2006年08月26日

水難救済会成立の趣旨

1900年9月28日、山形県鶴岡にて、水難救済会会長吉井幸蔵の演説。

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本会の起源は明治十七八年の頃過般薨去せられたる黒田伯爵が欧米漫遊の際露国水難救済制を詳細に調査し其完備せるものを齎らし来り帰朝の後金刀比羅宮司琴陵宥常氏に示されたるに、同氏は感慨の情に堪へず憤然率先して私財を抛ち朝野知名の士に賛同を得て有栖川中将の宮殿下を総裁に仰ぎ奉り、鍋島侯を副総裁に推戴し、自ら進んで会長たる難局の地位に立ち、明治二十二年十一月三日、天長の佳節と東宮殿下冊立式当日の佳辰を以て創立発会式を讃岐の琴平に挙行し、本部を同所に設立し、爾来会規未だ緒に就かず事業経営の方針だに確率せざるに、不幸琴平氏は二十五年の春永眠せられたるにより、事業頓に伸張を欠き漸く萎靡するの不得止に至りたるも、尋で彼の二十七八年の戦役となり人心は之に趨り本会の納金を遅滞するもの頻出し益困難の逆境に迫りたるも、藤波氏等の奮励尽瘁せられし処ありて一縷の命脈を保つことを得たり。然りと雖ども斯る必要なる事業は永久不振に沈淪することなく、日清戦役已来航海は日を逐て頻繁に趣き恐るべき難破は続々其数を増し生命、財産の泡沫に帰し去る者枚挙に遑あらざるに至れり。茲に於て斯業の一日も海国たる我国に欠くべからざることを理由として、之を国家的事業として政府が当に施設すべきものなりとの建議を第九帝国議会に提出し、其後幾多の困難を経て第十議会に於て本会の請願を容れ、補助費として三十年度より向三箇年間毎年金弍万円宛を下付すべきことに協賛を与へられ、之と共に事業を挙て本会に委托の特命を受けたるは、実に本会の名誉幸福とする処なり。此時に当り不肖幸蔵海軍少佐の現職を辞し本会に入り総裁宮殿下より本会長の職を嘱託せられ、爾来乍不及鞠躬整理と拡張に奮励せるが、幸にして追日事業発達、救難所も今日十七箇所に及びしと雖とも、未だ予定の央にも達せざるは甚だ遺憾とする所なり。而かも救助成績は幾分の好果を得、即ち去る二十二年創業より卅年迄八箇年間に西洋形船十四隻、日本形船二百二十八隻、人員千二百八十三人、其被救助船体貨物の見積価格金八十三万五千円余なるに、三十年四月より本年三月に至る三箇年の成績は、西洋形船六十三隻、日本形船四百五十六隻、人員二千四百二十四人、被救船体貨物見積価格金百四十八万六千円余の多きに及びたり。此好果ヲ挙るに幾干の経費を要したるかと云へば、三十年来平均金二万五千円余の僅額にて多大の人名と財産とを救助し得たるは実に良好の成績と言はざるを得ず。山形県は幸に関知事公の御尽力と諸君の御賛助とに依り事業上前途有望の域に進むは信じて疑はざる所なりとす。
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(吉澤直興「庄内紀行」、水難救済会機関誌『海』第4号、26〜27頁、1900年10月18日)

rshibasaki at 16:32コメント(0)トラックバック(0)<水難救済会>  

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