2008年01月24日

「歴史学供2007試験問題

1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。同じ選択肢は一回のみ使うこと。(1個4点、計 100点)
(1) 徳富蘇峰は、1863年に生まれ、__________________年に死去した。その死の前後から歴史上の人物として研究対象となった。初期の蘇峰研究者は当然、自らが属した時代の価値意識から蘇峰の生涯を捉えた。彼らは、直前の大東亜戦争中ラジオ放送に登場し、戦意高揚の演説を行った蘇峰の姿を鮮明に記憶していた。一方、明治まで遡ると、日清戦争前・議会開設以前に雑誌『__________________________』を創刊した頃の蘇峰は、______________________者を自称しており、戦後の蘇峰研究者には、近代日本の____________________________的伝統の先駆者の姿と見えた。
(2) この対照的な青年蘇峰と老人蘇峰の間には、その途中のいずれかの時点に、大きな転換点、境目があったに違いないと考えるのが自然である。その疑問に先回りして答えたような本が、昭和戦前にベストセラーとなっていた。徳富猪一郎著『____________________________』(1935年刊)である。そこでは、__________________________という歴史上の出来事が自分の人生における「一大回転機」であると記されている。
(3) その出来事を人生の前半・後半を画するものとする回顧が初登場するのは、______________________年に刊行された徳富猪一郎著『_______________________________』であった。「力の福音の洗礼」という表現が出てくる。
<(1)〜(3)の選択肢> 1941、1945、1957、1964、日本人、国民雑誌、国粋、国民之友、青年之友、帝国主義、軍国主義、平民主義、民主主義、皇室中心主義、三代人物史、勝利者の悲哀、蘇峰自伝、時務一家言、大日本膨脹論、将来之日本、台湾出兵、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、第二次大戦、1886、1891、1895、1907、1913、1918、1929

(4) 田口卯吉の経済雑誌社からデビュー作『__________________________』を出版し、翌年、雑誌を創刊した頃の蘇峰の主張は、軍事費を抑制してその余力で経済成長を実現するというものであった。その議論を具体化し、軍備政策について具体策を述べた各論が、自分の経営する雑誌に連載され、継いで『______________________________』というタイトルで単行本として刊行された。その論旨は、__________________________中心の軽武装で国防、すなわち、____________________________________は可能であるとするものであった。
<(4)の選択肢> 新日本之青年、将来之日本、日本之将来、日本の国防を論ず、国防を論ず、日本国防論、大日本膨脹論、陸軍、海軍、国土防衛、海外居留民保護

(5) 1889年、大日本帝国憲法が発布され、翌1890年7月、第1回衆議院議員総選挙が行われ、同年11月末、第1議会が召集された。これ以後、毎年度の政府予算案は______________________の審議・承認を経て成立する必要が生じた。かつて、1874年の________________________当時、清国に対して優勢を保っていた海軍は、1880年代に入ると、建艦競争に力を入れる清国に競り負けて、比較劣位に陥っていた。定遠・鎮遠に対抗できる______________________の建造費を獲得するため、世論に海軍軍備の必要性、優先的整備の必須を説得する論理を必要としていた。
(6) 1891年(明治24年)4月、__________________________________が起草した「海防意見書」は、__________________における戦略・戦術を詳述している。海軍の作戦指揮の責任者の立場・思考を反映した意見書であった。一方、同年7月に非売品の小冊子として発行された『兵商論』は、______________________における陸軍と海軍の任務の区別、社会的な機能の差を指摘する。海軍編修書記__________________________________が起草したこの小冊子は、広く配布されたと推測される。世論対策を考慮した立論となっている。
(7) 日清戦争__________________の国民新聞に、1894年10月24日から11月1日にかけて、8回にわたり連載された記事「海上の権力 <<肝付海軍大佐の意見>>」は、その3年数か月前、『兵商論』が執筆されるに際して、米国海軍の理論家、アルフレッド・T・マハン著『海上権力史論』が、日本海軍の世論対策担当者たちによって、どのように受容され議論の組み立てに生かされたのかを推測させる素材である。
(8) 講義では、平間洋一氏の二つの論考を紹介した。「A・T・マハンが日本海軍に与えた影響」(1993年)は、「マハンの日本海軍に与えた影響について、兵力整備および戦略戦術面から考察するもの」で、講義を担当した柴崎の表現では、________________________________論としてのマハンの受容を論じたことになる。一方、平間「『陸奥海王国』の建設と海軍---大湊興業を軸として---」(1997年)は、「海軍を支えるシーパワーである港湾、商船隊、漁船隊を整備し造船所を起こし、貿易を振興させて日本に富をもたらし、それを保護する海軍を整備すべきであるとの海権論」としてのマハンの受容を扱う。この後者の論考は、明治から大正時代の日本海軍が、民間人の海洋活動・海外への展開をサポートする国家組織、すなわち、______________________________としての自覚をもち、その自覚を言語化するに当たってマハンとの出会いが契機となった歴史的経緯を指摘した最初の研究と位置づけられる。
<(5)〜(8)の選択肢> 枢密院、貴族院、帝国議会、台湾出兵、西南戦争、朝鮮出兵、日清戦争、主力艦、補助艦、肝付兼行、寺島成信、山本権兵衛、有地品之允、東郷平八郎、戦時、平時、前、中、後、狭義の海軍、広義の海軍

(9) 日清戦争から数年後の1898年は、極東情勢が緊迫化した年であった。同年11月に成立した第一次山県有朋内閣の下で海軍拡張のための地租増徴が実現すると、蘇峰は、山県に接近するとともに、________________________________にも重点を置いた軍備拡張を主張するようになった。
(10) 1900年、北清事変にともないロシアが満洲を占領した。清国領土である満洲からの撤退をロシアに要求するため、翌1901年6月に成立した第1次______________________________内閣の下で、日英同盟が締結され、日露戦争が遂行されることとなった。蘇峰と国民新聞社は、日露戦争の講和、すなわち、ポーツマス講和条約の締結を______________した。
<(9)(10)の選択肢>  仮装巡洋艦、陸軍、沿岸警備隊、海軍、原敬、寺内正毅、小村寿太郎、伊藤博文、山県有朋、桂太郎、支持、批判











【正解】
(1) 1957、国民之友、平民主義、民主主義、
(2) 蘇峰自伝、日清戦争
(3) 1913、時務一家言
(4) 将来之日本、日本国防論、陸軍、国土防衛
(5) 帝国議会、台湾出兵、主力艦、
(6) 有地品之允、戦時、平時、寺島成信
(7) 中
(8) 狭義の海軍、広義の海軍
(9) 陸軍
(10) 桂太郎、支持


rshibasaki at 16:57コメント(0)トラックバック(0)「海上権力をめぐる海軍と徳富蘇峰」工・歴史学2005-2007  

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