「海難救助ボランティアの日露戦争」工・歴史学2005

2005年07月27日

なぜ、明治の国民は、日本海員掖済会・帝国水難救済会・帝国海事協会のような海事団体の会員になり、義金醵出に応じたのだろうか。

その背景にはどのようなイメージの世界があったのか。

「早速丸の沈没」(防長新聞、明治36年5月5日3面2〜3段、早速丸は「はやみまる」と読む)
「海事思想(承前)(菅野商船学校長の演説)」(防長新聞、明治35年10月17日2面1段)

この二つの史料を読み合わせることで、一つの説明の可能性に気づいた。定期試験が終った後、このブログに書くことにする。


[2005年12月13日〜、追記]

「○早速丸の沈没 去一日一大惨事は伊予の海上に起れり。特に我が同業者藝備日々新聞社の分身たる早速社の所有船早速丸か七十三名の乗客を載せながら外国船の為め万蕁の海底に葬られたるに至つては何ぞ酸鼻に堪へんや。同船は午後十一時頃伊予国温泉郡睦月島と野忽那島との間を航進しつゝある折しも、東方より来りし韓国汽船漢城号に俄然衝突したり。此の怪しき音響耳朶を貫くや乗客の一人、関佐一郎氏はスワ衝突よと心づき率然身を起しつ。急遽船室を立出でゝ甲板上に出づる間もなく船体は已に沈没しかゝり、其身も共に沈没し去らんとするより、更に身をかはして上等室の屋根に登り急ぎ漢城号に向つて綱を卸せと叫びぬ。時に四面暗黒にして大船前に横たはり物色凄然たるありしが、軈て漢城号より綱を卸すや、関氏は之に取つきて同号に飛乗りしに、乗客中にありし軍艦富士乗組の水夫渡辺新蔵、溝田民蔵、井上友次郎、野田保次郎、本田種春の五氏は如何なしたりけん、此時早く已に漢城号のブリッヂの上にありて船長たる独人パンネールに厳談して頻りに救助を迫りつゝありき。其行動の機敏なる遉に帝国軍人よと関氏をして舌を捲かしめぬ。然るに漢城号船長以下の者は言語不通なるのみならず、船長は甚だ冷淡にして頓に救助に着手すべきもあらざれば、前記五氏は大に之を憤り非常の決心を以て彼等に迫り遂に水夫をしてボートを卸さしめ、己れ之に乗込み水夫を指揮しつゝ漂へる乗客等を救助し、尚船中にありし救命具、板切、其他浮遊すべきものは悉く之を放流して、縋り付かしめん便りとはなしき。時に第一早速丸の船員も身の危きを顧みるに暇なく、船中の板ぎれ等を放流して救助に備へ、而して関氏はボートに依て救助せられしもの及び板片等に縋りつきて救助せられしものを漢城号デツキの上に引揚げつゝありしが、何れも濡着を纏へることとて船員を叱咤しつゝ毛布其他の物を持出さしめ、之を引揚げられしものゝ身に纏はしめ、機関室等に連行きて暖を取らしむることとなし、頗る救助に尽力したりき。時しも早速丸の船員等は追々漢城号に泳ぎ付き、船長永井元も亦た九死に一生を得て到り着きしが、何分此は百廿六噸余の小船、彼は千百噸の大船にして、加ふるに船腹を衝突せられ衝突より全沈没に到るまでの時間僅に五分間なりしこととて、死者及び行衛不明の者あるを見たるはかへすがへすも遺憾の事と謂ふべし。是より先き漢城号は此悲劇を眼前に見つゝ船長等は直ちに門司に航行せんとする模様なりしが幸ひにして同船事務長たる韓国釜山港草梁村の人、金聖源は日本語に通ずるを以て前記五氏は之をたよりに尚厳談を試み、航行するならばして見よとて、帝国軍人の意気を示しつゝ其侠骨を以てして之を遮ぎり、此腕摧[くだ]かば摧けよとばかり力争せん気色を示しぬ是に於て彼等は航路の知れざるを口実とし、三津浜に寄港するの危険を説きてその場を逃れんとしたるが、恰も好し此時早速丸船長永井元の漢城号に泳付けるありし。疲労の中にも自ら進で其水先案内たらんことを言出しより、漢城号も今は是非なく三津浜に寄港することとなり、乃ち永井は船長バンネールと共にブリツヂの上に立ちて航路を指示することとはなりぬ。斯る折から三津浜警察署より第一愛媛丸来りて、松山地方裁判所予審判事奥村正人、検事正入交好雄、検事田村光栄の三氏及書記三名、並に愛媛県警察部保安課長田中瀧三郎、愛媛県属平野勝の二氏及山田海務署長等出張し来り、漢城号船長、事務長は更なり、第一早速丸船長及事務員等を三津浜警察署に同行したりき。右衝突の箇所は明治二十五年十一月千島艦が英国商船ラベンナ号の衝突する所となりて沈没したりし箇所を距ること遠からざる所なり、乗組総人員七十二名の内男四十六人、女二十六人にして生存者四十七名、死体発見二名、行衛不明者二十三名なり。本県人は玖珂郡御庄村字関戸の重富信一なるものありしが、幸に救助せられたり。又同船へは東京吉原の芸妓一行十七名中九名は行衛不明となれりといふ」
(防長新聞、明治36年5月5日3面2段)


「○海事思想(承前)
(菅野商船学校長の演説)
近時新聞紙の報道する処に依れば、英国皇帝陛下は皇后陛下と共に健康にされる事ありとてヨツトに乗じて英国近海を航海されつゝありと。実に英国に於ては船を病院の如く思惟す。我国に於ても神戸横浜に在る外国会社の社員等は僅に十間内外の扁舟に依りて帆走するを楽[たのしみ]となし居れり。我国人にして船を楽しみ海を喜ぶもの果して幾人かある。病を養はん為めに殆んど全くは山地に入り温泉に浴す。果して山間の空気は海風に比して新鮮なりや。否な、海面の空気の新鮮にして病を養ふに足るものあるは予の言を俟たざるなり。斯く海は一国を富強ならしむると共に又人の健康に利ある前述の如し。今や四大航路は開かれ六千噸の船を以て盛に航海され居れり。然るに其船舶の主脳たる船長、機関長は誰を以て充られたりや。我国の金を以て造られ我国の国旗を挙げ我国の国際証書を有する船は実に外人に委托され居るは、二百幾十年鎖国主義の余弊と云はざる可らず。於是吾人は国人にして船長たり、機関長たる人物を養成し早く之に更らしむるは刻下の急務なりと信ず。是れ即ち商船学校の県下に設置されたる所以なり。而して高等海員の欠乏は、唯僅かに是等大航路のみならず、下関より神戸に至る所謂浪平かに平地に在るが如き瀬戸内海を航海する船舶の水先案内者の多くは西洋人にして、我国人の之に従事する者僅かに五人のみなり。是れ自己の家の案内を他人に頼むと一般ならずや。而して利益の点よりすれば神戸より下関間僅かに二十四時間の航海の給料は百円と法定せられたれば、一ヶ月十回の航海をなさんには千円の収入あり。是等の利益は皆な外人に占められつゝあるを見て諸氏は如何の感かある。今後水先案内者の年齢を制限し外人の水先案内者を減ずる事になり居れども、是等海員の欠乏には如何ともする能はず。本県萩出身にして本県の商船学校第一回卒業生なる加屋洋介氏は瀬戸内海の水先案内に従事し、其初めは一年七千二百円の収入ありしと。実に国務大臣六千円の年俸以上に在り。斯の如く利益の点に於ても大なるものにて其実権を外国人に占らるゝは一大恨事なりとす。故に是等は教育ある商船学校卒業者を以て之に更らしむるより外なく、之をなさんには実に海事思想を発達せしめ、海運の道を開き高等なる海員を養成するは目下の急務なりと信ず」
(防長新聞、明治35年10月17日2面1段)

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以下、第13回(2005年7月7日)。

つぎのように書いたメモを配布。
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 先週から今週・第13回までの間、山口県立図書館で防長新聞の1902・明治35年を閲覧した。この年2月、日英同盟締結が公表されたが、しかし、直ちに日露戦争に直結する動きは出ない。中央では、第三次海軍拡張の予算をどうするかについて議会が紛糾し、地租増徴が継続されることとなった。山口県では、武徳会の山口支部が設置され、支部旗が本部からもたらされた。また、海員掖済会の会員募集の記事も散見される

 同年8月26日2面3段のつぎの記事が目につく。先週配布した『山口県警察施設ノ主眼』(山口県警察部、明治42年)のうち「附 関門間海難減少策ニ関スル意見」と照合すると、海軍の艦隊運用にとって関門海峡のもつ重大性と、その関連で、海軍水路部(水路調査)・逓信省管船局(民間船舶管理)・内務省土木局(港湾整備)・山口県および福岡県警察部(下関水上警察署、門司水上警察署)が関連する課題が存在したことが推測される。

「○水雷敷設の付属船  呉水雷団敷設隊付属船那沙美丸は去る二十三日下関港に碇泊し同港附近に於ける海上の調査に従事しつゝありしが、同船には牧村海軍中佐以下十九名乗組み居れり」
「○富士艦の通過  帝国軍艦富士艦は一昨日午後六時六連島沖合に投錨、昨日一日間は碇泊し、本日午前十時抜錨、東に向ひ関門海峡を通過する筈なるが、同艦は実に一万二千六百八十七噸の大戦闘艦にして、此の海峡を通過するは今回を以て之を嚆矢とす。右に付水上警察署は他船に於て此航路を妨害せんことを慮かり、一昨日港湾内に繋泊の船舶に対し相当の注意を促したる由」
(防長新聞、明治35年8月26日2面3段)

 明治39年か40年に、この時の艦長へのインタピュー記事あり。メモ未採取
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この日、講義全体のまとめを試みたが上手く行かなかった。翌週までに出会った史料と視点を欠いていたためと思われる。

以上、第13回(2000年7月7日)。







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以下、第12回(2005年6月30日)。

国立国会図書館の近代デジタルライブラリーを「山口県」and「海難」で検索すると、『山口県警察施設ノ主眼』(山口県警察部、明治42年)がヒットする。同書50〜51頁に、「関門間海難減少策ニ関スル意見」という文章がある。
一、潮流の急激
一、暗礁碁布
一、帆船出入
一、漁船出入

