2005年07月26日

丸尾崎救難所。武徳会・愛国婦人会・在郷軍人会 〔第8週〕

以下、第8回 (2005年6月2日)。


山口県立山口図書館の県民資料室に、吉村富雄著『丸尾の歴史あれこれ』(2000年3月刊)という本があるのに気づいた。
宇部市東岐波区丸尾に住む郷土史家の方の著作である。

丸尾崎救難所の位置(詳細図)。
丸尾崎(5万分の1図)。
丸尾崎(広域図)。

聴講生の方々は、コピーして配布した「救難所跡」の内容を確かめて欲しい。
(1) 「救命艇 神島丸 (昭和6年3月・進水式)」という写真が載っている。片側に櫓が4つ付いた八丁櫓の和船である。原動機付き救命艇が用いられるようになるのは昭和に入ってからである。日露戦争当時の「救助船」も同様のものであったろう。
(2) 昭和に入り、帆船が機帆船や大型汽船に代わることで出動の必要がごく僅かとなっていった。
「明治三八年から大正一四年までの、丸尾崎救難所の救助活動の状況については、次ページのような記録がある。明治、大正にかけての救助活動は、救難所の救命艇の出動だけでなく、救助隊員以外の漁師も漁船を出動させるなど、丸尾地区民一帯となって救助に参加したことも度々あったと言われている。大正時代になって、以前の帆船が機帆船や大型汽船に代わり、昭和になるとラジオの発達と共に、気象情報の伝達も正確敏速になって遭難は減少し、従って、救難所の役目は昭和六年頃より殆どなくなったものと思われる」(同書、166頁)
手漕ぎ和船による沿岸海域での海難救助は、帆船が実用船舶として用いられていた時代に対応していたと考えてよいだろう。


*


小学館・日本百科全書から「在郷軍人」「帝国在郷軍人会」「大日本武徳会」「愛国婦人会」の項目を提示し、内容を確認。

防長新聞より、「在郷軍人団条例」(明治40年8月3日1面)、および、「在郷軍人会の活動」(明治40年9月5日2面)を示した。
後者は招魂場敷地の地ならしのため在郷軍人百八十余名を召集し、地ならしを終えた後の宴会で、県会議員候補者の他薦や自薦の演説が行われている。地方選挙直前の在郷軍人の集まりがどのようであったのか興味深い。


*


防長新聞・明治41年5月3日1面に「原内相 大浦男の確執について 武徳会員募集の件」を説明するために、
(1) 原敬日記・明治40年8月11日の条
(2) 原敬、大浦兼武、北垣国道、渡辺昇を人名辞典などで紹介

日曜日の夕刻、図書館のコピー申込み締切り時間後に、上記記事があることに気づいた。メモしたが、コピーを持ち帰るのは翌週になったため、この日、記事全文は配布していない。


以上、第8回 (2005年6月2日)。

rshibasaki at 17:28コメント(0)トラックバック(0)「海難救助ボランティアの日露戦争」工・歴史学2005  

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