2005年07月07日

以下、第3回(2005年4月21日)。


五万分の一地形図「小倉」の関門海峡、彦島、六連島付近の部分を示し、(1) 下関水上警察署と北九州水上警察署の位置を確認した。(2) 彦島のうちかつて救難支所がおかれていた「竹ノ子島町」「西山町」「福浦町」「田ノ首町」の地名を確認した。


『帝国水難救済会五十年史』のうち「戦時下救難所ノ活動」から「一、救難所敵艦監視報告」「二、戦禍に因る海難救助」を紹介した。
なお、1945年3月10日に本部事務所が戦災により全焼し、『五十年史』に収録された原史料は失われている。
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一、救難所敵艦監視報告

明治37年2月14日午前9時55分、下風呂(しもぶろ)救難所発電
「怪船二隻見ゆ取調中」

2月14日午前11時35分、下風呂救難所発電
「確めたり日本船」

2月14日午後7時20分、下風呂救難所発電
「奈古浦丸附属品漂着、板に弾痕二あり」

2月15日午前3時20分、袰月(ほろづき)救難所発電
「露艦に撃沈せられし奈古丸端艇壱艘当海岸に漂着せり」

2月15日午前4時40分、小泊(こどまり)救難組合発電
「軍艦二艘小島沖合に見ゆ色不明」

2月13日、大間(おおま)救難所長報告
「本日の西暴風雪のため破壊したるボートの附属品浮輪、胴巻其他石油函等当地海岸に漂着候に付検するに、奈古浦丸と記載せるを以て船名録に就き調査候処、右は富山県新湊南島間作氏の所有船たることを認め、直に本人へ通知し、該物品は本職に於て保管せり
数多の保管物品中撃破せられたりと認むるものを摘記すれば
一 浮輪弐個の中壱個は大小弾痕二十壱個所他の
  壱個は三個所
二 長九尺幅七寸の板に砲弾の破片二個埋まれり
三 竪壱尺横六寸の白ペンキ塗り板片に弾痕五個
  所
以上の事実に依り敵艦の為め撃破せられたるの証拠十分なりと推測せられ候

6月17日午後9時2分、下関救難所発電
「常陸丸、佐渡丸十五日筑前沖ノ島附近に於て救助中」

6月18日午後1時00分、龍飛救難所発電
「午前八時三十分魯艦三隻北海道附近より現はれ西に進行せしを認めたり」

6月22日午前2時30分、若松救難所発電
「救助船を出せり収容なし」

7月20日午前10時48分、龍飛救難所発電
「敵艦三隻太平洋に向け当海峡を通過す」

7月20日午後9時00分、下風呂救難所発電
「午前4時敵艦三隻通過」

7月20日、下風呂救難所長報告
「本日午前六時三十分渡島国鹽首燈台と同国恵山岬との間に三本マスト三本煙突二艘、二本マスト弐本煙突一艘(内壱艘は四本煙突の如くなるも霞の為め判明ならず)都合三艘の軍艦を見たり。七時恵山岬東沖合に於て艦影を没す。砲声も弐回聞けり。塗色判明せざるも黒色ならん」

7月20日、下風呂救難所長報告
「正午より六時までの間に遠雷の如き数回の砲声を聞けり」

7月20日、大間救援所長報告
「本日午前四時青森方面より敵艦らしきもの三隻当大間沖合約四浬の所を通過し北海道室蘭方面に航行す
 一 三隻皆黒色にして二隻は壱万噸以上、壱隻は
八千噸以上と認む
 一 旗、霧の為め不明
 一 檣数各々三本
 一 煙突数弐隻は四本壱隻は弐本     」

7月21日、下風呂救難所長報告
「午前十一時三十分濃霧の霽れたる時、昨朝認めたりし同一方面に於て軍艦三隻と小型の戦艦壱隻を認む。間もなく再び艦影を没す」

7月24日、尻屋救難組合報告
「本日午前六次尻屋前浜に於て東京高島と羅馬字を以て記載せる浮輪の漂着したるを発見せり」

7月25日午後3時32分、布良救難所長発電
「当地漁船及他船の話によれば午前六時白浜沖に砲声を聞く」

7月25日午前11時28分、大島救難所長発電
「東南東五浬沖に煤煙を見る今注意中」

7月25日午後6時35分、大島救難所長発電
「午後一時東南東沖に向ひ煤煙を見失ふ尚警戒中」

7月27日午後3時50分、布良救難所長発電
「午後零時五分、一時四十五分東南方に当り砲声遥に聞ゆ」

7月27日、布良救難所長報告
「廿七日南強風海上霧あり。午前八時二本檣赤色煙筒黒色の大船東航せり。十一時頃千倉沖にて砲声聞ゆと聞けり。午後零時五分、一時四十五分東南東に当り遥に砲声を聞く。二時二十分二本檣黒色の煙筒壱本を有せる黒色の大船西行す。望楼より信号したるも遠距離又は霧の為に判明せざりしにや、之に応ぜずして去れり。四時三十分二本檣黒色の一本煙筒を有せる黒色の大船東航せり」