関門海峡で海難事故が多い原因として、上記四点が挙げられている。三番目は、汽船が出入りする海峡に「櫓や櫂で進むには大きすぎ、しかも動力をもたない帆船」も混在することが、衝突事故の原因となっているとの指摘である。その帆船の大部分は「石炭艀船」であるという。防長新聞の遭難記事も、石炭船の難破が多く報道されていて符合する。

*

つぎのような、直接今回の講義のテーマに関係しないが、当時の山口県、さらに日本の状況を窺い知るのに面白い記事を、『防長新聞』から紹介した。
「西比利亜鉄道の現状」(明治34年4月11日1面3段)
「柔道教師の嘱托」(同34年2月22日2面3段)
「在清軍人と家族間との私電報」(34年3月1日2面3段)
「新聞販売者の大競争」(34年3月7日3面4段)
「憲兵の渡韓」(34年5月9日2面5段)
「馬匹の蹄鉄に就て」(34年3月14日1面2〜3段)
「小郡駅発車時刻」(34年5月15日3面3段)
「山鉄全通と徳山駅員の減員」(34年5月16日3面4段)
「電気通信技術伝習生の募集」(34年5月25日3面5段)
「山陽鉄道厚狭馬関間開通式」(34年5月28日3面2段)
「三田尻小郡間電信線路測量」(34年5月30日3面2〜3段)
「山鉄全通後に於ける徳山の影響」(34年5月30日3面4段)
「交通機関と郵便物の速達」(34年5月31日2面4〜5段)
「野津少佐の朝鮮談」(34年7月6日2面2〜3段)
「陸海軍人恩給請求権に就て」(34年7月6日2面3段)
「台湾巡査の試験」(34年8月13日2面5段)
「海外渡航者と旅行券」(34年8月14日2面2段)
「憲兵の渡韓」(34年11月10日2面5段)

以上、第12回(2005年6月30日)。

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以下、第11回(2005年6月23日)。



前週「遭難船の数々」の続き。以下3つの新聞記事を対比して読む。

〔事例−1〕遭難した船舶の漁具であることを知りながら隠匿したことで罰金に処せられた。水難救護法違反。
「○漂流物隠匿者罰せらる  昨年十二月二十三日は非常なる暴風の吹き荒みたる為め沿海各村の漁民は夥しく惨死を遂げたりしは世人の今に尚ほ記憶に存せる処なるが、此の日備中国神島字福浦居住船乗業西本栄次郎外数名も亦た大津郡向津具村大字向津具下村字水の口浜に於て海難に遭遇し、憐はれむべし船舶は転覆して船具は大抵漂流したりしも当時は辛ふして其の生命のみ助かりたるの有様なりしが、無惨にも同郡字津賀村平民小池幾太郎(五十一)池田宇吉(三十六)中野道蔵(三十一)岡崎伊兵衛(五十九)西島熊吉(二十七)荒川勝次郎(五十)の六名は、西本栄次郎等の船具なるを知りながら、同村字立石浦大坪川尻の沖合をカガソ製の錨綱六七十尋(価額三十円)の漂流しつゝあるを拾得して帰り、共謀して或は大桶の中或は土穴の中に隠匿したりしこと漸く此程に至りて発覚したれば、忽ち漂流物隠匿罪を以て告発せられ去る二日萩区裁判所に於て公判開廷の上原田景介氏弁護したりしも遂に六名各五円宛の罰金に処せられたりとは能ひ気味」
(防長新聞、明治33年5月5日)

〔事例−2〕遭難者救助した漁民が山口県知事から賞金を受ける。この種の記事は非常に多く紙面に見られる。他県の漁民でも山口県周辺海域での遭難救助者には山口県知事が賞金を与える。
「○難破船を救助して賞金を受く  阿武郡見島村居住平民漁業村田弥二郎(五十四)及び同村居住平民漁業小畑清次郎(四十六)の両名は昨冬十二月一日同村山田村字玉江浦居住漁業者上領平右衛門、藤崎伊勢松、西村伊勢松、網屋紋蔵の四名が漁業中、見島を距る二十四海里の沖合に於て、暴風の為め其の船体を顛覆し辛くも船底に取り附き漂流しつゝ已に三日間無食の侭にて将に凍死に瀕せんとするを救助して各々七十銭宛の賞金を受け、又た同見島村居住平民船乗業三間菊太郎(三十四)及び同村居住平民船乗業幸徳甚九郎(五十三)の両名は、昨冬十一月二十六日同村居住平民船乗業古谷嘉七外一名が同郡三見村字三見浦を距る二里の沖合にて怒濤激浪の為めに其の荷船を顛覆し今や乗組両名共溺死せんとしつゝあるを救助したるを以て、各一円宛を何れも古澤本県知事より賞金として附与せられたり」
(防長新聞、明治33年1月23日3面)

〔事例−3〕水難救済会の救助夫が、水難救済会の活動として難破船乗組員を救助した際には、帝国水難救済会(本部)より賞与を受取ることになる。
「○遭難船救助者の賞与  豊浦郡彦島村居住下の関救済会の救助夫植田権吉外八名は去る一月十五日同島沖合に於て遭難船住吉丸を認め、亦た同村居住和田六松外三名は同日福浦港に於て英福丸の遭難を認め、共に救助に尽力したる段奇特なりとて去る三日大日本帝国水難救済会より二十銭又は三十銭宛の賞与を受領せり」
(防長新聞、明治32年2月5日2面)


*


『香川県統計要覧』(香川県、明治36年11月刊)に、「壮丁赤十字社表(水難救済会、日本海員掖済会、大日本武徳会、篤志看護婦会、愛国婦人会)」という項目がある。これは、県庁が関与している公共団体の一覧である。

この週は、海員掖済会と帝国海事協会について説明した。




まず、つぎの四つの記事を紹介。

「○日本海員掖済会山口支部」(防長新聞、明治32年2月23日2面)。山口県では、明治31年11月に日本海員掖済会の県支部が置かれている。「赤十字社の組織の如く」という文言が見え、日本赤十字社が組織形成のモデルとなっていた事情を窺わせる。

「○徳山村長の管船事務取扱  逓信省令第二十六号を以て船員法第七十九条の規定により本県都濃郡徳山村長を管船事務を行ふべきを命ぜられたり」
(防長新聞、明治32年6月15日2面)

「○大島郡に海務署を置かんとす  従来海員雇入雇主公認の事務は市町村長に於て取扱ひ居しが客年六月逓信省令第三号を以て其の事務を海務署又は海事局へ引継きたるより大島郡の如き海員多き所は本県内にては赤間関或は徳山の外取扱はざるより其の不便少からず爾来其の手続をなし得ざるもの多かりしか聞く所によれば近々の内同郡へ海務署を開庁する由にて其の位置は和田村大字小泊なりと云ふ」
(防長新聞、明治33年1月23日2面)

「○海員掖済会幹事の談話」(防長新聞、明治33年3月11日2面)


つぎに、現在の社団法人日本海員掖済会のホームページから「掖済会のあゆみ」を示した。明治期にはつぎの事業をしていた。

宿泊の提供
乗船の斡旋
船員の教育訓練 → 現在では商船学校が行う仕事
遭難船遺族への弔意・慰安
船員に対する医療の提供



最後に、『日本海事協会---その100年の物語』(財団法人日本海事協会、1999年刊)を用い、日本海事協会について概略を示した。
「義勇艦隊建設章」(徽章)→個人に交付
「義勇旗」       →市町村に交付

これは、日本赤十字社が、徽章を個人に交付し、「忠愛旗」を市町村に交付するのと同じかたちである。なお日赤は、現在も「有功章」を出している。



以上、第11回(2005年6月23日)。

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2005年07月26日

以下、第10回(2005年6月16日)。


明治42、43年の記事を読んでいると、日露戦争が歴史になりつつあることが感じとれる。新しい時代に向かって通覧するのは明治43年(1910年)末で終りとした。この週末からは、日露戦前に遡ることにする。

「●鴻城丸船員の名誉  下関水上警察署の汽船鴻城丸船長三井豊造、機関士村田寿八の両氏は三十七八年戦役の際の功に依り金五十円宛下賜の辞令賞勲局より到達し廿八日下関警察署より交付ありたり」
(防長新聞・明治41年8月30日2面4〜5段)

「●露国水兵の遺骨伝送  日本海々戦の際阿武郡及び豊浦郡に露国水兵八名の屍体漂着し夫々仮埋葬に附しありしが今回露国に送還することとなり阿武郡役所書記一名は八名の遺骨を携さへ十九日夜佐世保鎮守府に向ひたり」
(防長新聞・明治42年6月22日2面5段)

「●東郷大将と鴻城丸  下関水上警察署長杉警部は旅順表忠塔除幕式参列のため客月二十日来関の東郷海軍大将を鴻城丸にて送迎の途中同船が日露戦役中特に日本海々戦に於て須佐に漂着せる捕虜五十名を収容し之を水雷艇に引渡したること及び常陸丸佐渡丸等遭難の際の如きも連昼夜遭難者の救助に尽瘁せしこと等の事実談を為したるに今回計らずも閣下を本船に迎ふることを得たるは洵に無上の光栄にて千古忘るべからざる好個の記念なりとの旨を語りたるに同大将は其後帰京後縦一尺六寸横二尺九寸五分の紙面に鴻城の二字を揮毫せる額面を当時の随行岩村少佐をして書留郵便を以て十三日杉署長に宛て送らしめたる由」
(防長新聞、明治42年12月15日2面4段)


*


社説「寄附勧誘と官庁」(防長新聞、明治42年7月2日2面1段、時事評論欄)。
「金銭物品の寄附は、其の性質に於て各人の任意行為たるや論を俟たず。然れども之を勧誘するに知事郡長徴村長駐在巡査等の口を以てすれば、被勧誘者の心的状態に一種の強制を感じ、若し其の勧誘を拒絶すれば、他日不利益なる報復を受くべしとの恐を抱かしむ。此の如く人民の弱点に乗じ出資を促すは、仮令其の目的義侠慈善に在りとするも、個人の自由意思を侵害するものにして、且つ一定の職務を帯ぶる地方官吏が、公務を取扱ふ時間を割きて私設事業に斡旋し、其の斡旋の功労に依り、手当金又は有功章等を受領するは、規律を紊乱するものと謂はざるべからず。〔中略〕。地方人民の頭上に落下する寄附の重立ちたるものを列挙すれば、赤十字社、武徳会、水難救済会、海員掖済会、愛国婦人会、軍人後援会、義勇艦隊資金等屈指に遑あらず。此等の事業は博愛慈善又は尚武愛国の精神に基くものにして、何人も之に賛成を表せざるものなしと雖も、其の賛成を表する為め寄附を為すや否やは、自ら別問題に属す。私人としては不義理の借財に責められ、自家の経済は収支相償はざるに拘はらず、奮つて公共事業に巨額の寄附を為すものゝ如き、其の事業のみより見れば恩人なれども、家長としては良家長に非ず、国民としては良国民に非ず、自ら修めて以て人に及ぼすの順序を顚倒するものなり。本県の官庁は近来稍や寄附勧誘の手を緩にせるものゝ如し。是れ消極的の一進歩なり」
(下線太字は引用者による)
「義勇艦隊」とは帝国海事協会による試み。平時は高速商船として就航し、戦時には仮装巡洋艦として軍用に用いる船舶を建造するために募金を募っていた。


