2007年02月08日

2006歴史学供∋邯殻簑蠅叛飢

1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。なお、同じ選択肢を2度使ってもよい。(1個4点、計 100点)
(1) 本講義のテーマは「徳富蘇峰と日清戦争再考」であった。再考である以上、既存の「徳富蘇峰と日清戦争」についての理解があり、それに別のイメージを対置する試みであろう。既存の理解とはどのようなものか。まずそれを確かめよう。1863年に、現在の________________________県に生まれ、同志社に学んだ蘇峰は、1886年、出身地を引き払い上京し、翌年には、雑誌『____________________________』を創刊した。__________________________という政治思想を鼓吹し、当時の青年たちに熱烈な歓迎を受けた。その思想は、英語の「デモクラシー」の翻訳語であって、政治参加の国民全体への拡大・経済成長の成果の分配を通じた国民の平準化を求めるものであった。数年後の1890年には、日刊紙『________________________』を創刊し、首都の新聞界にデビューした。ところが、日清開戦を迎えると、対外膨張主義を唱え、政府や軍の戦争指導に協力し、雑誌と書籍を出版する________________________と新聞社の総力を挙げて戦時報道に邁進した。
(2) 過去のある時点での一連の出来事がある。例えば、日清戦争中の徳富蘇峰の思想と行動もその一例となろう。渦中にいて体験した者が、当時書き残した文書や書簡、後に思い出して語ったり書いたりしたもの。そうした過去の出来事について残された情報が累積し、過去のイメージが形成される。本講義は、こうした歴史データの累積と歴史像の形成のプロセスを、理解し直そうという試みであった。蘇峰が他界した1957年頃から開始された蘇峰研究は、日清戦争以前の蘇峰を、第二次世界大戦後の価値観にもとづき________________________に評価し、具体的なあり方を研究することからスタートした。ところが、1935年に刊行された『蘇峰自伝』では、日清戦争以前は、藩閥政府の国家権力独占を打ち破り(1) で述べた政治思想の実現を目指し__________________________に務め、日清戦争後は、欧米三ヶ国、すなわち、__________________________、__________________________、__________________________による日清講和条件への干渉をきっかけとして、日露戦争から大正期、昭和戦前までつづく__________________________に努力する時代を迎えることになると自分の生涯を概観している。昭和初期の自分を説明するのに都合のよい側面に限って、過去を思い出し、語っている。
(3) 三国干渉から1年後の蘇峰も、また、その時点での自分に都合のよい側面に限って、日清戦争中の自分を語っている。蘇峰が、1896年4月に所有する新聞の社説欄に署名入りで掲載した「________________________________」は、「我が朝野に於ける世界時務的知識の欠乏」「単に国力のみ進みて、国民の眼界の進まざりし不権衡」が原因となって「____________________」を引き起こしたとしている。これは、日清戦争中の外務大臣____________________________が前年末に書き上げた著書『________________________________』最終章と三国干渉原因論としてはほぼ同趣旨である。日清戦争後、日露戦争を終えるまでの蘇峰は、政府・軍首脳部との密接な関係を維持しつつ、日本国民を指導するとともに、対外的には、日本政府の意向を代弁する新聞として自社を位置付けようと試みる。日清戦争1年後の時点では、その方向へハンドルを切り始めたところであるが、構想としては、日英同盟締結から日露戦争中に総理大臣を務めた__________________________との関係で最終的に実現した方向性を思い描き、その構想との関連で日清戦争中の自分の行動を意味づけ、説明しようとしていた。蘇峰とこの日露戦争中の総理大臣とは、日清戦争中は戦地で第三師団を率いる師団長と取材記者という関係で初対面しており、また、____________________________まで政治的盟友としての関係を続けることとなった。
(4) 『蘇峰自伝』と同じ1935年に出版された『________________________________________』の編述者は、徳富猪一郎、すなわち、蘇峰である。このなかで蘇峰自身が起草者となった「台湾占領の意見書」という手紙形式の意見書を全文転載し、日清戦争中、その伝記の主人公が台湾占領を唱えるだけでなく、三国干渉の結果、清国へ返還せねばならなくなった地域を割譲要求することに________________________態度をとったと記述している。しかし、これは後知恵である可能性が大きい。当時の陸軍参謀次長川上操六は、この伝記の主人公と同じ現在の________________________県出身者であった。
(5) 日清戦争に際し、徳富蘇峰はなぜ、台湾占領を主張したのか。その背景には、1886年の上京と論壇へのデビュー作である『将来之日本』出版以後・日清戦争にいたる時期において、国家将来構想の一部分を形成する「軍事政策論」の転換が事前に発生し、国民の海外発展を支援する平和にあっても有益な軍備としての海軍という発想が蘇峰とかれが所有する言論集団に採用されていたことを指摘することができる。そもそも、『将来之日本』の各論として、軍事を論じた『______________________________』(1889年)では、その情報とアイディアの出所は退役陸軍中将____________________________であった。これに対し、第一帝国議会が終ったのち数ヶ月の間に、大津事件とシベリア鉄道着工、清国北洋艦隊の神戸・横浜への友好訪問、が起こった1891年、蘇峰が経営する雑誌の8月3日号には、社説「対外政策の方針」と特別寄書「兵商論」が掲載された。特別寄書とは、現在のことばで特別寄稿という意味で、匿名の寄稿家「Q.S.T.」が「兵商論」を投稿していた。講義の中ではこの寄稿家を__________________________と推定した。かれが責任者を務めたのは、現在の海上保安庁海洋情報部に系譜が連なる組織で、第二次世界大戦前は海軍に属し、____________________________と呼ばれていた。日本人が商業活動上、また、移民として海外へ渡る以上、邦人の居留民を保護する海軍が必要とされるという論理である。日清戦争開戦の年の暮れ、12月に出版された蘇峰が経営する雑誌の社説から編集された単行本『__________________________________』の巻末近くの一章に「経世の二大動機」がある。「膨脹的日本」「国民を挙げて万里の波濤を開拓する」という発想の背後には、海軍とその広報活動があった。


