2005年07月26日

本部との関係、警察官の関与、知事が委員総長。肝付兼行「海国的国民の大覚悟」 〔第7週〕

以下、第7回 (2005年5月26日)。



この間、入手した防長新聞の記事からつぎのものを示した。
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〔記事−1〕明治38年12月22日2面
「○吉井伯爵の一行 一昨日午前十時来山、湯田松田楼に投宿せる帝国水難救済会長伯爵吉井幸蔵氏は、村田同会幹事と共に仝日午後二時県庁を訪ひ、渡辺知事以下同会に関係せる人々に面会し、本県東南海岸一帯に水難救済所の新設を見るに至りしは本県の尽力容易ならざりしを謝し、尚ほ将来、長門北海岸にも同様設置さるゝに至らん事の希望を述べて帰宿し、当夜知事、林、依田の一四両部長、原保安係主査、湯浅同警部等を招きて晩餐を饗応されたり。因に同伯は貴族院開会の期迫りたるより他への巡回を止めて昨日正午出発、直に帰東の途につけり」

〔記事−2〕明治39年3月10日2面
「○水難救済会徳山組の役員選挙 同組は当分都濃郡内太華村字櫛ヶ浜、粭島〔すくもじま〕及徳山町の三カ所を管轄し居る事なるが、此程役員の選挙を行ひ、部長中村右一、組合長田島広吉、粭島組合長石丸安次郎、太華村浜田才吉、徳山高橋嘉助の諸氏と定まり、外に救助夫各組に八名宛を置く事となり、此程夫々本会より辞令書を交付せり。右に就き来る四月中旬を期し発会式を挙行すべき筈」

〔記事−3〕明治39年7月20日2面
「○水難救護会員募集奨励 大津郡西部各村に於ける同会員募集奨励は、前人〔ぜんびと〕丸垰〔まるだほ〕警察分署長警部長谷川和介氏が、三宅巡査部長を従へ、前月以来各村を巡回、頗る熱心之れが募集に勉め、其成績何れも良好にして特に向津具村大字川尻の如きは海事思想発達し、同地有力家は悉く此の事業を賛助するの情態なるが、長谷川署長他に転任以来、三宅部長は鋭意事に当りたる結果、同地に於いては千円以上の拠金を造りたる由。就中天野清太氏の如きは一百五十円拠出することに決定し其他村々にも続々申込者ある由」

〔記事−4〕明治39年7月27日2面
「○水難救済会義金募集成績 玖珂郡高森分署詰中村巡査部長は其管内へ出張し、水難救済会義金募集を為したるに、成績良好にて、予定配当額五千六百円に対し、最早半数以上の応募者あり。遠からず全部収納し得る見込みなりと」

〔記事−5〕明治39年8月21日2面
「○水難救済会委員副長会 既報の如く帝国水難救済会本県各郡委員副長会を県庁構内なる巡査教習所講堂に開き着席定るや、委員総長渡辺融〔とほる、県知事〕氏の事務上に関する一場の訓示ありたる後、依田事務官は告別の挨拶を為し、夫より一同は紀念〔ママ〕の為め県会議事堂傍に於て撮影せり」

〔記事−6〕明治39年12月13日3面
「○下関の赤十字社員勧誘 下関市役所に於ては、先般来各課とも赤十字社員勧誘に努め、毎週日曜の如きには、殆んど総出にて尽力する処ありしが、已に三百名に垂んとする〔なんなんとする〕の加盟者を得、尚進んで五百名に達せしめんと、目下頻りに勧誘中なりと云ふ」
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最後の〔記事−6〕は下関市役所職員が休日出勤をして日本赤十字社社員募集活動を行っているという内容である。前回紹介した水難救済会にとっての対照事例としての赤十字社の実態を示す。しかしこれは現在においても地方自治体と日本赤十字社の関係として、基本形は変化していない。『日本赤十字の素顔』(赤十字共同研究プロジェクト・著、2003年)第1章「町内会と日赤の奇妙な関係 --- あなたもわたくしも『日赤社員』?」に詳しい。