*


「●旧式銃器の払下  村田歩兵銃其他左の物は学校及び在郷軍人其他に対し夫々払下を許可せらるゝ事となりたれば希望者は左の価格を諒し注意事項により願書を差出すべしとなり〔以下略〕」
(防長新聞、明治43年11月3日2面4段)

実包および空包付で払い下げている。長谷川慶太郎氏が指摘していた民間の武器所有を別史料で確認したことになる。


*


私設消防組から公設消防組への改組。資産あり、教育ある有力家が中核になり、消防組員を在郷軍人が占めることになるとの趣旨の記事が散見される。それが望ましい変化として報道されている。


*

「遭難船の数々」(防長新聞、明治43年3月13日3面3段)。水難救済会の救護所のない海域で遭難が発生した場合、沿岸の警察官が地元漁民を指揮して救助に当たることになっていた。その事例。→水難救護法


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「ウラジオ巡洋艦戦隊行動図(1904年2〜8月)」(『日露戦争(二)---戦いの諸相と遺産---』軍事史学会編、錦正社、2005年6月新刊)が届いたので、配布した。第3週の内容と照合すると各救護所からの報告が理解しやすい。




以上、第10回(2005年6月16日)。

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以下、第9回 (2005年6月9日)。



記事「原内相大浦男の確執について 武徳会員募集の件」を配布。
「武徳会」「赤十字社」「愛国婦人会」を、「公共団体」として一括し、その会員募集に、警察官以外の地方官吏の関与はよいが、警察官は関与すべきでないと原敬内相が訓令したとの内容。

これ以後の山口県では、海難救済会の会員募集に警察官が関与したとの記事が見られなくなる。

なお、他の公共団体と異なり、実行組織としては、海難救済会は警察の指揮下で活動する。その点、公設消防組と同様である。この経緯から、警察官の関与が全くなくなってしまったとも考えにくいのだが、今後の史料探索と確認を待つほかない。


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防長新聞・明治41年5月1日3面(広告欄)には、
(1) 5月24日に防府町で開催される「帝国水難救済会山口支部発会式」の広告
(2) 6月1日に山口県庁で開催される「愛国婦人会山口支部総会」の広告
という二つが隣り合わせて掲載されている。寄付や会費を納入した「会員」を集めて、県レベルでのイベントを組むという共通性が見て取れる。

この日の講義では、水難救済会山口支部発会式の新聞記事を順番に読んで、そのイベント制を確認することをした。

山口支部副長である県警務長・大味久五郎の「事務報告」(防長新聞・明治41年5月26日2面)のなかで、「明治三十年七月山口県委員部を置き各郡市に郡市委員部を設置し地方有志の士に訴へ会員募集を図りたるに続々入会者を得」とあるように、下関救難所が設置された同じ年に、会員募集もスタートしている。支部発会式までに11年かかっている。


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水難救済事業における山口県の特徴と、水難救済会を赤十字と対比する視点を詳説していることから、防長新聞の社説に相当する「時事評論」欄に掲載された「水難救済会支部発会式」(明治41年5月24日2面)をつぎに示す。

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水難救済の事業は、戦時に於ける赤十字の傷病者救護事業と其の性質を同くし、友愛慈悲の至情に基くものなれば、人類の高尚なる一義務に属せり。本県は三面海に瀕し、特に内外船舶の交通頻繁なる下関海峡を有す。故に年々遭難船続出し、之が為め直接には船舶及び人命を害し、間接には海事思想の発達を妨ぐ。是を以て藩政時代より小規模の救済方法は設定せられ、沿岸に於ける遭難船を保護しつゝありしも、費用なく器械なく、且つ其の機関の組織的ならざりし為め、十分の目的を達すること能はざりしも、今や水難救済会は全国の同情者が寄附せる巨額の資金と、政府の補助とを以て設立せられ、山口県支部は他府県よりも先んじて本日発会式を挙行するの盛況を呈せるは、亦た以て自ら祝するに足る。水難救済の事業を赤十字の事業に対比するに、其の異なる点は、彼の活動は戦時に限ると雖も、此の妙用は戦時と平時とを問ず、二六時中継続す。彼の資金は其の大部を中央機関に吸収せらるれども、此の資金は僅少なる幾部分を本会に納むるのみにして、其の多額は地方に保貯して必要の使途に充つるを得べし。其の同じき点は、彼は敵と味方とを問はず、戦時の傷病者全体を救護す。此も内国船と外国船とを問はず、遭難せる船舶と人命とを救護す。彼は弾丸雨飛の険を冒して傷病者を収容し、此も激浪怒濤の間を衝いて遭難者を収容す。然らば則ち其の必要にして利益ある点は、彼よりも寧ろ此に在り。其の公平にして勇壮なる点は、彼此異なる所なし。水難救済の事業が、海に於ける赤十字として歓迎せらるゝは、実に其の理由ありといふべし。聞く本日演習に用ゐる救命砲は、米合衆国より日本の於ける本事業の発達を欣んで、特に寄贈し来りたるものなりと。浦賀に於ける米艦の砲声が、日本鎖国夢を破りし如く、華浦湾に於ける救命砲の轟音は、本事業の奮発を誘起すべきは、信じて疑はざる所なり。〔後略〕
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以上、第9回 (2005年6月9日)。


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以下、第8回 (2005年6月2日)。


山口県立山口図書館の県民資料室に、吉村富雄著『丸尾の歴史あれこれ』(2000年3月刊)という本があるのに気づいた。
宇部市東岐波区丸尾に住む郷土史家の方の著作である。

丸尾崎救難所の位置(詳細図)。
丸尾崎(5万分の1図)。
丸尾崎(広域図)。

聴講生の方々は、コピーして配布した「救難所跡」の内容を確かめて欲しい。
(1) 「救命艇 神島丸 (昭和6年3月・進水式)」という写真が載っている。片側に櫓が4つ付いた八丁櫓の和船である。原動機付き救命艇が用いられるようになるのは昭和に入ってからである。日露戦争当時の「救助船」も同様のものであったろう。
(2) 昭和に入り、帆船が機帆船や大型汽船に代わることで出動の必要がごく僅かとなっていった。
「明治三八年から大正一四年までの、丸尾崎救難所の救助活動の状況については、次ページのような記録がある。明治、大正にかけての救助活動は、救難所の救命艇の出動だけでなく、救助隊員以外の漁師も漁船を出動させるなど、丸尾地区民一帯となって救助に参加したことも度々あったと言われている。大正時代になって、以前の帆船が機帆船や大型汽船に代わり、昭和になるとラジオの発達と共に、気象情報の伝達も正確敏速になって遭難は減少し、従って、救難所の役目は昭和六年頃より殆どなくなったものと思われる」(同書、166頁)
手漕ぎ和船による沿岸海域での海難救助は、帆船が実用船舶として用いられていた時代に対応していたと考えてよいだろう。


*


小学館・日本百科全書から「在郷軍人」「帝国在郷軍人会」「大日本武徳会」「愛国婦人会」の項目を提示し、内容を確認。

防長新聞より、「在郷軍人団条例」(明治40年8月3日1面)、および、「在郷軍人会の活動」(明治40年9月5日2面)を示した。
後者は招魂場敷地の地ならしのため在郷軍人百八十余名を召集し、地ならしを終えた後の宴会で、県会議員候補者の他薦や自薦の演説が行われている。地方選挙直前の在郷軍人の集まりがどのようであったのか興味深い。


*


防長新聞・明治41年5月3日1面に「原内相 大浦男の確執について 武徳会員募集の件」を説明するために、
(1) 原敬日記・明治40年8月11日の条
(2) 原敬、大浦兼武、北垣国道、渡辺昇を人名辞典などで紹介

日曜日の夕刻、図書館のコピー申込み締切り時間後に、上記記事があることに気づいた。メモしたが、コピーを持ち帰るのは翌週になったため、この日、記事全文は配布していない。


以上、第8回 (2005年6月2日)。

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以下、第7回 (2005年5月26日)。



この間、入手した防長新聞の記事からつぎのものを示した。
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〔記事−1〕明治38年12月22日2面
「○吉井伯爵の一行 一昨日午前十時来山、湯田松田楼に投宿せる帝国水難救済会長伯爵吉井幸蔵氏は、村田同会幹事と共に仝日午後二時県庁を訪ひ、渡辺知事以下同会に関係せる人々に面会し、本県東南海岸一帯に水難救済所の新設を見るに至りしは本県の尽力容易ならざりしを謝し、尚ほ将来、長門北海岸にも同様設置さるゝに至らん事の希望を述べて帰宿し、当夜知事、林、依田の一四両部長、原保安係主査、湯浅同警部等を招きて晩餐を饗応されたり。因に同伯は貴族院開会の期迫りたるより他への巡回を止めて昨日正午出発、直に帰東の途につけり」

〔記事−2〕明治39年3月10日2面
「○水難救済会徳山組の役員選挙 同組は当分都濃郡内太華村字櫛ヶ浜、粭島〔すくもじま〕及徳山町の三カ所を管轄し居る事なるが、此程役員の選挙を行ひ、部長中村右一、組合長田島広吉、粭島組合長石丸安次郎、太華村浜田才吉、徳山高橋嘉助の諸氏と定まり、外に救助夫各組に八名宛を置く事となり、此程夫々本会より辞令書を交付せり。右に就き来る四月中旬を期し発会式を挙行すべき筈」

〔記事−3〕明治39年7月20日2面
「○水難救護会員募集奨励 大津郡西部各村に於ける同会員募集奨励は、前人〔ぜんびと〕丸垰〔まるだほ〕警察分署長警部長谷川和介氏が、三宅巡査部長を従へ、前月以来各村を巡回、頗る熱心之れが募集に勉め、其成績何れも良好にして特に向津具村大字川尻の如きは海事思想発達し、同地有力家は悉く此の事業を賛助するの情態なるが、長谷川署長他に転任以来、三宅部長は鋭意事に当りたる結果、同地に於いては千円以上の拠金を造りたる由。就中天野清太氏の如きは一百五十円拠出することに決定し其他村々にも続々申込者ある由」

