2005年07月24日

三つの先行研究。連休中の史料探索 〔第5週〕 

以下、第5回(2005年5月12日)。


先行研究の検討(その1)。
"ARMING AMERICA: THE ORIGINS OF A NATIONAL GUN CULTURE", Michael A. Bellesiles
ハードカバー版(2000年9月刊)
ペーパーバック版(2003年11月刊)
前回最後の塚本学さんからの引用の末尾に「太閤刀狩り以来、日本人には、自分で安全を守る習慣なしといった歴史像」という文言があった。日本の場合の「非武装社会日本の伝統」という神話と、「銃砲によって自衛してきたアメリカ人」という神話とは、形は逆だが、同じ種類の史実と違う歴史像が社会に共有されてしまっているという現象であろう。

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先行研究の検討(その2)
鈴木淳・著『町火消たちの近代----東京の消防史』(1999年11月刊)
鈴木淳・著『関東大震災---消防・医療・ボランティアから検証する』(2004年12月刊)

一つ目の『町火消たちの近代』のうち「全国消防組の模範」という節の冒頭(146〜147頁)につぎのように記されている。
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 明治二七年(一八九四)二月9日、勅令第一五合消防組規則が制定された。これは、府県知事が消防組を設置する場合の準拠法規であった。
 消防が警察行政の一環であることは、東京では川路利良の主張が受け入れられるかたちで、明治六年末から制度的に明示されていた。しかし、それ以外の地方では規定がなく、消防組は市町村の条例に準拠して、あるいはまったく私的に設けられていた。内務省は、これら従来の消防組をすべて廃止し、府県知事の警察権にもとづく官設の機関として消防組を設置することを命じた。これにより、基本的に市町村を単位としてその費用負担によりながら、府県の警察部が任免する人員からなり、警察署長が指揮監督する官設消防組が各地に設置された
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『防長新聞』に出てくる山口県の事例では、日露戦争前後に、私設消防組から公設消防組への転換が順次起こっている。なお「私設消防組」「公設消防組」という表現は防長新聞で一貫して用いられている。


二つ目の『関東大震災』では、第四節「大正の震災ボランティア」の末尾「ボランティアと統制」(219〜220頁)で、現在と当時の地域社会を対比している。
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 震災の記録に頻出する青年団・在郷軍人会という言葉は、ボランティアとは一件かけ離れている。しかし、それらの団体ではほとんどの場合、個人が活動に加わるか否、地域の小単位が何をするか、自分達で判断していた。また青年団という言葉は既成組織をさす場合のほか、避難所で青年団を作らせるという表現が見られるように、地域や避難民集団の中から自主的に救護作業に参加した若者たちを指す場合もあった。地域住民や町村有志の来援を含め、震災時には多くのボランティアが活躍したのである。そして、一部市街地の焼け残りも、早い時期からの医療や救護の一定の展開も彼らの活動に支えられていた。
 しかしボランティア的な活動は多くが、のちに自警団活動に収斂して行ったがゆえに、個々の善行とはなっても自主的な動きそのものとしては高く評価されにくかった。自主的なだけに事を好む人が主導権を握って事態を混乱させがちであったという反省は、官憲の統制を受けた活動が好ましいとの教訓を残した。また、その後に町内単位で取り組まれた配給品の運搬や配給活動は、区から割り当てられた物資を運ぶというまさに統制の下で働くことで初めて機能する活動であった。それゆえに、震災時のボランティアの活躍にもかかわらず、結果としては諸団体への指導の強化や行政の下請けの性格が強い町内会が生み出されたのである。
 災害に立ち向かう、無償で罹災者に力を貸すといった意識や行動は同じでも、時代背景の違いによって、それが次の時代に与えた影響は異なってくる。
 群馬県に象徴される来援ボランティアは、少なくとも初期に大きな貢献をしたが、その指揮や宿泊の面で問題があり、行政はこれを今後のあるべき形とは考えなかった。確かに市内山の手の青年団が日帰りで出頭してくれた方がはるかに合理的であるし、自警団現象さえなければそれは不可能ではなかった。さらに、指揮や宿泊の問題が緩和された時期になると、地域内の失業対策が優先されて無償奉仕は排除された。月給や年金による生活者が多い現代とは異なり、日給で就業する、あるいは中小経営で働く人が多く、職場の破壊や消失が時差なく失業に結びついたからである。
 現代の眼から見れば、震災時の人々の活動は、基本的に地縁集団である青年団、在郷軍人会、町内会、また家族や同僚、知己、出入先、郷里といった人々の縁に規定されていた。固い結束が可能だった地域が火を食い止める可能性を持ち、見舞いを兼ねた人の縁による救助や収容や救護が主流であった。
 地域外からの来援ボランティアの活躍が注目される現代ではやや違和感があるが、関東大震災と同様に大規模な災害が発生した場合にはやはり、被災地域内や直近の人々の活動に待たなくてはならないところが多い。この時代以上に地位のつながりが薄く、通勤距離が長い我々がどう動けるか、人間や社会の知恵が問われる。
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先行研究の検討(その3)。
金指正三(かなさししょうぞう)著『近世海難救助制度の研究』(1968年刊)

