2010年03月27日

26日(金)は、宮城県図書館に赴き、『兵事』のバックナンバーを通覧した。肝付兼行「西比利亜鉄道に対する日本の開港場を論ず」がここにも転載されていた。非常に酸化が進んでもろくなっている。ゼロックスコピーは遠慮して、メモをとるだけに止めた。

46号(明治24年10月10日)より『兵事新報』を『兵事』と改題したが、そのつぎの47号(明治24年10月24日)から、表紙につぎの文言が記されることになる。この雑誌の立ち位置を示すものと言える。
「●兵事は陸海軍人の磁針器なり」
「●兵事は忠君愛国者の大学校なり」
「●兵事は内外兵勢の写真鏡なり」
「●兵事は無気力者輩の感化院なり」
これは軍事教育という概念で呼ぶべき分野なのだろう。社会教育の一部、軍の広報活動とも言えるし、在郷軍人会の前史ともとらえることができる。

rshibasaki at 00:27コメント(0)トラックバック(0)『日記』<世界交通線> 

2010年03月25日

福島に来て、通覧した。分量は多くない。そのなかで中塚明さんが指摘した参謀本部内での1894年8月の議論を示す記述が残ったのは、僥倖といえそう(中塚明『歴史の偽造をただす:戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』高文研、1997年、166〜168頁に引用されている記述)。

当時のメディアの動向=報道の流れと、参謀本部内での検討との相互関係を想定してみるとなにか見えてくるかも知れない。台湾占領論を唱えたグループが世論喚起のためにメディアに台湾占領をリークしたなどという可能性を想定している。

*

[2010年3月30日(火)追記]
『軍事史学』45-4(180)が届いた。長谷川怜「福島県立図書館佐藤文庫」(軍事史関係史料館探訪54)が掲載されている。





rshibasaki at 19:43コメント(0)トラックバック(1)<徳富蘇峰>『日記』 

2010年03月12日

3月6日(土)、7日(日)に、同志社大学今出川校地で開催された、大学コンソーシアム京都主催 2009年度第15回FDフォーラム「学生の学びを支える--つなぐFDの展開」を2日にわたり聴講した。

5年前は個々のテーマ、例えば、初年次教育、FD、キャリア教育、一般教育などを個別に取り上げる段階だったが、今回は、それらが融合し一体化したものとして、個々の大学での具体的な状況に応じて展開させねばならないものとして認識され、プログラムが組まれていた。

それゆえ、一般教育系の工学部「共通科目」と知的財産学部「基礎科目」を担当している立場でも、どの部会に出席してもその内容を自分の職責と関連づけて受容できることになる。

この5年の大学教育をめぐる状況変化が反映している。

rshibasaki at 20:18コメント(0)トラックバック(0)『日記』 

2010年03月02日

 歴史学供 柴崎 2年次〜 参照許可物等なし
1.文章A〜Hは、それぞれどの記事・論文・書籍の一部分か。選択肢から選んで選択肢の番号を記入せよ。選択肢の同一番号は2回まで記入してよい。(1個4点、計32点)
A→____ B→____ C→____ D→____ E→____ F→____ G→____ H→____         
<選択肢>
1. 徳富猪一郎『将来之日本』経済雑誌社、1886年刊
2.『国民之友』連載「日本の国防を論ず」。『日本国防論』民友社、1889年1月刊
3.『読売新聞』1890年11月8日号「陸軍は半兵半農、海軍は半艦半船」
4. 有地品之允「海防意見書」1891年4月11日付
5.『読売新聞』1891年7月17日号「肝付海軍大佐の軍備論(六百五十万円の使途)」
6. 1891年7月刊『兵商論』。『国民之友』1891年8〜9月、Q.S.T.「兵商論」
7.『国民之友』1891年8月3日号社説「対外政策の方針」