〔記事−5〕は、県知事が水難救済会の県の「委員総長」という名の責任者を務めていることを示す。

〔記事−3〕〔記事−4〕は、警察官が水難救済会に対する寄付「義金」の募集に従事していることがわかる。 

〔記事−2〕は、実働組織として沿岸地域で救難活動の携わる「救難組合」の役員選挙の記事である。内部的には、選挙で役職者を選んでいることがわかる。

〔記事−1〕は、救難所の新設などに際しては、本部と地元県庁・警察の協力で進められたことが読み取れる。

なお、第3週の末尾に示した三つの記事も参照のこと。救助夫長は本部からの任命であり、会員募集に尽力した警察官には本部から賞与が与えられたことがわかる。



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前週からの間の史料探索で得た最大のものは、山口県の地域関係者に向けた水難救済会当事者からの発言を見つけたことである。


「  ○海国的国民の大覚悟(十二)
    (廿一日県立師範学校に於ける演説の要旨)
  帝国水難救済会理事  海軍中将 肝付兼行君述
    第四章 水難救済機関の必要(上)
余は水難救済会創立以来事に参与し三十一年から各県を巡回しつゝあるが、本県の如きは成績の佳良なる全国第一に位し、割当額に達する亦近きにあらんとす。此上ながら県民諸氏の公徳心に訴へて本会事業の御賛同を望みます。我国に此水難救済会が起ましてから即ち二十二年から三十七年迄の各国統計がありますが、欧州にては白耳義は二十里にも足りない海岸を有して居るに過ぬが官有で、他は国民事業の方が多い。米国は政府事業で、欧州ては比較上英国が第一に発達し、其次が露国で全国に九百八十ヶ所ありて、英国では管船局の所轄に属するものが三百九十四ヶ所で私立のものが三百もある。民業の方は例の公徳心の高き国のことであるから、人民が志望すると其遺産を這般の公共的事業に惜気もなくポンポン寄付する。そこで一番多額に出して居るのは一人にして三万磅(六十万円)も出して居るのがある。我国の水難救済会事業の起源は故黒田伯爵が露西亜に使し、親しく仝国に於ける水難救護事業発達の情況を視察し大に感ずる処あり、明治二十二年帰来其創立を企画されたが、先づ最初には昔からの慣習があるから船神様と云ふ因縁から、讃岐の琴平社に崇敬社と云ふを設けて、船舶所有者其他から毎月三銭宛の寄付を募集し、是れが基礎となつて今日の水難救済会が出来たのである。それで創立明治三十二年より三十七年迄の統計に徴すると、其救済成績は救済度数が二千一百九十三度其中で西洋形船は二百九十三隻其噸数二万七千余噸日本形船は線八百五十二隻の多きに上り、救護人員が一万八百四十一人海から拾揚げた石炭とか何とか云ふ様な物の価額だけでも二百七十三万円にも達し、総体から救済された積荷の価額は四百六十二万円にも及で居る。是れに船舶の価額八百三十万円を加へたなれば、約千三百万円も空しく海底に沈む物を救ふて、貴重なる人命の一万三千八百四十七も救助した訳であるから、人道の上より観ると一方国家の富と云ふ典から考えても大に社会に貢献したもので、是で何程位金を要したかと云ふに僅々四十万円を使用したのみで、即ち四十万円の資本で金で買はれぬ一万三千八百四十七の人命と千三百万を利益した訳であり、此顕著なる国家経済から苟も公徳心ある物は是に向て十分の注意を払ふであらう。欧州から来る外国船はまず長崎に来りそれから神戸横浜と航行する。それに其視界に水難救済所の目標々燈なぞが多く見ゆると、成程日本人は公徳心に富で居る善い国ちゃ感心な国民じゃと安心して来航する。若し這般の設備が整頓せぬと日本人は公徳心が発達せぬ面白からぬ国危険なる海であると、自然に其感情が幾分か通商貿易の上に障礙を及ばす様なことになつて来る」
(防長新聞、明治39年5月6日2面)

一つめの下線。明治31年とは、第2週で示した年表によれば、逓信省からの補助金がでることになった翌年度である。法人格をもち、全国的な組織形成に取り組み始めた時点であろう。その時から、全国行脚を始めている。山口県は、会員へ応募、義金の醵出が全国上位であるという。