〔記事−4〕明治39年7月27日2面
「○水難救済会義金募集成績 玖珂郡高森分署詰中村巡査部長は其管内へ出張し、水難救済会義金募集を為したるに、成績良好にて、予定配当額五千六百円に対し、最早半数以上の応募者あり。遠からず全部収納し得る見込みなりと」

〔記事−5〕明治39年8月21日2面
「○水難救済会委員副長会 既報の如く帝国水難救済会本県各郡委員副長会を県庁構内なる巡査教習所講堂に開き着席定るや、委員総長渡辺融〔とほる、県知事〕氏の事務上に関する一場の訓示ありたる後、依田事務官は告別の挨拶を為し、夫より一同は紀念〔ママ〕の為め県会議事堂傍に於て撮影せり」

〔記事−6〕明治39年12月13日3面
「○下関の赤十字社員勧誘 下関市役所に於ては、先般来各課とも赤十字社員勧誘に努め、毎週日曜の如きには、殆んど総出にて尽力する処ありしが、已に三百名に垂んとする〔なんなんとする〕の加盟者を得、尚進んで五百名に達せしめんと、目下頻りに勧誘中なりと云ふ」
----------------

最後の〔記事−6〕は下関市役所職員が休日出勤をして日本赤十字社社員募集活動を行っているという内容である。前回紹介した水難救済会にとっての対照事例としての赤十字社の実態を示す。しかしこれは現在においても地方自治体と日本赤十字社の関係として、基本形は変化していない。『日本赤十字の素顔』(赤十字共同研究プロジェクト・著、2003年)第1章「町内会と日赤の奇妙な関係 --- あなたもわたくしも『日赤社員』?」に詳しい。

〔記事−5〕は、県知事が水難救済会の県の「委員総長」という名の責任者を務めていることを示す。

〔記事−3〕〔記事−4〕は、警察官が水難救済会に対する寄付「義金」の募集に従事していることがわかる。 

〔記事−2〕は、実働組織として沿岸地域で救難活動の携わる「救難組合」の役員選挙の記事である。内部的には、選挙で役職者を選んでいることがわかる。

〔記事−1〕は、救難所の新設などに際しては、本部と地元県庁・警察の協力で進められたことが読み取れる。

なお、第3週の末尾に示した三つの記事も参照のこと。救助夫長は本部からの任命であり、会員募集に尽力した警察官には本部から賞与が与えられたことがわかる。



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前週からの間の史料探索で得た最大のものは、山口県の地域関係者に向けた水難救済会当事者からの発言を見つけたことである。


「  ○海国的国民の大覚悟(十二)
    (廿一日県立師範学校に於ける演説の要旨)
  帝国水難救済会理事  海軍中将 肝付兼行君述
    第四章 水難救済機関の必要(上)
余は水難救済会創立以来事に参与し三十一年から各県を巡回しつゝあるが、本県の如きは成績の佳良なる全国第一に位し、割当額に達する亦近きにあらんとす。此上ながら県民諸氏の公徳心に訴へて本会事業の御賛同を望みます。我国に此水難救済会が起ましてから即ち二十二年から三十七年迄の各国統計がありますが、欧州にては白耳義は二十里にも足りない海岸を有して居るに過ぬが官有で、他は国民事業の方が多い。米国は政府事業で、欧州ては比較上英国が第一に発達し、其次が露国で全国に九百八十ヶ所ありて、英国では管船局の所轄に属するものが三百九十四ヶ所で私立のものが三百もある。民業の方は例の公徳心の高き国のことであるから、人民が志望すると其遺産を這般の公共的事業に惜気もなくポンポン寄付する。そこで一番多額に出して居るのは一人にして三万磅(六十万円)も出して居るのがある。我国の水難救済会事業の起源は故黒田伯爵が露西亜に使し、親しく仝国に於ける水難救護事業発達の情況を視察し大に感ずる処あり、明治二十二年帰来其創立を企画されたが、先づ最初には昔からの慣習があるから船神様と云ふ因縁から、讃岐の琴平社に崇敬社と云ふを設けて、船舶所有者其他から毎月三銭宛の寄付を募集し、是れが基礎となつて今日の水難救済会が出来たのである。それで創立明治三十二年より三十七年迄の統計に徴すると、其救済成績は救済度数が二千一百九十三度其中で西洋形船は二百九十三隻其噸数二万七千余噸日本形船は線八百五十二隻の多きに上り、救護人員が一万八百四十一人海から拾揚げた石炭とか何とか云ふ様な物の価額だけでも二百七十三万円にも達し、総体から救済された積荷の価額は四百六十二万円にも及で居る。是れに船舶の価額八百三十万円を加へたなれば、約千三百万円も空しく海底に沈む物を救ふて、貴重なる人命の一万三千八百四十七も救助した訳であるから、人道の上より観ると一方国家の富と云ふ典から考えても大に社会に貢献したもので、是で何程位金を要したかと云ふに僅々四十万円を使用したのみで、即ち四十万円の資本で金で買はれぬ一万三千八百四十七の人命と千三百万を利益した訳であり、此顕著なる国家経済から苟も公徳心ある物は是に向て十分の注意を払ふであらう。欧州から来る外国船はまず長崎に来りそれから神戸横浜と航行する。それに其視界に水難救済所の目標々燈なぞが多く見ゆると、成程日本人は公徳心に富で居る善い国ちゃ感心な国民じゃと安心して来航する。若し這般の設備が整頓せぬと日本人は公徳心が発達せぬ面白からぬ国危険なる海であると、自然に其感情が幾分か通商貿易の上に障礙を及ばす様なことになつて来る」
(防長新聞、明治39年5月6日2面)

一つめの下線。明治31年とは、第2週で示した年表によれば、逓信省からの補助金がでることになった翌年度である。法人格をもち、全国的な組織形成に取り組み始めた時点であろう。その時から、全国行脚を始めている。山口県は、会員へ応募、義金の醵出が全国上位であるという。

二つ目の下線。金刀比羅宮の信者団体は、救助活動の実行組織の基礎となったというよりも資金的な基礎を提供したことを、この記事のこの文言で初めて知った。

三つ目の下線。下関から神戸への瀬戸内航路は国際航路であるということがわかる。そこでの救助体制の整備が欧米との文明国としての立場の基礎になり、また、通商貿易の基礎となるとの認識が読み取れる。



「  ○海国的国民の大覚悟(十二)
    (廿一日県立師範学校に於ける演説の要旨)
  帝国水難救済会理事  海軍中将 肝付兼行君述
    第四章 水難救済機関の必要(下)
明治十八年のことであるが、米人「カシミル」以下九名の乗組みたる風帆船、琉球沖にて風波の難に遭遇して沈没したので、一同は一隻の短艇に身を委ねて食ふに食物無く干大根を齧りながら渺茫たる洋中を漂流し、其内五人は果敢なくも船内で死でしまい、四人だけ鹿児島県の種ヶ島に漂着した。其とき同嶋の住民が色々親切に労はり世話をして、其筋の手を経て夫々帰国の手続をしてやつた所が、是に就て米国民の感情を動かしたことは非常なもので、日本人は親切な者である感心ぢやと、終にサンフランシスコの某市会議員の如きは時の国会に建言して之に酬ゆるあらんことを請求した。而して其建議は一瀉千里の勢を以て怱談にして可決し、金貨五千円を種ヶ嶋村民に寄贈することになつて、外務省を経て送つて来た。それから其費途に就て種々研究の末、是を小学校の基本財産とすることゝなつて其由来を時の鹿児島県知事渡辺千秋氏が書ゐて碑文を建てた。其頃余も同嶋に立寄ることになつたので、其碑文を英訳し其写真を添へて、余が嘗て米国に在りて教育を受けた師匠に送つてやつたが、是が先方の雑誌に掲載されてあつた。日本には廃兵院のことは議会に可決され盲唖学校の如きも追々隆運に向ひつゝあるが、水難救済機関のことに対しては国民が頗る冷々淡々たるは洵とに痛恨事であるのに、県民諸子の熱誠なる本県に於て頗る好成績を得つゝあるは、余の深く感謝する処である。余が曾て矢張水難救済会の事で、秋田県羽後の象潟と云ふ処に行つて、午前中に用事を了り午後酒田まで五里の途を超ゆることにしたが、此間は随分道路険悪を以て有名な処であるから、二人曳の腕車を駆て出発した発する時は天気が頗る快晴であつたのに、所謂名月や北国日和定めなきで、東北地方程天気の変転定まり無き処は無い。途中驟かに暴風吹狂いて困難一方ならぬ。それを辛くも凌いで二里程行きて或る小阪の下迄達すると、車夫も終に辛抱仕切れなくなり、何程金を頂戴致しましても此時化では兎ても行かれませぬので是非此辺に宿泊て呉れろ、と頼むので、止む無く車夫に導かれて一軒の家に至つた。積雪の甚だしい国だけありて、家垂下も広く其処に車なぞも沢山置かれる様になつて居て、障子を明けて内に入て見ると広い中庭があつて、そこには見るも悸とする様な荒くれ男が数名、八月の炎天であるのに焚火をして暖まつて居る。八月に焚火をすさなぞ、是が即ち北国日和の定めなき処で、宛然此家は山賊の棲家としか思はれぬ。何だか小気味の悪い家だと思ひながら、主婦に導かれながら行くと、丁度其日が旧暦の盆で、仏壇で光明を点されて称名唱へて礼拝して居るものがある。仏信心をするからには真逆山賊の棲家でも有るまゐと、漸つとのことで安心して、我室に宛てられた長押付の八畳敷二間に寝すむことを得た。若し此時に余が仏壇を見なかつたなれば、到底も安心しては寝られなかつたであらう。救済会の事業は実に此仏壇である。是ありてこそ、内外幾多の船舶は心安けく航海することが出来るのではあるまいか。人道の上より又国家経済より打算しても、決して軽怱に付すべきものであるまゐ。以上余が説明したる趣旨を充分咀嚼して、此上にも国家の為め一層諸子の熱心なる同情を希望致します云々。(完)」
(防長新聞、明治39年5月9日2面)