<選択肢>
鹿児島、熊本、福岡、山口、国民評論、国民之友、太陽、国粋、国民主義、平民主義、平等主義、国民主権主義、東京新聞、国民新聞、東京日日新聞、国民日報、平民時報、平民社、時勢社、民友社、大江社、肯定的、否定的、藩閥打破、白閥打破、憲政擁護、普選実現、平和主義、国際法確立、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ロシア、ソ連、オーストリア、ドイツ、スイス、イタリー、フランス、オランダ、ベルギー、イギリス、台湾占領の意見書、欧米周遊に就て江湖の諸友に告く、世界漫遊の趣意と日程、松方正義意見書、威海衛を衝き台湾を略すべき方略、伊藤博文意見書、威海衛還付、平壌還付、遼東還付、山東還付、天津還付、直隷還付、井上馨、川上操六、曾我祐準、山県有朋、陸奥宗光、林薫、小村寿太郎、蹇蹇録、寒寒禄、塞塞禄、回顧録、三年有半、鶏肋記、伊藤博文、松方正義、西園寺公望、寺内正毅、大正初期、昭和初期、第二次大戦後、陸軍大将川上操六、公爵伊藤博文伝、公爵松方正義伝、公爵山県有朋伝、山本権兵衛、東郷平八郎、肝付兼行、伊東祐亨、井上敏夫、日本国防論、大日本膨脹論、海外移民論、海洋部、海上諜報部、水路部、海図部





【正解】
(1) 熊本、国民之友、平民主義、国民新聞、民友社
(2) 肯定的、藩閥打破、ロシア、ドイツ、フランス、白閥打破
(3) 欧米周遊に就て江湖の諸友に告く、遼東還付、陸奥宗光、蹇蹇録、桂太郎、大正初期
(4) 公爵松方正義伝、否定的、鹿児島
(5) 日本国防論、曾我祐準、肝付兼行、水路部、大日本膨脹論


rshibasaki at 15:34コメント(0)トラックバック(0)「海上権力をめぐる海軍と徳富蘇峰」工・歴史学2005-2007  

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