2005年07月05日

日露戦争と水難救済会に関する三つの新聞記事 〔第1週〕

以下、第1回(2005年4月7日)。

「日露戦争」and「水難救済会」で検索した三つの読売新聞の記事を紹介し、その内容から読み取れる情報を確認する。

1. 1904年6月22日2面7段「水難救済会の活動 運送船常陸丸、佐渡丸の遭難事件」
2. 1904年7月26日2面6段「勝浦沖の砲声 東京湾汽船会社へ電報▽房州白浜沖の砲声 水難救済会本部へ電報」
3. 1904年11月26日2面6段「水難救済会総会へ寄付」
4. 1905年5月30日4面1段「水難救済会下関支部、大海戦の漂流死体及び付属物救護に従事」

「日露戦争」and「水難救済会」で検察すると上の四つがヒットする。そのうち、「4.」は一つ前の発言で紹介した日本海海戦後、下関の水難救済会が現場海域へ赴いたという短い記事である。「3.」はつぎの通りの記事で、調査目的には直接関係しない。
「●水難救済会総会へ寄附  明二十七日日比谷公園に於て開催する水難救済会総会の余興として浅草区須賀町玉屋(福田精吉)京橋区南新堀町玉屋(粟屋品三)の両名は花火を、本所区表町精行堂(倉地義勇)は来会者休憩所用として燐寸一万個を寄附したりと」


「1.」「2.」はロシアウラジオストク巡洋艦隊の日本沿岸への出現に関連するものである。


「1.」は、「●浦塩艦隊の報告(スクルイドロフ中条発電) ルーター電報に依るにスクルイドロフ海軍中将は六月十九日電信を以て左の旨を露国皇帝に上奏せり」という記事が掲載されている同じページの最下段に載ったもので全文はつぎのようになっている。

「●水難救済会の救助顛末  筑前沖の島沖合に於て御用船常陸丸及び佐渡丸は敵艦の為め撃沈せられたる報に接し、水難救済会下の関救難所は救助夫長をして汽船鴻城丸及西山、竹の子島支所救助夫をして救助船を遭難地に発航、捜索に従事せしめたる状況左の如し
▲十六日午前七時救助夫長は汽船鴻城丸にて西山、竹の子島支所救助船二艘を率ゐて遭難地に向け捜索中、鴻城丸は漁船四艘ボート三艘を発見し取調たるに、該漁船は遭難地方に漁業中ボート或は漂流者を認めたるより之れを漁船に救助し下の関港に護送する所なることを確め、総員百九十八名を受取、鴻城丸にて都合三回に当救難所に護送し、西山、竹の子島支所は白島沖合に於てボートを認め直に現場に漕付け十六名の遭難者を救助して当所に護送し、当所に於て遭難者に対し衣服及食物等を給与し懇切に救護をなし、殊に重軽傷者に対しては医師をして充分の手当を施さしめ、後、門司碇泊司令部に引渡したり。一時多数の遭難人を救護せし事とて、大に混雑を極めたり
▲十七日午前七時、再び鴻城丸にて遭難地及其近海の捜索に出向せしめ西山、竹の子島支所救助夫は同日筑前沖合に同じく捜索に出向せしも遭難人を認めざるにより、午後帰途中、六連島沖合御用船の西洋形帆船を曳き来るを認め、直に現場に漕付けたり。この御用船は日の丸にして帆船は遭難地に於て佐渡丸遭難人約五百名を救助して帰港中に出会、日の丸曳船して六連島に入港せしものなるにより、救助員一同は遭難人保護の為め諸用に従事中、鴻城丸は未だ帰所せず。右両日出役しをる救助夫は十六日五十名、十七日卅九名」

この記事は、水難救済会の下関救護所から、東京にある水難救済会本部への報告がそのまま記者発表され、東京で発行される読売新聞の紙面に掲載されたものと推測される。引用中「白島」など地名については、山口県西方海域の地図と彦島の地図を参照のこと。彦島の北西側、あるいは、彦島の南東側として、倍率を上げると関連する地名がすべて表示される。

