2011年11月26日

「歴史学機2011試験問題と正解

歴史学機 。嫁次〜   木曜・2/4時限    参照許可物等なし

1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。    (1個4点、計100点)

(1) 本講義の前半は「__________________________」という主題のもとに、毎回副題を変えて講義した。第2回は副題「水路部に勤務して」であった。配布したプリントには、肝付が_________の適地として選定し、1889年(明治22年)に鎮守府が置かれることになる西日本の沿海都市___________市のホームページをコピーして配布した。この回では海上保安庁水路部が編集した団体史『________________』(財団法人日本水路協会、1971年)から日本の沿岸測量の進捗を説明するページを配布した。それを見ると、肝付が、先の沿海都市となる沿岸部を測量に訪れたのは、1883年(明治16年)であった。
<選択肢> 肝付兼行の多面性、海軍と貿易立国、商港、軍港、漁港、舞鶴、呉、佐世保、日本水路史、日本海軍史、日本海運史

(2) (1)に出てきた団体史は、水路部が兵部省海軍部水路局として創設されてから百年目に刊行された。その百年前に当たる1871年(明治4年)、初代の水路部長となる_________________が北海道測量を実施した。その北海道沿岸測量の際、北海道開拓使に勤める肝付兼行を知り、東京の水路局にスカウトしたものと推測される。この初代の水路部長となった人物は、現在の日本数学会と日本物理学会の前身______________を、1877年(明治10年)に発起人の一人として組織し、また、__________________を1882年(明治15年)に組織した。この後者の団体については、肝付兼行も日露戦争後にいたり、同会が設置した漁船船員養成所の所長を務めた。第7回の講義では、この団体と帝国海事協会が共催した海事水産博覧会を記念し発行された書籍『_______________』(1916年=大正5年刊)の序・緒言・目次を参考資料として配布した。
<選択肢> 柳楢悦、勝海舟、榎本武揚、東京数学会社、日本測地学会、大日本帝国水難救済会、日本海員掖済会、大日本水産会、海国日本、帝国日本、陸奥湾之将来

(3) 肝付兼行が活躍した時代は、海洋がフロンティアとして登場した時代であった。それは、19世紀の半ば、大洋を______________が横断し、世界交通路が形成された時代に始まる。この新しい動力源をもつ船は、商船だけでなく、軍艦としても用いられた。日本にとって、四囲を海に囲まれた国土のかたちが、欧米列強に対して___________を提供するかたちとなった。ただし、日本にとって幸いだったのは、当時のエネルギー源は___________であり、このエネルギー源は日本国内に産出し、日本はエネルギー自給国家たりえたことである。
<選択肢> 帆船、外洋形カヌー、蒸気船、防壁、侵入路、薪、石炭、石油、原子力

(4) 新たにフロンティアが登場すると、その空間に関連する職業分野も同時に登場する。肝付は、1883年(明治16年)に創立された________________に参加し、次世代を担う小学校生徒に、海についての理解を深めさせる教科を設置することを主張した。当時、海についての理解を深めされることを____________の涵養あるいは普及と呼んだ。また、日清戦争後の1897年(明治30年)に富山県高岡市での講演では、知育・徳育・体育に加えて_______________の重要性を強調している。これは、当時、肝付が講演などでしばしば言及した米国海軍のアッフレッド・セイヤー・マハンから学んだものである可能性がある。第10回で紹介したように、現在の英米海軍史家である_____________________は、マハンには「国家指導者や提督たちが行なう決断がもっとも重要」とした側面があることを指摘している。
<選択肢> 大日本教育会、全国教育会、海軍思想、海事思想、情育、胆育、奥山真司、ジョン・テツロウ・スミダ

(5) ___________港は、日本海に面する本州の港湾のなかでは最も早く太平洋岸との連絡鉄道が開通した。かつて、1892年(明治25年)に、肝付兼行が「西比利亜鉄道に対する日本の開港場を論す」において、「 浦塩港より____________への航路に当る」開港場に最適と指摘した港湾である。ここから西の隣接府県では「西比利亜鉄道に対する日本の開港場を論す」を抄録した『_____________________』が印刷に付された。
(6) ___________港は、「 浦塩港より_____________への航路に当る」開港場に最適と、肝付が指摘した港湾である。地元の新聞『東奥日報』主筆が、『________________』を1894年(明治27年)に著し、地元発展の期待を表明した。同書には、軍港としてライバル関係に当たる北海道の軍港候補地、_______________への対抗意識を読み取ることができる。なお当時、海峡に面したもう一つの直近の位置にある北海道の港湾は道内中央部との鉄道が開通しておらず、石炭搭載の便を欠いていた。
(7) ___________は、現実には築港がなされることなく、港湾としての歴史をもつことはなかった。「西比利亜鉄道に対する日本の開港場を論す」では、対馬海峡に面する位置から、「 浦塩港より____________への航路に当る」開港場に最適とされ、北九州の炭鉱地帯の石炭を供給する役割が期待された。
<(5)(6)(7)の選択肢> 亜米利加、我国、上海、仮屋、宮津、舞鶴、小浜、敦賀、伏木、函館、青森、大湊、室蘭
日本海港湾調査報告書、陸奥湾之将来、肝付大佐演説の要領

(8) 1891年(明治24年)1月27日、東京地学協会において、米国アジア艦隊旗艦アライアンス号艦長、テイロル大佐が行なった演説は、_______________運河建設計画についてのものであった。
<選択肢> パナマ、ニカラグア

















【正解】
(1) 肝付兼行の多面性、軍港、呉、日本水路史
(2) 柳楢悦、東京数学会社、大日本水産会、海国日本
(3) 蒸気船、侵入路、石炭
(4) 大日本教育会、海事思想、胆育、ジョン・テツロウ・スミダ
(5) 敦賀、我国、日本海港湾調査報告書
(6) 大湊、亜米利加、陸奥湾之将来、室蘭
(7) 仮屋、上海
(8) ニカラグア


rshibasaki at 18:29コメント(0)トラックバック(0)「肝付兼行とその時代」工・歴史学2009-2011  

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