文章−A 「吾人は実に云ふ富の力は以て兵に敵す可し。兵の力は以て富に敵す可らす。何となれは今日の世界に於ては兵は富に依て維持することを得るも富は兵に依て維持することを得されはなり」。「今日の常備軍は人民を保護し、人民の生産を保護せんか為に存在すれとも、昔時の人民は此の武士、及ひ高等なる武士を奉養せんか為に存在したりしなり」
文章−B 「日本に於ては(第一)殖民地無し(第二)将来に於ては、或は繁盛するかも知らざれども、今日に於ては、大いなる手広き海外貿易無し、即ち我国人各処に出張するに非すして、外国人等が我邦に出張して取引を為し居れり、去れば海外出交易者を保護するの必要も別段多からざる可し」。「吾人は始終防御のみを説て、敢て一歩も国境を越へて外国に威武を伸ふることに説き及はす、思ふに世の壮士は或は之を不満とするものあらん、〔中略〕、吾人と雖他日事ある時に於ては、太平洋の水、中央亜細亜の野、欧州諸強国と抗衡して、日本の国旗を輝かすことを欲せさるにあらす、唯た其の実力なきを恐るゝのみ」
文章−C 「人は言ふ、兵は凶事なり軍備は不生産的なりと、是れ海陸軍任務の差別を識らざる者の言なり、苟も文明海陸軍任務の在る所を知了せは容易に斯る説の誣妄なるを弁すへし、夫れ海軍の任務は、戦時に於て攻撃又防守上の主働者たるに止らす、尚ほ平時に於て商業漁猟を保護し商民移住民を衛護する等、全く国益の増進を資くるに在れは、寧ろ平和の保証者にして間接には国家の生産を助長する者なり」
文章−D 「平和的政策は何ぞ、其精神とする所は、自衛防御を主とし、其目的とする所は、貿易を盛にし、各国間の好意を敦くし、或は移住と云ひ、或は殖民と云ひ、其他国家の福利と尊栄とを挙て、之を外交的機能の上より補はんと欲する者なり、外交的機能の後には、戦艦軍兵、固より是が後楯たるなり、而して国民の大精神更に之が後楯たるなり、文略的対外政策は、独り内政の改良に衝突せざるのみならず、偶以て内政の改良を成就せしむる、一の方便と為る者あり、何となれば、其貿易を盛にし、其関門を開き、天下の利をして、己れに聚めしむるを主とするが故に、是が為に、積極的に於ては、国民の生産力を加へ、国家の財用を富贍ならしめ、消極的に於ては、国民の壮丁を不生産的に使用し、国家の資本を不生産的に消費するが如きことなきを以て也」
文章−E 「魯国に行はるゝ海軍の組織に倣ひ今後普通の軍艦の外に尚軍艦の用をなすべき商船を造り置き、平時は商船として動かしめ戦時は軍艦の助けをなさしむること恰も陸軍の屯田兵に於るが如く、彼れが半農半兵の組織に倣ひ我は半商半兵、即ち半船半艦の軍艦を備へ置かんことを望む」
文章−F 「以上陳述せし所の計画を実行せらるるに至らば、条約改正の実効を見ることは勿論、平時は貿易の安全を保護し以て東洋の商権を握ることを得、戦時は強敵を海上に邀撃(ようげき)する等の運動を為すは自在たるべきなり。斯の如くして始めて日東一帝国の真面目を発揚し併せて民力休養の実利を享有せしむるに庶幾(ちかか)らん乎。希くば此計画を称賛し以て直に之を実行せられんことを」
文章−G 「此頃横浜に停泊中なる清国北洋艦隊の来航は、我海軍社会に非常の感動を与へたるものの如し。大佐が此頃某氏への嘆息談を聞くに、定遠号は到底水雷の力にあらざれば迚も大砲などにては敵し難し。隣邦既に斯る堅艦を有す。我国豈黙視して止むべきならんや。第一期議会の賜物六百五十万円あり。須く以て世界一等に位する大艦製造費に充つべしと」
文章−H 「平時に於ては、貿易郵送に従事して積極的に国家の利益を進め、戦時或は事変あるに於ては、忽然兵装を施して軍務に従事し、消極的に国家の利益を保護するは、洵に策の得たるものならずや、或は今日軍艦の精鋭なる、到底平時の商船を以て戦時の需要に適し能はさるを疑ふものあらんなれとも、是れ事実の真相を察せさる想像のみ、固より純然たる戦闘艦に比較すへからさるは当然の理なりと雖も、速力を高め、防水区画を多くし、汽機汽罐を保護し、且つ新式大砲を搭置するの準備あるに於ては、所謂兵装巡航船に変して交戦爪牙の間に周旋し、或は偵察用に或は迅速の通報用に或は敵の商船を破壊するに適応すへきは、各国の既に経験せる所なり」

