2005年07月07日

日露戦争中、救難所の活動 〔第3週〕

以下、第3回(2005年4月21日)。


五万分の一地形図「小倉」の関門海峡、彦島、六連島付近の部分を示し、(1) 下関水上警察署と北九州水上警察署の位置を確認した。(2) 彦島のうちかつて救難支所がおかれていた「竹ノ子島町」「西山町」「福浦町」「田ノ首町」の地名を確認した。


『帝国水難救済会五十年史』のうち「戦時下救難所ノ活動」から「一、救難所敵艦監視報告」「二、戦禍に因る海難救助」を紹介した。
なお、1945年3月10日に本部事務所が戦災により全焼し、『五十年史』に収録された原史料は失われている。
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一、救難所敵艦監視報告

明治37年2月14日午前9時55分、下風呂(しもぶろ)救難所発電
「怪船二隻見ゆ取調中」

2月14日午前11時35分、下風呂救難所発電
「確めたり日本船」

2月14日午後7時20分、下風呂救難所発電
「奈古浦丸附属品漂着、板に弾痕二あり」

2月15日午前3時20分、袰月(ほろづき)救難所発電
「露艦に撃沈せられし奈古丸端艇壱艘当海岸に漂着せり」

2月15日午前4時40分、小泊(こどまり)救難組合発電
「軍艦二艘小島沖合に見ゆ色不明」

2月13日、大間(おおま)救難所長報告
「本日の西暴風雪のため破壊したるボートの附属品浮輪、胴巻其他石油函等当地海岸に漂着候に付検するに、奈古浦丸と記載せるを以て船名録に就き調査候処、右は富山県新湊南島間作氏の所有船たることを認め、直に本人へ通知し、該物品は本職に於て保管せり
数多の保管物品中撃破せられたりと認むるものを摘記すれば
一 浮輪弐個の中壱個は大小弾痕二十壱個所他の
  壱個は三個所
二 長九尺幅七寸の板に砲弾の破片二個埋まれり
三 竪壱尺横六寸の白ペンキ塗り板片に弾痕五個
  所
以上の事実に依り敵艦の為め撃破せられたるの証拠十分なりと推測せられ候

6月17日午後9時2分、下関救難所発電
「常陸丸、佐渡丸十五日筑前沖ノ島附近に於て救助中」

6月18日午後1時00分、龍飛救難所発電
「午前八時三十分魯艦三隻北海道附近より現はれ西に進行せしを認めたり」

6月22日午前2時30分、若松救難所発電
「救助船を出せり収容なし」

7月20日午前10時48分、龍飛救難所発電
「敵艦三隻太平洋に向け当海峡を通過す」

7月20日午後9時00分、下風呂救難所発電
「午前4時敵艦三隻通過」

7月20日、下風呂救難所長報告
「本日午前六時三十分渡島国鹽首燈台と同国恵山岬との間に三本マスト三本煙突二艘、二本マスト弐本煙突一艘(内壱艘は四本煙突の如くなるも霞の為め判明ならず)都合三艘の軍艦を見たり。七時恵山岬東沖合に於て艦影を没す。砲声も弐回聞けり。塗色判明せざるも黒色ならん」

7月20日、下風呂救難所長報告
「正午より六時までの間に遠雷の如き数回の砲声を聞けり」

7月20日、大間救援所長報告
「本日午前四時青森方面より敵艦らしきもの三隻当大間沖合約四浬の所を通過し北海道室蘭方面に航行す
 一 三隻皆黒色にして二隻は壱万噸以上、壱隻は
八千噸以上と認む
 一 旗、霧の為め不明
 一 檣数各々三本
 一 煙突数弐隻は四本壱隻は弐本     」

7月21日、下風呂救難所長報告
「午前十一時三十分濃霧の霽れたる時、昨朝認めたりし同一方面に於て軍艦三隻と小型の戦艦壱隻を認む。間もなく再び艦影を没す」

7月24日、尻屋救難組合報告
「本日午前六次尻屋前浜に於て東京高島と羅馬字を以て記載せる浮輪の漂着したるを発見せり」

7月25日午後3時32分、布良救難所長発電
「当地漁船及他船の話によれば午前六時白浜沖に砲声を聞く」

7月25日午前11時28分、大島救難所長発電
「東南東五浬沖に煤煙を見る今注意中」

7月25日午後6時35分、大島救難所長発電
「午後一時東南東沖に向ひ煤煙を見失ふ尚警戒中」

7月27日午後3時50分、布良救難所長発電
「午後零時五分、一時四十五分東南方に当り砲声遥に聞ゆ」

7月27日、布良救難所長報告
「廿七日南強風海上霧あり。午前八時二本檣赤色煙筒黒色の大船東航せり。十一時頃千倉沖にて砲声聞ゆと聞けり。午後零時五分、一時四十五分東南東に当り遥に砲声を聞く。二時二十分二本檣黒色の煙筒壱本を有せる黒色の大船西行す。望楼より信号したるも遠距離又は霧の為に判明せざりしにや、之に応ぜずして去れり。四時三十分二本檣黒色の一本煙筒を有せる黒色の大船東航せり」

