2011年11月26日

「歴史学」2011試験問題

歴史学  3年次〜  水曜・2時限  参照許可物等なし

1.つぎの各文章の下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入しなさい。    (1個4点、計100点)

(1) 地球上の2点を最短で結ぶ経路を______________と言う。関西国際空港から飛び立ったロンドン行きの便は、沿海州のハバロフスク上空から、ロシアの北極圏のツンドラ地帯上空を飛行し、北欧三国の上空経由で目的地へ向かう。ニューヨークへ向かう便は、千島列島沿いに飛び、ベーリング海からアラスカ上空に入り、カナダ上空を横断し、五大湖付近にいたる。こうしたほぼ直線の経路が可能となったのは_____________が航空輸送の主力となり、成層圏まで上昇し、対流圏の気象の影響を受けずに飛行経路を設定することが可能となったからである。
<選択肢> 等角航路、同緯度航路、大圏航路、プロペラ機、ジェット機、飛行船

(2) 地表交通の時代において世界一周航路を描く場合、陸地は障害となりえた。第一に、細い水路が向こう側の大洋に繋がっている場合、その水路を探し出し航路として利用した。日本にとっては、太平洋(南シナ海南部シンガポール付近)とインド洋(ベンガル湾南東部のアンダマン諸島付近)の間を結ぶ_____________海峡が1862年初めに幕府遣欧使節団が通過して以降、重要な海峡となった。
<選択肢> ボスポラス、マラッカ、スンダ

(3) 第二に、陸地の向こう側に別の大洋、ないしは、大洋に繋がる海がある地形がある。海と海の間に狭い陸地があり、船の行く手を阻む。この地形を_________と呼ぶ。1862年の幕府遣欧使節団は、エジプトでピラミッドとスフィンクスを見学している。インド洋から紅海を経て、________________を経由し、地中海に入り、フランスのマルセイユに至った。

(4) 1860年代前半、世界交通路に当たる(3)で取り上げた地形には、連絡鉄道が建設されているのが通例であった。1860年に幕府がアメリカ合衆国に派遣した使節団は、中部アメリカの____________に建設されていた連絡鉄道に乗り、太平洋岸から大西洋岸(カリブ海側)へ移動し、そこから別の船に乗りアメリカ東部にある首都ワシントンへ向かった。
<(3)(4)の選択肢> 陸橋、地峡、交通線、パナマ、スエズ、コリント、マゼラン

(5) (3)の地形の制約を越えるには二つの方法があった。一つは(3)の地形、すなわち海と海の間を遮る狭い陸地に人工的な水路を建設し、そこを船が通航することである。すなわち、____________の建設である。但しこの場合、船舶自体が自らの力で移動できる必要があり、土木技術の発展だけでなく、____________の時代を迎える必要があった。
<選択肢> 運河、用水、インクライン、帆船、蒸気船

(6) (3)の地形の制約を越えるもう一つの方法は、(3)の地形によって遮られた海と海の間に存在する大陸のうち、長距離鉄道を建設しやすい経路に、鉄道を建設することであった。すなわち、大陸横断鉄道である。北アメリカ大陸における最初の大陸横断鉄道の開通は、__________年であり、ユーラシア大陸における大陸横断鉄道としてのシベリア鉄道が開通したのは___________年であった。
<選択肢> 1869、1902、1914

(7) 現在、日本海側の道府県のうち、最も、________________構想に適合し、地域の発展を国内交通路と、日本海対岸との国際交通路を繋ぐ役割を実現しているのは新潟県である。ロシア共和国沿海州の州都ハバロフスクや、シベリア鉄道の起点都市_____________とを結ぶ国際航空路が新潟空港を発着している。しかし、明治時代にまで遡ると、新潟と東京を結ぶ鉄道は碓氷峠をアプト式で越える信越本線であり、1931年に上越線が開通する以前は、新潟は港湾都市としては国内交通路に恵まれていなかった。その時代、すなわち、明治・大正期に日本海側の港湾都市として国際貿易港の地位を得て繁栄したのは____________であった。東京発のシベリア鉄道連絡列車がこの港の桟橋に直結し、日本海対岸のシベリア鉄道の起点の都市との間を連絡船が往復した。
<選択肢> 対岸貿易、環日本海経済圏、ウラジオストク、大連、釜山、秋田、酒田、敦賀