2.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。(1個4点、計68点)
本講義の主題は「国家将来像をめぐる海軍と徳富蘇峰」であった。現在の我々が見落としがちな国家将来像、海軍、徳富蘇峰それぞれの過去の側面を指摘し、それらが組み合わさった場面を、歴史の流れの一例として示した。
(1) 昭和戦前、日本はユーラシア大陸に領土と勢力圏をもつ国家だったが、明治時代まで遡るとそれ以外の可能性も存在した。日本は____________の結果、台湾を領有した。戦後、国土は、千島列島・日本列島・琉球列島・台湾から構成されることになった。当時の日本人は自国を国土の形から「_______________」であると考えた。日本の商社や銀行の支店網がアジア各地に広がり、日本人が各港に居留民団を結成するようになった。こうした状況を背景に、国家の将来を_____________として思い描く基盤が成立した。
<選択肢> 日清戦争、日露戦争、島帝国、大陸帝国、通商国家、軍事大国

(2) 第二次世界大戦の太平洋戦線を華々しく戦い、敗北した_____________の印象が強く残るため、今日、海軍というと__________における戦闘組織として理解される傾向がある。しかし、レーダーもなく、無線電信も開発途上であった明治時代、軍艦であろうと、商船・漁船であろうと、航海から無事に帰港すること自体が困難さを含んでいた。今日、地球の周回軌道の利用が、防衛上、商業上、ともに技術的な困難さを伴っているのと同様の事情があった。明治時代の海軍の活動には、商船・漁船など____________における民間の海洋利用を保護し、また、____________の保護を任務とし、一国の海洋を通じた活動全般を庇護する国家機関の姿があった。
<選択肢> 大日本帝国海軍、アメリカ合衆国海軍、戦時、平時、在外邦人、在日外国人

(3) 徳富蘇峰を人名辞典で調べると、新聞記者・ジャーナリストなどと前半生の職業が記されている。しかし、慎重に眺めてみると、雑誌『____________』および書籍を発行する出版社としての民友社と、1890年以降、『______________』を発行する新聞社の個人経営者としての立場を背負っていたことに気づく。すなわち、____________を主張し、藩閥政府の政権独占を批判した日清戦争前の蘇峰は、自己の経営する新聞雑誌の社会的影響力を確立することを当面の課題としていたとの解釈も可能である。
<選択肢> 東京経済雑誌、国民之友、東京日日新聞、国民新聞、国民主義、平民主義

(4) 徳富蘇峰と海軍の両者に国家将来像をめぐる論争上の接触を強いたのは、1890年以降帝国議会が開設されて、__________年度以降の海軍費を含む国家予算は、帝国議会の承認が必要となった制度的な条件の誕生にあった。特に、各地の選挙区から選出された___________議員は、地域の将来についての具体的な構想とその実現を期待していた。海軍軍人として記者のインタビューに応じた____________は、水路部長として日本の沿岸各地の測量に従事した経歴をもち、こうした地方の実情に通じていたと思われる。
<選択肢> 1890、1891、衆議院、貴族院、肝付兼行、川上操六

(5) _____________を卒業した後、第一回帝国議会頃、海軍編修書記として海軍参謀部に勤務していた__________は、陸海軍備についての新聞雑誌記事を収めた資料集『_____________』を編纂したり、議員や記者に配布する小冊子の執筆を担当した。後に日本郵船に転じて同社の調査部門の創設者となった。かれは、日清戦争前は、「軍用商船」や「兵装巡航船」という名称で、戦時に武装し、国際法上の軍艦として用いるある程度の防備区画をもつ高速商船の建造補助と平時における航路補助金の制度の整備を主張した。この種の商用・軍用兼用の艦船を、日露戦争から第一次世界大戦当時の日本では_____________と呼んだ。バルチック艦隊を発見した信濃丸が著名である。
<選択肢> 東京帝国大学、慶應義塾、寺島成信、曾我祐準、軍備論集、兵商論、特設巡洋艦、仮装巡洋艦











【正解】
1.
A → 1
B → 2
C → 6
D → 7
E → 3
F → 4
G → 5
H → 6

2.
(1) 日清戦争、島帝国、通商国家
(2) 大日本帝国海軍、戦時、平時、在外邦人
(3) 国民之友、国民新聞、平民主義
(4) 1891、衆議院、肝付兼行
(5) 慶應義塾、寺島成信、軍備論集、仮装巡洋艦

rshibasaki at 21:50コメント(0)トラックバック(0)「国家将来像をめぐる海軍と徳富蘇峰」工・歴史学2009-2010 
2月27日(土)、お茶の水図書館にて開催された第6回成簣堂文庫セミナーにおいて、澤田次郎「徳富蘇峰の見たイギリス」を聴講してきた。その際質問で言及した日清戦争中の国民新聞の社説の文言は、つぎのものである。澤田さんの論旨を補強する材料になりそうである。

