙つたと云つて、英国公使パアクス氏が外務省に呶鳴り込んで来たことがあつた。外務当局は直ちに君の意見を徴して善後策を講じ、管船課雇英人ブラウン氏と外務大書記官石橋政方氏を遭難地に急行せしめ、地方警察と協力して実地を調査し、掠奪品を取り戻した上犯人は警察の処分に委し、遭難の英人には相当救護を加へて陸路横浜に送還し、英領事へ引渡したことがあつた。
 翌十二年になつて、難破救護の費用は日英両国とも相互に政府で立替へることゝし、英国の申出に依つて一の条約が締結されることになつたが、我難破救護の方法は英法に準拠したものであつたから、英国は早速我提案を認めたのであつた。事は小なりと雖も、我国が外国と対等条約を締結したのはそもそも此の協約が嚆矢である。次で明治十三年には米国とも英国と同様の条約が結ばれた。
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以上、第5回(2005年5月12日)。



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以下、第4回(2005年4月28日)。


学生から聞いたつぎのエピソードを導入とした。

ある関西の有力企業に就職した学生から、在学していた頃、聞き取った話しである。
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彼が、原付に乗った若い女性が四輪自動車と接触事故を起こした場面に出会った。その女性は、足を骨折したらしく立ち上がることが出来ない。自分で携帯電話を取り出し、警察に110番通報した。それを見ていた自動車の運転手の方がおろおろしてしまっている。
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この話しを聞いて、当時、わたくしはつぎのように思った。「現在われわれが持ち歩いている携帯電話は、明治時代の護身用のピストルと等価物(equivalent)である」。明治時代、辺鄙な土地に配達に出向く郵便配達夫はピストルを携帯した。また、当時の新聞には護身用のピストルの広告が堂々と掲載されている。一方現在は、情報化(交通と通信の発達)が進み、110番(警察)や119番(消防)、そしてさらに118番(海上保安庁)に連絡すれば、緊急自動車や船舶、ヘリコプターが直ぐに駆けつけてくれる。そういう時代にわれわれは暮らしている。一方、百年余り前を考えてみると、強盗が村に押し入っても、火災でも、海難でも、その場に居合わせた人々が自分たちの力で対処するほかなかった。治安維持、消防、自然災害、緊急医療などについてである。

とすれば、情報化の進展の裏面として「地域の自立性の漸次的低下」という側面があり、その両面を念頭において近代の地域社会は捉えねばならない。となるだろう。

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この発想の傍証として、『京都府警察史 第三巻』(京都府警察本部、1980年)622~625頁を配布し、提示した。

まず、制服警察官が拳銃を所持することになる戦後のプロセスが622~623頁に出ている。1946年1月、連合国軍最高司令部(GHQ)は警察官の拳銃所持拡大を容認する姿勢をとることとなった。

一方、624~625頁には「民間の武器回収(昭和の刀狩)」という項目があり、つぎのように記されている。
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 戦後の武装解除に引続き、連合国最高司令官一般命令第一号第十一項により民間所有の武器回収が行われた。戦後の刀狩りがそれである。けん銃、小銃を回収する事が主目的であったが、その適用範囲は刀剣、槍に至るまで拡大され回収が開始されたのは昭和二十年(一九四五)九月十五日からであった。ただし、美術の目的物と考えられる刀剣に関しては特例が認められるが、たとえ美術品であっても軍刀として試用さたものは対象外とされた。従って軍籍のない民間人の所持していた美術刀剣のみが回収をまぬがれることになったのである
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占領下において、民間の非武装化と制服警察官の拳銃携帯が同時に進行した。

民間に武器が所有されていた戦前社会において、通常はサーベルのみを佩用する警察官がその任に当たりえたのは、地域社会自体に治安維持機能が組み込まれて存在していたと考えるほかない。高度経済成長期までのニュースに「犯人が山に逃げ込んだので地元消防団の協力を得て、警察が捜索に当たっている」というタイプのものがあった。現在では警察機動隊が動員される任務に、地元の常設ボランティア組織たる「消防団」が補助警察力として動員されるということが戦後しばらくは残った。

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こうした視角・視点についての先行研究として、1927年生まれの二人の論者を紹介した。

一人目は、長谷川慶太郎さん。ふつうは評論家、エコノミストなどという肩書で出てくるが、防衛研修所の教官を務めていて、軍事・警察問題にも明るい。1987年3月刊の著作『日本の革命----世界の大国をめざす』(205~207頁)には、つぎのような記述がある。
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 日本の社会秩序の安定を確保する大きな要素は、国民にピストルなど銃器を所持させない制度である。密輸ピストルで武装した「アウトロー」の気ままで、わがままで、秩序を攪乱する行動に対しては、ピストルをもたない一般市民は、警察の力を借りる以外に対抗する手段を持ち合わせていない。
 米国のように、だれでも銃器の所持が許される憲法のある国では、「アウトロー」が地域社会の秩序を攪乱する行動に出た場合、地域住民自身が「武装」し、彼らの行動を抑制する。日本ではこうした「武装」を禁じられている以上、一般市民の「武装」に代替する機能を警察が果たす以外に「アウトロー」を押さえ込む方法が存在しない。この意味では、日本の警察は、社会の「公僕」としての機能を、他の先進国に比べていっそう強く持つこととなる。
 また、一般市民の「武装」を前提とした、自律的、自主的な秩序維持機能を、プロの警察が全面的に肩代わりしているからこそ、日本の国内の犯罪防止力は高いし、その高い検挙率を通じて、間接的に犯罪防止機能を強める一面もあることを見落としてはなるまい。
 市民がみずから「武装」する社会ては、当然のことながら、市民間の争いはすぐさま銃撃戦の形に発展する。
 〔略〕
 これから近未来の日本では、この市民「非武装」という社会制度がつづくものと考えてよく、また継続すべき制度のなかに含まれるにちがいない。
 戦後の日本がとった国ベースでの「軍事小国路線」は、戦前よりも密接に市民の「非武装」と強く結びついている。
 戦前は予備役にあった軍人がピストル、軍刀を保持することは義務とされ、また明治維新以前武士だった家系には、刀槍がかならずといってよいほど残されていた。戦後の日本の社会は、こうした個人所蔵の「武器」をまず占領軍が、ついで警察が徹底して回収した。このため、保有を許された刀槍は美術的な価値を持つものに限定され、いっそう市民の「非武装」化が定着した。
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(引用中の下線は引用者が付した)