二つ目の下線。金刀比羅宮の信者団体は、救助活動の実行組織の基礎となったというよりも資金的な基礎を提供したことを、この記事のこの文言で初めて知った。

三つ目の下線。下関から神戸への瀬戸内航路は国際航路であるということがわかる。そこでの救助体制の整備が欧米との文明国としての立場の基礎になり、また、通商貿易の基礎となるとの認識が読み取れる。



「  ○海国的国民の大覚悟(十二)
    (廿一日県立師範学校に於ける演説の要旨)
  帝国水難救済会理事  海軍中将 肝付兼行君述
    第四章 水難救済機関の必要(下)
明治十八年のことであるが、米人「カシミル」以下九名の乗組みたる風帆船、琉球沖にて風波の難に遭遇して沈没したので、一同は一隻の短艇に身を委ねて食ふに食物無く干大根を齧りながら渺茫たる洋中を漂流し、其内五人は果敢なくも船内で死でしまい、四人だけ鹿児島県の種ヶ島に漂着した。其とき同嶋の住民が色々親切に労はり世話をして、其筋の手を経て夫々帰国の手続をしてやつた所が、是に就て米国民の感情を動かしたことは非常なもので、日本人は親切な者である感心ぢやと、終にサンフランシスコの某市会議員の如きは時の国会に建言して之に酬ゆるあらんことを請求した。而して其建議は一瀉千里の勢を以て怱談にして可決し、金貨五千円を種ヶ嶋村民に寄贈することになつて、外務省を経て送つて来た。それから其費途に就て種々研究の末、是を小学校の基本財産とすることゝなつて其由来を時の鹿児島県知事渡辺千秋氏が書ゐて碑文を建てた。其頃余も同嶋に立寄ることになつたので、其碑文を英訳し其写真を添へて、余が嘗て米国に在りて教育を受けた師匠に送つてやつたが、是が先方の雑誌に掲載されてあつた。日本には廃兵院のことは議会に可決され盲唖学校の如きも追々隆運に向ひつゝあるが、水難救済機関のことに対しては国民が頗る冷々淡々たるは洵とに痛恨事であるのに、県民諸子の熱誠なる本県に於て頗る好成績を得つゝあるは、余の深く感謝する処である。余が曾て矢張水難救済会の事で、秋田県羽後の象潟と云ふ処に行つて、午前中に用事を了り午後酒田まで五里の途を超ゆることにしたが、此間は随分道路険悪を以て有名な処であるから、二人曳の腕車を駆て出発した発する時は天気が頗る快晴であつたのに、所謂名月や北国日和定めなきで、東北地方程天気の変転定まり無き処は無い。途中驟かに暴風吹狂いて困難一方ならぬ。それを辛くも凌いで二里程行きて或る小阪の下迄達すると、車夫も終に辛抱仕切れなくなり、何程金を頂戴致しましても此時化では兎ても行かれませぬので是非此辺に宿泊て呉れろ、と頼むので、止む無く車夫に導かれて一軒の家に至つた。積雪の甚だしい国だけありて、家垂下も広く其処に車なぞも沢山置かれる様になつて居て、障子を明けて内に入て見ると広い中庭があつて、そこには見るも悸とする様な荒くれ男が数名、八月の炎天であるのに焚火をして暖まつて居る。八月に焚火をすさなぞ、是が即ち北国日和の定めなき処で、宛然此家は山賊の棲家としか思はれぬ。何だか小気味の悪い家だと思ひながら、主婦に導かれながら行くと、丁度其日が旧暦の盆で、仏壇で光明を点されて称名唱へて礼拝して居るものがある。仏信心をするからには真逆山賊の棲家でも有るまゐと、漸つとのことで安心して、我室に宛てられた長押付の八畳敷二間に寝すむことを得た。若し此時に余が仏壇を見なかつたなれば、到底も安心しては寝られなかつたであらう。救済会の事業は実に此仏壇である。是ありてこそ、内外幾多の船舶は心安けく航海することが出来るのではあるまいか。人道の上より又国家経済より打算しても、決して軽怱に付すべきものであるまゐ。以上余が説明したる趣旨を充分咀嚼して、此上にも国家の為め一層諸子の熱心なる同情を希望致します云々。(完)」
(防長新聞、明治39年5月9日2面)


水難救済会は、国家経済からの打算(戦略的な判断)から必要と判断される社会インフラであるとの認識が読み取れる。



以上、第7回 (2005年5月26日)。

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