-------------------------------
台湾を略するの時来る
台湾は如何なる場合にも、之を我が海図の中より逸せしむべからず。況んや之を清国以外の国に有せしむべからず。是れ独り清国を控制するがためのみにあらず。マレー半島の海峡を経て、東亜に入り来る勢力を控制せんがため也。
-------------------------------
(国民新聞1894年11月5日2面)

-------------------------------
何を以て欧州の勢力を支へん
他日、吾人にして、若し欧洲と事を構ゆるの時ありとせよ。凡ての軍需軍隊を、一旦此に集合して、以て漸く我に及ばん。而して其地は台湾を外にして、また何くにかあらん。台湾を我に収むるは、即ち敵国の根拠を奪ふて、更らに我が根拠となすもの也。
-------------------------------
(国民新聞1894年11月11日5面)

rshibasaki at 18:43コメント(0)トラックバック(0)<徳富蘇峰> 
歴史学機 ー萄蝓  。嫁次〜   参照許可物等なし

1.設問2の文章に出てくるA〜Hは、それぞれどの記事・論文・書籍か。選択肢から選んで選択肢の番号を記入せよ。(1個4点、計32点)

A→ _____  B→ _____  C→ _____  D→ _____     
E→ _____  F→ _____  G→ _____  H→ _____
         
<選択肢>
1.「二十世紀の軍事(肝付兼行氏談)」
2.「本邦沿海ノ大勢ヲ知ラシムルノ教科ヲ小学校ニ設クルノ必要ヲ論シ併せて該書編輯ノ意見ヲ述ブ」
3.「海上の権力(肝付海軍大佐の意見)」
4.「西比利亜鉄道に対する日本の開港場を論す」
5.「海洋国家日本の戦略----福沢諭吉から吉田茂まで」
6.『実業論』
7.「「陸奥海王国」の建設と海軍----大湊興業を軸として」
8.『陸奥湾之将来』

2.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。(1個4点、計68点)

(1) 地球表面の自然地理は、その時代に利用可能な交通・通信技術によって、その時代の舞台設定となった。1891年に、日本海の対岸、___________を起点とする____________の建設が始まり、太平洋と大西洋を結ぶ____________建設計画が日本の新聞紙面で話題となった。  A  には、この年に『時事新報』に掲載された後者の建設計画についての社説が引用されている。
<選択肢> 釜山、大連、ウラジオストク、サンフランシスコ、北米大陸横断鉄道、シベリア鉄道
スエズ運河、ニカラグア運河

(2) 肝付によれば、1891年に着工された大陸横断鉄道の日本海対岸にある終点から伸びる航路は三つ想定されるという。その想定を論じたのが  B  であった。上海への航路に面した北九州の港として仮屋、日本への航路に対応した港として日本海沿岸の__________、アメリカ大陸への航路に面した港として__________    
が適地と指摘されている。最後の北米方面への適地とされた地元で出版された本が  C  である。巻末には、稲垣満次郎の論説とともに、肝付の  B  の一部が抄録されている。
<選択肢> 門司、敦賀、青森、大湊、室蘭

(3) 基調講演  D  で、北岡伸一氏は、「明治中期における海軍拡張論は、貿易国家論と強く結びついていた。それはまた、日英米協調論とも結びついていた」と指摘する。これは、談話記事  E  末尾で、肝付が、「余は最後に明言す。二十世紀に於て我が帝国は如何なる事情あるもアングロサクソン人種を敵とすべきに非ず。何となれば其長所を同じくするものを敵とするは国の利益にあらざればなり」と語ったのに符合する。また、福沢諭吉の著作である  A  も、自由貿易による経済発展を基調とした同じ方向性をもつ議論であった。そもそも、今回の講義で扱った明治期にあっては、海洋は、__________という新たな技術によって従来に比して高度に利用可能となったフロンティアであり、地球周辺の宇宙空間が現在の社会に占めているのと相似した意味づけをもつ空間であった。
<選択肢> 帆船、蒸気船