著作当時、海上保安大学校の教授だった著者による江戸時代の日本の海事法制の研究である。「序説」「一 研究の目的」はつぎのように書き出している。
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 わが国における現行の海難救助制度は、水難救護法およびその附属法・船員法・船舶安全法施行規則・海上保安庁法・商法および海難救助条約等の諸法令に基づき、一方において他人の利益を保護すべき義務に従って、海上における危険を積極的に克服すべきことを命じ、他方かかる義務なくして第三者が危険克服に寄与した場合、救助者に救助の報酬すなわち救助料請求権を認め、救助を奨励して海上交通の安全を期し、公益を計ると共に商業の便宜を増進することを目的とするものである。而して、この制度は、明治以降、明治政府が範を西欧に採り、西欧に発達した該法制を採り入れ、累次改廃の過程を経て現在に至ったのである。
 この制度の特色は、一面において道徳に根底をおくと共に、他面において救助を奨励する政策を加味していることである。これは、この制度が確立するまでに、次の如き変遷をたどったからである。すなわち、西欧においては古代から沿海住民に遭難物占取の慣行があり、中世には更に遭難物占取権なる観念が普遍化し、遭難物は挙げて海岸権所有者の取得に帰すると考えられていた。これに対して、教会はかかる慣行を禁止し、海商都市の海法は、占取権廃棄の規定を設けたが、その実効は見られなかった。しかるに、近世に至り国家がその権力をもって、遭難物占取を禁止すると共に、海難救助を義務とし、救助者に救助報酬請求権を与え、救助を奨励する積極的政策を採ったので、遭難物占取の慣行は消滅し、近代に至って現行制度が確立するに至ったからである。
 しかるに、かかる慣行はわが国においても古くからあり、これに対する政策も西欧におけると同様に、中世の遭難物占取禁止という消極的立場から、近世に至り救助を義務付け、これを奨励するという積極的立場に移り、わが国にはわが国固有の海難救助制度が発達し、明治におよんだのである。明治政府がその初め施行した「浦高札」による制度がそれである。前記の如く、明治政府は、このわが国固有の制度を数年にして廃止し、西欧に発達した制度を採用したが、遭難物占取の慣行はもはやほとんど廃滅し、その効果の見るべきものがあったのは、わが国民が江戸時代以来、この法制に慣らされ、その法の精神をよく理解していたからに外ならない。明治政府が採用した西欧のこの制度は、一六八一年のルイ十四世の「海事勅令」によって始まるといわれるが、それと同じ立法精神であり、制度として比較するも何ら遜色を見ないわが国固有制度はこれより早く一六二一年(元和七年)、江戸幕府によって創められたものであり、わが国海法発達史上、極めて重要視さるべきものである。
 ゆえに、この法制に関しては、学者によって早くから研究されていた。中田薫博士の「徳川時代ノ海法」(『法学協会雑誌』三二の三・四)、竹越与三郎氏の『日本経済史』(第八巻)、住田正一博士の『日本海事法』、生島広治郎博士の「徳川時代に於ける海難救助の建議希有」(『国民経済雑誌』三四の五、三五の二)等の論者はそれである。しかし、これらの諸研究においては、遠隔的研究がなされておらず、また、いずれも江戸幕府の法令を挙げたに止まり、諸藩の法令におよばず、津々の申合せ、郷村における漁民間の慣行等に至っては、これを説くものほとんど皆無といってよい。著者は深くこれを遺憾とし、海難救助に関する海事慣行とその法制の実施状態の究明に意を用い、江戸時代の海難救助制度の全貌を明らかにせんとした所以である。
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つぎのようなワープロ打ちのメモを配布。
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○国立国会図書館で帝国水難救済会機関誌『うみ』のバックナンバーを見る。
(1) 第1号(1900年7月)から第10号(1901年3月)は、海事思想の涵養を目的とする面と海難救済会の救難所設置の進展を報告する記事が見られる。
(2) 残念なことに、日露戦争中の分は残っていない。
(3) 第8年1号(1907年1月)〜第8年9号(1907年9月)は、寄付会員向けの色彩の強い雑誌となる。
(4) 第8年4号(1907年4月25日発行)に掲載された、塚原周造(帝国水難救済会理事、元・管船局長)の執筆した記事「水難救済事業」がおもしろい。
 明治以後も、外国船に対して分取りを働き、英国公使パークスが取締りを日本政府に求めたことがあった。その結果、明治11(1878)年、難破船漂流物取扱規則を定め、翌明治12(1879)年、米国政府よりの申し入れの結果、難破漂流民送致に関する条約を締結。