7月30日午後1時10分、下風呂救難所長発電
「露艦三隻此沖近く見ゆ」

7月30日午後4時20分、大間救難所長発電
「午後二時露艦三隻北より大間沖合を通過す」

7月30日午後9時55分、龍飛救難所長発電
「露艦三隻五時四十五分西南へ通過せり」

7月30日午後2時27分、布良救難所長報告
「南方に当り砲声頻りなり開戦ならむ」

7月30日、下風呂救難所長報告
「本日正午十二時尻屋岬沖合に於て艦影三隻を認む。午後一時下風呂七八浬沖合に於て黒色の軍艦にして三本檣四本煙筒二隻、二本煙筒一隻明瞭に見えたり。二時五十分には大間崎を過ぎ日本海に向ふ。折悪しく濃霧の為め艦影を没し又認むるを得ず」

7月30日、布良救難所長報告
「昨夜当所にては石井所長十一時迄詰切り小職は例に依り望楼附近に出張す。十時三十分、望楼にて第二艦隊へ電報送達の為め艀雇入れ依頼に付漁船を雇入れ、組長小谷安五郎外三名望楼長と共に乗船、二十四号水雷艇に送致す。午前二時再び望楼よりの依頼により、小鷹号に送致す。五時艦隊は東南方に向ひ航行し七時十五分水雷艇隊は湾内へ向け航行せり。零時三十分頃より砲声屡々聞 ゆ。二時水雷艇二隻南方に向け疾走、約二十分間を経て五隻の水雷艇続行せり。或は開戦せるならん。南方に方り砲声頻りなり。三時水雷艇は望楼と信号して湾内に向け航行し五時二十分四隻の軍艦当港沖合に見ゆ。之に依りて推考すれば、未だ開戦せざりしものの如し。曩に耳にしたる砲声は何の音なりしや疑はし。八時軍艦及水雷艇は今尚碇泊せり」


二、戦禍に因る海難救助

   常陸丸佐渡丸遭難救助報告(明治三七年六月壱七日下関救難所長報告)
筑前沖の島沖合に於て御用船常陸丸及佐渡丸は敵艦の為め撃沈せられたる報に接し、当所は救助夫長をして汽船鴻城丸及び西山竹ノ子島両支所救助夫をして救助船を遭難地に発航、捜索に従事せしめたる状況左の如し
一、十六日午前七時救助夫長は汽船鴻城丸にて西山竹ノ子島支所救助船二艘に
  て遭難地に向け捜索中、鴻城丸は漁船四艘ボート三艘を発見し取調たるに之の
  漁船は遭難地方に漁業中ボート或は漂流の遭難者を認めたるより之れを漁
  船に救助して下関港に護送する所なるにより総員百九十八名を受取、鴻城丸に
  て都合三回に当救難所に護送し西山竹ノ子島支所は白島沖合に於てボートを
  認め直に現場に漕ぎ付け十六名の遭難人を救助して当所に護送し当所に於て
  は遭難者に対し衣服及び食物等を給与し懇切に救護をなし殊に重軽傷者に対
  しては医師をして充分の手当を施さしめ後門司碇泊司令部に引渡したり。
  一時多数の遭難人を救護し大に混雑を極めたり
一、十七日午前七時、再び鴻城丸にて遭難地及其近海の捜索に出向せしめ西山竹の子
  島支所救助夫は同日筑前沖合に同じく捜索に出向せしも遭難人を認めざるに
  より午後帰途中六連島沖合御用船の西洋形帆船を曳き来るを認め直ちに現場
  に漕付けたり。之の御用船は日の丸にして西洋形帆船は遭難地に於て佐渡丸
  遭難人約五百名を救助して帰港中に出会日の丸曳船して六連島に入港せしも
  のなるにより救助員一同は遭難人保護の為め諸用に従事中鴻城丸は未だ帰所
  せず。十六日及十七日出役したる救助夫氏名左の通り(氏名略)

