2007年07月30日

7月23日実施、「日本の歴史」試験問題

日本の歴史  柴崎  情報科学部・2年次〜  月曜・3時限  参照許可物等なし

1.下線部に最も良く適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。 (1個2点、計100 点)

(1) 第3回「情報化から見た近代日本(その1)」では、第2回で示した対象と視角との関連の具体例を示した。1853年の______________以来現在にいたる150年余りの日本社会を、情報化という視角から観察し、そこに見える歴史像を捉える。図「______________________________」を示して、いま現在の我々の生活のあり方を確認するところから始めた。そこでは、我々が生活する社会的空間を物質的側面と_______________側面が重なり合って成立している二つの面の相互関係として捉えた。続いて示した図「_____________________________」は、国内の中央から地方都市、地方都市から個々人の生活の場である_________________に向って情報の流れるルートの複数化・緻密化と、海外との出入り口、すなわち、横浜・神戸等の___________________の所在の問題を示した。後の回の内容で言えば、「19世紀の世界交通と日本」や「交通体系の変容と地域」への導入となる内容であった。

<選択肢> ペリー来航、開国、開港、渡航解禁、日常生活空間の構造、国全体から見た日常生活空間の位置づけ、メディア下降の長期的パターン、地理的、メディア的、インフラ的、交通的、地域、大都市、ゲートウエイ、ネット ワーク


(2) 第5回「情報化から見た近代日本(その2)」では、_______________著『民情一新』(1879年刊)と、________________編『日本人はどう変わったのか』(1988年刊)を対比的に用い、109年離れた二つの観察地点から見た近代日本の姿を示した。前者がこれから発生する変化として予測し、後者がすでに終った変化として捉える____________についての着目が共通する。なお後者の副題は「戦後から現代へ」である。この戦後とは第二次世界大戦の戦後であり、現代とは1988年現在である。この間に日本社会に生じた変化は_______________である。

<選択肢> 福沢諭吉、福沢桃介、祖父江孝男、都市化、地方分権化、高度経済成長、産業革命


(3) 第6回「情報化から見た近代日本(その3)」では、__________県______________という特定の地域社会に着目して情報通信の変遷を追った論考、寺岡信悟「情報通信の地域社会史」を配布した。肉声で叫ぶことでコミュニケーションする_______________という手段から始まり、電話とテレビが普及するまでの変化を跡づけている。

<選択肢> 大分、熊本、福岡、宮崎、佐賀、鹿児島、長崎、都城市、延岡市、熊本市、高千穂町、湯布院町、日之影町、回覧板、集団電話、オラビテ


(4) 「19世紀の世界交通と日本」では、19世紀中頃以来、日本から________にいたる最短経路がどのように変遷したのかを扱い、「______________」の時代における変化と「______________」の時代における変化との間に、類似したパターンが発見されることを指摘した。後者の時代におけるジェット旅客機の登場に相当するのが前者の時代における_________________を動力源とする長距離交通機関、すなわち、蒸気船の登場と大陸横断鉄道の建設であった。陸海空どの場合も、このような新しい技術レベルの交通機関の登場によって、地球上の2点を最短経路で結ぶ__________________が可能となった。このルートを採って以来、横浜・サンフランシスコ間の航路が、___________________付近を通ることになった。なお、後者の時代における米国アラスカ州________________・北極上空経由ヨーロッパ行きの経路に相当するのは、前者の時代においては、1869年のサンフランシスコと米東部を結ぶ最初の北米横断鉄道の開通であり、シベリア上空経由ヨーロッパ行きの経路に相当するのが、1902年の__________________の開通であろう。

<選択肢> 西欧、北米、地表交通、航空交通、蒸気機関、内燃機関、大圏航路、等角航路、北方のアリューシャン列島、南方のグアム島、マラッカ海峡、ヘルシンキ、アンカレッジ、ナホトカ、シベリア鉄道、ヒジャズ鉄道、シルクロード鉄道


(5) エジプトのスフィンクスの前で撮影したサムライ姿の日本人一行の集合写真を、講義のなかで配布した。ある本のカバーである。この写真に写る日本政府の代表団が紅海から地中海へ______________を越えた時、そこには運河が_________________。また、ジュール・ヴェルヌ作『八十日間世界一周』の作中人物の世界周遊ルートは、インド付近を除けば、明治新政府が欧米各国に派遣した_______________の世界周遊コースと同一である。その使節団に副使の一人として参加した______________は、サンフランシスコにおける歓迎会で、自ら書き下ろした答礼演説を、英語でスピーチしている。のち、明治時代の代表的な文官政治家となるかれは、徳川幕府が___________年に一般人の海外渡航を解禁する前に、________藩から派遣されて______________に留学した経験があり、英語を話すことが出来たのである。

<選択肢> スエズ地峡、パナマ地峡、コリント地峡、マラッカ海峡、ジブラルタル海峡、喜望峰、すでに完成していた、未完成であった、遣米使節団、遣欧使節団、岩倉使節団、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、井上馨、井上勝、1854、1866、1874、肥前、薩摩、加賀、長州、英国、米国、フランス、ドイツ、ロシア


