2005年07月27日

明治期の海事にかかわる状況。総括的まとめ 〔第14週〕

なぜ、明治の国民は、日本海員掖済会・帝国水難救済会・帝国海事協会のような海事団体の会員になり、義金醵出に応じたのだろうか。

その背景にはどのようなイメージの世界があったのか。

「早速丸の沈没」(防長新聞、明治36年5月5日3面2〜3段、早速丸は「はやみまる」と読む)
「海事思想(承前)(菅野商船学校長の演説)」(防長新聞、明治35年10月17日2面1段)

この二つの史料を読み合わせることで、一つの説明の可能性に気づいた。定期試験が終った後、このブログに書くことにする。


[2005年12月13日〜、追記]

「○早速丸の沈没 去一日一大惨事は伊予の海上に起れり。特に我が同業者藝備日々新聞社の分身たる早速社の所有船早速丸か七十三名の乗客を載せながら外国船の為め万蕁の海底に葬られたるに至つては何ぞ酸鼻に堪へんや。同船は午後十一時頃伊予国温泉郡睦月島と野忽那島との間を航進しつゝある折しも、東方より来りし韓国汽船漢城号に俄然衝突したり。此の怪しき音響耳朶を貫くや乗客の一人、関佐一郎氏はスワ衝突よと心づき率然身を起しつ。急遽船室を立出でゝ甲板上に出づる間もなく船体は已に沈没しかゝり、其身も共に沈没し去らんとするより、更に身をかはして上等室の屋根に登り急ぎ漢城号に向つて綱を卸せと叫びぬ。時に四面暗黒にして大船前に横たはり物色凄然たるありしが、軈て漢城号より綱を卸すや、関氏は之に取つきて同号に飛乗りしに、乗客中にありし軍艦富士乗組の水夫渡辺新蔵、溝田民蔵、井上友次郎、野田保次郎、本田種春の五氏は如何なしたりけん、此時早く已に漢城号のブリッヂの上にありて船長たる独人パンネールに厳談して頻りに救助を迫りつゝありき。其行動の機敏なる遉に帝国軍人よと関氏をして舌を捲かしめぬ。然るに漢城号船長以下の者は言語不通なるのみならず、船長は甚だ冷淡にして頓に救助に着手すべきもあらざれば、前記五氏は大に之を憤り非常の決心を以て彼等に迫り遂に水夫をしてボートを卸さしめ、己れ之に乗込み水夫を指揮しつゝ漂へる乗客等を救助し、尚船中にありし救命具、板切、其他浮遊すべきものは悉く之を放流して、縋り付かしめん便りとはなしき。時に第一早速丸の船員も身の危きを顧みるに暇なく、船中の板ぎれ等を放流して救助に備へ、而して関氏はボートに依て救助せられしもの及び板片等に縋りつきて救助せられしものを漢城号デツキの上に引揚げつゝありしが、何れも濡着を纏へることとて船員を叱咤しつゝ毛布其他の物を持出さしめ、之を引揚げられしものゝ身に纏はしめ、機関室等に連行きて暖を取らしむることとなし、頗る救助に尽力したりき。時しも早速丸の船員等は追々漢城号に泳ぎ付き、船長永井元も亦た九死に一生を得て到り着きしが、何分此は百廿六噸余の小船、彼は千百噸の大船にして、加ふるに船腹を衝突せられ衝突より全沈没に到るまでの時間僅に五分間なりしこととて、死者及び行衛不明の者あるを見たるはかへすがへすも遺憾の事と謂ふべし。是より先き漢城号は此悲劇を眼前に見つゝ船長等は直ちに門司に航行せんとする模様なりしが幸ひにして同船事務長たる韓国釜山港草梁村の人、金聖源は日本語に通ずるを以て前記五氏は之をたよりに尚厳談を試み、航行するならばして見よとて、帝国軍人の意気を示しつゝ其侠骨を以てして之を遮ぎり、此腕摧[くだ]かば摧けよとばかり力争せん気色を示しぬ是に於て彼等は航路の知れざるを口実とし、三津浜に寄港するの危険を説きてその場を逃れんとしたるが、恰も好し此時早速丸船長永井元の漢城号に泳付けるありし。疲労の中にも自ら進で其水先案内たらんことを言出しより、漢城号も今は是非なく三津浜に寄港することとなり、乃ち永井は船長バンネールと共にブリツヂの上に立ちて航路を指示することとはなりぬ。斯る折から三津浜警察署より第一愛媛丸来りて、松山地方裁判所予審判事奥村正人、検事正入交好雄、検事田村光栄の三氏及書記三名、並に愛媛県警察部保安課長田中瀧三郎、愛媛県属平野勝の二氏及山田海務署長等出張し来り、漢城号船長、事務長は更なり、第一早速丸船長及事務員等を三津浜警察署に同行したりき。右衝突の箇所は明治二十五年十一月千島艦が英国商船ラベンナ号の衝突する所となりて沈没したりし箇所を距ること遠からざる所なり、乗組総人員七十二名の内男四十六人、女二十六人にして生存者四十七名、死体発見二名、行衛不明者二十三名なり。本県人は玖珂郡御庄村字関戸の重富信一なるものありしが、幸に救助せられたり。又同船へは東京吉原の芸妓一行十七名中九名は行衛不明となれりといふ」
(防長新聞、明治36年5月5日3面2段)