水難救済会は、国家経済からの打算(戦略的な判断)から必要と判断される社会インフラであるとの認識が読み取れる。



以上、第7回 (2005年5月26日)。

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2005年07月25日

学期当初より5月21日(土)までの7週間は、土曜日夜間に夜間課程の1年次生相手の講義「人文社会入門」を持っていたため、山口市での史料探索は毎週日曜の日帰りとするほかなかった。5月28日(土)以降は、土曜・日曜の一泊二日での山口通いとなった。直前にどのような史料を読んだのかとその週の講義内容とは密接な関係がある。以下、示しておく。


5月1日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治38年6月〜8月
5月2日(月)、国立国会図書館、雑誌『海』(同館所蔵分全部を通覧)
5月8日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治38年9〜11月

第5回 (05/12) 〔視角の設定〕Michael A. Bellesiles『ARMING AMERICA』。/鈴木淳『町火消たちの近代:東京の消防史』『関東大震災:消防・医療・ボランティアから検証する』。/金指正三『近世海難救助制度の歴史』。

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5月15日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治38年12月〜39年6月中旬
5月17日(火)、神戸市立中央図書館にて、次の二冊を閲覧
     (1)『神戸水上警察百年の歩み』(神戸水上警察署水交会、1982年)
     (2)『海の赤十字』(帝国水難救済会、1928年)
     ↓
第6回 (05/19) 〔視角の設定〕海難救助の近代化、西洋基準との出会い。/日本赤十字社との対比。オリーブ・チェックランド『天皇と赤十字』。

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5月22日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治39年6月下旬〜40年2月上旬
     ↓
第7回 (05/26) 〔探索の拡大〕『防長新聞』の記事を読む。本部との関係、会員募集・義金募集に警察官が関わる、知事が委員総長。下関市で赤十字会員募集に市役所職員が関わる。肝付兼行「海国的国民の大覚悟」。

*

5月28日(土)・29日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治41年3月まで終了
     ↓
第8回 (06/02) 〔探索の拡大〕丸尾救難所。公共団体の会員募集に警察官は関わるべからず(原内相)。武徳会、愛国婦人会、在郷軍人会の紹介。

*

6月4日(土)・5日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治42年6月まで終える
     ↓
第9回 (06/09) 〔探索からまとめ〕記事「原内相大浦男の確執について 武徳会員募集の件」。水難救済会山口県支部発会式。

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6月11日(土)・12日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治43年12月まで終了
6月14日(火)、神戸市立中央図書館にて、次の二冊を閲覧
     (1)『海国日本』(帝国海事協会・大日本水産会、1916年)
     (2)『日本海軍エレクトロニクス秘史』(田丸直吉、1979年)
     ↓
第10回(06/16) 〔探索からまとめ〕明治42、43年の記事、日露戦争が歴史に。社説「寄附勧誘と官庁」。「旧式銃器の払下」(地域社会の武器所持と在郷軍人会)。私設消防組から公設消防組への改組。

*

6月16日(木)、大阪府立中央図書館、『海事雑報』明治36〜38年(帝国海事協会機関誌)
6月18日(土)・19日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治32年2月〜6月<同年後半は欠>、33年1月〜34年3月まで見た
     ↓
第11回(06/23) 〔探索からまとめ〕賞与(水難救済会救助夫)→賞金(一般漁民の救助活動)→処罰(海難物品分捕り)。会員掖済会、帝国海事協会。海難救助の二つの意味。

*

6月25日(土)・26日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治34年12月まで
     ↓
第12回(06/30) 〔視野を広く〕1904(明治35)年のいろいろな記事。「関門間海難減少策ニ関スル意見」。

*

7月2日(土)・3日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治35年1〜12月
     ↓
第13回(07/07) 〔補足とまとめ〕主力戦艦の関門海峡通過。いままでのまとめ

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7月9日(土)・10日(日)、山口県立山口図書館、防長新聞・明治36年1〜5月
     ↓
第14回(07/14) 〔補足とまとめ〕当時の人々にとって海事とは---海員掖済会・水難救済会・海事協会の背景に在るもの、記事「早速丸の沈没」から考える。テストの予告


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以下、第6回(2005年5月19日)。



前回最後の事例。岩手県における英国船遭難と海難物掠奪について、関連する新聞記事を見つけた。これを見ると、遭難があった年代が1881年11月であり、塚原周造の回顧とは食い違う。他の史料にもあたり事実確定の必要があろう。
なお遭難地は「ひがしへいぐんおもえむら」と読み、現在の宮古市重茂である。
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○昨年の十一月英国の商船が一艘難風に出遇ひ岩手県下東閉伊郡重茂村の海岸へ漂着せしかば同県庁より官吏を差向け救助のうへ函館まで護送せしに、彼等は何と思ひしにや、其後横浜へ廻り岩手県の官吏は我等を海賊の如く取扱ひ、また村民共は手に手に船貨を掠め取りたりなど該領事へ訴へ出でしにぞ、此事を領事より我が外務省へ照会に成りしに付き、先頃同省より石橋大書記官とお雇英人ブロンの両氏を岩手県へ派遣せしめ事実を聞糺せしに、県官の申し立には、最初右船が重茂村へ漂着し乗組一同上陸して該地に滞留中其人々は何の為めか知らねども折々短銃を放つに、村民共は恐怖するゆえ宮古警察署より保護のため近傍へ巡査を配置せしを、彼は却つて我等を怪しむと思ひ錯りたる者ならん、又上陸の節船貨を掠め取りたり抔とは思ひも寄ぬ事にて、彼等が上陸すると間もなく船は覆没したり。殊に此際は言語も通ぜざるゆゑ県官は申すに及ばず郡吏等も彼此奔走して随分心配いたしたる儀に候との事なれば、石橋大書記官を初め是に関係の人々は一同重茂村へ出張して昨今村民をも取調べ且つ該船の沈没せし海浜を捜索し沈没の品物なども取調中の由、同地より通信。
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(読売新聞、1882(明治15)年3月11日、朝刊、3面)

記事のトーンからは、欧米船の遭難やそれにともなうトラブルに際したナショナリスティックな雰囲気を感じさせる。



また、同紙には、水難救済会組織前の自主的に地域で結成された救助組織の例が出ている。
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○大島海防組  福岡県下宗像郡大島は神湊の西北を距る凡そ六海里にして玄界洋中の一孤島なり。人民は概ね純朴にして甚だ愛すべきの風あり。然れども開進の度は同県下の最下等に位ゐし、男女を論ぜず都て裸体にして白昼路上を徘徊し恬として愧づるの色なく、其鄙野なる実に見るに忍びざるものあり。戸数は三百余にして打ち六七分は純粋なる漁戸より成立ち其他は農漁兼業の者なりと云ふ。夫は扨置き同島は日本海中の一難航路たる玄界洋中の一孤島なれば、年々歳々暴風波濤の時に際し難船の此に漂着するもの其数幾干なるを知らず。或ひは往々洋中の波間に漂ひ遂に海底の藻屑と化するものも亦少しとせず。去ば爾后斯る危急に方つて之を救助するの方策を予じめ設けざるべからずとて、今回同島の戸長吉村発典外数名の発企にて普く義捐金を募集し堅固なる規約を結びて題号の如き組合を設け此程県庁へ認可を出願せしとぞ。その組織は総員七十名を四組とし毎組に小頭二人、伍長四人、組員十五日とし、現に客月三十一日組合員一同が同村沖津宮前に整列して各自規約書に捺印し夫より一艘に十五人づゝ乗組み四艘の艀船にて競漕会を催したるよし
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(読売新聞、1887(明治20)年8月20日、朝刊、3面)

本講義で扱う山口県豊浦郡彦島村の近隣であり、状況も類似していたであろう。

なお、インターネット上のサイトしては、「沼津救難所(MRJ沼津)の歴史 沼津市我入道青年会」も、水難救済会結成以前の沿岸での海難救助組織の様相を窺わせる。



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帝国水難救済会を理解するための比較対照の素材として、日本赤十字社を取り上げた。水難救済会自体、自らを「海の赤十字」と呼んだように、理念や組織について先行する模範として考えていた。
現在の日本赤十字社のホームページから「赤十字を知る」のコーナーに入り、「創立」「沿革」⇒「明治」を示した。オリーヴ・チェックランド著『天皇と赤十字: 日本の人道主義100年』(2002年刊)を紹介した。



以上、第6回(2005年5月19日)。

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2005年07月24日

以下、第5回(2005年5月12日)。


先行研究の検討(その1)。
"ARMING AMERICA: THE ORIGINS OF A NATIONAL GUN CULTURE", Michael A. Bellesiles
ハードカバー版(2000年9月刊)
ペーパーバック版(2003年11月刊)
前回最後の塚本学さんからの引用の末尾に「太閤刀狩り以来、日本人には、自分で安全を守る習慣なしといった歴史像」という文言があった。日本の場合の「非武装社会日本の伝統」という神話と、「銃砲によって自衛してきたアメリカ人」という神話とは、形は逆だが、同じ種類の史実と違う歴史像が社会に共有されてしまっているという現象であろう。

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先行研究の検討(その2)
鈴木淳・著『町火消たちの近代----東京の消防史』(1999年11月刊)
鈴木淳・著『関東大震災---消防・医療・ボランティアから検証する』(2004年12月刊)

一つ目の『町火消たちの近代』のうち「全国消防組の模範」という節の冒頭(146〜147頁)につぎのように記されている。
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 明治二七年(一八九四)二月9日、勅令第一五合消防組規則が制定された。これは、府県知事が消防組を設置する場合の準拠法規であった。
 消防が警察行政の一環であることは、東京では川路利良の主張が受け入れられるかたちで、明治六年末から制度的に明示されていた。しかし、それ以外の地方では規定がなく、消防組は市町村の条例に準拠して、あるいはまったく私的に設けられていた。内務省は、これら従来の消防組をすべて廃止し、府県知事の警察権にもとづく官設の機関として消防組を設置することを命じた。これにより、基本的に市町村を単位としてその費用負担によりながら、府県の警察部が任免する人員からなり、警察署長が指揮監督する官設消防組が各地に設置された
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『防長新聞』に出てくる山口県の事例では、日露戦争前後に、私設消防組から公設消防組への転換が順次起こっている。なお「私設消防組」「公設消防組」という表現は防長新聞で一貫して用いられている。