7月30日午後1時10分、下風呂救難所長発電
「露艦三隻此沖近く見ゆ」

7月30日午後4時20分、大間救難所長発電
「午後二時露艦三隻北より大間沖合を通過す」

7月30日午後9時55分、龍飛救難所長発電
「露艦三隻五時四十五分西南へ通過せり」

7月30日午後2時27分、布良救難所長報告
「南方に当り砲声頻りなり開戦ならむ」

7月30日、下風呂救難所長報告
「本日正午十二時尻屋岬沖合に於て艦影三隻を認む。午後一時下風呂七八浬沖合に於て黒色の軍艦にして三本檣四本煙筒二隻、二本煙筒一隻明瞭に見えたり。二時五十分には大間崎を過ぎ日本海に向ふ。折悪しく濃霧の為め艦影を没し又認むるを得ず」

7月30日、布良救難所長報告
「昨夜当所にては石井所長十一時迄詰切り小職は例に依り望楼附近に出張す。十時三十分、望楼にて第二艦隊へ電報送達の為め艀雇入れ依頼に付漁船を雇入れ、組長小谷安五郎外三名望楼長と共に乗船、二十四号水雷艇に送致す。午前二時再び望楼よりの依頼により、小鷹号に送致す。五時艦隊は東南方に向ひ航行し七時十五分水雷艇隊は湾内へ向け航行せり。零時三十分頃より砲声屡々聞 ゆ。二時水雷艇二隻南方に向け疾走、約二十分間を経て五隻の水雷艇続行せり。或は開戦せるならん。南方に方り砲声頻りなり。三時水雷艇は望楼と信号して湾内に向け航行し五時二十分四隻の軍艦当港沖合に見ゆ。之に依りて推考すれば、未だ開戦せざりしものの如し。曩に耳にしたる砲声は何の音なりしや疑はし。八時軍艦及水雷艇は今尚碇泊せり」


二、戦禍に因る海難救助

   常陸丸佐渡丸遭難救助報告(明治三七年六月壱七日下関救難所長報告)
筑前沖の島沖合に於て御用船常陸丸及佐渡丸は敵艦の為め撃沈せられたる報に接し、当所は救助夫長をして汽船鴻城丸及び西山竹ノ子島両支所救助夫をして救助船を遭難地に発航、捜索に従事せしめたる状況左の如し
一、十六日午前七時救助夫長は汽船鴻城丸にて西山竹ノ子島支所救助船二艘に
  て遭難地に向け捜索中、鴻城丸は漁船四艘ボート三艘を発見し取調たるに之の
  漁船は遭難地方に漁業中ボート或は漂流の遭難者を認めたるより之れを漁
  船に救助して下関港に護送する所なるにより総員百九十八名を受取、鴻城丸に
  て都合三回に当救難所に護送し西山竹ノ子島支所は白島沖合に於てボートを
  認め直に現場に漕ぎ付け十六名の遭難人を救助して当所に護送し当所に於て
  は遭難者に対し衣服及び食物等を給与し懇切に救護をなし殊に重軽傷者に対
  しては医師をして充分の手当を施さしめ後門司碇泊司令部に引渡したり。
  一時多数の遭難人を救護し大に混雑を極めたり
一、十七日午前七時、再び鴻城丸にて遭難地及其近海の捜索に出向せしめ西山竹の子
  島支所救助夫は同日筑前沖合に同じく捜索に出向せしも遭難人を認めざるに
  より午後帰途中六連島沖合御用船の西洋形帆船を曳き来るを認め直ちに現場
  に漕付けたり。之の御用船は日の丸にして西洋形帆船は遭難地に於て佐渡丸
  遭難人約五百名を救助して帰港中に出会日の丸曳船して六連島に入港せしも
  のなるにより救助員一同は遭難人保護の為め諸用に従事中鴻城丸は未だ帰所
  せず。十六日及十七日出役したる救助夫氏名左の通り(氏名略)