研究史上、金指正三著『近世海難救助制度の研究』(吉川弘文館、1968年)という著名な業績がある。この内容から近代海事史への展開について、研究状況を確認する必要。

○『九州日報』1904年6月5日号3面「軍隊と漁業隊の渡海」という記事を見ると、日韓協定によって「我漁業権確定」。香川、和歌山、鳥取、山口の各県では県庁が漁民に渡海操業を奨励することになった、という趣旨が書いてある。

○『防長新聞』1905年10月26日号2面
「○見島の望楼廃止 本県北海の一孤島たる阿武郡見島には、昨年日露開戦の後、望楼を設置せられたりしが、両国媾和の成立して平和克復の今日に於ては最早必要なきを以て、本月十九日限り全く之れを廃止せられ昨今其引揚げの準備中なり」
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二番目と三番目の記事は、手元にあった調査ノートから面白そうなものを書き抜いただけ。特に説明はしなかった。

塚原周造は分捕りの旧慣が明治になっても残り、それを廃絶し、近代海事法制を実現した自分の業績を協調する立場にある。金指正三さんは、ずっと後、日本近代を近世との連続性として捉える視角をもち得る時代から振り返っている。


『海』掲載の塚原周造執筆の記事に対応する記述が『塚原夢舟翁』(塚原周造氏海事関係五十年紀年祝賀会委員・編集発行、1925年刊)にある。第二章「在官時代(上)海事行政上の努力」四「海難救助に関する規則の制定並に条約の締結」(22〜23頁)である。近代海事にかかわった人々に共有された昔語りの一つであろう。この辺については、海事法制の近代化について、今回は深入りしないが、別途調査が必要な課題である。
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 明治十一年一英国船が岩手県下で遭難の際、其の地の貧民の為めに掠奪を蒙つたと云つて、英国公使パアクス氏が外務省に呶鳴り込んで来たことがあつた。外務当局は直ちに君の意見を徴して善後策を講じ、管船課雇英人ブラウン氏と外務大書記官石橋政方氏を遭難地に急行せしめ、地方警察と協力して実地を調査し、掠奪品を取り戻した上犯人は警察の処分に委し、遭難の英人には相当救護を加へて陸路横浜に送還し、英領事へ引渡したことがあつた。
 翌十二年になつて、難破救護の費用は日英両国とも相互に政府で立替へることゝし、英国の申出に依つて一の条約が締結されることになつたが、我難破救護の方法は英法に準拠したものであつたから、英国は早速我提案を認めたのであつた。事は小なりと雖も、我国が外国と対等条約を締結したのはそもそも此の協約が嚆矢である。次で明治十三年には米国とも英国と同様の条約が結ばれた。
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以上、第5回(2005年5月12日)。



rshibasaki at 17:05コメント(0)トラックバック(0)「海難救助ボランティアの日露戦争」工・歴史学2005  

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