もう一つ、2001年4月刊『デフレ時代の成功法則』「第5章 特殊法人改革なしに日本経済の復活はない」(169~170頁)において、特定郵便局長会を郵政民営化によって解体されざるをえない自民党の地盤として紹介した後につづいてつぎのように記述している。
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 似た組織に、地方の消防団がある。
 地方自治体の消防署の現場組織として、今でも村々の消防活動を実際に担当している。すべての集落ごとに分団が置かれ、ポンプ小屋が作られていて、成人になると、全員が加入させられる。季節ごとにちゃんと消防訓練もやっている。
 戦前は、その組織にさらに軍隊帰りの在郷軍人会が重なっていた。
 そういうものが保守の地盤だった。
 戦後は、まず在郷軍人会がなくなり、代わって一時期は遺族会が盛んだったが、それも衰え、減反で農協の力が弱くなり、また公共事業費の削減と建設不況で、一時期乱立して盛大だった、村の土建屋にも金がなくなった。
 そうなると、全国の村ごとに組織を持っている特定郵便局長会というのは、自民党に残された数少ない全国的な地盤ということになる。
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(引用文中の下線は引用者による)


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二人目は、近世史家の塚本学さん。1993年刊『小さな歴史と大きな歴史』の冒頭近く「二 近世史で考えなおしたいこと」(6~8頁)に、つぎのような記述がある。
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 よく知られているように、近世の体制では、武士身分の者は、一般に城下町に集住した。ある村で、集団強盗におそわれるという事件があったとする。そのとき武士身分の武力が、治安維持機能を果すことは、まず不可能である。電話もパトカーもない時代なのだ。当時いちばんの機動力、騎馬軍団が駆けつけても、到着の際にはすでに強盗群は立去ってはるか後であろう。だいたい、城下町の武士が、常時、いざことあれば騎馬軍団を編成して出動できるような用意をしていたか。そもそもそうした考え方もとられなかったであろう。お城の出火は、主君の九だから駆けつけるにしても、人民の生命財産の危険を、それほどの緊急事とはみなさない。理屈の上からすると、人民の生命財産は、主君が役義をつとめる上での貴重な財だから、これを守ることも必要のはずだが、実際には武士の、そうした意味での「護民」「安民」機能は、さほどはたらかないのである。そこまで及ばなかったのではない。はじめからそのつもりではなかったというべきだろう。
 村の治安維持機能を担当したのは、一般には村自体であり、幕府や藩の支配も、それを前提として成立していた。幕府や藩の法は、一般に、そのような集団強盗に対して、村民が共同で対処すべきことを命じている。十七世紀信濃の、松本・上田等諸藩の法では、そうした場合に賊を殺害することをも認めており、松本藩法の場合は、その趣旨が最後までかわらない。そのような例が、どの程度ひろく存在するかについては、今後のしらべが必要であるが、武士の武力が有効でない以上、武力をもった賊に対して、村民自身の武力行使をなにがしかの程度認める、むしろ求めるのは一般的であって当然といえよう。
 集団強盗に対するのと同じことが、耕地や人畜をおびやかす野獣に対する場合にもいえる。江戸時代の多くの山村では、猪や鹿・狼などに対して鉄砲をもつ村民がかなりたくさん存在したし、幕法もこれを認めていた。これも武士の武力で対処できる相手ではない。もっとも鉄砲の使用についての規制は当然存在したし、とくに集団強盗の類に対する武力として鉄砲を利用させることは、例外的にしかないといえる。ヒトを殺傷する用途だけに純化した道具を武器とよぶなら、江戸時代の農山漁村に原則的に武器は存在しなかったという通説的理解に、異議をとなえる余地はなかろう。けれども、武力は、そのような意味での武器を不可欠とするものではない。鍬やてんぴん棒のような道具も、場面と使い手によっては、名刀以上にヒトを殺傷するのに有効である。石ころやときには素手も、ときには十分に戦う手段となり得よう。なによりも戦う意志をもつひとびとの結集が、外敵に対して有効な武力である。
 武士が集住した城下町でも、武士の武力が治安維持機能を果したとは必ずしもいえない。十八世紀末、寛政初年に江戸の町に集団強盗が横行したとき、被害は実は武家邸に大きく、町人の町では、町民が共同で声をかけあうことでこれを撃退した例が少なくなかった。そうした例は、武力というものについて考えさせるだけでなく、江戸時代の体制自体にも、そしていうならば近世という時代に限定されない問題についても、再考を求めるものになる。
 江戸時代が終って半世紀余もたった時点の例だが、関東大震災にあたって、多くの朝鮮人を殺傷したのが、右のような村の武力であったことにも、目をそむけるわけにはいかない。一面で、戦前・戦中の男たちの多くは、夜、痴漢が出没するなどという噂を聞けば、枕元にステッキをおいて寝、悲鳴を聞いたら飛び出ようとしていた。現代の団地住宅での痴漢問題で、住民の自発的な組織が生まれる場合もあるが、警察官による各家への取締りだけを求める声が出ることもある。後者の思考法は、また通勤電車内での暴力等にも見てみぬふりをするひとびとに通じる。そして、太閤刀狩り以来、日本人には、自分で安全を守る習慣なしといった歴史像が、そうした思考法と通じあう役割をももつ」
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長谷川さんは戦後・現代の日本から戦前の日本に遡り、塚本さんは江戸時代の日本から明治維新以後の時代を望んでいる。それは、先の塚本さんからの引用の直前に、つぎのように叙述されている時代であった。

