2008年01月24日

「歴史学」2007試験問題

1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。(1個4点、計100点)

(1) 講義の導入として、元外務大臣________________が、2005年12月7日、日本記者クラブで行った演説「わたくしのアジア戦略」を配布した。その演説は、「日本は19世紀中葉以来、アジアにおいて政治経済、社会の近代化を、最も早く経験した国」であり、「民主主義と市場経済の建設において、日本はアジア諸国にあって比類なく豊かな経験を積んできた」ことを指摘している。一方、1871年12月14日、_________________での歓迎会に臨んだ___________________の副使、__________________は、後に「日の丸演説」と呼ばれるようになるスピーチを行った。この二つの場面、日本の近代化の始点、終点の間における舞台設定の変遷を概観し、他国、他地域との比較対象の素材として日本近代史を把握するのがこの講義であった。
(2) 上記の日本政府代表団歓迎会が開催された都市は、その2年前に開通した最初の_________________の終点であり、ここより_________________航路を経由してアジア各地へつながる陸路と海路の結節点、乗り換え・積替え都市としての性格をもっていた。その地の人々は、地域の将来発展の可能性をアジア貿易に見出していた。この講義では、また、日本国内における「交通体系の変容と地域」の事例として秋田県を紹介し、本州中央部と鉄道でつながり、さらに、国際航路へつながることに地域の将来発展の途を見出している姿を紹介した。明治・大正時代においては、日本海沿岸各地域と日本海対岸の地を結ぶ国際貿易のことを__________________と呼んだ。一世紀後の現在、日本海沿岸各地域において国際的な交通・交易の可能性に地域の将来発展を構想することを___________________構想と呼ぶようになっている。
(3) 青森県と山口県を除く本州日本海沿岸の各地域に所在する港湾のうち、上記(2)で述べた国内の鉄道と日本海の向こう岸を結ぶ航路に連なる貿易港として現実に発展したのは、明治・大正時代においては____________港であり、昭和時代に入り、1931年に上越線が開通したのちの_____________がこれに続いた。その2年後に発表された川端康成の小説『雪国』、その舞台となった越後湯沢は、東京から満洲国へ向うショートカットルート上に存在していた
<(1)〜(3)の選択肢> 陸奥宗光、小村寿太郎、内田康哉、小泉純一郎、川口順子、麻生太郎、高村正彦、バンクー バー、シアトル、サンフランシスコ、ウラジオストック、遣米使節団、遣欧使節団、岩倉使節団、井上馨、伊藤博文、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛、北米大陸横断鉄道、ユーラシア大陸横断鉄道、中近東縦貫鉄道、太平洋、大西洋、インド洋、対岸貿易、沿海州貿易、環日本海経済圏、ユーラシア経済圏、青森、秋田、酒田、新潟、直江津、富山、敦賀、境、下関

(4) 本講義では、また、時期区分・時代区分ということに意を用いた。第12回「国際秩序の変遷と国内政治」では、国際政治の場面変化の背景に、幕末以降(石炭燃料に基づく蒸気船、蒸気鉄道による世界交通の成立)、1918年の第1次世界大戦終結以降(石油燃料による内燃機関の時代)、1945年の第2次世界大戦終結以後(石油に原子力を加えた時代)、1991年の______________終結以後(つぎのエネルギー源への模索の時代)、という巨視的な区分を見る。世界交通の変遷という観点から同じ時代、19世紀半ばから現在までを見ると、第2回・第3回「西ヨーロッパへの最短経路の変遷」で取り上げたように、1930年代から1940年代の間に転換期があり、それ以前は、国際航路と______________による地表交通の時代、それ以後は、航空交通の時代という二期区分となる。
(5) 航空交通の時代内部には、_______________の登場の前後で様相の変化、区切りがあった。それまでは、飛行高度・航続距離・速度に制約が大きく、地形と気流にそった飛行経路となっていた。ところが、上記の区分以後は、成層圏を飛行し、出発地と目的地を最短経路で結ぶ_______________を採ることとなり、地表交通の時代の海上交通における_____________の登場と同様に、経路に関する変化をもたらした。
<(4)〜(5)の選択肢> ベトナム戦争、朝鮮戦争、東西冷戦、自動車交通、大陸横断鉄道、航空路、ジェット機、プロペラ機、飛行艇、大圏航路、等角航路、巡航航路、チャイナクリッパー、蒸気船、スクリュー船

