2006年05月02日

欧米周遊に就て江湖の諸友に告く

以下は、徳富蘇峰が1896年から1897年にかけての欧米漫遊に出かけるに際して、読者への挨拶文である。三国干渉から1年経過した1896年4月の時点に立ち、近い過去を回顧し、未来を見通して、国民新聞社・民友社のオーナーとして如何なる言論活動・政治活動を内外の状況のもとで行うべきかの自己意識を表出している。わたくしは、この文章のなかの遼東還付原因論に注目している。この文章は外遊を決心した動機を三つ順に述べている(ゴチックで示した)。そのうち第一の動機の説明のなかに、三国干渉を招来した日本側の要因についての言及(下線で示した)がある。原文では行替えだけで段落を示していたが、下の転載では一行空けによって、文章全体の構成を示すこととした。「第一の動機」「第二の動機」「第三の動機」「結語」という四つの部分である。
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欧米周遊に就て江湖の諸友に告く
                          蘇峰生
国民新聞の余白を仮りて、江湖の諸友に告ぐ。余が欧米周遊の途に上らんとするは、近頃の事なれども、その企画は一日にあらず。
有躰に云へば、従来幾多の便宜と利益とを擁して、余に外行を慫慂したる者、一にして足らざりき。余は思ふ仔細ありて、之を謝絶しぬ。併ながら機会もあらば自力にて、思ふ侭なる漫遊を為して見たしと考へ居れり。折りしも明治二十七八年征清の役は、余をして一層此の念を適切ならしめたりき。
若し明治二十七年に出版したる拙著『大日本膨脹論』及び同年下半期の首より今日に到る『国民新聞』『国民之友』等を一読せらるゝ諸君は、余が何故に此の念を適切ならしめたるかを知るに於て、余師あらむ。
余は当初に於て、日清開戦は、大日本国運一転の大機なりと信じたりき。大日本が世界均勢の一要素となり、世界的共通政務に向て、発言権を有し。維新の大目的たる開国進取の活勢に鞭ち、国民的生活より超躍して、世界的生活に入るの大機と信じたりき。されば大日本が世界に知らるゝの必要と同時に、世界を知るの必要は、著しく倍加し来り。最早大日本国民は、局部的眼孔を以て、国民的境遇を観察するのみならず。又た全局的眼孔を撥して、宇内大勢の潜旋明転を詳にせざる可からざるの時機に迫り。再言すれば我が国民の倫敦、伯林、巴里、聖彼得堡の出来事に痛痒を感ずる、恰も大阪、京都、名古屋の出来事に於けるが如く。亜非利加、中央亜細亜、南部亜米利加、濠州等の事情を知ること、恰も函館、長崎、新潟、馬関等の事情に於けるが如くならざる可からずと信じたりき。
されば『国民新聞』『国民之友』の調子も、当時よりして著しく世界的記事論文を増加し、為めに愛読の諸君をして、国民記者は種に窮したるが故に、殊更らに我等に縁遠き事項を掲載し、我等を困殺するものならんと邪推せしむる程にてありき。
斯くお客の嗜好に適せぬ御馳走を強ふるも、主人に於ては、お客の滋養となり、健康に益ありとの存念に外ならざりき。所謂日本的眼孔を以て世界を観察し、世界的眼孔を以て、日本を観察し、恒に大日本の世界に於ける比較的地位を詳かにす可しと颺言したるは、吾人当時の警語にして、又た今日に於ても警語と為す所なり。此の如く国勢既に一転し、その国勢を利導する新聞雑誌の調子も一転し来らんとするに於ては新聞記者の眼界も亦た一転せざる可らざるは、固より論を俟たず。余が世界周遊の必要を感じたるは素より以上の理由あるが為にぞある。
征清役の結果は、吾人が予想に違はざりき。而して我が朝野に於ける世界時務的知識の欠乏は、果して苦がき経験を与へたりき。吾人が、大日本国の位地の世界的均勢の一要素となりたるを誇りたると同時に、吾人が脚下より意外の椿事こそ出来したれ。単に国力のみ進みて、国民の眼界の進まざりし不権衡は、取りも直さず過重なる代価を、遼東還附てふ一事によりて払はしめられたりき。吾人が当時に於て、世界時務的知識の普及を、我が同胞国民に促がしたるの偶然ならざることは、此に於て愈々明白となりぬ。而して余が新聞記者の本分として、十年編集机案の上に商量したる問題をば、実地に就て解釈し、若しくは解釈の端緒を得んと欲するの念は、此に於て倍々其の必須を感ずるに到りぬ。