二つ目の『関東大震災』では、第四節「大正の震災ボランティア」の末尾「ボランティアと統制」(219〜220頁)で、現在と当時の地域社会を対比している。
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 震災の記録に頻出する青年団・在郷軍人会という言葉は、ボランティアとは一件かけ離れている。しかし、それらの団体ではほとんどの場合、個人が活動に加わるか否、地域の小単位が何をするか、自分達で判断していた。また青年団という言葉は既成組織をさす場合のほか、避難所で青年団を作らせるという表現が見られるように、地域や避難民集団の中から自主的に救護作業に参加した若者たちを指す場合もあった。地域住民や町村有志の来援を含め、震災時には多くのボランティアが活躍したのである。そして、一部市街地の焼け残りも、早い時期からの医療や救護の一定の展開も彼らの活動に支えられていた。
 しかしボランティア的な活動は多くが、のちに自警団活動に収斂して行ったがゆえに、個々の善行とはなっても自主的な動きそのものとしては高く評価されにくかった。自主的なだけに事を好む人が主導権を握って事態を混乱させがちであったという反省は、官憲の統制を受けた活動が好ましいとの教訓を残した。また、その後に町内単位で取り組まれた配給品の運搬や配給活動は、区から割り当てられた物資を運ぶというまさに統制の下で働くことで初めて機能する活動であった。それゆえに、震災時のボランティアの活躍にもかかわらず、結果としては諸団体への指導の強化や行政の下請けの性格が強い町内会が生み出されたのである。
 災害に立ち向かう、無償で罹災者に力を貸すといった意識や行動は同じでも、時代背景の違いによって、それが次の時代に与えた影響は異なってくる。
 群馬県に象徴される来援ボランティアは、少なくとも初期に大きな貢献をしたが、その指揮や宿泊の面で問題があり、行政はこれを今後のあるべき形とは考えなかった。確かに市内山の手の青年団が日帰りで出頭してくれた方がはるかに合理的であるし、自警団現象さえなければそれは不可能ではなかった。さらに、指揮や宿泊の問題が緩和された時期になると、地域内の失業対策が優先されて無償奉仕は排除された。月給や年金による生活者が多い現代とは異なり、日給で就業する、あるいは中小経営で働く人が多く、職場の破壊や消失が時差なく失業に結びついたからである。
 現代の眼から見れば、震災時の人々の活動は、基本的に地縁集団である青年団、在郷軍人会、町内会、また家族や同僚、知己、出入先、郷里といった人々の縁に規定されていた。固い結束が可能だった地域が火を食い止める可能性を持ち、見舞いを兼ねた人の縁による救助や収容や救護が主流であった。
 地域外からの来援ボランティアの活躍が注目される現代ではやや違和感があるが、関東大震災と同様に大規模な災害が発生した場合にはやはり、被災地域内や直近の人々の活動に待たなくてはならないところが多い。この時代以上に地位のつながりが薄く、通勤距離が長い我々がどう動けるか、人間や社会の知恵が問われる。
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先行研究の検討(その3)。
金指正三(かなさししょうぞう)著『近世海難救助制度の研究』(1968年刊)

著作当時、海上保安大学校の教授だった著者による江戸時代の日本の海事法制の研究である。「序説」「一 研究の目的」はつぎのように書き出している。
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 わが国における現行の海難救助制度は、水難救護法およびその附属法・船員法・船舶安全法施行規則・海上保安庁法・商法および海難救助条約等の諸法令に基づき、一方において他人の利益を保護すべき義務に従って、海上における危険を積極的に克服すべきことを命じ、他方かかる義務なくして第三者が危険克服に寄与した場合、救助者に救助の報酬すなわち救助料請求権を認め、救助を奨励して海上交通の安全を期し、公益を計ると共に商業の便宜を増進することを目的とするものである。而して、この制度は、明治以降、明治政府が範を西欧に採り、西欧に発達した該法制を採り入れ、累次改廃の過程を経て現在に至ったのである。
 この制度の特色は、一面において道徳に根底をおくと共に、他面において救助を奨励する政策を加味していることである。これは、この制度が確立するまでに、次の如き変遷をたどったからである。すなわち、西欧においては古代から沿海住民に遭難物占取の慣行があり、中世には更に遭難物占取権なる観念が普遍化し、遭難物は挙げて海岸権所有者の取得に帰すると考えられていた。これに対して、教会はかかる慣行を禁止し、海商都市の海法は、占取権廃棄の規定を設けたが、その実効は見られなかった。しかるに、近世に至り国家がその権力をもって、遭難物占取を禁止すると共に、海難救助を義務とし、救助者に救助報酬請求権を与え、救助を奨励する積極的政策を採ったので、遭難物占取の慣行は消滅し、近代に至って現行制度が確立するに至ったからである。
 しかるに、かかる慣行はわが国においても古くからあり、これに対する政策も西欧におけると同様に、中世の遭難物占取禁止という消極的立場から、近世に至り救助を義務付け、これを奨励するという積極的立場に移り、わが国にはわが国固有の海難救助制度が発達し、明治におよんだのである。明治政府がその初め施行した「浦高札」による制度がそれである。前記の如く、明治政府は、このわが国固有の制度を数年にして廃止し、西欧に発達した制度を採用したが、遭難物占取の慣行はもはやほとんど廃滅し、その効果の見るべきものがあったのは、わが国民が江戸時代以来、この法制に慣らされ、その法の精神をよく理解していたからに外ならない。明治政府が採用した西欧のこの制度は、一六八一年のルイ十四世の「海事勅令」によって始まるといわれるが、それと同じ立法精神であり、制度として比較するも何ら遜色を見ないわが国固有制度はこれより早く一六二一年(元和七年)、江戸幕府によって創められたものであり、わが国海法発達史上、極めて重要視さるべきものである。
 ゆえに、この法制に関しては、学者によって早くから研究されていた。中田薫博士の「徳川時代ノ海法」(『法学協会雑誌』三二の三・四)、竹越与三郎氏の『日本経済史』(第八巻)、住田正一博士の『日本海事法』、生島広治郎博士の「徳川時代に於ける海難救助の建議希有」(『国民経済雑誌』三四の五、三五の二)等の論者はそれである。しかし、これらの諸研究においては、遠隔的研究がなされておらず、また、いずれも江戸幕府の法令を挙げたに止まり、諸藩の法令におよばず、津々の申合せ、郷村における漁民間の慣行等に至っては、これを説くものほとんど皆無といってよい。著者は深くこれを遺憾とし、海難救助に関する海事慣行とその法制の実施状態の究明に意を用い、江戸時代の海難救助制度の全貌を明らかにせんとした所以である。
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つぎのようなワープロ打ちのメモを配布。
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○国立国会図書館で帝国水難救済会機関誌『うみ』のバックナンバーを見る。
(1) 第1号(1900年7月)から第10号(1901年3月)は、海事思想の涵養を目的とする面と海難救済会の救難所設置の進展を報告する記事が見られる。
(2) 残念なことに、日露戦争中の分は残っていない。
(3) 第8年1号(1907年1月)〜第8年9号(1907年9月)は、寄付会員向けの色彩の強い雑誌となる。
(4) 第8年4号(1907年4月25日発行)に掲載された、塚原周造(帝国水難救済会理事、元・管船局長)の執筆した記事「水難救済事業」がおもしろい。
 明治以後も、外国船に対して分取りを働き、英国公使パークスが取締りを日本政府に求めたことがあった。その結果、明治11(1878)年、難破船漂流物取扱規則を定め、翌明治12(1879)年、米国政府よりの申し入れの結果、難破漂流民送致に関する条約を締結。

研究史上、金指正三著『近世海難救助制度の研究』(吉川弘文館、1968年)という著名な業績がある。この内容から近代海事史への展開について、研究状況を確認する必要。

○『九州日報』1904年6月5日号3面「軍隊と漁業隊の渡海」という記事を見ると、日韓協定によって「我漁業権確定」。香川、和歌山、鳥取、山口の各県では県庁が漁民に渡海操業を奨励することになった、という趣旨が書いてある。

○『防長新聞』1905年10月26日号2面
「○見島の望楼廃止 本県北海の一孤島たる阿武郡見島には、昨年日露開戦の後、望楼を設置せられたりしが、両国媾和の成立して平和克復の今日に於ては最早必要なきを以て、本月十九日限り全く之れを廃止せられ昨今其引揚げの準備中なり」
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二番目と三番目の記事は、手元にあった調査ノートから面白そうなものを書き抜いただけ。特に説明はしなかった。

塚原周造は分捕りの旧慣が明治になっても残り、それを廃絶し、近代海事法制を実現した自分の業績を協調する立場にある。金指正三さんは、ずっと後、日本近代を近世との連続性として捉える視角をもち得る時代から振り返っている。


『海』掲載の塚原周造執筆の記事に対応する記述が『塚原夢舟翁』(塚原周造氏海事関係五十年紀年祝賀会委員・編集発行、1925年刊)にある。第二章「在官時代(上)海事行政上の努力」四「海難救助に関する規則の制定並に条約の締結」(22〜23頁)である。近代海事にかかわった人々に共有された昔語りの一つであろう。この辺については、海事法制の近代化について、今回は深入りしないが、別途調査が必要な課題である。
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 明治十一年一英国船が岩手県下で遭難の際、其の地の貧民の為めに掠奪を蒙つたと云つて、英国公使パアクス氏が外務省に呶鳴り込んで来たことがあつた。外務当局は直ちに君の意見を徴して善後策を講じ、管船課雇英人ブラウン氏と外務大書記官石橋政方氏を遭難地に急行せしめ、地方警察と協力して実地を調査し、掠奪品を取り戻した上犯人は警察の処分に委し、遭難の英人には相当救護を加へて陸路横浜に送還し、英領事へ引渡したことがあつた。
 翌十二年になつて、難破救護の費用は日英両国とも相互に政府で立替へることゝし、英国の申出に依つて一の条約が締結されることになつたが、我難破救護の方法は英法に準拠したものであつたから、英国は早速我提案を認めたのであつた。事は小なりと雖も、我国が外国と対等条約を締結したのはそもそも此の協約が嚆矢である。次で明治十三年には米国とも英国と同様の条約が結ばれた。
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以上、第5回(2005年5月12日)。



