2008年07月06日

寺島成信の慶應義塾入学は明治20年9月

昨日、府立中之島図書館にて、『慶應義塾入社帳』を閲覧し、寺島成信がどのように載っているのかを確認した。

「入社ノ年月」は「明治二十年九月二十日」。
「証人」は「俣野景次」。
「寺嶋成信」と氏名が表記されている。

『新人国記 名士の少年時代 東北編』(報知新聞社、1930年)によると、清酒『加茂川』の醸造元、加藤長三郎の支援により、小学校教員を辞めて上京することになったのが、明治19年9月である。慶應入学までに一年間の準備が必要だったことになろう。

また、各種人名事典で、寺島が慶應を卒業したのを明治22年としている。この当時2年間で卒業可能だったのか否も確認する必要があろう。

*

[2008年7月7日追記]
寺島が卒業したのは慶応義塾の本科。明治23年1月に大学部が出来ると、それまでの本科と別科は「普通部」と名づけられたという。
俣野景次は慶應義塾出身者で、西田川郡中学校の教員をやっていた。『慶応義塾百年史 付録』(1969年、慶応義塾)収録の付録14、表「明治二十三年以前における慶応義塾出身教職員の分布状況」に、「山形県 西田川郡中学校 明治十八年 俣野景次」とある。明治18年は「就(在)任年」だという。

[2009年12月9日追記]
『新人国記 名士の少年時代 東北編』には、「明治十九年九月、成信は一切の上京準備が整ふと、人力車に乗つて生家から福島県の二本松に向つた。」「そして二本松から汽車に乗つて東京に出で、慶應義塾にはいつたのである。」とある。東北本線の黒磯・郡山間が開通したのは、明治20年7月、仙台まで開通したのは同年12月である。「明治十九年」という記述は、年代を1年間違えているのであろう。
郡山と福島の間の二本松まで、寺島が上京した時は、部分開通していたと思われる。

rshibasaki at 15:03コメント(0)トラックバック(0)<海事・海軍史>  

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