「○海事思想(承前)
(菅野商船学校長の演説)
近時新聞紙の報道する処に依れば、英国皇帝陛下は皇后陛下と共に健康にされる事ありとてヨツトに乗じて英国近海を航海されつゝありと。実に英国に於ては船を病院の如く思惟す。我国に於ても神戸横浜に在る外国会社の社員等は僅に十間内外の扁舟に依りて帆走するを楽[たのしみ]となし居れり。我国人にして船を楽しみ海を喜ぶもの果して幾人かある。病を養はん為めに殆んど全くは山地に入り温泉に浴す。果して山間の空気は海風に比して新鮮なりや。否な、海面の空気の新鮮にして病を養ふに足るものあるは予の言を俟たざるなり。斯く海は一国を富強ならしむると共に又人の健康に利ある前述の如し。今や四大航路は開かれ六千噸の船を以て盛に航海され居れり。然るに其船舶の主脳たる船長、機関長は誰を以て充られたりや。我国の金を以て造られ我国の国旗を挙げ我国の国際証書を有する船は実に外人に委托され居るは、二百幾十年鎖国主義の余弊と云はざる可らず。於是吾人は国人にして船長たり、機関長たる人物を養成し早く之に更らしむるは刻下の急務なりと信ず。是れ即ち商船学校の県下に設置されたる所以なり。而して高等海員の欠乏は、唯僅かに是等大航路のみならず、下関より神戸に至る所謂浪平かに平地に在るが如き瀬戸内海を航海する船舶の水先案内者の多くは西洋人にして、我国人の之に従事する者僅かに五人のみなり。是れ自己の家の案内を他人に頼むと一般ならずや。而して利益の点よりすれば神戸より下関間僅かに二十四時間の航海の給料は百円と法定せられたれば、一ヶ月十回の航海をなさんには千円の収入あり。是等の利益は皆な外人に占められつゝあるを見て諸氏は如何の感かある。今後水先案内者の年齢を制限し外人の水先案内者を減ずる事になり居れども、是等海員の欠乏には如何ともする能はず。本県萩出身にして本県の商船学校第一回卒業生なる加屋洋介氏は瀬戸内海の水先案内に従事し、其初めは一年七千二百円の収入ありしと。実に国務大臣六千円の年俸以上に在り。斯の如く利益の点に於ても大なるものにて其実権を外国人に占らるゝは一大恨事なりとす。故に是等は教育ある商船学校卒業者を以て之に更らしむるより外なく、之をなさんには実に海事思想を発達せしめ、海運の道を開き高等なる海員を養成するは目下の急務なりと信ず」
(防長新聞、明治35年10月17日2面1段)

rshibasaki at 15:56コメント(0)トラックバック(0)「海難救助ボランティアの日露戦争」工・歴史学2005  

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