(4) フロンティアにつぎの世代を呼び込むこと、子どもや青年にその重要性を理解させることは、どの時代にあっても欠かすことのできない活動であった。肝付の時代は、20世紀になってから始まる________ メディアがまだない時代である。肝付は、_________の役員を務め、その組織を通じて、義務教育の小学校の教育内容へ影響を与えようとし、また、全国を行脚し__________活動を行った。どちらの場合も、海軍や海洋活動についての理解、すなわち、__________を、子どもの世代を含む国民に広めることを意図したものであった。
<選択肢> 放送、印刷、大日本教育会、東京数学会社、大日本水産会、講演、執筆、海事思想、開明思想

(5) 米国海軍のアルフレッド・セイヤー・マハンが1890年に刊行した『____________』は、その年か翌年には日本海軍関係者の注目するところとなったと推測できる。1890年には、第一回総選挙が行われ、最初の国会である第一回帝国議会が召集された。これ以後、建艦計画を含む海軍の__________は、帝国議会の事前承認が必要となる。海軍は、議員や議員の背後にいる国民に、海軍力整備に対する支持を取り付ける必要に迫られることになった。          
<選択肢> 海上権力史論、海軍戦略、予算、決算

(6) 肝付がマハンの主張について、公開の場で最初に語ったのは、日清戦争中の国民新聞に連載された  F  においてであった。これは、  E  と同様に、マハンの同書第一章で詳述された一国の海洋支配力、すなわち、___________を構成する6つの要素について述べるという形式で語られていた。その6要素とは、国土の位置、国土の形、国土の広さ、人口、国民の品性、政治体制である。授業で配布した  F  では、このうち人口について詳論し、海に関わる職業人をどのように養成するのかを論じている。マハンの論が伝わる以前、1886年に肝付が行った講演  G  においてかつて論じたことのある海軍軍人・商船員の養成に関する主張が、マハンという外来思想との出会いを通じて具体的かつ詳細に提示されるようになった姿を見ることができる。
<選択肢> ネイバルパワー、シーパワー

(7) 今回の講義を組み立てるに際し直接に影響を受けたのは、1997年に発表された平間洋一氏の論文  H  であった。明治期の日本では、マハンの主張を「海上権力」論と訳し、それを短縮して「___________」と呼んだ。単に海軍力だけでなく、海外貿易や移民の手段となる__________、港や造船所などを含め、一国の海洋支配力の全体を発展させる必要が説かれた。先に(1) で言及したように、中米の運河開削と、東アジアとヨーロッパを結ぶ大陸横断鉄道の建設が背景の事情となっていたことは、既にこの論文が指摘している。
<選択肢> 海権論、制海権、商船隊、漁船隊

(8) 肝付兼行は、海軍の__________担当者とでも言うべき役割を果たした。水路部の業務として日本沿岸各地域の実地測量を行い、__________(海図)を作成した。その経歴が、結果として、軍港の適地の選定のみならず、商港の適地選定の権威者としての社会的立場を形作り、無言の権威付となっていたと思われる。
<選択肢> 広報、諜報、水路図、地形図









【正解】
1.
A → 6
B → 4
C → 8
D → 5
E → 1
F → 3
G → 2
H → 7

2.
(1) ウラジオストク、シベリア鉄道、ニカラグア運河
(2) 敦賀、大湊
(3) 蒸気船
(4) 放送、大日本教育会、講演、海事思想
(5) 海上権力史論、予算
(6) シーパワー
(7) 海権論、商船隊
(8) 広報、水路図


rshibasaki at 18:04コメント(0)トラックバック(0)「肝付兼行とその時代」工・歴史学2009-2011 
歴史学  柴崎  1年次〜  水曜・4時限  参照許可物等なし
1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。(1個4点、計100点)
遠目に見ると、A→Cと変化しているように見えるものも、接近して観察するとA→B→Cと、Bの段階が間に入っていたことに気づく。Bの段階として理解できる事例を、講義内容から列挙して見る。
(1) 鎖国により海外との出入が規制されていた江戸時代の日本と、航空機で世界中に旅行に行ける現在との間に、19世紀半ばから20世紀半ばにいたる地表交通の時代があった。大陸を横断する______________________、あるいは、大洋と大洋の間を隔てる狭い陸地である地峡に建設された______________________や大洋と大洋を結ぶ狭い自然水路である____________________を通って世界を結んだ航路により、世界規模の旅行が可能となった。
<選択肢> 運河網、大陸横断鉄道、道路、運河、地峡、海峡

