2006年07月27日

2006年度「歴史学機彁邯殻簑蠅伐鹽

<<試験問題>>

1.つぎの地図上に、1905年に救難所が設置された丸尾崎に「☆」印を、下関救難所の支所が複数置かれた彦島に「◎」印を記せ。                   (1個4点、計8点)

山口県を中心とする地図


2.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。     (1個4点、計92点)
(1) 明治の警察を、現在の警察と同じ範囲の仕事をしていた組織であると速断してはならない。明治時代の警察官の殉職で一番多いのは、____________________________による死亡であることを知り、驚いたことがある。明治の警察=警察署+消防署+____________________________+海上保安庁、である。1938年、厚生省設置。1948年、消防庁設置。これと同様なことが、海軍の理解についても存在する。明治の海軍を、戦後の____________________________の占める位置を過去に遡らせて理解すると、思わぬ誤解となる。海上保安庁が設置された1948年以前、現在の海上保安庁の仕事は、遠方海域においては海軍、沿岸海域においては____________________________や沿岸民とそれらを指揮監督する市町村長・警察官によって担われていた。現在では、海事領域=海上自衛隊+海上保安庁+民間、となっている。一方、明治時代には、海事=海軍+民間、であった。海軍には、現在は海上保安庁に属し、数年前「海洋情報部」と改称した「____________________________」も属していた。
(2) 日本の近代において地域社会に外国軍が接近し戦場となった事例としては、第二次世界大戦の沖縄戦と本土の空襲以前には、____________________________当時の敵国艦隊の沿岸接近がある。その戦争で最後の海上の戦いとなった著名な海戦は、____________________________海峡付近で始まったものである。近隣諸県まで砲声が轟いたという。
(3) 中央では、皇族を総裁として戴き、その下で会長が実務を統括し、地方では、知事が府県支部長、市町村長が市町村支部長を務める組織形態をとった最初の公益団体は、____________________________である。この団体は、現在もほぼ同じ組織形態を維持している。社費あるいは寄付金を多く出した個人に、____________________________を与え表彰することも明治時代と同様である。なお、総裁は歴代の皇后陛下である。
(4) 明治時代における水難救済会の実行組織を考察するとき、比較すべきは____________________________である。ボランティアの地域住民が、警察官の指揮のもとで、実行に従事するという面が共通する。
(5) 日露戦後にいたるまで、日本の沿岸航路の高級船員の職は、多く____________________________に占められていた。この背景があるため、沿岸での和式帆船と汽船の衝突に際して救助に駆けつけることは、当時の国民の愛国心を高揚させる行為となった。そのため地域住民が個人単位で水難救済会会員となり、町村単位で寄付をすることが訴求された。同じ理由により、____________________________を行う海員掖済会にも寄付金が集まったものと思われる。
(6) 1903年5月5日、早速丸遭難を報ずる防長新聞の論調が、衝突相手の韓国船漢城号の____________________________人船長への不信感を強く表現しているのは、前項の事情が関係していたであろう。その記事でもう一つ注目すべきは、たまたま早速丸に乗船していた「____________________________」たちの行動の肯定的描写である。軍隊や軍人に対する肯定的姿勢は、消防組が「軍隊的に組織」され「____________________________」を多くメンバーに含むことをプラスに評価する新聞論調とも一致する。当時の時代思潮の表現であろう。
(7) 日露戦争後になると水難救済会の幹部から、遭難船に対する沿岸民の分捕りという悪習・旧慣を是正し、文明化するのに救難所の設置が役立ったという回顧的発言が出てくる。救済会総裁である____________________________にはさすがにそのような発言ないが、会長である退役海軍将校・伯爵____________________________、逓信省管船局長を長く務めた理事____________________________は、口を揃える。1907年、アメリカ汽船ダコタ号が千葉県白浜村、野島崎灯台の東方で難破しかけた時、それに気づいた白浜村村長が、____________________________に定められた義務に従い、村民を動員し十数艘の漁船を出して救助に赴いた際、ダコタ号船員から掠奪者に間違えられ 「足蹴に遭」ったとのエピソードも思い出される。
(8) 海軍少将井上敏夫の生涯は、「広義の海軍」、すなわち、海軍とその外郭団体が作り出す世界の存在を教えてくれる。日露戦争の直前、一等戦闘艦「富士」の艦長として、二度の関門海峡試験航行を成功させた。日露戦時には、掃海艇部隊の司令官を勤め、1906年に予備役となった。その2年後には三重県四日市市から衆議院議員に当選し、後に、立憲____________________________に所属することとなる。郷里の石川県では「半生を日本海員掖済会に捧げた」(石川百年史、石林文吉、1972年)と記憶される井上に四日市との縁が生じたのは、四日市に海員寄宿舎を設置するため、掖済会理事として同地を訪れたことがきっかけであった。またこの間、____________________________のための募金集めの遊説という帝国海事協会の活動に参加したこともある。
(9) 第一次西園寺公望内閣の内務大臣である____________________________は、港湾調査会を設置し、全国港湾の整備計画を策定した。____________________________の水路整備に関して、海軍は、内部に「委員を設置し既に調査を遂げたる結果に基き種々の注文を出」したという。ドレッドノート級戦艦の建艦競争が始まった時代背景においては、主力戦艦部隊の同地点通過による効率的な運用が必須となったのだろう。
<選択肢>
犯人との格闘、伝染病感染、水防活動、消化活動、山岳救助、税関、税務署、消防、保健所、検疫所、陸軍、海軍、海上保安庁、海上自衛隊、消防団、水難救済会、海員掖済会、海事協会、日本赤十字社、水路部、測量部、海図部、台湾出兵、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、津軽、大隅、対馬、宗谷、有功章、忠愛旗、義勇旗、消防団、消防組、篤志看護婦、愛国婦人会、在郷軍人会、西洋人、日本人、清国人、高級船員養成、看護婦養成、義勇艦隊建設、軍人援護、ドイツ、アメリカ、韓国、中国、軍艦富士乗組の水兵、第二十五連隊の兵士、退職警官、市町村職員、在郷軍人、現役軍人、有栖川宮威仁親王、佐野常民、吉井幸蔵、肝付兼行、塚原周造、水難救護法、海難救助法、商法、民法、警察法、市町村法、政友会、同志会、憲政会、民政党、伊藤博文、西園寺公望、原敬、大浦兼武、寺内正毅、桂太郎、山本権兵衛、紀伊水道、豊後水道、津軽海峡、関門海峡、東京湾口


<<回 答>>
1.
1905年に救難所が設置された丸尾崎
下関救難所の支所が複数置かれた彦島

2.
(1)伝染病感染、保健所、海上自衛隊、水難救済会、水路部
(2)日露戦争、対馬
(3)日本赤十字社、有功章、
(4)消防組
(5)西洋人、高級船員養成
(6)ドイツ、軍艦富士乗組の水兵、在郷軍人
(7)有栖川宮威仁親王、吉井幸蔵、塚原周造、水難救護法
(8)政友会、義勇艦隊建設
(9)原敬、関門海峡



rshibasaki at 13:33コメント(0)トラックバック(0)「明治期山口県における水難救済会」工・歴史学2006  

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