2005年07月25日

海難救助の近代化。日本赤十字社との対比 〔第6週〕

以下、第6回(2005年5月19日)。



前回最後の事例。岩手県における英国船遭難と海難物掠奪について、関連する新聞記事を見つけた。これを見ると、遭難があった年代が1881年11月であり、塚原周造の回顧とは食い違う。他の史料にもあたり事実確定の必要があろう。
なお遭難地は「ひがしへいぐんおもえむら」と読み、現在の宮古市重茂である。
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○昨年の十一月英国の商船が一艘難風に出遇ひ岩手県下東閉伊郡重茂村の海岸へ漂着せしかば同県庁より官吏を差向け救助のうへ函館まで護送せしに、彼等は何と思ひしにや、其後横浜へ廻り岩手県の官吏は我等を海賊の如く取扱ひ、また村民共は手に手に船貨を掠め取りたりなど該領事へ訴へ出でしにぞ、此事を領事より我が外務省へ照会に成りしに付き、先頃同省より石橋大書記官とお雇英人ブロンの両氏を岩手県へ派遣せしめ事実を聞糺せしに、県官の申し立には、最初右船が重茂村へ漂着し乗組一同上陸して該地に滞留中其人々は何の為めか知らねども折々短銃を放つに、村民共は恐怖するゆえ宮古警察署より保護のため近傍へ巡査を配置せしを、彼は却つて我等を怪しむと思ひ錯りたる者ならん、又上陸の節船貨を掠め取りたり抔とは思ひも寄ぬ事にて、彼等が上陸すると間もなく船は覆没したり。殊に此際は言語も通ぜざるゆゑ県官は申すに及ばず郡吏等も彼此奔走して随分心配いたしたる儀に候との事なれば、石橋大書記官を初め是に関係の人々は一同重茂村へ出張して昨今村民をも取調べ且つ該船の沈没せし海浜を捜索し沈没の品物なども取調中の由、同地より通信。
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(読売新聞、1882(明治15)年3月11日、朝刊、3面)

記事のトーンからは、欧米船の遭難やそれにともなうトラブルに際したナショナリスティックな雰囲気を感じさせる。



また、同紙には、水難救済会組織前の自主的に地域で結成された救助組織の例が出ている。
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○大島海防組  福岡県下宗像郡大島は神湊の西北を距る凡そ六海里にして玄界洋中の一孤島なり。人民は概ね純朴にして甚だ愛すべきの風あり。然れども開進の度は同県下の最下等に位ゐし、男女を論ぜず都て裸体にして白昼路上を徘徊し恬として愧づるの色なく、其鄙野なる実に見るに忍びざるものあり。戸数は三百余にして打ち六七分は純粋なる漁戸より成立ち其他は農漁兼業の者なりと云ふ。夫は扨置き同島は日本海中の一難航路たる玄界洋中の一孤島なれば、年々歳々暴風波濤の時に際し難船の此に漂着するもの其数幾干なるを知らず。或ひは往々洋中の波間に漂ひ遂に海底の藻屑と化するものも亦少しとせず。去ば爾后斯る危急に方つて之を救助するの方策を予じめ設けざるべからずとて、今回同島の戸長吉村発典外数名の発企にて普く義捐金を募集し堅固なる規約を結びて題号の如き組合を設け此程県庁へ認可を出願せしとぞ。その組織は総員七十名を四組とし毎組に小頭二人、伍長四人、組員十五日とし、現に客月三十一日組合員一同が同村沖津宮前に整列して各自規約書に捺印し夫より一艘に十五人づゝ乗組み四艘の艀船にて競漕会を催したるよし
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(読売新聞、1887(明治20)年8月20日、朝刊、3面)

本講義で扱う山口県豊浦郡彦島村の近隣であり、状況も類似していたであろう。

なお、インターネット上のサイトしては、「沼津救難所(MRJ沼津)の歴史 沼津市我入道青年会」も、水難救済会結成以前の沿岸での海難救助組織の様相を窺わせる。



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帝国水難救済会を理解するための比較対照の素材として、日本赤十字社を取り上げた。水難救済会自体、自らを「海の赤十字」と呼んだように、理念や組織について先行する模範として考えていた。
現在の日本赤十字社のホームページから「赤十字を知る」のコーナーに入り、「創立」「沿革」⇒「明治」を示した。オリーヴ・チェックランド著『天皇と赤十字: 日本の人道主義100年』(2002年刊)を紹介した。



以上、第6回(2005年5月19日)。

rshibasaki at 13:14コメント(0)トラックバック(0)「海難救助ボランティアの日露戦争」工・歴史学2005  

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