「帝国憲法下では、村々に駐在のお巡りさんがいた。村民のささいなバクチなどを取り締まりもしたし、村に盗賊が入りでもしたら頼りにされる存在でもあった。地主には頼られ、小作人には警戒され、ないし恐れられるという面もあった」

この講義では、沿海地域の村々における海難救助組織から、この時代を見て行くことになる。



以上、第4回(2005年4月28日)。

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2005年07月23日

既に14週の授業を終えた後で、その内容を当ブログに書いている。7月7日、第13週に配布したプリントにはつぎのように毎回の大まかな内容を記した。

第1回から第3回は「日露戦争と水難救済会」について初歩的な史料を確認した段階。
第3回から第6回は、授業開始以前に先行研究として関連が念頭にあったものを紹介するとともに、史料調査のなかから見つけた新たなデータや視角を紹介した時期。
第7回以降は、山口県の県紙『防長新聞』を精査するなかで、関連する場面や事項を一つ一つ拡大して行った時期。

即ち、以下の通り。
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第1回 (04/07) 〔導入〕「日露戦争」and「水難救済会」で検索した三つの読売新聞の記事。
第2回 (04/14) 〔予備調査〕インターネット、年表、『帝国水難救済会五十年史』「救難所配置図」「救難所発達史」。
第3回 (04/21) 〔予備調査〕五万分の一地形図「小倉」、『帝国水難救済会五十年史』日露戦争中の記述。
第4回 (04/28) 〔視角の設定〕地域社会の武力、秩序力、自立性の観点。現代から振り返る長谷川慶太郎、近世史研究から近代を見る塚本学『小さな歴史と大きな歴史』。
第5回 (05/12) 〔視角の設定〕Michael A. Bellesiles『ARMING AMERICA』。/鈴木淳『町火消たちの近代:東京の消防史』『関東大震災:消防・医療・ボランティアから検証する』。/金指正三『近世海難救助制度の歴史』。
第6回 (05/19) 〔視角の設定〕海難救助の近代化、西洋基準との出会い。/日本赤十字社との対比。オリーブ・チェックランド『天皇と赤十字』。
第7回 (05/26) 〔探索の拡大〕『防長新聞』の記事を読む。本部との関係、会員募集・義金募集に警察官が関わる、知事が委員総長。下関市で赤十字会員募集に市役所職員が関わる。肝付兼行「海国的国民の大覚悟」。
第8回 (06/02) 〔探索の拡大〕丸尾崎救難所。公共団体の会員募集に警察官は関わるべからず(原内相)。武徳会、愛国婦人会、在郷軍人会の紹介。
第9回 (06/09) 〔探索からまとめ〕記事「原内相大浦男の確執について 武徳会員募集の件」。水難救済会山口県支部発会式。
第10回(06/16) 〔探索からまとめ〕明治42、43年の記事、日露戦争が歴史に。社説「寄附勧誘と官庁」。「旧式銃器の払下」(地域社会の武器所持と在郷軍人会)。私設消防組から公設消防組への改組。
第11回(06/23) 〔探索からまとめ〕賞与(水難救済会救助夫)→賞金(一般漁民の救助活動)→処罰(海難物品分捕り)。海員掖済会、帝国海事協会。海難救助の二つの意味。
第12回(06/30) 〔視野を広く〕1904(明治35)年のいろいろな記事。「関門間海難減少策ニ関スル意見」。
第13回(07/07) 〔補足とまとめ〕主力戦艦の関門海峡通過。いままでのまとめ。
第14回(07/14) テストの予告
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上記プリントを配布した時には、まだ第14回はやっていない。実は、地域住民にとって「海事」とはどのようなイメージのもので、それゆえに、寄付金を払うなど参加に値する対象であったのかに気づかせてくれる史料を見つけて紹介することで最終回とした。

わたくしは最初
(1) 地域史を日露戦争という断面で切ってみるという関心から水難救済会に接近した
つぎに、
(2) 日本赤十字社や愛国婦人会などの愛国的Charity Organizationの一つとしての水難救済会の側面を見た
そして最後に、
(3) 水難救済会というテーマを通じて史料をたぐることで、海事という領域に導かれていたことに気づいた

この辺の事情を説明するつもりで、以下、授業の概要を記して行きたい。

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2005年07月16日

「○武徳会員の応募者  阿武郡萩警察署管内に於ては、巡査部長吉安源太郎氏巡回の都度、各部落或は最寄りの場所へ町村民中中流以上の有志者を会し、熱心以て直接に武徳会設立の趣旨理由来歴目的等を縷々懇話して、大に会員の募集に尽力したりしが、即席応募する者尠なからず。已に会費収納済みの通常会員六百七十八名の多きに達し、尚外に昨今申込み中のものも三百五六十名ありて、就中最も感ずべきは萩町大字熊谷町小川亀吉及び山田村字玉江浦原田三介の両名にして、一時金五円宛を納め特別会員となりたりと云ふ」
(防長新聞、明治32年4月7日2面3段)

