2005年09月17日

関門水路整理策(井上敏夫海軍少将談、明治40年7月)

以下は、前回『防長新聞』を通覧した時には、その重要性に気づかずメモを取り忘れた記事である。探し出し、コピーをとった。
井上敏夫は、前年、明治39年に予備役となった。退役後のこの頃は、帝国海事協会の義勇艦隊献金集めのための遊説などに参加している。三重県から衆議院議員に当選するのは、翌年、明治41年5月15日の第10回総選挙のことであった。
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○関門水路整理策
     (井上海軍少将談)
嘗て戦艦富士の艦長として馬関海峡を通過し当時内外航海家をして驚嘆せしめたる現井上海軍少将は同海峡の整理に関し語つて曰く
▲マカロフ中将の言 露国海軍の名将故マカロフ中将は常に部下の将校に対し「戦時に冒すべき危険は平時より之を冒すことを練習せざるべからず」と戒飾せり是れ啻に露国海軍の服膺すべき至言たるのみならず世界列国海陸軍々人の共に採つて以て他山の石とすべきもの余の如きも深く其言を理ありとし可及的之が実行を期し来れり嘗て富士の艦長として関門海峡の通過を計りたるが如きも畢竟同海峡が戦略戦術に密接至大の関係を有し我海軍将士が之を熟知すると否とは延て国運の泰否にも影響する所あるべきを深く信じたるが故にして其実行には優に一年の水路海底の調査及び先輩の助言を得て三十五年八月廿六日午前十時より十一時の間に於て之を決行し幸に成効[ママ]する事を得たり而かも当時富士の艦橋にありし余は自から禁じ難き戦慄と常になき渇を覚えて前後二回水を呼びたる程なりし是れ実に我邦海軍ありて以来平時に於ける一大果断的行動たりしを以てなり然るに近く富士の排水一万二千四百五十噸に比し大艦香取、鹿島が舳艫相喞んで同水路を無事通過したるは実に我海軍の為めに慶すべき事なると共に前記マカロフ中将の金言実行の時来りしを併せ祝するものなり
▲同海峡の潮候と範囲 所謂馬関海峡なるものは東口の部崎より西口六連島に至る一道の狭水路にして其間彦島、巌流嶋、與次兵衛岩、干珠、満珠両嶋其他数個の島嶼碁布し東口の檜ノ山砲台、門司岬端間の如きは僅に一ケーブルの幅員を有するのみ(嘗て日露戦役記念橋架設の説ありし個所)

▲理想的整理

▲関門両市の移転

▲第二第三の策

▲泥の港と金貨の港

(入力途中)


rshibasaki at 18:39コメント(0)トラックバック(0)<主力戦艦と関門海峡>  

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