(2) 日本国内における遠隔地交通の歴史を考えると、江戸時代の交通体系と明治時代に始まる鉄道交通の時代の間に、江戸時代と同じ交通ルートを、別の技術段階の交通手段が行き交った時代が存在した。沿岸航路や内陸河川水路においては、江戸時代と同様の動力源の船舶も運航していたが、新たに___________が導入されることで運航速度が向上し、また、定時運航が可能となった。陸上では街道は砂利で舗装され、そこを車輪を用いた交通手段である___________
や____________が行き交った。
<選択肢> 帆船、蒸気船、馬車、人力車、自転車、自動車

(3) 鎖国下の時代と、お金さえあれば一般人の海外渡航が可能となった__________年以降の時代との間に、当時の中央政府である徳川幕府の公務をもつ者のみが正規の海外渡航者であった時代がある。幕府派遣の外交使節、および、幕府派遣の__________が正規出国者の内訳である。また、幕府から見れば密航者であるこれ以外の渡航者には、自分の属する___________の命令による海外渡航者、ならびに、個人的な動機による私的密航者がいた。
<選択肢> 1853、1866、外交官、留学生、藩、府県

(4) 江戸時代以来の伝統技術と、西洋の近代的な先端技術が普及した段階の間には、先端技術の要素を取り入れつつ伝統技術を改良し従来の伝統技術とは質的に異なる生産性をもつ技術が普及した段階があった。第二次世界大戦後の開発援助の経験のなかからこうした技術の発展段階や、その段階にある技術を___________と呼ぶようになった。綿紡績における___________がその実例である。手回しや水車の力でで十数本の糸を同時に紡ぐことができる木製の簡易製糸機械であった。また、輸入した金属製ジャガード織機を、木製フレームで模造した京都西陣の職人の努力も、この技術段階の一例と言えるだろう。
<選択肢> 中間技術、模倣技術、ガラ紡、製糸機

(5) 江戸時代の身分制社会と、現在の日本、すなわち、日本国籍保持者が国民と___________という二つの法的に区別される身分から構成される社会の間に、明治維新から戦後改革までの時代の日本があった。この時代には、法的に区別される身分として、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵という五つの爵位に1884年以降区分されることになった___________があった。
<選択肢> 皇族、華族、士族、平民

また、この講義では、国内の出来事と国外の出来事とを関連づけ、相互の繋がりとして説明することを心がけた。以下はその実例である。
(6) 国外での世界交通の変化と、国内の交通体系の変遷は相互に関連する。世界交通で言えば、最初の北アメリカ大陸横断鉄道が開通し、スエズ運河が竣工した1869年以降、日本から北アメリカ大陸、さらに大西洋航路を経て西ヨーロッパにいたる経路の日本国内からの出発点は__________________港であり、瀬戸内海・関門海峡・上海・香港・マラッカ海峡・スエズ運河を経由し、フランスの地中海沿岸の港町マルセイユにいたる航路の出発点は、神戸であった。シベリア鉄道が1902年に開通することで地表交通の時代はつぎの段階に入ったが、その際、日本国内からの出発点も変化した。日露戦争後、明治末年までを視野に入れると、シベリア鉄道経由西ヨーロッパ行きの日本本土からの出発港は、下関と___________________となった。この変化を目にした日本海沿岸の各府県では、本州中央部と自らの地域を鉄道で結び、新たに整備した近代的な港湾に鉄道を繋げ、さらに、日本海の向こう岸の外国の地域との国際貿易の拠点としたいとの思いから、当時_______________________と呼ばれた地域発展策を試みることとなる。
<選択肢> 横浜、新潟、敦賀、長崎、対岸貿易、環日本海経済圏

(7) まず、19世紀中頃、欧米諸国の艦船が日本近海に出現し、太平洋が航路として着目されることで日本の開国、開港以降の歴史が始まった。明治維新や明治憲法体制は、地球全体が世界規模の交通・通信ネットワークに組み込まれる趨勢に対応した日本の反応から生み出されたものであった。つぎに、第一次世界大戦を契機として、ヨーロッパ文明世界は、第一に、1917年の革命で皇帝を戴く帝国が共産主義国家のソ連に変わった___________________、第二に、ファシズム国家となった____________________、イタリアなど、第三に、民主主義と資本主義を維持したイギリス、アメリカと、三つのモデルに分かれた。こうした情勢の国内への反映が大正時代後半から昭和時代戦前の国内政治であった。さらに、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国とソ連との間の東西冷戦の時代に対応した国内政治体制が、_____________________による長期政権だとすると、最後の四番目の時期、すなわち、1991年のソ連解体、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降の国際情勢に対応したものが、現下の日本の政治の姿であると見ることができる。
<選択肢> ロシア、トルコ、ドイツ、フランス、自由民主党、日本社会党