(6) 敦賀・下関が日本でいちばんヨーロッパに近い都市となったのは、____________________の10年間ことであった。対岸から西ヨーロッパにいたる欧亜連絡の鉄道は、_________________が1917年に発生すると一時不通になったがその後再開し、第2次世界大戦中には、同鉄道経由の日本とソ連の首都との連絡は_______であった。

<選択肢> 19世紀最後、20世紀最初、ロシア革命、フランス革命、ドイツ革命、可能、不可能


(7) 「初期の洋行と人材育成」で、小熊英二著『インド日記----牛とコンピュータの国から』を示したのは、日本の明治初期にも、______________となった経験をもつ諸国・諸地域と同様、___________教育機関における講義が欧米人により________________で行われた時代があったことを説明するためであった。日本で1885年まで行われたその種の教育を、_______________と呼ぶ。一方、多人数の実務家や現場の技術者を短期間で育成する必要に迫られて採用された______________という方法も用いられた。____________教師が、日本語で講義した。この後者の方法が、高等教育と義務教育の間に存在したことが、日本の特色である。

<選択肢> 敗戦国、植民地、高等、初等、日本語、現地語、欧米語、正則教育、正規教育、変則教育、速成教育、日本人、欧米人


(8) 「交通体系の変容と地域」では、近世→近代帰近代兇箸いΩ鯆未涼奮的変化が地域にもたらす影響を、東北の秋田県を事例として考えた。近世から近代気悗琉楾圓砲蓮交通経路の変化は発生せず、近世と同じ経路を運航・運行する交通手段が変化し、置き換えられた。近世を通じて繁栄した河口積替え都市、河川流域の船着場、街道に沿って整備された宿場、などの交通インフラは、近代気了代にあっても、近世同様の賑わいを見せた。秋田の場合、上方と蝦夷地を往復する_____________に代わって、函館と下関を結ぶ定期航路の蒸気船が寄港することとなった。しかしながら、つづく近代気ら近代兇悗琉楾圓蓮◆押押押押押押押押押押押欧了代の到来であり、国内幹線交通網が新たな交通手段によって担われることとなった。また、近代的______________整備を同時に行なうことで、日本海の対岸の各地域、すなわち、樺太・沿海州・朝鮮各地とを結ぶ貿易港としての発展を構想することが可能となった。これは、現在、日本海沿岸の各自治体が構想する_________________と類似した発想であり、交通網整備はどの時代にあっても地域の経済的発展にとって基礎的な条件であったことが窺える。明治・大正・昭和戦前において、そうした海外貿易を_______________と呼んだ。実際に日本海側で貿易港として栄えたのは、明治・大正期には___________であり、昭和に入ってから上越線が開通することで____________が加わった。

<選択肢> 北前船、三十石船、高瀬舟、鉄道、馬車交通、空港、港湾、高速道路、日本海縦貫高速道、環日本海経済圏、日本海縦貫経済圏、裏日本経済圏、対岸貿易、沿海州交易、函館、横浜、酒田、新潟、敦賀、神戸、長崎、広島


(9) 『京游日誌』を記した伊藤直純は、現在の秋田県横手市の人であった。福島から東北西海岸の山形県・秋田県・青森県を縦貫し、青森に抜ける現在の______________本線建設の陳情活動に上京するときの記録がこの日記である。1887年2月、_____________県内では、現在の____________本線の工事が行われており、その光景を____________の車上から眺め、栃木県北部の黒磯へ至る。黒磯からは東京へすでに鉄道が開通していた。一方、「英国通信」を書いた町田忠治は、現在の秋田市出身の士族で、経済の勉強のためロンドンに滞在していた。郷里の秋田から送られてきた新聞を読み、南隣りの___________県では、鉄道の支線を_____________港へ繋ぐ計画を練っているとのことを知り、秋田の将来的なライバルの登場を危惧した。

<選択肢> 東北、奥羽、青森、秋田、岩手、山形、福島、馬車、人力車、青森、酒田、新潟



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【正解】
(1) ペリー来航、日常生活空間の構造、メディア的、国全体から見た日常生活空間の位置づけ、地域、ゲートウエイ
(2) 福沢諭吉、祖父江孝男、都市化、高度経済成長
(3) 宮崎県、日之影町、オラビテ
(4) 西欧、地表交通、航空交通、蒸気機関、大圏航路、北方のアリューシャン列島、アンカレッジ、シベリア鉄道
(5) スエズ地峡、未完成であった、岩倉使節団、伊藤博文、1866、長州、英国
(6) 20世紀最初、ロシア革命、可能
(7) 植民地、高等、欧米語、正則教育、変則教育、日本人
(8) 北前船、鉄道、港湾、環日本海経済圏、対岸貿易、敦賀、新潟
(9) 奥羽、福島、東北、馬車、山形、酒田


rshibasaki at 19:24コメント(0)トラックバック(0)「上記2科目のエッセンスで構成」情・日本の歴史 2007終了  

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