2005年07月05日

主力戦艦の関門海峡通過

日露戦争当時の主力艦が関門海峡を通過できるのか否は、海軍省水路部(水路調査)・逓信省管船局(民間船舶管理)・内務省土木局(港湾整備)の境界領域にあり、また、戦時における艦隊の運用にかかわる可能性のある事項である。


防長新聞、明治34年(1901年)

「○山県管船局長の視察  逓信省管船局長山県伊三郎氏は去る十二日港湾巡視管船事務調査の為め馬関に来たり春帆楼に投宿中なるが、今日午後四時より藤井門司港務局長及び目下滞関中の河北本県代議士と共に下の関港湾を巡視し港務上諸般の調査を遂げたり。本日帰京の途につく筈なりと聞く」
(防長新聞、明治34年6月16日2面1段)

「○将校の出発  [略]   九州各地沿岸視察中の水路部長海軍少将肝付兼行氏は五日馬関発鉄路神戸に向ひたり」
(防長新聞、明治34年9月7日2面5段)

「○石川海事官の来県  逓信省海事官石川武之氏は去る五日本県へ出張を命ぜられ不日来県の筈」
(防長新聞、明治34年9月10日2面5段)

「○海務打合せ会  一昨日午後一時より赤間関水上署、下の関海務署、門司港務局、関門両税関署、門司検疫所の官吏等は右検疫所に会合して海事に関する総ての打合せをなしたり」
(防長新聞、明治34年11月27日2面4段)


防長新聞、明治35年(1902年)

「○海事官の出張(二十日午前十一時東京発)  石川海事官山口県下へ出張を命ぜらる」
(防長新聞、明治35年8月21日2面1段)

「○水雷敷設の付属船  呉水雷団敷設隊付属船那沙美丸は去る二十三日下関港に碇泊し同港附近に於ける海上の調査に従事しつゝありしが、同船には牧村海軍中佐以下十九名乗組み居れり」
「○富士艦の通過  帝国軍艦富士艦は一昨日午後六時六連島沖合に投錨、昨日一日間は碇泊し、本日午前十時抜錨、東に向ひ関門海峡を通過する筈なるが、同艦は実に一万二千六百八十七噸の大戦闘艦にして、此の海峡を通過するは今回を以て之を嚆矢とす。右に付水上警察署は他船に於て此航路を妨害せんことを慮かり、一昨日港湾内に繋泊の船舶に対し相当の注意を促したる由」
(防長新聞、明治35年8月26日2面3段)

「○海底の測量  横浜航路標識管理所の山中技師及び柴田海軍少佐等は逓信省の小形汽船水の子丸にて佐賀関より彦島村に来たり其の附近の海底を測量し且山野の地質調査中なるが、来る十四五日頃には全く結了すべしとの事にて、或は燈台建設の計画ならんと云ふ」
(防長新聞、明治35年10月9日2面2段)


防長新聞、明治36年(1903年)

「○那沙美丸の入港  呉鎮守府の御用船那沙美丸は十四日午後六時下関へ入港、阿弥陀寺町沖合に碇泊せしが、其用務は壇之浦及び彦島等に分派の交代水兵輸送及び壇之浦六連間水雷敷設の用務を帯びてなりと云ふ」
(防長新聞、明治36年1月17日2面4段)

「○艦船通過と海峡航路標識  昨年一等戦闘艦富士の馬関海峡を試航したることあり。当時同艦長たりし海軍大佐井上敏夫氏は、此程其実見并に所感を精細に記述して発表したる中に、馬関海峡の航路標識に関する意見あり。曰く、馬関海峡に於ける航路標識は殆ど完備し普通艦船の航路には遺憾なきが如くなるも、吃水大なる艦船、特に暗夜の通過には猶未だ全からざるものあるが如し。富士艦の実験に於ても門司崎より中の洲東端の浅堆を通過し終るまでの航路に於ては頗る不便を感じたり。依りて今後更に左の如く設備を加ふれば、今日我海軍既存の大吃水艦に対し極めて便利なるべし。
 東口中の洲東端現存の浮標を撤去し更に左の三
 浮標を新設すること
 満珠島の東端と北八度西に望む一線と部崎燈台
 を南二十七度西に望む一線との交叉点唐櫃山と
 北六十九度西に望む一線と部崎燈台を南二十六
 度に望む一線との交叉点
 筆立山と中の洲西浮標とを一線に望む線と部崎
 燈と満珠島の東端とを接する一線との交叉点
 前記三浮標共に点燈装置を要す
馬関海峡の潮候即ち潮流の速度、方向、高低、憩潮時、反回時等の風の強弱、風向、温度、気圧高低等に従ひ大なる差異を生ずるが故に、之か定率を検定し且つ航路標識を整備し大艦の航通を容易ならしむることは、軍事上に至大の関係を有するものなれば、其筋に於て充分の調査を遂げられ相当の設計を立て関係者に交渉して一日も速に之が完備を期せられんことを望む。特に航路標識の如きは少なくとも呉鎮守府出師準備計画中に規定し置かれんことを希望す云々」
(防長新聞、明治36年2月4日1面3段)

「○下関海峡の掲燈浮標  長門国下関海峡の西口俎掲燈立標の南微東浅洲上に定置せる高瀬掲燈浮標は燈器破損のため当分の内白色不動の碇泊燈点火の旨告示せしところ、本年一月二十八日より従前の通りピンチ式瓦斯明暗燈を点火せる旨逓信省より告示せり」
(防長新聞、明治36年2月10日3面2段)



同紙には、日露戦後になって、この時の艦長がインタビューに答えた記事があった。メモを取り忘れたため、もう一度さがさないと特定できない。




2005年7月2日、3日、9日、山口県立山口図書館にて史料調査

rshibasaki at 21:39コメント(0)トラックバック(0)<主力戦艦と関門海峡>  

トラックバックURL

コメントする

名前
URL
 
  絵文字
 
 
Categories
Profile
Recent Comments
Archives
訪問者数

QRコード
QRコード
「日本の伝統と文化」教科書
  • ライブドアブログ