最後に、近代日本の舞台設定とそこでの出来事を階層構造として捉えた。|詫的条件、地理的条件の上に各時代の技術によって可能となった交通、通信インフラ、そのインフラの上で展開された産業、政治、軍事、教育など各分野の出来事、い修涼罎農犬譟∪長し、年老い、死んで行った各時代の人々による地域、日本、世界への理解とその場における自意識、イ海譴蕕鮟鳥紊箸靴督屬犬觜駝厩餡鳩狙のプロセス。こうした諸側面について講義した。
(8) 明治時代の国民国家形成のプロセスを観察すると、産業、政治、軍事のそれぞれが縦糸として機能した。地域(都道府県や市町村)、日本(日本国家全体)、世界(国際社会での日本の位置)という三領域をつなぐ、政治、産業、軍事の役割が相似形を示す。産業競争では、まず、地域の産物を府県内の共進会や近隣府県合同の地域博覧会へ出品し、その評価が出品元の市町村の評価として参加範囲全体へフィードバックされる。つぎに、政府が主催する日本全体の博覧会である____________________________に各府県から出品された産物は、品目ごとに金・銀・銅メダルなどの賞を天皇臨席の場で授与され、表彰のあり様が全国に報道されることを通じて、受賞地域の名声が日本全国に伝わる。さらに、世界的な博覧会である万国博覧会への出品は、現地での評判が報道記事として国内の全国紙・地方紙に掲載され、出品した府県の評価が日本全国に定着した。政治にも同様の構造があった。当時、府県会・郡会・市町村会からなる地方議会は、総称として              とよばれていたが、まず、その議員を選挙する。その自らの村や町から選出された議員の活躍が地方紙に報道され、府県内の各郡や各市町村における評判となった。つぎに国レベルでは、1890年に第一回総選挙が行われ、第一回______________________が召集されると、速記術によって議事録が作られ官報に掲載された。全国紙も地方紙も議会での演説や質疑を議事録にもとづき詳細に報道したため、地域から選出された議員の活躍が全国的に報道され、国内全域での評価対象となり、その評価が地域に還流するようになる。うちの府県の先生(代議士)たちはこんな活躍をしているという国内各府県間の「お国自慢」の対象となった。さらにその上に国際的な評価の世界がある。議員たちは、日本の国外から投射された「非白人の有色人種の国が憲法を定着させ、議会政治を運営出来るものか」という欧米諸国の視線を意識しつつ議場に臨んだ。その緊張感を選挙区の有権者も共有していた。政治における国際的契機はこうした国外からの評価への姿勢として存在した。
<選択肢> 内国勧業博覧会、全国産業博覧会、地方民会、地域議会、国民議会、帝国議会      

(9) 政治に比べると軍事は判りやすい。軍事における国際的な契機、世界的な評価とは、実際の____________________である。1894年〜1895年の日清戦争、1900年の北清事変、1904年〜1905年の日露戦争への欧米列強からの評価そのものである。ここで重要なのは、当時の軍隊は______________________を基盤として構成された兵士と、職業軍人からなる将校によって成り立っていたことである。全国が師団管区に分かれ、師団管区が連隊区に分かれていたので、連隊番号何番の連隊がどこどこの戦闘に勝利したとか、師団番号何番の師団がどこの地域を占領した等のニュースは、特定の府県や郡から出征した兵士が戦闘に勝利した、あるいは、占領に成功したことを意味した。これも、世界的・全国的な場での地域の評価が世界的・全国的に広まり、その評価が地域にフィードバックした一例である。戦前の日本には「郷土部隊」という言葉があった。当時の日本国民には、地域出身の兵士からなる陸軍部隊が国内的・世界的な場で評価の視線を浴びるという意識があり、日本のなかの我が郷土、世界のなかの我が地域という自意識をもっていたことを示す用語であった。
<選択肢> 戦争、演習、徴兵制、志願兵制