「○武徳会山口県支部の設置  此程の本紙に記載したる武徳会山口県支部設置の事は、本会との交渉纏り愈々設置することに確定せり。右に付、河島保安課長は支部旗請求のため明日より京都へ出張の筈」
(防長新聞、明治35年5月1日2面5段)

「○武徳会支部旗の着山  武徳会に於て山口県支部に対してその支部旗を授与する事となり居れば、それが為め一昨日河島保安課長は京都なる本部に出張、直ちに支部旗の授与を受け帰山の途に着きたるが、多分昨日午後四時頃に帰山する筈なるより、県庁よりは新道附近、湯田派出所は湯田町端[まちはずれ]、小郡警察署は小郡停車場へ出迎をなせり」
(防長新聞、明治35年5月10日2面2段)

「○大日本武徳会支部発会式  前号の紙上に掲載せしが如く河島保安課長は京都に出張して大日本武徳会支部旗を受領し、一昨日午後三時小郡駅に着するや、同地の警察署員は盛んに之れを出迎へ、山口警察署員は湯田町に出迎へ、県庁に到着せしは午後六時頃なりしが、庁員も当日は特に居残りて門前まで出迎へ夫れより警察部に奉置せり。而して支部発会式は来六月上旬に挙行する予定にて、其の準備に着手し居れり」
(防長新聞、明治35年5月11日2面2段)

「○武徳会山口県支部設置に就て  今回武徳会本県支部設置に就ては来る六月中に其発会式を挙げん予定なるが、発会式挙行までには現在会員一万七千余名の外更らに二万人の会員を募集する筈にて、武田本県知事は郡市町村会議員等へ其の依頼状を発送せり。何れ遠からざるうちには小松総裁宮殿下より委員の嘱托あるべく、支部拡張の上は撃剣射的大弓等の演武場をも設置せん計画なりと云ふ。同会に於て設けたる武術家優遇例は左の如し。
   武術家優遇例
第一条 本会の武術家優遇の趣旨を明かにせん
 が為め左の各項の資格を具備する者に就き詮
 衡委員会の推薦に依り総裁殿下の御裁可を経
 て範士、教士の称号を授与す
  範士の称号を授くべき者の資格
 一 斯道の模範となり兼て本会の為め功労ある者
 二 丁年に達したる後四十年以上武術を鍛練したる者
 三 教士の称号を有する者
  教士の称号を授くべき者の資格
 一 品行方正にして本会より精錬証を受けたる者
 二 武徳大会に於て武術を演じたる者
第二条 詮衡委員は会長之を推薦す
第三条 範士の数は各武術を通して三十人を超
 るを得す
第四条 範士教士の称号には其術の名称を冠す
第五条 範士には終身弐拾五円以内の年金を贈
 与す
第六条 本会の教授は範士、教士の称号を有す
 る者より之を招聘す
第七条 範士、教士にして其栄誉を汚辱するの
 行為ありたるときは詮衡委員会の決議に依り
 其称号を褫奪す
第八条 本例施行細則は会長之を定む      」
(防長新聞、明治35年5月14日2面2〜3段)

「○武徳会地方委員(柳井)  柳井地方は旧来武術盛にして武徳会員の如きも非常に多き由なるが、本県支部長武田千代三郎氏は、同地の剣客東剣岩太郎、盛川才次郎、星出善平の三氏に、武徳会山口県地方委員を嘱托せしより、目下会員募集中なりと」
(防長新聞、明治35年5月30日2面3〜4段)

「○武徳会地方委員の嘱托  這回阿武郡彌富村松井賢介、豊田吉太郎、小川村須郷要介、原庄之助の四氏は、武徳会山口県支部長より地方委員を嘱托せられたり」
(防長新聞、明治35年6月3日2面2段)

「○武徳会の加入者  武徳会員募集中の処、山口、宮野、大内、小鯖、平川、吉敷、上下両宇野令の一町七ヶ村に於て入会したる者約二千名ありと云ふ」
(防長新聞、明治35年11月8日2面4段)


[参照] 『山口縣剣道史』山口県剣道史編集委員会・編集、財団法人山口県剣道連盟・発行、2004年10月、p.112〜133。



rshibasaki at 13:31コメント(0)トラックバック(0)<山口県の諸団体> 
5月始め以来、毎週末、山口県立山口図書館に通って『防長新聞』を読んできた。
昨日で前期学期の授業期間は終了した。
水難救済会について講義した「歴史学 I」は、7月28日に試験をする。
これから、集中してブログに毎回の講義内容を記入し、試験問題を作成せねばならない。


rshibasaki at 05:23コメント(0)トラックバック(0)『日記』 

2005年07月15日

「○日本海員掖済会山口支部  日本会員掖済会に於ては昨年十一月を以て本県に支部を置き其後ますます其の事業を拡張するに勉めしが、今度其の規則を改正し、従前府県知事は委員長と云ふ名義なりしを支部長と改むると共に本県各郡市長は新たに郡市部委員長を嘱托せられ、尚ほ吉田書記官は副支部長に、又た白上警部長、小倉参事官、及び赤間関市の瓜生寅、甲藤求巳両氏は共に特別委員を嘱托せられたり。斯くの如くして掖済会はいよいよ其の事実を拡張し、殆んど赤十字社の組織の如くして大いに会員を募集する筈なりといふ」
(防長新聞、明治32年2月23日2面2段)