    大海戦後の救助状況詳説(明治三八年六月九日下関救難所長報告)
  五月二十七、八日の大海戦に付当所は彦島村各支所員を召集し五月二十九日より開戦[ママ]附近の漂流人及漂流物拾得の為め現場に出張せしめたる状況左の如し。
一、五月二十七日午後五時飛脚を以て各支所へ開戦に付救助出船の準備を伝令し
  同二十八日午前五時各支所は竹ノ子島に召集せし処田ノ首、福浦、西山、竹ノ子島
  の四支所応召午前八時に集合せり依て本職は救助方法及遭難の取扱上に付き其
  の心得方を訓示する処あり一同手分をなし現場近く救助に出向せしも何の漂
  流物に出会せす午後七時一同六連島に着翌早々竹ノ子島に集合を約し一同解散せり
一、五月二十九日田ノ首、福浦、西山、竹ノ子島の四個支所午前三時竹ノ子島に集合し
  茲に於て糧食其他の準備を整へ沖ノ島附近を捜索中午前九時沖合に於てボー
  ト一艘に尚一個の漂流物を認めたるに付一同勇を鼓し現場に漕ぎ出したるに
  其附近に山口県鶴江の漁船通過の際同じく之の漂流物を認め現場に漕ぎ付救
  助せり。其内本救助船漕ぎ付たるに豈図らんや其の救助せられし人物は露兵に
  して二名共シヤツ一枚のまゝ一名はボートに避難し一名は浮輪に頭部を差し入
  れ漂流し居たる趣に付鶴江漁船と共に之れを救助し応急の手当を施し竹ノ
  子島支所長山崎彌助方へ連れ帰り、介抱を加へ一方は当所に急報し来りしによ
  り本職は之れを受取方出張後門司碇泊場司令部へ引渡したり。其の露兵は「アド
  ミラルナヒモフ号」艦長海軍大佐ロジヲノフ其一名は同号乗組海軍大尉ロヂヲ
  ウイスキーの二名なり。之の二名は懇なる救助に感し幾度となく謝辞を述へた
  り。後尚現場近く救助に出向捜索の後午後九時頃一同特牛[こっとい]港に到着せり。
  翌三十日午前五時一同豊浦郡特牛港を発し西山竹ノ子島の両所を合して一組
  となし田ノ首福浦を合して一組とし各方面を変して捜索する状況左の如し。
一、西山竹ノ子島両所は二手に分け竹ノ子島は方向を見島方面に西山は沖ノ島
  面に執り共に凡そ八九浬の沖合に出て捜索したるも何等漂流物を発見せず然
  する内に午前十一時頃より東風激烈となり波濤狂湧し来りしに依り進路を転
  し引返すこととなし共に角島附近にて出会し辛ふして午後二時三十分特牛港
  に寄港せり。其れより西市分署長に付捜索方協議せし処漁船等の話による時は
  今日の処にては北方沖合三十浬に多少漂流物ありたれは現今漂流方向は北方
  余程沖合に至らんとの事に付尚翌三十一日も北方沖合に捜索に出つる考なり
  しも前日来の風波止ます依て一応帰村するの決心をなし午前八時特牛を出発
  し沿海捜索しつつ午後五時無事竹ノ子島に帰港一同解散せり。
一、田ノ首、福浦の両所は三十日午前五時竹ノ子島西山両所と共に特牛を発し角島
  方面に航行中東風強く波濤高く豊浦郡神玉村沖合五六浬沖合捜索中雨風益々
  激烈となり以て目的地に至る事を得ず一同引帰し午後六時福浦に帰港一同解
  散せり。
 右の状況にして海上沖合東風激烈怒濤を冒し数日捜索を継続せしめたるも漂流物に取当らざるは遺憾の極なれ共救助夫今回の精励職務に熱注せしは常陸佐渡丸事件の比にあらざる事を認む。本件に従事せし救助夫の氏名は後日賞与上申と共に報告可致候。此段状況及報告候也。
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また同書『帝国水難救済会五十年史』には、続いて「戦時見張につき出願」としてつぎのように記されていることを紹介した。
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       戦時見張につき出願
 同年三月四日、本会は露国との交戦を知るや、既設救難所二十四個所、支所二十七箇所、救難組合十個所に命して其見張を厳重にし海上の看守を怠ることなしと雖も軍国の事一に機密に属するを以て同しくは当局の認可を経て本会の見張か戦時中公の見張に任し猶海軍望楼の設備なき地に於ては本会は適宜望楼を新設して見張の完璧を期さんとす。以上の趣旨を逓信大臣に出願したり。
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この講義を行っている4月21日に手元に筆写のあったつぎの『防長新聞』(山口町で発行)の記事を示した。
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明治37年6月23日2面
「○水難救助部長の嘱託 下関水上警察署巡査部長加藤信太郎氏は帝国水難救済会下関救難所救助夫長の嘱託の辞令を一昨日総裁の宮殿下より拝受したり」

明治37年1月15日2面
「水難救済会の行賞 大日本水難救済会にては堀警察分署長、警部金子馨氏が佐波郡委員として大日本水難救済会事業の拡張を図り功労すこぶる顕著なりしを以て、之を表彰せん為め、特に終身正会員に列し、木杯壱個並に慰労金十五円を贈与し、又金子氏の指揮に従ひ会員の募集に努力したる同署員村田悟氏は金七円を、藤村常之進氏は金五円を、斎藤貞一氏は金四円を、岩崎佐一氏は金三円五十銭を、中原安次郎、綿貫誠四郎の両氏は各三円を、立野唯一氏は金二円五十銭を、久芳福松、石村力蔵の両氏は各金二円を、秦与一郎、品川道捨の両氏は各金一円五十銭を、何れも慰労として贈与し来りたる由」

明治38年2月23日2面
「○水難救済会監事の来関 帝国水難救済会監事村田寅太郎氏は、今度吉敷郡小郡町へ下関救護所支部設置に関し同村へ実地検分のため来りたる序を以て恰も同所より斎藤下関警察署所長の帰関に付き差廻はしたる水上署の鴻城丸に便乗して、去廿日下関市に来たり、救難事務を視察し同夜十時山鉄列車にて帰京したり」
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以上、第3回(2005年4月21日)。




rshibasaki at 20:13コメント(0)トラックバック(0)「海難救助ボランティアの日露戦争」工・歴史学2005 

2005年07月06日

「○戊辰以来の天候  麻布飯倉なる東京天文台は日々タイム即ち時の観測をなし、午前十一時を期して宮内省なる号砲掛りへタイムの通知を為し、正午十二時には東京郵便電信本局を始めとし、神戸横浜の両地に設置するタイムボール即ち時標儀部へ直接に日々の通知を為す規則にて、此他一週に二回宛中央気象台へもタイムの通知を為すことなるに、本年は天候不良続きの為めタイムの観測を為すこと能はず。日の雲を離るゝを窺ひて僅かに観測するも徒労に属すること多し。又同台教授平山博士は銀河の観測を企図し、全国中夏期に際して天候の良好なる地を全国の測候所に照会して大分県別府を天体観測の適地と認め、六月中旬同地に出張したるも、矢張り天候不順の為め目的を達せずして去廿一日帰京したり。又早乙女理学博士は数ヶ月前万国聯合測地学委員会より着したるポーテプル、トランシツト即ち旅行用子午儀(独逸製)を試用せん為め本邦西南の地へ向け経緯度の観測に従事中なるが、是亦天候の不良に妨げられ定めて困難ならんと云ふ。斯くの如くにして本年の天候は台務の上に尠からぬ妨げを与へたるが本年の天候は要するに奥羽戦争の年と稍類似し爾来絶えて見ざる処なりといへり」
(防長新聞、明治35年9月5日1面2段)

