2006年11月15日

英国公使館は大坂城東側、玉造御定番屋敷にあり

大政奉還以後、鳥羽伏見の戦いの三日後まで、英国公使館は大坂城玉造門外の御定番屋敷にあった。現在の大阪城公園内である。

西洋暦1867年12月「二十四日、パークス公使が公使館の館員たちと一緒に到着して、我々が用意した大坂城の裏手にある、今にも倒れそうな大きな屋敷に居を構えた」、「サトウと私は、今や前にもまして厳しい監視の下に置かれたので、大名側と連絡をとるのは容易なことではなかった。大君の護衛たちは、かなり厳しい警戒態勢を敷いていたが、我々は彼らの目をごまかして夜中に公使館の堀を乗り越え、外に待つ友人たちに会って、彼らの案内で曲がりくねった道をいずれかの屋敷へ行き、気楽に話し合いをすることができた」(第四章「内戦と備前事件」、98頁)。

1868年1月10日以後、「サトウと私は、薩摩屋敷に内密な訪問を続け、そこで京都から我々と会談するためにやって来た何人かの重要人物に会った。我々の主張したのはいつも同じで、天皇[ミカド]が京都で外国代表団を謁見すること、そして天皇自身が外国関係事務を統括することであった」(同、110〜111頁)。

1月「二十九日の夕方になって、幕府軍が敗退したという知らせが届いた。三十日の午前十一時に幕府から、もはや我々外国人を守ることができないという通告を受けた。幕府の使者は、我々のために川を下る舟を用意すると約束したので、公使館の公文書を荷作りしたり、自分の持ち物をまとめたりする仕事を始めた」、「この一両日の我々の苦労を、今、詳細に述べてみてもたいして面白いとは思われないだろう。それは舟を雇う苦労や、家財道具をできるだけ運び出そうとする労働で、残った物は公使館の建物と一緒に焼けてしまうか略奪されるかのどちらかであった」(112〜113頁)。

御定番屋敷は猫間川に面していたので、そこから舟を出したのだろう。また当時、略奪が発生したこともわかる。

*
英国公使館一行が兵庫に脱出した後の様子を記録した大坂の町人がいた。甲子園大学の中川すがねさんのサイト。
りんごネット表紙>武兵衛さんと歩く大坂>ある日の武兵衛>慶応4年(1868)年正月10日

和暦1月2日=西暦1月26日、幕府軍、大坂を発して京都へ向う
和暦1月3日=西暦1月27日、鳥羽・伏見の戦い
和暦1月6日=西暦1月30日、徳川慶喜が大坂城を脱出
和暦1月7日=西暦1月31日、慶喜追討令発布
和暦1月9日=西暦2月2日、大坂城から一条の煙。英国公使館一同、大坂を脱出し兵庫へ向う。英国公使館のあった玉造御定番屋敷が略奪に遭う
和暦1月10日=西暦2月3日、武兵衛、大坂城や御定番屋敷を見て回る
和暦1月11日=西暦2月4日、備前藩兵、神戸にて諸外国公使らを銃撃(神戸事件)
和暦1月23日=西暦2月16日、アーネスト・サトウ、大坂へ戻り、略奪と火災後の玉造御定番屋敷を見る
和暦2月12日=西暦3月5日、諸外国外交団、神戸より大坂へ戻る

2月16日、アーネスト・サトウは「イギリスの仮公使館の建物はどうなったかと、好奇心にかられながら、こわれた玉造門から外へ出た。公使館の焼け跡にはミットフォードと私の住んでいた家が残っているだけで、その他は一面の焼野原と化し、残った家も野次馬どもにすっかり荒らされて、修繕などは全く思いもよらぬほどになっていた。見るも無惨な光景であった」(一外交官が見た明治維新、下、150頁)

3月5日、「前に住んでいた住宅は焼失してしまったので、私たちは中寺町の寺院に泊まった。そして僥倖にも、私たちの引き払ったあとで暴民に盗まれた家具の若干をそこで見つけることができたのである。町民は私たちを『先日逃げて行った異人さん』と言って見覚えていたが、きわめて丁寧で、前大君が退去した時のような乱暴な罵声を浴びせることはなかった」(同、166〜167頁)


rshibasaki at 20:00コメント(0)トラックバック(0)「英国外交官の見た幕末維新」日本の伝統と文化 2005-2017  

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