「○海員掖済会幹事の談話  日本海員掖済会幹事渡辺節蔵氏は一昨九日午後二時三十分より同三時四十分まで、阿武郡会議事堂に於て、大田郡長、益田課長列席の上、掖済会設立の趣旨目的、海員要請の必要、同会の経歴等を談話し、且つ入会を勧誘したりしが、参集者は椿郡東分村、山田村等の有志者十余名ありたりと云ふ」
(防長新聞、明治33年3月11日2面4段)

「○海員掖済会演説  昨廿日午後六時より馬関裏町本行寺に於て、日本海員掖済会常議員中村六三郎氏の業務拡張の演説会を開催せり」
(防長新聞、明治34年10月29日3面2段)

「○日本海員掖済会へ加盟者  吉敷郡より日本海員掖済会へ加盟したる者は未だ一人もなかりしが、此度仁保村長高木正之進氏は入会せしに付、一昨日本会より同氏に対し会員章及び締盟状を送付せり」
(防長新聞、明治35年4月18日3面4段)

「会員諸君へ広告
来る四月十日神戸港外に於て挙行せらるゝ
観艦式へ本会々員の陪観差許さる。拝観
を望まる向は、会員章佩用九日正午迄
に神戸市東川崎町五丁目本会事務所へ
御申出の上、乗舩券を受取らるべし。
 東京麹町区八重洲町 日本海員掖済会
●拝観船は汽船広島丸とす●但乗船員満員に達し
たる後は陸上観覧場へ案内す●当日船内にて昼
食弁当を供す●服装男子は洋服若くは羽織袴女
子は着服御注意の事                 」
(防長新聞、明治36年3月31日4面3段)
 
〔註〕
現在の社団法人日本海員掖済会のホームページにある「掖済会のあゆみ」。

明治末〜大正初期に三省堂書店から刊行された『日本百科大辞典』には「日本海員掖済会」の項目はない。


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2005年07月14日

すゐなん−きうさいくわい

海上の変災により生ずる人命・財産の危難を救助するを目的とする団体。ヨーロッパ諸国大抵其設立を見るところにして、イギリスには数多の団体あり。中にも帝国救命艇協会(一八三九年創立)最も著名にして、皇帝陛下これが総裁たり。ロシアの救済会(一八七一年創立)は海軍省の所管に属し、皇后陛下を総裁に戴き、プロシアの救済会(一八六五年創立)亦皇帝陛下を総裁に戴けり。フランスの救済会(一八五五年創立)は政府より毎年補助金を受く。(オーストリアは海国にあらざるがゆゑに此種の団体なし)。アメリカ合衆国(一八七八年創設)・ベルギー(一八三八年創設)・デンマルク(一八五二年創設)等には此種の団体なきも政府は特に水難救済局を設けて救済の事務を掌らしむ。我国の水難救済会は金刀比羅宮宮司琴陵宥常の主唱に係り、明治二十二年十一月三日讃岐琴平に於て開会式を挙げたるものにて、帝国水難救済会と称し、三十一年十一月社団法人とせり。本会会員はこれを名誉会員・正会員・賛助会員に分ち、総裁は皇族を推戴するものとし、現に有栖川宮威仁親王殿下を奉戴し、副総裁は評議員会に於て名誉会員中より推薦するものとし、侯爵鍋島直大其任にあたる。本会の役員は会長一名・理事六名・監事三名・評議員七十名を置き、三十年度以来毎年国庫より補助金を受く。

(日本百科大辞典第5巻、明治44年12月、三省堂書店発行)


現在の名誉総裁は、憲仁親王妃久子殿下である。

rshibasaki at 15:13コメント(0)トラックバック(0)<水難救済会> 
すゐなん−きうごはふ(水難救護法)

遭難船舶の救護、漂流物又は沈没品に関し規定したる法律。明治三十二年三月法律第九五号を以て公布せられ、三章三十九条より成る。本法に拠れば、救護の事務は最初に事件を認知したる市町村長これを行ふものとし、遭難の船舶あるを発見したる者は、其の何人たるを問はず、遅滞なく最近の市町村長又は警察官に報告すべきことを命じ、漂流物又は沈没品を拾得したる者は遅滞なくこれを市町村長に引渡すべく、市町村長の召集に応ぜざるか、又は救護事務の妨害をなしたる者に刑罰を科する等其の主要なるものとす。

(日本百科大辞典第5巻、明治44年12月、三省堂書店発行)


この法律は基本的な枠組みをそのままに現存している。現在では、118番で海上保安庁に連絡するというのが現実的なあり方であるが、制定当時は、文字通り連絡を受けた市町村長が、沿岸住民たる漁民などに指示して救難に当たった。水難救済会の発足以降、徐々に、江戸時代以来浦々にあった救護組織を、救済会の活動として位置づけ直すということとなった。「沼津救難所(MRJ沼津)の歴史」はその好例である。

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2005年07月07日

以下、第3回(2005年4月21日)。


五万分の一地形図「小倉」の関門海峡、彦島、六連島付近の部分を示し、(1) 下関水上警察署と北九州水上警察署の位置を確認した。(2) 彦島のうちかつて救難支所がおかれていた「竹ノ子島町」「西山町」「福浦町」「田ノ首町」の地名を確認した。


