2006年08月03日

知財 「現代日本への歩み」2005試験問題

1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。(1個4点、計100点)
(1) 「19世紀の世界交通と日本」では、19世紀中頃から20世紀前半において、日本から西ヨーロッパにいたる最短経路がどのように変遷したのかを扱った。航空機による海外旅行が普及する以前、人々は大洋を船で進み、地球上の他の地方へ旅した。こうした「地表交通」の時代にあって交通の要衝となったのは、大洋と大洋を結ぶ海峡であり、大洋と大洋を隔てる陸地のうち、陸上を横断するのが容易な細い陸地の部分、すなわち、地峡であった。前者については、太平洋とインド洋を結び、シンガポールがその水路に面している________________海峡が重要であり、後者には、インド洋と地中海との交通路となった_______________地峡、太平洋と大西洋の連絡路となった_______________地峡がある。この二つの地峡には、徳川幕府が最初の外交使節団を派遣した1860年代初頭には、ともに連絡鉄道が敷設されていて、後に、運河が建設されることになる。この第一の時期にあっては、東回りでも西回りでも西欧への時間距離はほぼ同等であった。そうした「洋行」の時代の第二期は、1869年の________________の開通によって始まる。西ヨーロッパへの最短経路は、_______________の国土内を経由する道となった。明治時代の日本人に多くその国への親近感が見られるのは、同国が海外に未だ植民地をもたないヨーロッパ系国家であるというだけでなく、交通路の面で隣国と認識されるという事情もあった。西ヨーロッパへの最短経路に生じた第二の変化は、1902年における_______________の開通であった。以後、日本において西欧に最も近いゲートウェー都市は、それまでの横浜・神戸・長崎に代わって、敦賀あるいは_______________となった。_______________とは、地球上の二点を直線で結んだ交通ルートである。「地表交通」の時代においては、蒸気機関が交通手段の動力源として用いられるようになることで蒸気船が大洋を直線的に横断するようになり、大陸横断鉄道が大陸を交通可能な空間に変えた。一方、「航空交通」の時代における変化は、プロペラ機から________________への機種転換によって可能となり、北極上空ルートやシベリア上空ルート経由ヨーロッパ行きの航空路が開設された。
(2) テーマ「初期の洋行と人材育成」では、1866年に一般人の海外渡航が可能となる以前に、当時の中央政府であった________________が公務派遣した外交使節団と正規留学生以外に、地方政府たる_______________が派遣した留学生・視察旅行者、個人的資格で渡航した密航者が存在したことを指摘した。長州が英国に派遣した留学生には、初代の総理大臣となった_______________、その生涯を通じた親友であり、ともに留学を中断して長州藩と欧米諸国との戦争を未然に防止しようとして急遽帰国した_______________、明治維新後に帰国し、鉄道局長を長く務め日本の鉄道の父と呼ばれることになる井上勝などがいた。
(3) テーマ「交通体系の変容と地域」では、近世→近代帰近代兇噺鯆未陵り様の段階的変化が、具体的な地域においてはどのような変化を生み出したのかを、東北の秋田県を事例として考えた。近世から近代気悗琉楾圓蓮⊃緇絽鯆未砲ける__________________という機械動力の導入、そして、陸上道路交通における__________________や人力車の登場によって特徴づけられる。水上陸上どちらの場合も、交通経路の変化は発生せず、近世と同じ経路を運航・運行する交通手段が変化し、置き換えられた。近世を通じて繁栄した河口積替え都市、河川流域の船着場、街道に沿って整備された宿場、などの交通インフラは、近代気了代にあっても、近世同様の賑わいを見せた。しかしながら、近代気ら近代兇悗琉楾圓蓮_________________の時代の到来であり、国内幹線交通網が新たなネットワークによって担われることとなった。