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以下、第4回(2005年4月28日)。


学生から聞いたつぎのエピソードを導入とした。

ある関西の有力企業に就職した学生から、在学していた頃、聞き取った話しである。
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彼が、原付に乗った若い女性が四輪自動車と接触事故を起こした場面に出会った。その女性は、足を骨折したらしく立ち上がることが出来ない。自分で携帯電話を取り出し、警察に110番通報した。それを見ていた自動車の運転手の方がおろおろしてしまっている。
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この話しを聞いて、当時、わたくしはつぎのように思った。「現在われわれが持ち歩いている携帯電話は、明治時代の護身用のピストルと等価物(equivalent)である」。明治時代、辺鄙な土地に配達に出向く郵便配達夫はピストルを携帯した。また、当時の新聞には護身用のピストルの広告が堂々と掲載されている。一方現在は、情報化(交通と通信の発達)が進み、110番(警察)や119番(消防)、そしてさらに118番(海上保安庁)に連絡すれば、緊急自動車や船舶、ヘリコプターが直ぐに駆けつけてくれる。そういう時代にわれわれは暮らしている。一方、百年余り前を考えてみると、強盗が村に押し入っても、火災でも、海難でも、その場に居合わせた人々が自分たちの力で対処するほかなかった。治安維持、消防、自然災害、緊急医療などについてである。

とすれば、情報化の進展の裏面として「地域の自立性の漸次的低下」という側面があり、その両面を念頭において近代の地域社会は捉えねばならない。となるだろう。

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この発想の傍証として、『京都府警察史 第三巻』(京都府警察本部、1980年)622~625頁を配布し、提示した。

まず、制服警察官が拳銃を所持することになる戦後のプロセスが622~623頁に出ている。1946年1月、連合国軍最高司令部(GHQ)は警察官の拳銃所持拡大を容認する姿勢をとることとなった。

一方、624~625頁には「民間の武器回収(昭和の刀狩)」という項目があり、つぎのように記されている。
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 戦後の武装解除に引続き、連合国最高司令官一般命令第一号第十一項により民間所有の武器回収が行われた。戦後の刀狩りがそれである。けん銃、小銃を回収する事が主目的であったが、その適用範囲は刀剣、槍に至るまで拡大され回収が開始されたのは昭和二十年(一九四五)九月十五日からであった。ただし、美術の目的物と考えられる刀剣に関しては特例が認められるが、たとえ美術品であっても軍刀として試用さたものは対象外とされた。従って軍籍のない民間人の所持していた美術刀剣のみが回収をまぬがれることになったのである
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占領下において、民間の非武装化と制服警察官の拳銃携帯が同時に進行した。

民間に武器が所有されていた戦前社会において、通常はサーベルのみを佩用する警察官がその任に当たりえたのは、地域社会自体に治安維持機能が組み込まれて存在していたと考えるほかない。高度経済成長期までのニュースに「犯人が山に逃げ込んだので地元消防団の協力を得て、警察が捜索に当たっている」というタイプのものがあった。現在では警察機動隊が動員される任務に、地元の常設ボランティア組織たる「消防団」が補助警察力として動員されるということが戦後しばらくは残った。

*

こうした視角・視点についての先行研究として、1927年生まれの二人の論者を紹介した。

一人目は、長谷川慶太郎さん。ふつうは評論家、エコノミストなどという肩書で出てくるが、防衛研修所の教官を務めていて、軍事・警察問題にも明るい。1987年3月刊の著作『日本の革命----世界の大国をめざす』(205~207頁)には、つぎのような記述がある。
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 日本の社会秩序の安定を確保する大きな要素は、国民にピストルなど銃器を所持させない制度である。密輸ピストルで武装した「アウトロー」の気ままで、わがままで、秩序を攪乱する行動に対しては、ピストルをもたない一般市民は、警察の力を借りる以外に対抗する手段を持ち合わせていない。
 米国のように、だれでも銃器の所持が許される憲法のある国では、「アウトロー」が地域社会の秩序を攪乱する行動に出た場合、地域住民自身が「武装」し、彼らの行動を抑制する。日本ではこうした「武装」を禁じられている以上、一般市民の「武装」に代替する機能を警察が果たす以外に「アウトロー」を押さえ込む方法が存在しない。この意味では、日本の警察は、社会の「公僕」としての機能を、他の先進国に比べていっそう強く持つこととなる。
 また、一般市民の「武装」を前提とした、自律的、自主的な秩序維持機能を、プロの警察が全面的に肩代わりしているからこそ、日本の国内の犯罪防止力は高いし、その高い検挙率を通じて、間接的に犯罪防止機能を強める一面もあることを見落としてはなるまい。
 市民がみずから「武装」する社会ては、当然のことながら、市民間の争いはすぐさま銃撃戦の形に発展する。
 〔略〕
 これから近未来の日本では、この市民「非武装」という社会制度がつづくものと考えてよく、また継続すべき制度のなかに含まれるにちがいない。
 戦後の日本がとった国ベースでの「軍事小国路線」は、戦前よりも密接に市民の「非武装」と強く結びついている。
 戦前は予備役にあった軍人がピストル、軍刀を保持することは義務とされ、また明治維新以前武士だった家系には、刀槍がかならずといってよいほど残されていた。戦後の日本の社会は、こうした個人所蔵の「武器」をまず占領軍が、ついで警察が徹底して回収した。このため、保有を許された刀槍は美術的な価値を持つものに限定され、いっそう市民の「非武装」化が定着した。
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(引用中の下線は引用者が付した)


もう一つ、2001年4月刊『デフレ時代の成功法則』「第5章 特殊法人改革なしに日本経済の復活はない」(169~170頁)において、特定郵便局長会を郵政民営化によって解体されざるをえない自民党の地盤として紹介した後につづいてつぎのように記述している。
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 似た組織に、地方の消防団がある。
 地方自治体の消防署の現場組織として、今でも村々の消防活動を実際に担当している。すべての集落ごとに分団が置かれ、ポンプ小屋が作られていて、成人になると、全員が加入させられる。季節ごとにちゃんと消防訓練もやっている。
 戦前は、その組織にさらに軍隊帰りの在郷軍人会が重なっていた。
 そういうものが保守の地盤だった。
 戦後は、まず在郷軍人会がなくなり、代わって一時期は遺族会が盛んだったが、それも衰え、減反で農協の力が弱くなり、また公共事業費の削減と建設不況で、一時期乱立して盛大だった、村の土建屋にも金がなくなった。
 そうなると、全国の村ごとに組織を持っている特定郵便局長会というのは、自民党に残された数少ない全国的な地盤ということになる。
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(引用文中の下線は引用者による)


*

二人目は、近世史家の塚本学さん。1993年刊『小さな歴史と大きな歴史』の冒頭近く「二 近世史で考えなおしたいこと」(6~8頁)に、つぎのような記述がある。
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 よく知られているように、近世の体制では、武士身分の者は、一般に城下町に集住した。ある村で、集団強盗におそわれるという事件があったとする。そのとき武士身分の武力が、治安維持機能を果すことは、まず不可能である。電話もパトカーもない時代なのだ。当時いちばんの機動力、騎馬軍団が駆けつけても、到着の際にはすでに強盗群は立去ってはるか後であろう。だいたい、城下町の武士が、常時、いざことあれば騎馬軍団を編成して出動できるような用意をしていたか。そもそもそうした考え方もとられなかったであろう。お城の出火は、主君の九だから駆けつけるにしても、人民の生命財産の危険を、それほどの緊急事とはみなさない。理屈の上からすると、人民の生命財産は、主君が役義をつとめる上での貴重な財だから、これを守ることも必要のはずだが、実際には武士の、そうした意味での「護民」「安民」機能は、さほどはたらかないのである。そこまで及ばなかったのではない。はじめからそのつもりではなかったというべきだろう。
 村の治安維持機能を担当したのは、一般には村自体であり、幕府や藩の支配も、それを前提として成立していた。幕府や藩の法は、一般に、そのような集団強盗に対して、村民が共同で対処すべきことを命じている。十七世紀信濃の、松本・上田等諸藩の法では、そうした場合に賊を殺害することをも認めており、松本藩法の場合は、その趣旨が最後までかわらない。そのような例が、どの程度ひろく存在するかについては、今後のしらべが必要であるが、武士の武力が有効でない以上、武力をもった賊に対して、村民自身の武力行使をなにがしかの程度認める、むしろ求めるのは一般的であって当然といえよう。
 集団強盗に対するのと同じことが、耕地や人畜をおびやかす野獣に対する場合にもいえる。江戸時代の多くの山村では、猪や鹿・狼などに対して鉄砲をもつ村民がかなりたくさん存在したし、幕法もこれを認めていた。これも武士の武力で対処できる相手ではない。もっとも鉄砲の使用についての規制は当然存在したし、とくに集団強盗の類に対する武力として鉄砲を利用させることは、例外的にしかないといえる。ヒトを殺傷する用途だけに純化した道具を武器とよぶなら、江戸時代の農山漁村に原則的に武器は存在しなかったという通説的理解に、異議をとなえる余地はなかろう。けれども、武力は、そのような意味での武器を不可欠とするものではない。鍬やてんぴん棒のような道具も、場面と使い手によっては、名刀以上にヒトを殺傷するのに有効である。石ころやときには素手も、ときには十分に戦う手段となり得よう。なによりも戦う意志をもつひとびとの結集が、外敵に対して有効な武力である。
 武士が集住した城下町でも、武士の武力が治安維持機能を果したとは必ずしもいえない。十八世紀末、寛政初年に江戸の町に集団強盗が横行したとき、被害は実は武家邸に大きく、町人の町では、町民が共同で声をかけあうことでこれを撃退した例が少なくなかった。そうした例は、武力というものについて考えさせるだけでなく、江戸時代の体制自体にも、そしていうならば近世という時代に限定されない問題についても、再考を求めるものになる。
 江戸時代が終って半世紀余もたった時点の例だが、関東大震災にあたって、多くの朝鮮人を殺傷したのが、右のような村の武力であったことにも、目をそむけるわけにはいかない。一面で、戦前・戦中の男たちの多くは、夜、痴漢が出没するなどという噂を聞けば、枕元にステッキをおいて寝、悲鳴を聞いたら飛び出ようとしていた。現代の団地住宅での痴漢問題で、住民の自発的な組織が生まれる場合もあるが、警察官による各家への取締りだけを求める声が出ることもある。後者の思考法は、また通勤電車内での暴力等にも見てみぬふりをするひとびとに通じる。そして、太閤刀狩り以来、日本人には、自分で安全を守る習慣なしといった歴史像が、そうした思考法と通じあう役割をももつ」
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長谷川さんは戦後・現代の日本から戦前の日本に遡り、塚本さんは江戸時代の日本から明治維新以後の時代を望んでいる。それは、先の塚本さんからの引用の直前に、つぎのように叙述されている時代であった。

「帝国憲法下では、村々に駐在のお巡りさんがいた。村民のささいなバクチなどを取り締まりもしたし、村に盗賊が入りでもしたら頼りにされる存在でもあった。地主には頼られ、小作人には警戒され、ないし恐れられるという面もあった」

