2016年08月27日

2016年度前期「歴史学」試験問題と正解

【 問 題 】

1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。    (1個4点、計72点)

(1) 本講義で扱ったのは、明治海軍における                      であった。このテーマの所在に気づいたきっかけは、山口県における                の支部形成を調査する中で、現役を退いた海軍将校たちが、海事に関わる諸団体のために立ち働く姿に出会ったことであった。肝付兼行は、沖縄県への講演旅行の帰途、山口県に立ち寄り、上述の団体の理事として、難破した船舶の船員・乗客を救助するボランティア組織の充実の意義を説いていた。また、日露戦争開戦前、          富士の艦長として関門海峡の試験航行を成功させた井上敏夫は、海軍少将となり予備役に編入された日露戦争後、             の理事となり、海員宿泊所建設のため訪れた三重県四日市市の人々から、               に立候補することを求められた。
<選択肢> 戦闘組織としての充実、 社会的支持基盤の形成、 帝国水難救済会、 帝国海事協会、日本海員掖済会、 大日本教育会、 仮装巡洋艦、 戦艦、 駆逐艦、 四日市市長、三重県知事、 衆議院議員

(2) 肝付兼行と井上敏夫を『明治の読売新聞 CD-ROM 』でデーターベース検索すると、肝付は(1) で言及した団体の理事以外に、1899年に創立された      の理事となっており、井上敏夫は(1) で言及した団体の理事となる前に、この1899年創立の団体が提唱した     建設募金のための遊説に参加していた。肝付兼行は、1890年11月から1891年3月の第一回帝国議会が開催されていた当時、海軍の広報担当とでもいうべき役目を負っていた。当時、                の職にあった有地品之允は、艦隊建設予算に議会の賛成を得るための方策について、海軍内部にアイディアを募集していた。また、海軍将校の親睦団体の機関誌『              』を通覧していると、寺島成信が、1894年8月号に掲載した 「海運ノ振興ト巡航商船の制」のなかで、『兵商論』および「兵商論」の著者は自分であると述べていることを発見した。同論考は、まず、1891年7月に私家版の小冊子として印刷に付され、続いて、翌8月には徳富蘇峰が経営する民友社が発行する雑誌『               』に、匿名の著者              の特別寄書(寄稿)として転載されていた。ここに、肝付兼行、有地品之允とともに、第一回帝国議会当時、海軍の世論対策に携わった人物として寺島の存在を知ることが出来た。
<選択肢> 帝国水難救済会、 帝国海事協会、 日本海員掖済会、 大日本教育会、 大日本武徳殿、帝国義勇艦隊、 海軍大臣、 海軍参謀部長、 水交社記事、 国民之友、 日本国防論、Q. S. T. 、 波涛生

(3) この海軍と民間の海洋活動の接触面について、明治時代の海軍軍人が共通に用いた説明のことば、あるいは、スローガンとでも言うべきものが、「               」である。この問題に関する先行研究としては、平間洋一「「陸奥海王国」の建設と海軍--- 大湊興業を軸として」(政治経済史学370、1997年)が存在する。平間は、明治期の日本海軍が米国海軍の理論家、アルフレッド・セイヤー・マハンのシーパワー論を日本語に移植し、                に対する広報・宣伝のために用いたことを先駆的に指摘している。
<選択肢> 兵商論、 海権論、 一般国民、 議員や記者


(4) 寺島成信が『兵商論』ないし「兵商論」で提唱した「軍用商船の制」は、日清戦争終結の翌年、1896年4月に公布された航海奨励法・造船奨励法として公布された。この時点では、義勇艦隊という組織を所有する国は、世界中で             一か国であった。航海奨励法・造船奨励法により建造と平時における維持が可能と なった高速商船は、日露戦争に際して徴用され、仮装巡洋艦や輸送船として用いられた。寺島成信は、1923年刊『帝国海運政策論』でこの経緯を回顧し、            に評価した。この時、徴用された「大型高速 (六千噸級、十三節以上)の汽船十数隻」のうちには、陸軍兵士を載せ戦地に向かう途次、           において露国ウラジオストク巡洋艦戦隊に遭遇し、撃沈された日本郵船の所有船・常陸丸、井上敏夫が艦長として1904年12月から翌年1月にかけてシンガポールを含む東南アジア方面へ派遣された             、1905年5月、対馬海峡に接近するバルチック艦隊発見の打電をした               、などが あった。
<選択肢> イギリス、 ドイツ、 ロシア、 否定的、 肯定的、 津軽海峡、 対馬海峡、香港丸、 信濃丸、 佐渡丸、 さかき丸

2.有地品之允「海防意見書」と、寺島成信『兵商論』の海軍整備論を対比せよ。また、その差は何によって生じたと考えられるか。                           (前半14点、後半14点、計28点)




【 正 解 】

1.
(1) 社会的支持基盤の形成、帝国水難救済会、戦艦、日本海員掖済会、衆議院議員

(2) 帝国海事協会、帝国義勇艦隊、海軍参謀部長、水交社記事、国民之友、Q.S.T.

(3) 海権論、、一般国民

(4) ロシア、肯定的、対馬海峡、香港丸、信濃丸

2.
両者ともに共通するのは、海軍整備の中核に戦艦6隻の建造を置くことである。その財源として、第一回帝国議会において明治24年度予算から削減された一年度当り約650万円の使途の定まっていない政府予算を想定することも共通している。

異なっている点は、有地「海防意見書」では、第一年度から第六年度の各年度において、650万円で戦艦1隻を建造し、六か年で6隻の戦艦を揃えるというシンプルな提案であるのに対して、寺島『兵商論』では、最初の三年度においては、650万円の半額を「兵商費」として別に用い、その分だけ戦艦6隻の完成は後にずれ込み、7年度半かかることになっている点である。

「兵商費」の使途は、300万円×3か年=900万円を「巡航商船」の建造に宛て、残りの25万円×3か年=75万円を海兵団と商船学校の充実に宛てる提案となっている。


内容の差が生じた理由としては、(1) 書かれた時期とその順序、(2) 執筆者の立場と読者の違い、を考慮する必要がある。

まず、有地「海防意見書」は明治24年4月、寺島『兵商論』は同年7月である。まず基本的な事項を記した文書が書かれ、つぎに、より複雑な考慮を含んだ文書が書かれたという説明が可能である。

つぎに、有地は海軍参謀部長であり、明治天皇と海軍大臣の命を受け、海軍整備の中核的な事項について政府・軍内部に対して提案し、コンセンサスを得ることがその目的であった。一方、寺島は海軍編修書記であり、広報用のパンフレット執筆を通じて、帝国議会議員、雑誌・新聞記者、そして、一般国民に語りかけ、海軍整備予算を支持する世論を作り上げることが目的であった。

それゆえ寺島は、海軍の存在は貿易立国の実現に不可欠であることの指摘を『兵商論』の冒頭に置き、末尾では、それに対応するように、海軍整備と貿易立国の両者に同時に役立つ、仮装巡洋艦として使用可能な高速商船の建造と、海軍兵と船員の養成に650万円の一部を宛てる提案を行なったのである。






rshibasaki at 18:46コメント(0)前期「歴史学」「歴史学機---明治日本の海権論と広義の海軍  

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