タイムボールについては、「タイムボールって何?」を参照。



2005年7月2日、3日、山口県立図書館にて調査

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「○無筆者調査  各府県においては内務省の内命により各村落の駐在巡査に命令してその村落内における衆議院議員の選挙権を有するものゝ中にて無筆なるものを調査せしめ居れる由なるが、右調査は未だ終了するに至らざれど無筆者は東北地方に多数を占め商工業の盛なるところは極めて僅少の見込なるも各府県を通じて凡そ一割以上なるべしといふ」
(防長新聞、明治35年5月11日1面2段)



2005年7月2日、3日、山口県立図書館にて史料調査

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2005年07月05日

日露戦争当時の主力艦が関門海峡を通過できるのか否は、海軍省水路部(水路調査)・逓信省管船局(民間船舶管理)・内務省土木局(港湾整備)の境界領域にあり、また、戦時における艦隊の運用にかかわる可能性のある事項である。


防長新聞、明治34年(1901年)

「○山県管船局長の視察  逓信省管船局長山県伊三郎氏は去る十二日港湾巡視管船事務調査の為め馬関に来たり春帆楼に投宿中なるが、今日午後四時より藤井門司港務局長及び目下滞関中の河北本県代議士と共に下の関港湾を巡視し港務上諸般の調査を遂げたり。本日帰京の途につく筈なりと聞く」
(防長新聞、明治34年6月16日2面1段)

「○将校の出発  [略]   九州各地沿岸視察中の水路部長海軍少将肝付兼行氏は五日馬関発鉄路神戸に向ひたり」
(防長新聞、明治34年9月7日2面5段)

「○石川海事官の来県  逓信省海事官石川武之氏は去る五日本県へ出張を命ぜられ不日来県の筈」
(防長新聞、明治34年9月10日2面5段)

「○海務打合せ会  一昨日午後一時より赤間関水上署、下の関海務署、門司港務局、関門両税関署、門司検疫所の官吏等は右検疫所に会合して海事に関する総ての打合せをなしたり」
(防長新聞、明治34年11月27日2面4段)


防長新聞、明治35年(1902年)

「○海事官の出張(二十日午前十一時東京発)  石川海事官山口県下へ出張を命ぜらる」
(防長新聞、明治35年8月21日2面1段)

「○水雷敷設の付属船  呉水雷団敷設隊付属船那沙美丸は去る二十三日下関港に碇泊し同港附近に於ける海上の調査に従事しつゝありしが、同船には牧村海軍中佐以下十九名乗組み居れり」
「○富士艦の通過  帝国軍艦富士艦は一昨日午後六時六連島沖合に投錨、昨日一日間は碇泊し、本日午前十時抜錨、東に向ひ関門海峡を通過する筈なるが、同艦は実に一万二千六百八十七噸の大戦闘艦にして、此の海峡を通過するは今回を以て之を嚆矢とす。右に付水上警察署は他船に於て此航路を妨害せんことを慮かり、一昨日港湾内に繋泊の船舶に対し相当の注意を促したる由」
(防長新聞、明治35年8月26日2面3段)

「○海底の測量  横浜航路標識管理所の山中技師及び柴田海軍少佐等は逓信省の小形汽船水の子丸にて佐賀関より彦島村に来たり其の附近の海底を測量し且山野の地質調査中なるが、来る十四五日頃には全く結了すべしとの事にて、或は燈台建設の計画ならんと云ふ」
(防長新聞、明治35年10月9日2面2段)


防長新聞、明治36年(1903年)

「○那沙美丸の入港  呉鎮守府の御用船那沙美丸は十四日午後六時下関へ入港、阿弥陀寺町沖合に碇泊せしが、其用務は壇之浦及び彦島等に分派の交代水兵輸送及び壇之浦六連間水雷敷設の用務を帯びてなりと云ふ」
(防長新聞、明治36年1月17日2面4段)