「水難救済会下の関救難所は救助夫長」が現場の指揮者であり、「西山、竹の子島支所救助夫」が実働員であるらしい。「汽船鴻城丸」は、下関水上警察署の汽船である(『山口県警察史』上巻、535〜538頁、山口県警察本部、1978年)。「西山、竹の子島支所救助船」とは、八丁櫓の和船であることが、第8回(6月2日)で紹介する史料から推測できる。


「2.」は、ウラジオストック艦隊が津軽海峡を抜け、遠州灘沖まで来て反転した時の関連ニュースである。

「●白浜沖の砲声   昨日午後三時三十二分布良救難所発にて水難救済会本部に達したる電報左の如し。今帰りたる漁船の談に依れば今朝六時頃白浜沖にて砲声を聞けり(因に白浜は房州の東南岸にして布良より約一里半東にあり)」。館山市布良付近の地図を参照のこと。「布良」は「めら」と読む。


同紙面には複数筋の情報が集まっている。

(1) 「●日英商船の撃沈  昨朝八時半横浜へ入港したる英国船テンナン号の船長の報告によれば同船は一昨日午後五時伊豆大島附近に於て露艦の為め抑留され約一時間半の検査を受けたり。同時刻英国汽船ナイトコマンダー号は露艦の為めに撃沈され上等船員は捕虜となり、下等船員二十一名はテンナン号にて横浜へ送還せられたり....〔以下省略〕」
(2) 「●英船撃沈詳報(乗組員の直話)  露艦に撃沈されたるナイト、カンマンダー号乗組員中にて稍英語を解する印度人の頭なる某は昨朝入港のテナン号船長ヴラウン氏と共に横浜に上陸したるが、その語る所に依れば....〔以下省略〕」
(3) 「●露艦神子元島沖を通過す(七月廿五日午前大本営着伊豆南海岸発)  廿四日午後十一時半頃敵艦と認む可きもの三艘燈火を滅し神子元島沖約五海里の沖を東に向へるを漁船認めたり」、「●救助船帰る(同上)  昨日午後六時四十分救助船帰りたれ共砲撃されし商船に関しては何等の得る所なし」。伊豆半島と神子元島の位置関係。同、より広域
(4) 「●露艦の逆航  昨朝房州野島燈台より其筋へ達したる電報によれば、同燈台東南即ち勝浦沖合に当り砲声聞ゆとあり。要するに該露艦は一昨二十四日午前九時頃伊豆石室岬沖合にて商船撃沈後遠州灘なる天竜河沖合まで西行し、更に引返して昨朝勝浦方面へ逆航したるものならんと」
(5) 「●露艦の東行(廿五日午後大本営着電千葉県発)  廿五日午後一時廿分露艦三隻夷隅郡波花村沖合八浬に於て東に向ひて只今進航中なり」。JR浪花駅が赤い印
(6) 「●勝浦沖の砲声  昨日午前八時十分発勝浦支店より東京湾汽船会社に到着したる電報左の如し。今露艦二隻根中七浬沖非常の砲声船見る(因に記す根中は勝浦湾入口中央に在る中根と云へる一小嶼を云ふには非ざる乎)」
(7) 「●同上後報  昨日午後三時勝浦発にて東京湾汽船会社に左の電報ありたり。『露艦三隻根中沖七浬の処に於て汽船一隻を囲みつゝあり』。又午後五時三十五分勝浦発にて東京湾汽船会社へ左の電報ありたり。『露艦は捕獲船一隻を伴れ東に向つて去れり。第二房州丸は無事勝浦にあり』」

これにつづき八番目として出てきたのが、既に引用した布良救難所から救済会本部への報告電報の記事であった。


以上、第1回(2005年4月7日)。

rshibasaki at 10:57コメント(0)トラックバック(0)「海難救助ボランティアの日露戦争」工・歴史学2005  

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