(8) 江戸時代の日本では、街道は、一部の例外を除き、人か馬が歩く道であった。_____________は船に積まれ、河川や沿岸を水運によって運ばれた。例えば、山形県内陸部で収穫した米は、最上川の水運で河口の酒田に運ばれ、ここから_______________まで、関門海峡を経由し、沿岸航路の帆船である北前船で運ばれた。また北前船は、蝦夷地(現在の北海道)で昆布を積み、もう一方の起点でそれを販売した。現在、大阪で昆布が多く消費されるのはこの時代の名残である。
(9) 山形県の一つ北側の秋田県を、この講義では事例として取り上げた。現在の県庁所在地、秋田市に河口がある雄物川を遡った位置にある内陸都市が横手市である。この横手の名望家の家に生れた伊藤直純が1887年(明治20年)に、_________________を求めて陳情活動を行なうため上京した際の日記の一部を紹介した。厳冬期に横手を徒歩で出発した伊藤は、江戸時代同様の馬橇(そり)や徒歩での移動で山形県北部まで移動すると、そこから先の雪が消えた道は、明治以降に普及した_____________に乗った。車両が道路を通行する近代的交通体系の第一の段階に出会った。栃木県北部の黒磯まで来ると、そこから東京までは、近代の第二段階の交通体系の時代、すなわち、______________を中心とする陸上交通体系が実現していた。
<(8)(9)の選択肢> 軽量貨物、重量貨物、江戸、京都、大坂、鉄道建設、河川改修、人力車、自動車、鉄道

(10) 1887年(明治20年)の東京で、秋田県横手から上京した伊藤直純は、九州から上京した陳情活動のグループと交流を深めた。この九州グループの希望が実現し建設された鉄道が現在の鹿児島本線、長崎本線である。講義中では、徳富___________を事実上の主人公とする自伝小説『冨士』の一部を紹介した。1895年(明治28年)の冬、東京から郷里_____________県に戻る旅行の途上の主人公が、九州に上陸し、門司駅(現在の門司港駅)で、駅員に電報の発信を依頼している場面を紹介した。
<選択肢> 蘇峰、蘆花、一敬、熊本、長崎、佐賀

(11) 幕末、徳川幕府が欧米諸国と外交関係を結び、続いて、通商関係を開いた。開国と開港である。しかし、明治維新の数年前、1866年(慶應2年)までは、一般人の海外渡航が許されていなかった。現在で言えば、公用旅券のみ存在し、一般旅券のない時代とも言えよう。この時代に正規に出国したのは、___________が派遣する外交使節と留学生であった。一方、不正規出国者、密航者もいた。具体的には、藩命による渡航者と私的な渡航者がその内訳となる。長州藩が英国に派遣した留学生も藩命による密航者であった。かれらは「長州ファイブ」と呼ばれる__________、井上馨、野村弥吉(井上勝)、山尾庸三、遠藤謹助の5人であった。
<選択肢> 幕府、諸藩、朝廷、山県有朋、伊藤博文、木戸孝允

(12) 1871年(明治4年)の廃藩置県以後、1890年(明治23年)の帝国議会開設までの時代は、次第に地方議会が誕生したが、国全体の議会がいまだ存在しない時代であった。この時代の地方議会は、府県議会・郡会・町村会をまとめて、総称として、____________と呼ばれた。また、いまだ存在しない国全体の議会のことは、この時代においては、______________という一般名詞を用いて呼ばれた。
<選択肢> 地方議会、地方民会、帝国議会、国会

(13) 技術導入において、先端技術と伝統技術の中間の存在があった。先端技術の要素を簡略化した先端技術の廉価バージョンを一時的に採り入れ、技術としての最高度のものではないが、その時代の必要を満たし、利益を挙げて先端技術導入の基盤をつくる中間技術という存在を指摘した。明治初期から中期における_____________はその実例である。
<選択肢> ガラ紡、オート三輪車、固定焦点カメラ、軽便鉄道


rshibasaki at 17:52コメント(0)トラックバック(0)知・歴史学「日本近代の舞台設定」 2004-2013終了  

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