「○艦船通過と海峡航路標識  昨年一等戦闘艦富士の馬関海峡を試航したることあり。当時同艦長たりし海軍大佐井上敏夫氏は、此程其実見并に所感を精細に記述して発表したる中に、馬関海峡の航路標識に関する意見あり。曰く、馬関海峡に於ける航路標識は殆ど完備し普通艦船の航路には遺憾なきが如くなるも、吃水大なる艦船、特に暗夜の通過には猶未だ全からざるものあるが如し。富士艦の実験に於ても門司崎より中の洲東端の浅堆を通過し終るまでの航路に於ては頗る不便を感じたり。依りて今後更に左の如く設備を加ふれば、今日我海軍既存の大吃水艦に対し極めて便利なるべし。
 東口中の洲東端現存の浮標を撤去し更に左の三
 浮標を新設すること
 満珠島の東端と北八度西に望む一線と部崎燈台
 を南二十七度西に望む一線との交叉点唐櫃山と
 北六十九度西に望む一線と部崎燈台を南二十六
 度に望む一線との交叉点
 筆立山と中の洲西浮標とを一線に望む線と部崎
 燈と満珠島の東端とを接する一線との交叉点
 前記三浮標共に点燈装置を要す
馬関海峡の潮候即ち潮流の速度、方向、高低、憩潮時、反回時等の風の強弱、風向、温度、気圧高低等に従ひ大なる差異を生ずるが故に、之か定率を検定し且つ航路標識を整備し大艦の航通を容易ならしむることは、軍事上に至大の関係を有するものなれば、其筋に於て充分の調査を遂げられ相当の設計を立て関係者に交渉して一日も速に之が完備を期せられんことを望む。特に航路標識の如きは少なくとも呉鎮守府出師準備計画中に規定し置かれんことを希望す云々」
(防長新聞、明治36年2月4日1面3段)

「○下関海峡の掲燈浮標  長門国下関海峡の西口俎掲燈立標の南微東浅洲上に定置せる高瀬掲燈浮標は燈器破損のため当分の内白色不動の碇泊燈点火の旨告示せしところ、本年一月二十八日より従前の通りピンチ式瓦斯明暗燈を点火せる旨逓信省より告示せり」
(防長新聞、明治36年2月10日3面2段)



同紙には、日露戦後になって、この時の艦長がインタビューに答えた記事があった。メモを取り忘れたため、もう一度さがさないと特定できない。




2005年7月2日、3日、9日、山口県立山口図書館にて史料調査

rshibasaki at 21:39コメント(0)トラックバック(0)<主力戦艦と関門海峡> 
以下、第2回(2005年4月14日)。

水難救済会について、日露戦争時の読売新聞の記事を理解するために周辺の初歩的な調査をした。

まず、インターネットで検索すると、現在の社団法人 日本水難救済会のホームページが見つかる。そのなかで「事業の概要・沿革」をリソグラフで刷って配布した。
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1. 明治22年11月3日、金刀比羅宮宮司琴陵宥常氏の発意により讃岐琴平の地で大日本帝国水難救済会発会
2. 明治23年4月、有栖川宮威仁親王殿下を初代総裁にご推戴
3. 明治29年、本会事業の国家経営の建議案、貴・衆両院を通過、毎年補助金下付決まる
4. 明治31年11月、社団法人大日本帝国水難救済会と登記
5. 明治37年3月、社団法人帝国水難救済会と改称
6. 大正2年8月、東伏見宮依仁親王殿下を二代総裁にご推戴
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上記が日露戦争の時代に関係する沿革であるが、簡素過ぎてわかりづらい。

そこで、『日本水難救済会100年史』(社団法人日本水難救済会、1990年刊)から、「年表」のうち、創立から日露戦争海戦までの部分を配布した。つぎの通りである。
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明治22年
 05月08日  本会創立出願、香川県知事に提出
 11月03日  開会式、於金刀比羅宮
明治23年
 02月04日  有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)に総裁請願。地方官に役員嘱託
 04月16日  総裁請願御聴許
明治25年
 02月15日  琴陵宥常(ことおかひろつね)会長逝去
 06月29日  本部東京芝公園内に移転
明治26年
 08年21日  大阪支部設置
明治27年
 08月01日  日清戦争始まる
明治28年
 03月    本部事務所麹町へ移転
明治29年
 02月    本会事業を国家が経営すべきであると言う建議案国会提出
 03月    上記満場一致可決
 04月27日  民法公布
明治30年
 04月    逓信省補助金 2万円下付決定
 05月19日  伯爵吉井幸蔵氏本会会長就任
明治31年
 01月04日  救難所定の服装規定制定
 07月02日  第一回総会開催於総裁邸
 10月14日  民法法人となる
 12月13日  支所制度逓信大臣認可
明治32年
 03月29日  水難救護法公布
 12月20日  米国より救命砲寄贈
明治33年
 03月31日  逓信省補助金継続認可
 07月    月刊誌「海」発刊
 11月    本部事務所築地へ移転
明治34年
 02月    米国水難救済局長に彫刻贈与
 03月    月刊誌「海」を本会報告に代用
 05月    東京市、区に各委員部設置、各地に委員部設置
 11月06日 旗号変更(現行の原型)
 11月08日 有功章制定
明治35年
 02月19日 会長以外の服制決定
 05月18日 通常総会、於商船学校内
明治36年
 02月14日 サンフランシスコ総領事に委員長嘱託
 02月20日 本部事務所京橋区に移転
明治37年
 02月09日 戦時心得訓令
 02月10日 日露戦争始まる
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また、『日本史総合年表』(吉川弘文館、2001年刊)につぎのような項目があることを示し、第1回の授業で紹介した『読売新聞』記事との対応関係を確認した。
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1904年・明治37年
6月15日
 ロシアのウラジオストク艦隊、対馬海峡において陸軍輸送船常陸丸・和泉丸を撃沈、佐渡丸に砲撃
8月10日
 第2艦隊、韓国蔚山沖でウラジオストク艦隊と海戦、撃滅させる
1905年・明治38年
5月27日
連合艦隊、日本海でロシアのバルチック艦隊を撃滅(〜28日、日本海海戦、戦艦スワロフなど24隻を撃沈・捕獲、ロシア側戦死・捕虜約1万1000)。
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聴講者が工学部の学生であることを考慮し、ポケット版『新版 日本史辞典』(角川書店、1996年)の「日露戦争」の項目と、同『日本史年表 第四版』(歴史学研究会編、岩波書店、2001年)の1903・明治36年〜1905・明治38年の部分を示し、日露戦争について最小限度の概観を与えた。