将た彼を知るのみならず、又た彼より知らるゝ必要もあるなり。世界的交渉の一要素となるからには、他より誤解せられず、又た我が真相を知悉せらるゝの必要は、他の真相を知悉するの必要に比して、更らに其の軽重ある可らず。日清戦争は、我邦の大広告、大吹聴には相違なかりしも、果して我が真相を彼等の眼中に発揮せしめて余憾なき乎、随分疑点なきに非ず。されば吾人は機に触れ会に応じ、独り彼等の為めに知らるゝのみならず、又た彼等をして、我が真相を知らしむるの注意を怠らず。現に百艱を排して、本年二月より発刊したる『英文国民之友』の如きは其の一例にぞある。さりとて、此れしきのことのみにて満足すべきにもあらず。されば我が大日本国民の正当なる志望と意気とを世界に知らしめ我が大日本国が文明世界の列国中に介立して、其の一坐を占むるに於て、正当なる要求ある事。又た極東の平和を維持するに於ては、是非大日本国の主力を要する事等に就て、世界の公論に訴へ度事も尠からず。
斯る事をも実地に就て観察したらば、幾分か方便もあらむ、手段もあらむと思ふにぞ。更らに愈々欧米周遊の必須を感ずるに到りぬ

斯く感じつゝも、俗縁甚だ浅からず、空しく歳月を蹉蛇たらしめたるに。熟ら惟れば、今や天下泰平。海波静かにして、春風枝を鳴らさず。上には泰平の宰相あり、下には従順なる議会あり。歓楽極りて哀情未だ多からず、上下恬然、鼓腹撃壌泰平の余沢に酔ひ、復た殆ど吾人が縦論横議を容るゝの余地なきが如し。之に加ふるに欧洲中原の局面は、一動一揺、旧均勢破れて、新均勢未だ整はず。風雲百変、朝夕を測らず。正に是れ観察寓目の好機と為す。余は実に内外の事情に向て、余が多年の企画を実行せしむるの時節を到来せしめたるを感謝せずんばあらず。

蛇足なから最後に一言したきことあり。余が明治十九年十二月、家を携へて東京に来りて以来、僅かに十年。而して病に罹る既に五回。「今尚ほ病床に在り」。其の長きは三個月に渉り、其の短きも一個月を出づ。之を合計すれば十個月以上を過ぎ、之を比例すれば、十年の中一個年は、殆んど病床に在りと云ふも不可なし。それ十年の浪走、剰し得たるものは、蒼顔と臞骨のみ。身不肖にして亜聖の徳なきも、満頭の白髪は、顔回をして、三舎を避けしめんとするが如き、自分でさへ訝敷次第なれば、知友間の疑問となるも不思議にあらじ。余も自から顧みて、病福に富みたるを驚くのみ。さればとて敢て遥々と欧米迄出懸けて、白髪染の妙薬を詮索せんとするにあらざるも、切めて今後一個年の休養を得て是非身躰の健全を恢復したく思ふ也。仮令余自から愛惜せざるも、師友知己の忠告に孤負するに忍びず。是れ今日に於て、外行を決する最後の動機たる也。社中諸君の寛厚なる、余に仮すに休養の時日を以てし、知己親友の二三子、亦た余が旅装を調へ、余が空橐を充たす。乃ち余が最初の目的たる自力旅行をなすの余裕あらしむ。余豈に一片感謝の情なきを得んや。

此行固より風雅でもなく、洒落でもなく、御用旅行の贅沢もなければ、学問旅行の究窟もなし。所謂る保養旁の漫遊にして、唯だ熱海、大磯に遊ぶの時日を利用して、倫敦、巴里、聖彼得堡、羅馬、紐育等に遊ばんとするのみ。
既に保養旁の漫遊とすれば、前述の目的の如き果して幾分を成就するや否や余に於ても甚だ覚束なきことぞかし。去りながら余や生来、無芸無能にして、何の遊戯も解せず、何の歓娯にも関からず。漫遊中の快楽とても、唯だ観察寓目の一あるのみ。且つ『国民新聞』『国民之友』『家庭雑誌』等の如きは、余が生命の一部とも云ふ可きものなれば、如何に天涯地角にあるも、忘れんとするも忘る可きにならず。故に余は見るに随ひ、聞くに随ひ、感来り、興湧くもの、皆な悉く以上の新聞雑誌に郵寄す可し。特に余が旅中の消息は、日刊の便ある『国民新聞』に於て、知悉せられなば大幸之に過ぎず。
若しそれ国家民人の利害得失に関係ある幾多の問題に到りては、幸ひに余に於て得る所あらば帰朝の上徐ろに諸君の教を請ふことあるべし。余が発程の日は未だ分明ならざれども、蓋し遠きにあらじ。病後の疲労未だ恢復せず、故に留別送別の儀は勿論、旅行の通知さへも、此の公開状にて用捨を蒙るべし。江湖の諸友、幸ひに余が疎濶を恕せよ。
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(国民新聞、明治29年4月14日1面)

rshibasaki at 18:25コメント(0)トラックバック(0)<徳富蘇峰>  

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