『帝国水難救済会五十年史』のうち「戦時下救難所ノ活動」から「一、救難所敵艦監視報告」「二、戦禍に因る海難救助」を紹介した。
なお、1945年3月10日に本部事務所が戦災により全焼し、『五十年史』に収録された原史料は失われている。
---------------
一、救難所敵艦監視報告

明治37年2月14日午前9時55分、下風呂(しもぶろ)救難所発電
「怪船二隻見ゆ取調中」

2月14日午前11時35分、下風呂救難所発電
「確めたり日本船」

2月14日午後7時20分、下風呂救難所発電
「奈古浦丸附属品漂着、板に弾痕二あり」

2月15日午前3時20分、袰月(ほろづき)救難所発電
「露艦に撃沈せられし奈古丸端艇壱艘当海岸に漂着せり」

2月15日午前4時40分、小泊(こどまり)救難組合発電
「軍艦二艘小島沖合に見ゆ色不明」

2月13日、大間(おおま)救難所長報告
「本日の西暴風雪のため破壊したるボートの附属品浮輪、胴巻其他石油函等当地海岸に漂着候に付検するに、奈古浦丸と記載せるを以て船名録に就き調査候処、右は富山県新湊南島間作氏の所有船たることを認め、直に本人へ通知し、該物品は本職に於て保管せり
数多の保管物品中撃破せられたりと認むるものを摘記すれば
一 浮輪弐個の中壱個は大小弾痕二十壱個所他の
  壱個は三個所
二 長九尺幅七寸の板に砲弾の破片二個埋まれり
三 竪壱尺横六寸の白ペンキ塗り板片に弾痕五個
  所
以上の事実に依り敵艦の為め撃破せられたるの証拠十分なりと推測せられ候

6月17日午後9時2分、下関救難所発電
「常陸丸、佐渡丸十五日筑前沖ノ島附近に於て救助中」

6月18日午後1時00分、龍飛救難所発電
「午前八時三十分魯艦三隻北海道附近より現はれ西に進行せしを認めたり」

6月22日午前2時30分、若松救難所発電
「救助船を出せり収容なし」

7月20日午前10時48分、龍飛救難所発電
「敵艦三隻太平洋に向け当海峡を通過す」

7月20日午後9時00分、下風呂救難所発電
「午前4時敵艦三隻通過」

7月20日、下風呂救難所長報告
「本日午前六時三十分渡島国鹽首燈台と同国恵山岬との間に三本マスト三本煙突二艘、二本マスト弐本煙突一艘(内壱艘は四本煙突の如くなるも霞の為め判明ならず)都合三艘の軍艦を見たり。七時恵山岬東沖合に於て艦影を没す。砲声も弐回聞けり。塗色判明せざるも黒色ならん」

7月20日、下風呂救難所長報告
「正午より六時までの間に遠雷の如き数回の砲声を聞けり」

7月20日、大間救援所長報告
「本日午前四時青森方面より敵艦らしきもの三隻当大間沖合約四浬の所を通過し北海道室蘭方面に航行す
 一 三隻皆黒色にして二隻は壱万噸以上、壱隻は
八千噸以上と認む
 一 旗、霧の為め不明
 一 檣数各々三本
 一 煙突数弐隻は四本壱隻は弐本     」

7月21日、下風呂救難所長報告
「午前十一時三十分濃霧の霽れたる時、昨朝認めたりし同一方面に於て軍艦三隻と小型の戦艦壱隻を認む。間もなく再び艦影を没す」

7月24日、尻屋救難組合報告
「本日午前六次尻屋前浜に於て東京高島と羅馬字を以て記載せる浮輪の漂着したるを発見せり」

7月25日午後3時32分、布良救難所長発電
「当地漁船及他船の話によれば午前六時白浜沖に砲声を聞く」

7月25日午前11時28分、大島救難所長発電
「東南東五浬沖に煤煙を見る今注意中」

7月25日午後6時35分、大島救難所長発電
「午後一時東南東沖に向ひ煤煙を見失ふ尚警戒中」

7月27日午後3時50分、布良救難所長発電
「午後零時五分、一時四十五分東南方に当り砲声遥に聞ゆ」

7月27日、布良救難所長報告
「廿七日南強風海上霧あり。午前八時二本檣赤色煙筒黒色の大船東航せり。十一時頃千倉沖にて砲声聞ゆと聞けり。午後零時五分、一時四十五分東南東に当り遥に砲声を聞く。二時二十分二本檣黒色の煙筒壱本を有せる黒色の大船西行す。望楼より信号したるも遠距離又は霧の為に判明せざりしにや、之に応ぜずして去れり。四時三十分二本檣黒色の一本煙筒を有せる黒色の大船東航せり」

7月30日午後1時10分、下風呂救難所長発電
「露艦三隻此沖近く見ゆ」

7月30日午後4時20分、大間救難所長発電
「午後二時露艦三隻北より大間沖合を通過す」

7月30日午後9時55分、龍飛救難所長発電
「露艦三隻五時四十五分西南へ通過せり」

7月30日午後2時27分、布良救難所長報告
「南方に当り砲声頻りなり開戦ならむ」

7月30日、下風呂救難所長報告
「本日正午十二時尻屋岬沖合に於て艦影三隻を認む。午後一時下風呂七八浬沖合に於て黒色の軍艦にして三本檣四本煙筒二隻、二本煙筒一隻明瞭に見えたり。二時五十分には大間崎を過ぎ日本海に向ふ。折悪しく濃霧の為め艦影を没し又認むるを得ず」