つづいて、『帝国水難救済会五十年史』(同、1939年刊)より「帝国水難救済会救難所配置図」(昭和14年11月現在)を示し、ウラジオストク艦隊が出現した地域の救護所の名を確認した。また、当該救護所の設置年代も同所より確認した。因みに、山口県「下関」(明治30年11月3日設置)、千葉県「布良」(明治36年3月25日設置)、青森県「大間」(明治35年2月1日設置)・「下風呂」(明治35年3月1日設置)などである。


最後に、同『五十年史』より、日露戦争に際して出された「戦時心得」の文言を確認した。即ち、以下の通り。但し、原文仮名は片仮名。
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同年二月九日各救難所、救難支所、見張所、救難組合に対し左の戦時心得を訓令したり。
  戦時心得
一、本会救難所は戦時に於ても平時に於けるか如く施行すへし。
一、敵国商船遭難の場合は勿論戦闘力を失ひたる軍艦の遭難若くは艦員にし
 て生命を喪失せんとする場合は直ちに之を救助し市町村役場又は警察署
 に引き渡すへし。
三、救難所、救難支所、見張所、救難組合附近を通航する船舶の挙動に注意し若尋
 常に非すと認めたるときは直ちに最寄警察署に通知すへし。
四、敵国軍艦と認むへきものの通航を認めたる時は直に左の事項を本部へ電
報し同時に最寄警察署に通知すべし。
  一、往来の方向
  一、時刻
  一、船体の大小及塗色
  一、掲揚したる旗
  一、檣数
  一、煙突数
  一、その他目標とすへき重なるもの
五、天候その他重要事項は必ず日誌に記載すへし。
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以上、第2回(2005年4月14日)。

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以下、第1回(2005年4月7日)。

「日露戦争」and「水難救済会」で検索した三つの読売新聞の記事を紹介し、その内容から読み取れる情報を確認する。

1. 1904年6月22日2面7段「水難救済会の活動 運送船常陸丸、佐渡丸の遭難事件」
2. 1904年7月26日2面6段「勝浦沖の砲声 東京湾汽船会社へ電報▽房州白浜沖の砲声 水難救済会本部へ電報」
3. 1904年11月26日2面6段「水難救済会総会へ寄付」
4. 1905年5月30日4面1段「水難救済会下関支部、大海戦の漂流死体及び付属物救護に従事」

「日露戦争」and「水難救済会」で検察すると上の四つがヒットする。そのうち、「4.」は一つ前の発言で紹介した日本海海戦後、下関の水難救済会が現場海域へ赴いたという短い記事である。「3.」はつぎの通りの記事で、調査目的には直接関係しない。
「●水難救済会総会へ寄附  明二十七日日比谷公園に於て開催する水難救済会総会の余興として浅草区須賀町玉屋(福田精吉)京橋区南新堀町玉屋(粟屋品三)の両名は花火を、本所区表町精行堂(倉地義勇)は来会者休憩所用として燐寸一万個を寄附したりと」


「1.」「2.」はロシアウラジオストク巡洋艦隊の日本沿岸への出現に関連するものである。


「1.」は、「●浦塩艦隊の報告(スクルイドロフ中条発電) ルーター電報に依るにスクルイドロフ海軍中将は六月十九日電信を以て左の旨を露国皇帝に上奏せり」という記事が掲載されている同じページの最下段に載ったもので全文はつぎのようになっている。

「●水難救済会の救助顛末  筑前沖の島沖合に於て御用船常陸丸及び佐渡丸は敵艦の為め撃沈せられたる報に接し、水難救済会下の関救難所は救助夫長をして汽船鴻城丸及西山、竹の子島支所救助夫をして救助船を遭難地に発航、捜索に従事せしめたる状況左の如し
▲十六日午前七時救助夫長は汽船鴻城丸にて西山、竹の子島支所救助船二艘を率ゐて遭難地に向け捜索中、鴻城丸は漁船四艘ボート三艘を発見し取調たるに、該漁船は遭難地方に漁業中ボート或は漂流者を認めたるより之れを漁船に救助し下の関港に護送する所なることを確め、総員百九十八名を受取、鴻城丸にて都合三回に当救難所に護送し、西山、竹の子島支所は白島沖合に於てボートを認め直に現場に漕付け十六名の遭難者を救助して当所に護送し、当所に於て遭難者に対し衣服及食物等を給与し懇切に救護をなし、殊に重軽傷者に対しては医師をして充分の手当を施さしめ、後、門司碇泊司令部に引渡したり。一時多数の遭難人を救護せし事とて、大に混雑を極めたり
▲十七日午前七時、再び鴻城丸にて遭難地及其近海の捜索に出向せしめ西山、竹の子島支所救助夫は同日筑前沖合に同じく捜索に出向せしも遭難人を認めざるにより、午後帰途中、六連島沖合御用船の西洋形帆船を曳き来るを認め、直に現場に漕付けたり。この御用船は日の丸にして帆船は遭難地に於て佐渡丸遭難人約五百名を救助して帰港中に出会、日の丸曳船して六連島に入港せしものなるにより、救助員一同は遭難人保護の為め諸用に従事中、鴻城丸は未だ帰所せず。右両日出役しをる救助夫は十六日五十名、十七日卅九名」