(6) 国際的な場面の変化を受けて、国内的な状況も変化するが、国内には別にローカルな時期区分があった。技術や制度が変遷する具体的な場面の中で、人々は生まれ、成長し、年老いて、死んでいった。1881年に文部省が刊行した『小学唱歌集』初版に収められた「_______________」の歌詞のうちに「筑紫のきわみみちのおく海山とおくへだつとも」の文言がある。大阪や東京から「筑紫」にいたるには_______________に乗るのが普通の旅行手段であると当時の人々は考えていたであろう。一方、明治末年、1912年に刊行された文部省『尋常小学唱歌』第3版に収録の唱歌「_______________」には、「過ぎしいくさの手柄を語る」「囲炉裏のはたに縄なう父」の姿が歌われている。この父が体験した戦争では、輸送船に乗る港までは、陸軍部隊は______________で輸送され、そこから戦地へ渡海したであろう。この二つの時代の差は、第10回「交通体系の変容と地域」前半週で、「近代機廚了代から「近代供廚了代への変化として説明した。第7回「福沢諭吉著『民情一新』第3章を読む」前半週で配布したプリント、すなわち、_______________が著者である自伝小説『富士』では、1889年に主人公が郷里熊本から上京した時には、まだ、滋賀県内の琵琶湖東岸地域の東海道線は工事中であった。その際「博多から大阪まで汽船に乗つた」山陽道は、1895年2月に帰省する時には、広島まで山陽鉄道が開通し、九州方面への旅客は、途中の港、_____________から連絡船に乗り、門司へ向うこととなっていた。これも「近代機廚ら「近代供廚悗琉椶衒僂錣蠅鮗┐梗体磴任△襦
<(6)の選択肢> 汽船、鉄道、馬車、人力車、汽車の旅、旅愁、冬の夜、同胞すべて五千万、みがかずば、螢の光、菅公、鉄道唱歌、徳富蘇峰、徳富蘆花、神戸、姫路、尾道、広島、下関

(7) 本講義の柱となる視点の一つに、日本国内の中央と地方、それを取り巻く国際的な環境という空間的な配置のなかで、日本近代を把握するという発想があった。1890年頃、政治・産業・軍隊など各分野で、地域から国全体や世界的場へ参加し、そこでの評価、評判が地域にフィードバックされる仕組みが成立した。政治においては、地元選挙区選出の_________________が東京の帝国議会で行った演説が全国的に報道され、さらに、欧米諸国での日本の議会政治に関する評判が紹介される。産業分野では、地元の物産・製品が、政府主催の全国規模の博覧会である______________に出品され、そこでの受賞が全国的に報じられる。政府と府県庁の勧めに応じて参加した万国博覧会での評判が、新聞報道というかたちで国内に還流する。軍事について言えば、明治維新以後、第二次大戦終戦にいたる日本陸軍は____________の軍隊であった。兵士は、師団管区・連隊区に_______________府県・郡町村の出身者から構成された。その部隊が残した戦績は、郷土の他地域への自慢、郷土意識を高めるものとなる。延いては日本全体として、ナショナリズムを高める基盤となった。
<(7)の選択肢> 貴族院勅撰議員、枢密顧問官、衆議院議員、華族議員、共進会、地方博覧会、内国勧業博覧会、国際博覧会、徴兵制、志願兵制、対応した、無関係な


rshibasaki at 13:28コメント(0)トラックバック(0)知・歴史学「日本近代の舞台設定」 2004-2013終了  

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