7月30日、布良救難所長報告
「昨夜当所にては石井所長十一時迄詰切り小職は例に依り望楼附近に出張す。十時三十分、望楼にて第二艦隊へ電報送達の為め艀雇入れ依頼に付漁船を雇入れ、組長小谷安五郎外三名望楼長と共に乗船、二十四号水雷艇に送致す。午前二時再び望楼よりの依頼により、小鷹号に送致す。五時艦隊は東南方に向ひ航行し七時十五分水雷艇隊は湾内へ向け航行せり。零時三十分頃より砲声屡々聞 ゆ。二時水雷艇二隻南方に向け疾走、約二十分間を経て五隻の水雷艇続行せり。或は開戦せるならん。南方に方り砲声頻りなり。三時水雷艇は望楼と信号して湾内に向け航行し五時二十分四隻の軍艦当港沖合に見ゆ。之に依りて推考すれば、未だ開戦せざりしものの如し。曩に耳にしたる砲声は何の音なりしや疑はし。八時軍艦及水雷艇は今尚碇泊せり」


二、戦禍に因る海難救助

   常陸丸佐渡丸遭難救助報告(明治三七年六月壱七日下関救難所長報告)
筑前沖の島沖合に於て御用船常陸丸及佐渡丸は敵艦の為め撃沈せられたる報に接し、当所は救助夫長をして汽船鴻城丸及び西山竹ノ子島両支所救助夫をして救助船を遭難地に発航、捜索に従事せしめたる状況左の如し
一、十六日午前七時救助夫長は汽船鴻城丸にて西山竹ノ子島支所救助船二艘に
  て遭難地に向け捜索中、鴻城丸は漁船四艘ボート三艘を発見し取調たるに之の
  漁船は遭難地方に漁業中ボート或は漂流の遭難者を認めたるより之れを漁
  船に救助して下関港に護送する所なるにより総員百九十八名を受取、鴻城丸に
  て都合三回に当救難所に護送し西山竹ノ子島支所は白島沖合に於てボートを
  認め直に現場に漕ぎ付け十六名の遭難人を救助して当所に護送し当所に於て
  は遭難者に対し衣服及び食物等を給与し懇切に救護をなし殊に重軽傷者に対
  しては医師をして充分の手当を施さしめ後門司碇泊司令部に引渡したり。
  一時多数の遭難人を救護し大に混雑を極めたり
一、十七日午前七時、再び鴻城丸にて遭難地及其近海の捜索に出向せしめ西山竹の子
  島支所救助夫は同日筑前沖合に同じく捜索に出向せしも遭難人を認めざるに
  より午後帰途中六連島沖合御用船の西洋形帆船を曳き来るを認め直ちに現場
  に漕付けたり。之の御用船は日の丸にして西洋形帆船は遭難地に於て佐渡丸
  遭難人約五百名を救助して帰港中に出会日の丸曳船して六連島に入港せしも
  のなるにより救助員一同は遭難人保護の為め諸用に従事中鴻城丸は未だ帰所
  せず。十六日及十七日出役したる救助夫氏名左の通り(氏名略)

    大海戦後の救助状況詳説(明治三八年六月九日下関救難所長報告)
  五月二十七、八日の大海戦に付当所は彦島村各支所員を召集し五月二十九日より開戦[ママ]附近の漂流人及漂流物拾得の為め現場に出張せしめたる状況左の如し。
一、五月二十七日午後五時飛脚を以て各支所へ開戦に付救助出船の準備を伝令し
  同二十八日午前五時各支所は竹ノ子島に召集せし処田ノ首、福浦、西山、竹ノ子島
  の四支所応召午前八時に集合せり依て本職は救助方法及遭難の取扱上に付き其
  の心得方を訓示する処あり一同手分をなし現場近く救助に出向せしも何の漂
  流物に出会せす午後七時一同六連島に着翌早々竹ノ子島に集合を約し一同解散せり
一、五月二十九日田ノ首、福浦、西山、竹ノ子島の四個支所午前三時竹ノ子島に集合し
  茲に於て糧食其他の準備を整へ沖ノ島附近を捜索中午前九時沖合に於てボー
  ト一艘に尚一個の漂流物を認めたるに付一同勇を鼓し現場に漕ぎ出したるに
  其附近に山口県鶴江の漁船通過の際同じく之の漂流物を認め現場に漕ぎ付救
  助せり。其内本救助船漕ぎ付たるに豈図らんや其の救助せられし人物は露兵に
  して二名共シヤツ一枚のまゝ一名はボートに避難し一名は浮輪に頭部を差し入
  れ漂流し居たる趣に付鶴江漁船と共に之れを救助し応急の手当を施し竹ノ
  子島支所長山崎彌助方へ連れ帰り、介抱を加へ一方は当所に急報し来りしによ
  り本職は之れを受取方出張後門司碇泊場司令部へ引渡したり。其の露兵は「アド
  ミラルナヒモフ号」艦長海軍大佐ロジヲノフ其一名は同号乗組海軍大尉ロヂヲ
  ウイスキーの二名なり。之の二名は懇なる救助に感し幾度となく謝辞を述へた
  り。後尚現場近く救助に出向捜索の後午後九時頃一同特牛[こっとい]港に到着せり。
  翌三十日午前五時一同豊浦郡特牛港を発し西山竹ノ子島の両所を合して一組
  となし田ノ首福浦を合して一組とし各方面を変して捜索する状況左の如し。
一、西山竹ノ子島両所は二手に分け竹ノ子島は方向を見島方面に西山は沖ノ島
  面に執り共に凡そ八九浬の沖合に出て捜索したるも何等漂流物を発見せず然
  する内に午前十一時頃より東風激烈となり波濤狂湧し来りしに依り進路を転
  し引返すこととなし共に角島附近にて出会し辛ふして午後二時三十分特牛港
  に寄港せり。其れより西市分署長に付捜索方協議せし処漁船等の話による時は
  今日の処にては北方沖合三十浬に多少漂流物ありたれは現今漂流方向は北方
  余程沖合に至らんとの事に付尚翌三十一日も北方沖合に捜索に出つる考なり
  しも前日来の風波止ます依て一応帰村するの決心をなし午前八時特牛を出発
  し沿海捜索しつつ午後五時無事竹ノ子島に帰港一同解散せり。
一、田ノ首、福浦の両所は三十日午前五時竹ノ子島西山両所と共に特牛を発し角島
  方面に航行中東風強く波濤高く豊浦郡神玉村沖合五六浬沖合捜索中雨風益々
  激烈となり以て目的地に至る事を得ず一同引帰し午後六時福浦に帰港一同解
  散せり。
 右の状況にして海上沖合東風激烈怒濤を冒し数日捜索を継続せしめたるも漂流物に取当らざるは遺憾の極なれ共救助夫今回の精励職務に熱注せしは常陸佐渡丸事件の比にあらざる事を認む。本件に従事せし救助夫の氏名は後日賞与上申と共に報告可致候。此段状況及報告候也。
---------------

