2006年11月26日

神戸事件についての歴史叙述いろいろ

神戸事件について調べ始めたが、これは、神戸事件自体への興味ではない。むしろ、神戸事件という史実をどのような視角・視点から取り上げるかという、神戸事件の歴史叙述の変遷に興味をもったからである。それぞれの時代の自意識、および、事実確定の水準が、どのように神戸事件の歴史像に反映しているのかが面白そうだ。

The History of Japan, Volume 2, 1865-1871, Francis Ottiwell Adams, 1875. この復刻が Edition Synapse社の"Japan in English: Key Nineteenth-Century Sources on Japan"シリーズの31巻として復刻されている。かなり細かい記述がある。神戸事件の8年後の出版である。(別エントリーでいずれ触れる)

柳田国男著『明治大正史 世相篇』で有名な朝日新聞社のシリーズのうち、永井萬助著『明治大正史 2 外交篇』(1930年)には、つぎのような簡単な言及がある。
明治元年1月15日、「詔を国内に下し、また朝議の上断然和親の国是を定めたから、上下一般疑惑を生じない様せらるべき旨の沙汰を発したが、攘夷を主張し外人を禽獣視する諸藩士等猶多く、正月十一日に備前藩士兵庫において仏国水兵に発砲し、二月十五日には土佐藩士また堺において仏国の士官及び水兵に対して発砲し、何れも累を当局者に及ぼした。新政府成つて斯くの如く外人に暴行を加へるもの多くては、何時如何なる事変を外国との間に構へるに至るかも測られないので、廟議のある所を知らせんため、此所に外使謁見の議が起り」
(同61頁、太字は引用者による)

なお、大津淳一郎著『大日本憲政史』第1巻(1927年)、三宅雪嶺著『同時代史』第1巻(1949年)には、関係する記述はなかった。

東京大学史料編纂所蔵版『明治史要 全』(1933年)明治元年1月11日の項。
「○備前藩老臣日置忠尚帯刀ノ従兵、英人ト神戸駅ニ争闘ス。(池田章政家記、慶明雑録)」

信夫清三郎編『日本外交史 1853-1972』機碧萋新聞社、1974年)では、つぎのような叙述となる。
「2月4日、神戸事件が突発した。この日、備前藩家老日置帯刀の軍隊は、天皇政府の命令で西宮警備におもむくために神戸を通行中、行列の前方を横切った外国人を攻撃し、これをきっかけに各国公使館の衛兵と交戦した。各国は海兵を揚陸して神戸市街を封鎖し、港内にいた諸藩の船舶6雙を抑留した。各国は、天皇政府の出方を注目した。それは、新政府の統治力と権威にたいする試金石であり、問題の処理如何は政府の命運を左右するかにみえた。政府は、パークスの勧告をいれて、8日、勅使東久世通禧一行を兵庫に派遣し、6国代表と会談に入った。これは、天皇政府と各国外交団との最初の公式接触であった。勅使は、天皇が<内外政事>を親裁し、大君がむすんだ条約は天皇の名で継承すること、をのべた国書(勅書)を外交団に手交した。そして、神戸事件の謝罪と責任者の処罰という各国の要求をうけいれた。各国は、予想外な天皇政府の対外協調的な態度に満足した。新政府はじめての外交は、成功であった。政府首脳は、部内の尊攘的反対論をおしきって備前藩を説得し、日置に謹慎を命じ、隊長滝善三郎を切腹させた。処刑の理由は、<宇内の公法>によるという漠然としたものであった。それは、外交政策上の見地から処罰したことを意味し、司法は外交に従属したといえよう。しかし、政府の意外に迅速な処置は、その対外信用を格段に増した」
(同書72頁、下線は引用者による)

『新版日本外交史辞典』(外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会編、山川出版社、1992年)には、つぎのように記述されている。
「神戸事件 こうべじけん  備前藩兵が新政府の命により1868年2月4日(慶応4年1月11日)西宮の警備のため神戸を行進中、前方を横断した外国人を攻撃し、各国公使館の衛兵と銃火を交えた事件。英仏米各国海軍指揮官は各国代表の委任の下に神戸居留地を警備し、武士の通行を禁止し、一時軍事的に占領した。2月8日勅使東久世通禧は兵庫に赴き、各国代表に王政復古の国書を伝達し、外国人保護のための守備兵の到着を告げた(新政府官員が外人と正式に応接した嚆矢)。各国代表は兵力を撤退させ、抑留中の日本汽船を釈放し、かつ責任者の極刑と天皇政府の謝罪を要求した。外国事務総督伊達宗城は3月2日(2月9日)陳謝し、発砲を命令した士官滝善三郎に切腹を命じた旨を伝え、滝はこの夜神戸英福寺で切腹して事件は解決した。/秋本益利
  ◎日本外交文書(明1-1)
  ◎石井孝、増訂・明治維新の国際環境、1966
  ◎内山正熊、神戸事件、1983
  ◎瀧善成、神戸事件と瀧善三郎の切腹(歴史研究166、167)」

『国史大辞典』第5巻(1985年、吉川弘文館)に掲載されている「神戸事件」の項目。
「こうべじけん 神戸事件 明治維新直後、武士の攘夷感情が爆発した事件。明治元年(一八六八)正月十一日、新政府によって西宮の守備を命ぜられた岡山藩家老日置帯刀の部隊が神戸を行進していたとき、外国人が部隊の前方を横断したのがきっかけで、武士の間に潜む攘夷感情が爆発した。藩兵の部隊は外国人に対して発砲、負傷者を出し、英・仏・米各国の守備兵がこれに応戦した。翌十二日、外国側は岡山藩兵の行動に対する報復として、港内にある艦船をすべて抑留し、また神戸居留地を軍事的に占領した。このように強硬な処置をとる一方、イギリス公使パークスは、吉井幸輔(友美)・寺島陶蔵(宗則)に対し使節を派遣して外国側と接触をはかるよう勧告した。その結果、同十五日、参与兼外国事務取調掛東久世通禧が勅使として兵庫に赴き、各国代表と会見、王政復古を告げる国書を伝達した。その際、勅使は対外条約の遵守を保証し、外国人の安全を誓約した。この勅使の態度は外国側の好感を買った。その後、外国代表は協議の結果、日本政府への要求として、発砲を命じた士官の極刑と関係諸国政府への陳謝の二つを決め、十六日、その要求が東久世に伝えられた。当時、新政府は、旧幕府に対抗するため外国側の支持を得る必要があったので、その要求をすべて呑むことに決し、もし岡山藩が犯人の提出を拒めば討伐を加える方針であった。それから岡山藩を説得するのに若干の日数を要したが、ついに二月二日、発砲を命じた責任者に各国見証のもとで切腹を命ずることを通達した。二月九日、外国事務総督伊達宗城は、外国人襲撃を陳謝し発砲を命じた責任者に切腹を命ずる旨の書簡を、各国代表に伝えた。そして同日夜、神戸の永福寺で責任者滝善三郎の切腹が行われた。ハラキリが外国人の前に公開されたのは、これが最初である。このような事件の敏速な処理によって、新政府は最初の外交的危機を脱したのみでなく、かえって天皇政府が権力をもっていること、および対外友好関係を深めようと意図していることを外国側に証明した。
参考文献 石井孝『増訂明治維新の国際的環境』、岡義武『黎明期の明治日本』
(石井 孝)                              」 


rshibasaki at 16:07コメント(0)トラックバック(0)<神戸事件>  

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