2007年04月03日

徳富蘇峰と日清戦争再考

急いで書いてしまおうと始めた。構想の目次として。

--------------------------
徳富蘇峰と日清戦争再考

 はじめに

一、発端となる論点
1. 平民主義と生産主義は将来の軍拡を視野に入れていた
2. 蘇峰は、国内政治にも国際政治にも、戦略的発想をした
3. 蘇峰は、社会的影響力の獲得と行使を区別し、実行した
4. 日清戦争時、蘇峰は自らを、対外硬的スタイルの対極に位置づけた(意見修正↓)
5. 蘇峰は、松方正義を通じて台湾占領計画に関与した
6. 肝付兼行「兵商論」が『大日本膨脹論』への道を開いた(意見修正↓)
7. 肝付兼行は、マハン海上権力論の最も初期の紹介者であった
8. マハンの影響を受け義勇艦隊建設の発想が登場した

二、回想のなかの遼東還付
1. 『時務一家言』
2. 『蘇峰自伝』以後

三、海上権力と台湾占領
1. 『台湾遊記』『公爵松方正義伝』
2. 遼東半島割譲要求に反対という回想

 おわりに
--------------------------

内容を構成することが可能となった前提として。

1. 澤田次郎著『近代日本人のアメリカ観----日露戦争以後を中心に』(1999年)が、徳富蘇峰の言説における「白閥打破」の初出を、1913年5月4日の国民新聞社説「白閥」であることを確定したこと。
2. 斉藤聖二著『日清戦争の軍事戦略』(2003年)が、日清戦争が「緒戦期」から「講和期」へ移行する1894年11月〜12月において、台湾占領への道が現実のものとなった際、伊藤博文首相の意向が大きく関与したことを抽出したこと。
3. 米原謙著『徳富蘇峰』が蘇峰を「便宜主義」と捉えることから示唆を得て、蘇峰を戦略的な動きをする人物と理解できたこと。
4. 1891年の蘇峰における軍事政策論の転換が、海軍水路部長肝付兼行との関係を通じて生じたことを新たに見つけたこと。
5. 1896年4月の外遊事情説明の文章に、陸奥宗光外務大臣と同質の対外硬への批判的姿勢を見つけたこと。


[2011年11月15日、追記]
発端になる論点の「4.」「6.」は、意見が変わった。「6.」については、「兵商論」の著者は肝付兼行ではなく寺島成信であることを、この後に知った。最近紀要に載せた「国家将来像と陸海軍備をめぐる海軍と徳富蘇峰」にまとめた。「4.」については、日清戦争後の回想のなかではそのような言説があるが、日清戦争中には硬六派つながりから脱却したわけではない。回想と行動に落差がある。

rshibasaki at 12:53コメント(3)トラックバック(5)「海上権力をめぐる海軍と徳富蘇峰」工・歴史学2005-2007 | <海事・海軍史> 

トラックバックURL

トラックバック一覧

1. 西暦1894年 - 日清戦争  [ ぱふぅ家のホームページ ]   2009年10月23日 22:38
1894年、東学党の乱をきっかけに、朝鮮半島において清と日本が衝突し日清戦争が始まった。翌年、清が敗戦し、下関条約が結ばれる。
2. 西暦1894年 - 日清戦争  [ ぱふぅ家のホームページ ]   2013年09月28日 18:42
年表を改めました。HTML5に対応しました。
3. 西暦1894年 - 日清戦争  [ ぱふぅ家のホームページ ]   2014年08月14日 17:36
【更新】1894年、東学党の乱をきっかけに、朝鮮半島において清と日本が衝突し日清戦争が始まった。翌年、清が敗戦し、下関条約が結ばれる。
4. 西暦1894年 - 日清戦争  [ ぱふぅ家のホームページ ]   2015年12月03日 14:56
西暦1894年 - 日清戦争【更新】年表更新
5. 西暦1894年 - 日清戦争  [ ぱふぅ家のホームページ ]   2016年02月04日 17:09
西暦1894年 - 日清戦争【更新】年表更新

コメント一覧

1. Posted by siz   2008年01月07日 22:10
初めまして。
いきなり失礼かと思いましたが。
教えていただきたいことがありメールしています。

(1)怖露病は日清戦争直後にもっとも激しくなりましたが、その理由は何ですか。
(2)「明治三十七八年役の後、上記の文章が執筆された時には、日露両国政府の関係は、戦争前とは大きく変化しています。どのように変化しましたか?

この2問について教えていただけると助かります。
お願いします。
2. Posted by 柴崎力栄   2008年01月08日 16:38
(1)について。ロシアが三国干渉の当事者であったためでしょう。講和以後の明治28年を通して、朝鮮での日露の力関係がロシア優位に傾いていったことも背景としてあります。
(2)について。質問の文脈がうまく理解できません。「明治三十七八年役」=日露戦争ですが、そうであるとすると「上記の文章」とは、1913年刊『時務一家言』という意味ですか。
質問の意味をもう少し敷衍して、詳しく説明してください。そうすれば回答できるかと思います。
3. Posted by グリーン中山   2009年12月15日 15:31
参考『台湾の歴史の教科書に見る 公学校と小学校』 1

國中・社會(第二冊)課本 (仁林文化)

 出版者: 仁林文化出版企業股(イ+分)有限公司
 総公司: 106臺北市大安區信義路二段72號2樓
 出版日期:中華民國九十二年 元月 初版
      中華民國九十六年 元月 五版

  2 日本統治時期
   第二節 殖民經濟與教育發展

    p78
    教育制度

       日治時期的教育方針、初期是採取臺灣人、原住
     民、日本人三個系統及小學校、公學校雙軌教育、實
     行隔離政策和差別待遇。
     〜

    (訳)            (注:訳は大体です。以下同じ)
     日本統治時期の教育方針は、
     初期には台湾人と原住民、日本人の
     三個系統、及び、小学校、公学校の2種類の教育を
     採用して、隔離政策と差別待遇を実行した。
     〜

  以下 
  http://margo.blog.so-net.ne.jp/2009-06-21?comment_success=2009-11-21T20:11:47&time=1258801907
   いるかのしっぽ
    NHK『JAPANデビュー』抗議デモ渋谷6月20日
     コメント欄参照

コメントする

名前
URL
 
  絵文字
 
 
Categories
Profile
Recent Comments
Archives
訪問者数

QRコード
QRコード
「日本の伝統と文化」教科書
  • ライブドアブログ