2006年08月07日 22:22

公爵松方正義伝の記述

以下の引用中「仄かに聞く所に拠れば」からわかる通り、蘇峰が日清戦争中に松方から聞いた内容が、その40年後に上梓された『公爵松方正義伝』に組み込まれている。文中「公」とあるのは松方正義である。また「更に一篇の意見書」とあるのは、前年1894年11月下旬の「台湾占領の意見書」(発信人:松方正義→受信人:川上操六)を踏まえて、それを一つ目の意見書、講和に際して「更に」二つ目の意見書を書いたという意味である。第一の意見書、すなわち「台湾占領の意見書」は、伝記では以下の文章の直前に全文引用されていた。

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 明治二十八年三月、我が征清大総督彰仁親王が、戦地に前進するに当り、我軍が澎湖島を占領するに至つたのは、公の意見の一端が実現されたものであつたが、講和談判の開始さるゝに及んで、公は更に一篇の意見書を草して、国家の大計を論じ、併せて講和条件に言及し、之を伊藤首相に贈り、其の注意を促した。記者の仄かに聞く所に拠れば、公の意見は、軍費賠償として十億円を要求すべく、土地の割譲は台湾、澎湖島に止むべしと云ふにありて、遼東半島の割譲には全然之に反対してゐた。
 遼東半島割譲論は、当時陸軍部内の輿論であつたので、公は伊藤に対して、反対の意見を述べ、其の注意を促したが、伊藤は陸軍の輿論を動すことは出来なかつた。一日、川上参謀次長、公を訪ひ諷諫の意を以て、之に謂て曰く、『聞く所に拠れば、世間には遼東割譲に反対するものある由なれども、遼東は大陸経営の為に之を割譲せしめねばならぬ』とて、遼東非割譲論に反対した。然るに、公は井上に対し、『遼東割譲の異議者は、言ふまでも無く、吾人である』と。公然其の所信を吐露したので、流石の川上も終に公と其の議論を闘はさずして去つたと云ふ。伊藤は公の説を聴き、意稍々動いたけれども、軍人の勢力に圧せられて、遼東割譲論を容れざるを得ざるに至つたものであつた。
 未だ幾くならず、三国干渉の問題起るや、公は舞子に赴き、伊藤と会して曰く、『卿等予の意見を容れず、徒に世論に迎合するを以て、終に今日の事あり。彼等をして干渉の口実を與へしめた。知らず卿等は如何にして善後を策せんとする乎』と。流石の伊藤も公に対して、其言ふ所を知らなかつたと云ふ。
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(公爵松方正義伝、徳富猪一郎編述、公爵松方正義伝記発行所、1935年7月、坤巻553〜554ページ)


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