2008年07月29日

試験問題と回答

歴史学機 ー萄蝓  々学部・2年次〜    参照許可物等なし

1.設問2の文章に出てくる人物、A、B、C、Dは、それぞれ誰か。選択肢から選んで記入せよ。(1個4点、計16点)                                 
A → __________   B → _________
C → __________   D → _________
<選択肢> 有地品之允、伊東祐亨、東郷平八郎、山本権兵衛、肝付兼行、井上敏夫、佐藤鉄太郎、小笠原長生、寺島成信

2.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。(1個4点、計84点)
(1) 「狭義の海軍」とは、現在の我々が海軍という言葉から思い浮かべる第二次世界大戦を戦ったような戦闘組織としての存在を指す。現在の日本における___________の役割は、ここで言う「狭義の海軍」に対応する。一方「広義の海軍」とは、商船、漁船、移民、交易など海を舞台とした、あるいは海を越えた民間の活動をサポートする国家組織としての海軍を意味する。現在の日本では1948年に発足し、海上における非軍事的分野(警察、消防に相当)を担当する国家組織___________の活動領域も、戦前においては、沿岸海域において警察が所管した部分を除くと、ほぼ、海軍の担当であった。また、明治以来、昭和戦前期にいたるまで海軍の一セクションであった_________は、1948年以降、上記の国家組織の一部となり、さらに平成時代に入ってから、海洋情報部と改称した。なお、日清戦争前から日露戦争直後まで、___A___がこのセクションの長を務めた。
<選択肢> 帝国海軍、海上保安庁、消防庁、警察庁、海上自衛隊、水路部、海図部、海洋部

(2) 「狭義の海軍」と「広義の海軍」の境界を身をもって体験したのが___B___であった。彼が艦長として実施した戦艦富士による__________試験航行の成功は、日露戦争における艦隊運用上、致命的な重要性を持った。瀬戸内海にある海軍根拠地である_________鎮守府からこの海峡を経由し、対馬海峡から日本海、黄海、東シナ海方面に出るための最短経路となるからである。なお、この瀬戸内海にある鎮守府の場所を選定したのは、__A___であった。その同じ海峡が日露戦争後に港湾整備、航路整備の対象となった時、___B___は、自らの経験に基づき意見を公表することになる。また、___B___は、日露戦争中には、___________香港丸の艦長として、ロシアバルチック艦隊に対する偵察、牽制のため、日本丸を率いて二艦で南に向った。英領____________においてマスコミ取材を受け、正規の軍艦から構成される「分遣艦隊」の一部として同海域に至ったと偽装行動を試みた。
<選択肢> 津軽海峡、台湾海峡、関門海峡、明石海峡、尾道、呉、舞鶴、横須賀、大湊、佐世保、戦艦、巡洋艦、仮装巡洋艦、客船、駆逐艦、ホンコン、シンガポール、マレーシア

(3) ___C___が、1890年から翌年にかけて、海軍編修書記の職にあった時、その上司は、___A___と___D___であった。___C___は、日清戦後、日本郵船社員となり、大正末に経済学博士号を得る。1891年刊『_____________』において若き日に主張した____________について、1923年刊『帝国海運政策論』において回顧、評価した。
<選択肢> 兵商論、帝国海事総覧、日本国防論、将来之日本、大日本膨脹論、主力艦隊の建造、軍用商船の制

(4) ___D___は、___B___と同様、戦闘組織としての「狭義の海軍」内でのキャリアを重ね、現役を退き、予備役、後備役となった後に「広義の海軍」に係わった生涯であった。但し、例外として、___A___とともに___C___の上司であった時代、___A___が新聞記者のインタビューを受け、___C___が記者や国会議員に配布するパンフレットを著述するのを、上位者として監督していた。当時の___D___の地位は、_______________であった。___C___が執筆し、海軍が広報資料として配布した小冊子に先立つこと数か月前、___D___も「______________」と題する文書を起草し、政府内部に配布した。その意見書では、専ら、_____________が論じられている。また、同意見書では、東アジア海域において消費される当時の軍艦、商船の燃料である_________は、殆どが日本産であると指摘されており、エネルギーを自給できた明治海軍の戦略環境が読み取れる内容となっている。
<選択肢> 海軍大臣、海軍参謀部長、聯合艦隊司令長官、海軍意見書、海防意見書、海事意見書、主力艦隊の建造、軍用商船の制、石油、石炭、木材、ガス

(5) 明治時代において「広義の海軍」を代表する人物は___A___である。米国海軍の理論家、アルフレッド・T・マハンのシーパワー論の「シーパワー」を「 _____________ 」と翻訳し、日本に導入し、それを数々の講演演説とインタビューによって広めた中心人物である。明治海軍における________担当者と言ってもよいであろう。___B___が現役を退いた後、_______________理事として会員を募集し、活動資金としての寄付金を集める講演に用いたのも、マハンのシーパワー論であった。
<選択肢> 海洋勢力、海軍権力、海上権力、海上勢力、海洋権益、作戦、広報、兵站、帝国海事協会、日本海員掖済会、大日本水難救済会

(6) 義勇艦隊という組織が日本で初めて知られたのは、___________の義勇艦隊の存在によってで あった。日本近海を航海するこの国の義勇艦隊の汽船は、平時は商船として運航され、戦時には武装して仮装巡洋艦として用いられた。日本で類似のものの建設が実現したのは、1899年創立の_____________が、1904年以降、帝国義勇艦隊建設を提唱したことによってである。このキャンペーンを実施し、義勇艦隊の所有者となった上記組織の初代総裁は_______将官である皇族有栖川宮威仁親王であり、理事長は__D___であった。なお同親王は、海事関係の他の二団体の総裁も兼務していた。
<選択肢> アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、清国、大日本水難救済会、帝国海事協会、日本海員掖済会、東邦協会、陸軍、海軍

(7) 1908年、___B___は、三重県四日市市から推されて総選挙に出馬し、___________議員となった。港湾整備に関する専門知識を期待されていた。当選後、当初所属した戊辰倶楽部からは翌年に脱退し、所属議院の第一党である立憲___________に加わった。
<選択肢> 衆議院、参議院、貴族院、自由党、改進党、政友会、同志会



【正解】
1.
A → 肝付兼行
B → 井上敏夫
C → 寺島成信
D → 有地品之允

2.
(1) 海上自衛隊、海上保安庁、水路部

(2) 関門海峡、呉、仮装巡洋艦、シンガポール

(3) 兵商論、軍用商船の制

(4) 海軍参謀部長、海防意見書、主力艦隊の建造、石炭

(5) 海上権力、広報、日本海員掖済会

(6) ロシア、帝国海事協会、海軍

(7) 衆議院、政友会

rshibasaki at 16:02コメント(0)トラックバック(0)「明治日本の海権論と広義の海軍」工・歴史学2008  

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