    大海戦後の救助状況詳説(明治三八年六月九日下関救難所長報告)
  五月二十七、八日の大海戦に付当所は彦島村各支所員を召集し五月二十九日より開戦[ママ]附近の漂流人及漂流物拾得の為め現場に出張せしめたる状況左の如し。
一、五月二十七日午後五時飛脚を以て各支所へ開戦に付救助出船の準備を伝令し
  同二十八日午前五時各支所は竹ノ子島に召集せし処田ノ首、福浦、西山、竹ノ子島
  の四支所応召午前八時に集合せり依て本職は救助方法及遭難の取扱上に付き其
  の心得方を訓示する処あり一同手分をなし現場近く救助に出向せしも何の漂
  流物に出会せす午後七時一同六連島に着翌早々竹ノ子島に集合を約し一同解散せり
一、五月二十九日田ノ首、福浦、西山、竹ノ子島の四個支所午前三時竹ノ子島に集合し
  茲に於て糧食其他の準備を整へ沖ノ島附近を捜索中午前九時沖合に於てボー
  ト一艘に尚一個の漂流物を認めたるに付一同勇を鼓し現場に漕ぎ出したるに
  其附近に山口県鶴江の漁船通過の際同じく之の漂流物を認め現場に漕ぎ付救
  助せり。其内本救助船漕ぎ付たるに豈図らんや其の救助せられし人物は露兵に
  して二名共シヤツ一枚のまゝ一名はボートに避難し一名は浮輪に頭部を差し入
  れ漂流し居たる趣に付鶴江漁船と共に之れを救助し応急の手当を施し竹ノ
  子島支所長山崎彌助方へ連れ帰り、介抱を加へ一方は当所に急報し来りしによ
  り本職は之れを受取方出張後門司碇泊場司令部へ引渡したり。其の露兵は「アド
  ミラルナヒモフ号」艦長海軍大佐ロジヲノフ其一名は同号乗組海軍大尉ロヂヲ
  ウイスキーの二名なり。之の二名は懇なる救助に感し幾度となく謝辞を述へた
  り。後尚現場近く救助に出向捜索の後午後九時頃一同特牛[こっとい]港に到着せり。
  翌三十日午前五時一同豊浦郡特牛港を発し西山竹ノ子島の両所を合して一組
  となし田ノ首福浦を合して一組とし各方面を変して捜索する状況左の如し。
一、西山竹ノ子島両所は二手に分け竹ノ子島は方向を見島方面に西山は沖ノ島
  面に執り共に凡そ八九浬の沖合に出て捜索したるも何等漂流物を発見せず然
  する内に午前十一時頃より東風激烈となり波濤狂湧し来りしに依り進路を転
  し引返すこととなし共に角島附近にて出会し辛ふして午後二時三十分特牛港
  に寄港せり。其れより西市分署長に付捜索方協議せし処漁船等の話による時は
  今日の処にては北方沖合三十浬に多少漂流物ありたれは現今漂流方向は北方
  余程沖合に至らんとの事に付尚翌三十一日も北方沖合に捜索に出つる考なり
  しも前日来の風波止ます依て一応帰村するの決心をなし午前八時特牛を出発
  し沿海捜索しつつ午後五時無事竹ノ子島に帰港一同解散せり。
一、田ノ首、福浦の両所は三十日午前五時竹ノ子島西山両所と共に特牛を発し角島
  方面に航行中東風強く波濤高く豊浦郡神玉村沖合五六浬沖合捜索中雨風益々
  激烈となり以て目的地に至る事を得ず一同引帰し午後六時福浦に帰港一同解
  散せり。
 右の状況にして海上沖合東風激烈怒濤を冒し数日捜索を継続せしめたるも漂流物に取当らざるは遺憾の極なれ共救助夫今回の精励職務に熱注せしは常陸佐渡丸事件の比にあらざる事を認む。本件に従事せし救助夫の氏名は後日賞与上申と共に報告可致候。此段状況及報告候也。
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また同書『帝国水難救済会五十年史』には、続いて「戦時見張につき出願」としてつぎのように記されていることを紹介した。
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       戦時見張につき出願
 同年三月四日、本会は露国との交戦を知るや、既設救難所二十四個所、支所二十七箇所、救難組合十個所に命して其見張を厳重にし海上の看守を怠ることなしと雖も軍国の事一に機密に属するを以て同しくは当局の認可を経て本会の見張か戦時中公の見張に任し猶海軍望楼の設備なき地に於ては本会は適宜望楼を新設して見張の完璧を期さんとす。以上の趣旨を逓信大臣に出願したり。
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この講義を行っている4月21日に手元に筆写のあったつぎの『防長新聞』(山口町で発行)の記事を示した。
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明治37年6月23日2面
「○水難救助部長の嘱託 下関水上警察署巡査部長加藤信太郎氏は帝国水難救済会下関救難所救助夫長の嘱託の辞令を一昨日総裁の宮殿下より拝受したり」

明治37年1月15日2面
「水難救済会の行賞 大日本水難救済会にては堀警察分署長、警部金子馨氏が佐波郡委員として大日本水難救済会事業の拡張を図り功労すこぶる顕著なりしを以て、之を表彰せん為め、特に終身正会員に列し、木杯壱個並に慰労金十五円を贈与し、又金子氏の指揮に従ひ会員の募集に努力したる同署員村田悟氏は金七円を、藤村常之進氏は金五円を、斎藤貞一氏は金四円を、岩崎佐一氏は金三円五十銭を、中原安次郎、綿貫誠四郎の両氏は各三円を、立野唯一氏は金二円五十銭を、久芳福松、石村力蔵の両氏は各金二円を、秦与一郎、品川道捨の両氏は各金一円五十銭を、何れも慰労として贈与し来りたる由」

明治38年2月23日2面
「○水難救済会監事の来関 帝国水難救済会監事村田寅太郎氏は、今度吉敷郡小郡町へ下関救護所支部設置に関し同村へ実地検分のため来りたる序を以て恰も同所より斎藤下関警察署所長の帰関に付き差廻はしたる水上署の鴻城丸に便乗して、去廿日下関市に来たり、救難事務を視察し同夜十時山鉄列車にて帰京したり」
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以上、第3回(2005年4月21日)。




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