2007年05月20日

マハン海上権力論の日本海軍への影響にも、二つある

(1) 狭義の海軍、戦時における戦闘組織としての海軍に対するもの。平間洋一さんの論文だと、「A・T・マハンが日本海軍に与えた影響」(政治経済史学320号、1993年2月)がこれに対応する。

(2) 広義の海軍、平時戦時を通じた通商・漁業・移民をバックアップする組織としての海軍に対するもの。平間洋一さんの論文だと、「『陸奥海王国』の建設と海軍」(政治経済史学370号、1997年4・5・6月合併号)がこれに対応する。

後者の論文には、「なぜ、 海軍が大湊に商港を開港することを認めただけでなく、 積極的に支援さえしたのであろうか。 /それは、 マハン(Alfred Thyer Mahan)大佐の『海上権力史論』の影響にあったように思われる。 マハン大佐は海洋活動を行う商船隊や漁船隊、 それを擁護する海軍、 その活動を支える港や造船所などを「シーパワー(海上権力)」と規定し、シーパワーの増大が産業を拡大し、 産業の拡大が海外市場を必要とし、 製品と市場(植民地)を結ぶため海運業が育つ。しかし、 国際法は万能ではないので、 海運・貿易・市場を保護するため海軍力が必要である。海洋を制する国家が世界の富を征し歴史を制する。 シーパワーが国家に繁栄と富をもたらすと論じた。この戦時のみならず平時における海軍力の価値の重要性を強調したマハンの著書を最初に日本に紹介したのは、ハーヴァード大学に学んだ明治の国家指導者の1人でもあった金子堅太郎であった」で始まり、つぎの文面につづく個所がある。

「明治末期から大正初期には佐藤の『帝国国防史論』などの一連の著作が、海軍を支えるシーパワーである港湾、 商船隊、 漁船隊を整備し造船所を起こし、貿易を振興させて日本に富をもたらし、 それを保護する海軍を整備すべきであるとの海権論として広く国民にも理解されるに至った。そして、 大湊興業の創設には大阪商船をへて神戸桟橋株式会社の社長となった南郷三郎(筆頭株主)、北前船の船主で大阪の経済人の大家7平、 大倉組みの大倉喜八郎など、 この理論が国家発展主義者、造船業者、 海運業者、 貿易業者、 自らの栄進を望む海軍軍人、 すなわち大海軍の建造と積極的な対外政策から利益を得ることのできる人々に歓迎され、日本を海洋国家建設に、むつ湾一帯を「東洋の海王国」建設に走らせたのであった。 /そして、 海軍は港湾の整備、 鉄道の敷設がシー・パワーを増大する1要素であると理解し、 大湊興業の創設のみならず、大湊興業の業務が開始されると、 発電機や船舶の修理などを要港部の修理工場が支援し、 ケガ人などを要港部軍人家族診療所で診断するなど協力した」。

海権論が力を失って行く条件変化として、平間さんは、同稿「おわりに」において、つぎのように指摘する。

「大湊興業が創設時に前提としていたこれら条件は、 ロシア革命による共産主義政権の出現、ウラジオストーク港の軍港化、 1929年10月24日にニューヨークのウォール街を襲った株価の大暴落による景気の低落、アメリカ、 イギリス、 フランスなど植民地を有する国の経済のブロック化などにより覆されてしまった」。

これは、広義の海軍を説く海権論が国民の支持を得る基盤を失い、狭義の海軍が表面化する前提の変化でもあろう。現在取り組んでいる明治期から先の時代、後への見通しを得た気持ちになった。



rshibasaki at 13:20コメント(0)トラックバック(0)<海権論> | <海事・海軍史> 

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