(10) 文部省編『尋常小学歌集』1911年刊は、義務教育の小学校で用いられた文部省編の唱歌集の第3版である。この教科書に初めて掲載された新作の唱歌「__________________________」には、「囲炉裏のはたに縄なう父は過ぎしいくさの手柄を語る」という歌詞が含まれる。(9)で述べた時代を無事に過ごし、自分の子供たちに戦争体験を語る父の姿が歌われている。
<選択肢> 螢の光、冬の夜


rshibasaki at 12:35コメント(0)トラックバック(0)知・歴史学「日本近代の舞台設定」 2004-2013終了 

2009年12月09日

カテゴリー「知・歴史学『日本近代の舞台設定』2004-」を、上の方へ移動しました。過去の試験問題を確認するのに、どこを見たらいいのか判らないとの質問を受けたためです。

第1回の内容だけは、過去の年度とは異なっていますので、その分の問題は正解がわからなくても気にしないでください。それ以外は、説明の仕方は少しずつ変えていますが、同じ内容です。


rshibasaki at 12:23コメント(0)トラックバック(0)知・歴史学「日本近代の舞台設定」 2004-2013終了 

2009年10月14日

昼前になると、わんどの向こう側の淀川の中州から、炊事の煙が立ち上る。
20091014淀川中州から炊事の煙

rshibasaki at 20:16コメント(2)トラックバック(0)周辺の風景『日記』 

2009年10月04日

国立国会図書館憲政資料室「品川弥二郎関係文書」に1通のみ書翰が残る米田勝松について人物情報を確認したく、姫路市に往復した。碑文を撮影した後、文献史料がないかと姫路市立図書館にも赴いた。その場では不明なので、リファレンスの係の方にリファレンスの申請をし、なにか判ったら後日教えていただけるように頼んで帰って来た。

青山製紙組合顕彰碑-1
旧山陽道を歩く」のページにこの碑の位置を示す地図が載っている。
ブログ「興浜(おきのはま)で候」の「姫路市 青山地区へ」というエントリーには、「明治17年に青山村の山口重太郎が大阪から紙の製法を伝えた。その後このあたりで和紙の製造が盛んになり、製紙の創始者で組合の人々の世話をして功のあった米田勝松をたたえた石碑」と説明がある。
碑文は、品川弥二郎が揮毫した文字をそのまま石碑に刻んでいるようである。「念仏庵にてやじ」との署名がある。下に解読を試みる。
青山製紙組合顕彰碑の碑文
青山製紙組合顕彰碑の碑文-2
青山製紙組合顕彰碑の碑文-3











◇和歌の部分の読み
いたつきを積める功は
此の紙の雪の表に顕れにけり

◇変体仮名を元の漢字で表記してみると...
以多都幾遠「積」免流「功」盤
「此紙」延「雪」乃「表」仁「顕」禮尔計理

◇添え書きの部分...解読できない箇所が残る
  明治三十三年二月三日米田さんえ
  被受て遣文留 念仏庵にてやじ
  ~~~~~~~
 (↑下線部解読出来ず)


[2009年10月7日追記]
コメント欄で教えていただいた『兵庫県物産調査書』を、国会図書館の近代デジタルライブラリーで見ることがでる。明治33年7月に兵庫県が刊行した冊子で、105106頁(56〜57コマ)に関連記述がある。

[2009年11月25日追記]
10月9日付で姫路市立城内図書館から頂戴した回答には「『兵庫県飾磨郡誌』に8行程度の記載があり、少し詳しく没年享年等も書かれています。文化財見学シリーズの記載は『飾磨郡誌』によったものと考えられます」とあります。『兵庫県飾磨郡誌』(飾磨郡教育会、1927年)には、つぎのように書かれています。
---
米田勝松は余部村青山の人にして今より三十余年前同村に於て製紙業を創め村内之を学びて製造家多く起り遂に青山の紙と言はるゝに至れり。明治三十三年二月三日。子爵品川弥二郎氏より「米田さんに贈る」とて
  いたつきを積める功は此の紙の雪の表に顕れにけり
といふ和歌を詠み其の功績を称へたり。此に於て有志集まり子爵の詠歌を刻みたる壮大なる顕徳碑を建て其徳に報ひたり。大正四年十一月二十七日行年六十九歳。
---


rshibasaki at 18:42コメント(1)トラックバック(0)【鶏肋】(捨てておくには惜しい史料・発想)『日記』 
Categories
Profile

rshibasaki

Recent Comments
Archives
訪問者数

QRコード
QRコード
「日本の伝統と文化」教科書
  • ライブドアブログ