この記事は、水難救済会の下関救護所から、東京にある水難救済会本部への報告がそのまま記者発表され、東京で発行される読売新聞の紙面に掲載されたものと推測される。引用中「白島」など地名については、山口県西方海域の地図と彦島の地図を参照のこと。彦島の北西側、あるいは、彦島の南東側として、倍率を上げると関連する地名がすべて表示される。

「水難救済会下の関救難所は救助夫長」が現場の指揮者であり、「西山、竹の子島支所救助夫」が実働員であるらしい。「汽船鴻城丸」は、下関水上警察署の汽船である(『山口県警察史』上巻、535〜538頁、山口県警察本部、1978年)。「西山、竹の子島支所救助船」とは、八丁櫓の和船であることが、第8回(6月2日)で紹介する史料から推測できる。


「2.」は、ウラジオストック艦隊が津軽海峡を抜け、遠州灘沖まで来て反転した時の関連ニュースである。

「●白浜沖の砲声   昨日午後三時三十二分布良救難所発にて水難救済会本部に達したる電報左の如し。今帰りたる漁船の談に依れば今朝六時頃白浜沖にて砲声を聞けり(因に白浜は房州の東南岸にして布良より約一里半東にあり)」。館山市布良付近の地図を参照のこと。「布良」は「めら」と読む。


同紙面には複数筋の情報が集まっている。

(1) 「●日英商船の撃沈  昨朝八時半横浜へ入港したる英国船テンナン号の船長の報告によれば同船は一昨日午後五時伊豆大島附近に於て露艦の為め抑留され約一時間半の検査を受けたり。同時刻英国汽船ナイトコマンダー号は露艦の為めに撃沈され上等船員は捕虜となり、下等船員二十一名はテンナン号にて横浜へ送還せられたり....〔以下省略〕」
(2) 「●英船撃沈詳報(乗組員の直話)  露艦に撃沈されたるナイト、カンマンダー号乗組員中にて稍英語を解する印度人の頭なる某は昨朝入港のテナン号船長ヴラウン氏と共に横浜に上陸したるが、その語る所に依れば....〔以下省略〕」
(3) 「●露艦神子元島沖を通過す(七月廿五日午前大本営着伊豆南海岸発)  廿四日午後十一時半頃敵艦と認む可きもの三艘燈火を滅し神子元島沖約五海里の沖を東に向へるを漁船認めたり」、「●救助船帰る(同上)  昨日午後六時四十分救助船帰りたれ共砲撃されし商船に関しては何等の得る所なし」。伊豆半島と神子元島の位置関係。同、より広域
(4) 「●露艦の逆航  昨朝房州野島燈台より其筋へ達したる電報によれば、同燈台東南即ち勝浦沖合に当り砲声聞ゆとあり。要するに該露艦は一昨二十四日午前九時頃伊豆石室岬沖合にて商船撃沈後遠州灘なる天竜河沖合まで西行し、更に引返して昨朝勝浦方面へ逆航したるものならんと」
(5) 「●露艦の東行(廿五日午後大本営着電千葉県発)  廿五日午後一時廿分露艦三隻夷隅郡波花村沖合八浬に於て東に向ひて只今進航中なり」。JR浪花駅が赤い印
(6) 「●勝浦沖の砲声  昨日午前八時十分発勝浦支店より東京湾汽船会社に到着したる電報左の如し。今露艦二隻根中七浬沖非常の砲声船見る(因に記す根中は勝浦湾入口中央に在る中根と云へる一小嶼を云ふには非ざる乎)」
(7) 「●同上後報  昨日午後三時勝浦発にて東京湾汽船会社に左の電報ありたり。『露艦三隻根中沖七浬の処に於て汽船一隻を囲みつゝあり』。又午後五時三十五分勝浦発にて東京湾汽船会社へ左の電報ありたり。『露艦は捕獲船一隻を伴れ東に向つて去れり。第二房州丸は無事勝浦にあり』」

これにつづき八番目として出てきたのが、既に引用した布良救難所から救済会本部への報告電報の記事であった。


以上、第1回(2005年4月7日)。

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2005年06月24日

「○台湾内地間の新聞電報  に関し去る一日左の
 省令発布せられたり
  逓信省令第十七号
  長崎上海間海底電信線を経て本邦内地と台湾と
  の間に新聞電報を送受することを得
  前項の新聞電報には明治三十年六月逓信省令第
  十八号を準用す但其一語毎の料金は金三十四銭
  とす本令は本月十日より施行す       」
(防長新聞、明治33年5月5日1面3段)



2005年6月19日、山口県立図書館にて調査

rshibasaki at 18:01コメント(0)トラックバック(0)<情報化> 

2005年06月23日

この当時は山陽鉄道は三田尻(現在の防府市)まで開通しています。但し、下関・門司方面に行くには、手前の徳山駅で降りて、徳山港から山陽汽船に乗り換えねばなりませんでした。その乗り換えポイントを通過した外国人数が新聞記事になっています。これは、外事警察が扱う事項ですので、警察から取材したデータでしょう。