(4) 第一次世界大戦は、それまでのヨーロッパ中心の世界秩序に大きな変更をもたらした。その変化は、日本の国内政治にも大きな影響を与えざるをえなかった。幕末・維新以来、日本がお手本にしてきたヨーロッパ文明圏の諸国は、第一次大戦の結果、三つのタイプに分裂した。第一は、英米の自由主義経済、民主主義体制。このモデルに親近感をいだく国内政治勢力は、自由民権派→初期議会の民党以来の伝統を受け継ぐ_________________であり、また、経済界も明治以来の自由経済思想の影響下にあり、このモデルの影響下にあった。第二は、独伊を代表とするファシズム政権で、統制経済と一国一党による政治を標榜した存在。このモデルに接近したのが、陸軍の親ドイツ派、統制経済を研究しつつあった革新官僚などであった。第三は、1917年の__________________により成立した世界最初の共産主義政権。日本共産党の結党は、日本国内へ直接的にその影響が及んだ例である。なお、明治時代の社会主義研究会以来の系譜をひき、後には戦後の日本社会党へつながる__________________と呼ばれる諸政党(労働、農民、無産などの言葉がこの類の政党の名に散見される)が、この時代に離合集散を繰り返した。それらは、第二と第三の国際潮流の影響下に生じた国内政治現象であったと大づかみに捉えることができる。
(5) 最近数年のイラクやアフガニスタンに関するニュースを見ると、地方勢力が軍事的に中央政府に対して自立していて、独自に国外勢力に結びつき、中央政府の武装解除要求に応じようとしていない。日本の近代史に、類似した状況を捜すと、少なくとも地方政治勢力が、軍事的・財政的に自立していた1871(明治4)年の__________________以前に対比すべきものであろう。その後、徴兵制の軍隊の整備が始まる。
(6) 明治10年代の高等教育機関(後の大学に相当)を見ると、外国人教師ないしは留学経験のある日本人教師から、欧米語で教授をうける「本科」と、日本人教師から、翻訳書を教科書として用い、日本語で教授をうける「別科」に別れていた。当時の用語で、前者を正則教育とよび、後者を__________________と呼んだ。限られた予算と人材のなかで、近代化に必要な各分野の実務家を速成するために、採用された二段構えの方式であった。近代法を運用する裁判官・検察官・弁護士、西洋医学を習得した医師などは、この後者の方法により多量に育成されることになった。
(7) 19世紀における博覧会とは、まず、産業技術の交流の場として始まった。明治政府は、1873年のウィーン万博に、各分野の職人等を政府の費用で派遣し、技術習得に努めた。西陣の職人が、ジャガード織機を持ちかえり、研究の上、政府主催の全国規模の博覧会である__________________にその国産化した試作品を出品している。興味深いのは、稼働部分以外は鉄ではなく木を素材として製作していることで、人材育成の場合と同様、当面の必要に応じるために、性能は落ちても直ぐに活用できる材料で役に立つものを一定量速成する戦略と判断できる。そのような技術導入戦略を、__________________と呼ぶ。
(8) 第二次世界大戦後、1991年のソビエト連邦解体にいたる国際政治は、__________________の時代であった。この時代の国内政治は、「保守」対「革新」の二大陣営の対抗によって演じられた。まず、「保守」陣営は、自らを自由主義と自由経済を守る「自由勢力」と見做し、「革新」陣営を共産主義を容認する「容共」勢力であると非難した。一方、「革新」陣営は、自らを日本国憲法の平和主義を護る「________________」勢力であると規定し、「保守」陣営は日本を戦前の軍国主義へ引き戻そうとする「反動」勢力、「戦争」勢力であると非難した。
<選択肢>
マラッカ、ダーダネルス、ジブラルタル、スエズ、パナマ、コリント、ロシア、アメリカ合衆国、フランス、ドイツ、北米横断鉄道、シベリア横断鉄道、ヒジャズ鉄道、シルクロード鉄道、函館、青森、富山、下関、鹿児島、大圏航路、等角航路、レシプロ機、ジェット機、明治政府、徳川幕府、朝廷、諸藩、天領、府県、伊藤博文、井上馨、井上準之助、林薫、蒸気船、蒸気機関車、馬車、自動車、路面電車、鉄道、既成政党、無産政党、保守政党、革新政党、ロシア革命、フランス革命、明治維新、廃藩置県、秩禄処分、西南戦争、変則教育、予備教育、地方博覧会、共進会、内国勧業博覧会、先端技術、伝統技術、中間技術、東西冷戦、緊張緩和、護憲、自衛、保守


rshibasaki at 20:59コメント(0)トラックバック(0)知・歴史学「日本近代の舞台設定」 2004-2013終了  

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