また同書『帝国水難救済会五十年史』には、続いて「戦時見張につき出願」としてつぎのように記されていることを紹介した。
---------------
       戦時見張につき出願
 同年三月四日、本会は露国との交戦を知るや、既設救難所二十四個所、支所二十七箇所、救難組合十個所に命して其見張を厳重にし海上の看守を怠ることなしと雖も軍国の事一に機密に属するを以て同しくは当局の認可を経て本会の見張か戦時中公の見張に任し猶海軍望楼の設備なき地に於ては本会は適宜望楼を新設して見張の完璧を期さんとす。以上の趣旨を逓信大臣に出願したり。
---------------


この講義を行っている4月21日に手元に筆写のあったつぎの『防長新聞』(山口町で発行)の記事を示した。
---------------
明治37年6月23日2面
「○水難救助部長の嘱託 下関水上警察署巡査部長加藤信太郎氏は帝国水難救済会下関救難所救助夫長の嘱託の辞令を一昨日総裁の宮殿下より拝受したり」

明治37年1月15日2面
「水難救済会の行賞 大日本水難救済会にては堀警察分署長、警部金子馨氏が佐波郡委員として大日本水難救済会事業の拡張を図り功労すこぶる顕著なりしを以て、之を表彰せん為め、特に終身正会員に列し、木杯壱個並に慰労金十五円を贈与し、又金子氏の指揮に従ひ会員の募集に努力したる同署員村田悟氏は金七円を、藤村常之進氏は金五円を、斎藤貞一氏は金四円を、岩崎佐一氏は金三円五十銭を、中原安次郎、綿貫誠四郎の両氏は各三円を、立野唯一氏は金二円五十銭を、久芳福松、石村力蔵の両氏は各金二円を、秦与一郎、品川道捨の両氏は各金一円五十銭を、何れも慰労として贈与し来りたる由」

明治38年2月23日2面
「○水難救済会監事の来関 帝国水難救済会監事村田寅太郎氏は、今度吉敷郡小郡町へ下関救護所支部設置に関し同村へ実地検分のため来りたる序を以て恰も同所より斎藤下関警察署所長の帰関に付き差廻はしたる水上署の鴻城丸に便乗して、去廿日下関市に来たり、救難事務を視察し同夜十時山鉄列車にて帰京したり」
----------------


以上、第3回(2005年4月21日)。




rshibasaki at 20:13コメント(0)トラックバック(0)「海難救助ボランティアの日露戦争」工・歴史学2005 

2005年07月06日

「○戊辰以来の天候  麻布飯倉なる東京天文台は日々タイム即ち時の観測をなし、午前十一時を期して宮内省なる号砲掛りへタイムの通知を為し、正午十二時には東京郵便電信本局を始めとし、神戸横浜の両地に設置するタイムボール即ち時標儀部へ直接に日々の通知を為す規則にて、此他一週に二回宛中央気象台へもタイムの通知を為すことなるに、本年は天候不良続きの為めタイムの観測を為すこと能はず。日の雲を離るゝを窺ひて僅かに観測するも徒労に属すること多し。又同台教授平山博士は銀河の観測を企図し、全国中夏期に際して天候の良好なる地を全国の測候所に照会して大分県別府を天体観測の適地と認め、六月中旬同地に出張したるも、矢張り天候不順の為め目的を達せずして去廿一日帰京したり。又早乙女理学博士は数ヶ月前万国聯合測地学委員会より着したるポーテプル、トランシツト即ち旅行用子午儀(独逸製)を試用せん為め本邦西南の地へ向け経緯度の観測に従事中なるが、是亦天候の不良に妨げられ定めて困難ならんと云ふ。斯くの如くにして本年の天候は台務の上に尠からぬ妨げを与へたるが本年の天候は要するに奥羽戦争の年と稍類似し爾来絶えて見ざる処なりといへり」
(防長新聞、明治35年9月5日1面2段)

タイムボールについては、「タイムボールって何?」を参照。



2005年7月2日、3日、山口県立図書館にて調査

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「日本の伝統と文化」教科書
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