「○徳山通信    (略)    ▲客月中徳山駅及び山陽汽船にて通過せし外国人員を聞くに惣計二十二名にして此の内最も多きは英国人なりと云ふ」
(防長新聞、明治32年6月15日2面4段)



2005年6月19日、山口県立図書館にて調査

rshibasaki at 14:38コメント(0)トラックバック(0)【鶏肋】(捨てておくには惜しい史料・発想) 
「○在郷軍人心得  従来台湾に寄留せし在郷陸軍々人は本人の願に依り勤務演習の猶予及び簡閲点呼の免除許可せしとの事なるも、客年十一月陸軍服役条例改正の結果に依り、自今在郷の陸軍々人にして一箇年以上台湾に寄留する者は本人の願に依り同地に於て勤務演習に応じ得る事と定められたるに付、該当者は所管聯隊区司令官に願出で同官の許可を得て其の趣を台湾守備混成旅団長に届出づれば、即ち同地に於て勤務演習に応ずる事を得べきなり。尤も台湾には当分簡閲点呼は施行せざる事と定められたるに付、同地へ寄留の在郷陸軍下士以下は、自然の結果、寄留届のみにて免除となるべきに付、別段従来の如く免除出願を要せず。又た在郷軍人(将校を含む)願届書は総て本籍所管の郡町村長を経て聯隊区司令部へ差出すべき成規の処、従来往々本人より直接聯隊区司令部へ差出し来る者ありて聯隊区司令部の事務及び経費上其の不都合尠なからざる由なれば、将来充分の注意を要すべしとなり」
(防長新聞、明治33年1月24日2面3〜4段)


以下の記事と対比。結局、明治33年には、山口県の第42聯隊は、北清事変への出動があり、簡閲点呼は執行されなかった。

「○簡閲点呼に就ての注意  本年山口聯隊区管内簡閲点呼は来る八月一日より施行せらるゝ由なるが、寄留地に於て点呼に参会せんとするものは点呼施行期に切迫せざる以前、予め其の旨を願出づるを要するといふ」
(防長新聞、明治33年4月28日3面2段)

「○在郷下士以下の注意  山口聯隊区管内の簡閲点呼は既記の如く来る八月一日より執行の筈なるが、寄留地に於て点呼に参会せんとする者は来る七月二十五日までに同聯隊司令部に到着すべく出願せざれば一切許可せざる筈なる由」
(防長新聞、明治33年6月24日2面5段)


百科事典の説明。
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かんえつ-てんこ(簡閲点呼)
【兵】予備役・後備役下士卒(陸海軍共通)及帰休兵・第一補充兵(陸軍のみ)を召集してこれを点検実査すること。陸軍の簡閲点呼は其地所管の師団長これを掌り、海軍の簡閲点呼は其地所管の鎮守府司令長官これを掌り、各々これが時期を定め、簡閲点呼執行官(陸軍にては佐官又は尉官に就きてこれを任命し、海軍にては鎮守府兵事官又は海兵団分隊長に就きてこれを任命す)を任命して必要なる訓示を授け、以てこれを行はしむ。簡閲点呼執行官は、指定したる日時に指定の場所に召集せられ出頭したる者に対し、点呼名簿に依りて点呼し、所要の調査をなし、必要の訓示を与ふる職務のものとす。而して其場所・区域及日割等は、陸軍に於ては師団長の通達に依りて聯隊区司令官これを定め、海軍に於ては鎮守府司令長官の命令を受けて簡閲点呼執行官これを定む。点呼令状は、陸軍に於ては聯隊区司令官これを作り、海軍に於ては鎮守府司令長官これを作り、以て郡市長に送付し、郡長はこれを町村長に送付し、市長及町村長は規定の手続に依りてこれを招集せられたる各自に交付す。これが交付を受けたる者は指定の日時に指定の場所に出頭すべきものにして、傷痍・疾病其他事情に依りて出頭すること能はざる者(若くは本人に代りて令状を受取りたる者)は、点呼執行日時までに規定の手続を履みて簡閲点呼執行官に届出づるを要す。もし理由なくして出頭せず又は届出をなさざる者、又点呼の場所に於て簡閲点呼執行官の命に服せず又は其職務執行を妨害したる者は、科料又は拘留に処せらるゝものとす。詳細の手続に至りては、陸軍召集条例(三十二年勅令三九八号)及同施行細則(三十二年陸令二九号)、海軍召集条例(三十一年勅令二四七号)及同施行細則(三十二年海令一○号)を見よ。」
(日本百科大辞典第2巻、明治42年6月、三省堂書店発行)

 

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2005年06月22日

このカテゴリーは、2005年度後期に工学部共通科目「日本の伝統と文化供(総合人間学系人文社会科目、3〜4年次対象)で行う少人数ゼミに対応します。講談社学術文庫に収録されている A.B.ミットフォード著『英国外交官の見た幕末維新』を講読します。その関連の内容を夏以降、書いて行きます。

rshibasaki at 13:57コメント(0)トラックバック(0)「英国外交官の見た幕末維新」日本の伝統と文化 2005-2017 
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