この講義では、沿海地域の村々における海難救助組織から、この時代を見て行くことになる。



以上、第4回(2005年4月28日)。

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2005年07月23日

既に14週の授業を終えた後で、その内容を当ブログに書いている。7月7日、第13週に配布したプリントにはつぎのように毎回の大まかな内容を記した。

第1回から第3回は「日露戦争と水難救済会」について初歩的な史料を確認した段階。
第3回から第6回は、授業開始以前に先行研究として関連が念頭にあったものを紹介するとともに、史料調査のなかから見つけた新たなデータや視角を紹介した時期。
第7回以降は、山口県の県紙『防長新聞』を精査するなかで、関連する場面や事項を一つ一つ拡大して行った時期。

即ち、以下の通り。
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第1回 (04/07) 〔導入〕「日露戦争」and「水難救済会」で検索した三つの読売新聞の記事。
第2回 (04/14) 〔予備調査〕インターネット、年表、『帝国水難救済会五十年史』「救難所配置図」「救難所発達史」。
第3回 (04/21) 〔予備調査〕五万分の一地形図「小倉」、『帝国水難救済会五十年史』日露戦争中の記述。
第4回 (04/28) 〔視角の設定〕地域社会の武力、秩序力、自立性の観点。現代から振り返る長谷川慶太郎、近世史研究から近代を見る塚本学『小さな歴史と大きな歴史』。
第5回 (05/12) 〔視角の設定〕Michael A. Bellesiles『ARMING AMERICA』。/鈴木淳『町火消たちの近代:東京の消防史』『関東大震災:消防・医療・ボランティアから検証する』。/金指正三『近世海難救助制度の歴史』。
第6回 (05/19) 〔視角の設定〕海難救助の近代化、西洋基準との出会い。/日本赤十字社との対比。オリーブ・チェックランド『天皇と赤十字』。
第7回 (05/26) 〔探索の拡大〕『防長新聞』の記事を読む。本部との関係、会員募集・義金募集に警察官が関わる、知事が委員総長。下関市で赤十字会員募集に市役所職員が関わる。肝付兼行「海国的国民の大覚悟」。
第8回 (06/02) 〔探索の拡大〕丸尾崎救難所。公共団体の会員募集に警察官は関わるべからず(原内相)。武徳会、愛国婦人会、在郷軍人会の紹介。
第9回 (06/09) 〔探索からまとめ〕記事「原内相大浦男の確執について 武徳会員募集の件」。水難救済会山口県支部発会式。
第10回(06/16) 〔探索からまとめ〕明治42、43年の記事、日露戦争が歴史に。社説「寄附勧誘と官庁」。「旧式銃器の払下」(地域社会の武器所持と在郷軍人会)。私設消防組から公設消防組への改組。
第11回(06/23) 〔探索からまとめ〕賞与(水難救済会救助夫)→賞金(一般漁民の救助活動)→処罰(海難物品分捕り)。海員掖済会、帝国海事協会。海難救助の二つの意味。
第12回(06/30) 〔視野を広く〕1904(明治35)年のいろいろな記事。「関門間海難減少策ニ関スル意見」。
第13回(07/07) 〔補足とまとめ〕主力戦艦の関門海峡通過。いままでのまとめ。
第14回(07/14) テストの予告
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上記プリントを配布した時には、まだ第14回はやっていない。実は、地域住民にとって「海事」とはどのようなイメージのもので、それゆえに、寄付金を払うなど参加に値する対象であったのかに気づかせてくれる史料を見つけて紹介することで最終回とした。

わたくしは最初
(1) 地域史を日露戦争という断面で切ってみるという関心から水難救済会に接近した
つぎに、
(2) 日本赤十字社や愛国婦人会などの愛国的Charity Organizationの一つとしての水難救済会の側面を見た
そして最後に、
(3) 水難救済会というテーマを通じて史料をたぐることで、海事という領域に導かれていたことに気づいた

この辺の事情を説明するつもりで、以下、授業の概要を記して行きたい。

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2005年07月07日

以下、第3回(2005年4月21日)。


五万分の一地形図「小倉」の関門海峡、彦島、六連島付近の部分を示し、(1) 下関水上警察署と北九州水上警察署の位置を確認した。(2) 彦島のうちかつて救難支所がおかれていた「竹ノ子島町」「西山町」「福浦町」「田ノ首町」の地名を確認した。


『帝国水難救済会五十年史』のうち「戦時下救難所ノ活動」から「一、救難所敵艦監視報告」「二、戦禍に因る海難救助」を紹介した。
なお、1945年3月10日に本部事務所が戦災により全焼し、『五十年史』に収録された原史料は失われている。
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一、救難所敵艦監視報告

明治37年2月14日午前9時55分、下風呂(しもぶろ)救難所発電
「怪船二隻見ゆ取調中」

2月14日午前11時35分、下風呂救難所発電
「確めたり日本船」

2月14日午後7時20分、下風呂救難所発電
「奈古浦丸附属品漂着、板に弾痕二あり」

2月15日午前3時20分、袰月(ほろづき)救難所発電
「露艦に撃沈せられし奈古丸端艇壱艘当海岸に漂着せり」

2月15日午前4時40分、小泊(こどまり)救難組合発電
「軍艦二艘小島沖合に見ゆ色不明」

2月13日、大間(おおま)救難所長報告
「本日の西暴風雪のため破壊したるボートの附属品浮輪、胴巻其他石油函等当地海岸に漂着候に付検するに、奈古浦丸と記載せるを以て船名録に就き調査候処、右は富山県新湊南島間作氏の所有船たることを認め、直に本人へ通知し、該物品は本職に於て保管せり
数多の保管物品中撃破せられたりと認むるものを摘記すれば
一 浮輪弐個の中壱個は大小弾痕二十壱個所他の
  壱個は三個所
二 長九尺幅七寸の板に砲弾の破片二個埋まれり
三 竪壱尺横六寸の白ペンキ塗り板片に弾痕五個
  所
以上の事実に依り敵艦の為め撃破せられたるの証拠十分なりと推測せられ候

6月17日午後9時2分、下関救難所発電
「常陸丸、佐渡丸十五日筑前沖ノ島附近に於て救助中」

6月18日午後1時00分、龍飛救難所発電
「午前八時三十分魯艦三隻北海道附近より現はれ西に進行せしを認めたり」

6月22日午前2時30分、若松救難所発電
「救助船を出せり収容なし」

7月20日午前10時48分、龍飛救難所発電
「敵艦三隻太平洋に向け当海峡を通過す」

7月20日午後9時00分、下風呂救難所発電
「午前4時敵艦三隻通過」

7月20日、下風呂救難所長報告
「本日午前六時三十分渡島国鹽首燈台と同国恵山岬との間に三本マスト三本煙突二艘、二本マスト弐本煙突一艘(内壱艘は四本煙突の如くなるも霞の為め判明ならず)都合三艘の軍艦を見たり。七時恵山岬東沖合に於て艦影を没す。砲声も弐回聞けり。塗色判明せざるも黒色ならん」

7月20日、下風呂救難所長報告
「正午より六時までの間に遠雷の如き数回の砲声を聞けり」

7月20日、大間救援所長報告
「本日午前四時青森方面より敵艦らしきもの三隻当大間沖合約四浬の所を通過し北海道室蘭方面に航行す
 一 三隻皆黒色にして二隻は壱万噸以上、壱隻は
八千噸以上と認む
 一 旗、霧の為め不明
 一 檣数各々三本
 一 煙突数弐隻は四本壱隻は弐本     」

7月21日、下風呂救難所長報告
「午前十一時三十分濃霧の霽れたる時、昨朝認めたりし同一方面に於て軍艦三隻と小型の戦艦壱隻を認む。間もなく再び艦影を没す」

7月24日、尻屋救難組合報告
「本日午前六次尻屋前浜に於て東京高島と羅馬字を以て記載せる浮輪の漂着したるを発見せり」

7月25日午後3時32分、布良救難所長発電
「当地漁船及他船の話によれば午前六時白浜沖に砲声を聞く」

7月25日午前11時28分、大島救難所長発電
「東南東五浬沖に煤煙を見る今注意中」

7月25日午後6時35分、大島救難所長発電
「午後一時東南東沖に向ひ煤煙を見失ふ尚警戒中」

7月27日午後3時50分、布良救難所長発電
「午後零時五分、一時四十五分東南方に当り砲声遥に聞ゆ」

7月27日、布良救難所長報告
「廿七日南強風海上霧あり。午前八時二本檣赤色煙筒黒色の大船東航せり。十一時頃千倉沖にて砲声聞ゆと聞けり。午後零時五分、一時四十五分東南東に当り遥に砲声を聞く。二時二十分二本檣黒色の煙筒壱本を有せる黒色の大船西行す。望楼より信号したるも遠距離又は霧の為に判明せざりしにや、之に応ぜずして去れり。四時三十分二本檣黒色の一本煙筒を有せる黒色の大船東航せり」

7月30日午後1時10分、下風呂救難所長発電
「露艦三隻此沖近く見ゆ」

7月30日午後4時20分、大間救難所長発電
「午後二時露艦三隻北より大間沖合を通過す」

7月30日午後9時55分、龍飛救難所長発電
「露艦三隻五時四十五分西南へ通過せり」

7月30日午後2時27分、布良救難所長報告
「南方に当り砲声頻りなり開戦ならむ」

7月30日、下風呂救難所長報告
「本日正午十二時尻屋岬沖合に於て艦影三隻を認む。午後一時下風呂七八浬沖合に於て黒色の軍艦にして三本檣四本煙筒二隻、二本煙筒一隻明瞭に見えたり。二時五十分には大間崎を過ぎ日本海に向ふ。折悪しく濃霧の為め艦影を没し又認むるを得ず」

7月30日、布良救難所長報告
「昨夜当所にては石井所長十一時迄詰切り小職は例に依り望楼附近に出張す。十時三十分、望楼にて第二艦隊へ電報送達の為め艀雇入れ依頼に付漁船を雇入れ、組長小谷安五郎外三名望楼長と共に乗船、二十四号水雷艇に送致す。午前二時再び望楼よりの依頼により、小鷹号に送致す。五時艦隊は東南方に向ひ航行し七時十五分水雷艇隊は湾内へ向け航行せり。零時三十分頃より砲声屡々聞 ゆ。二時水雷艇二隻南方に向け疾走、約二十分間を経て五隻の水雷艇続行せり。或は開戦せるならん。南方に方り砲声頻りなり。三時水雷艇は望楼と信号して湾内に向け航行し五時二十分四隻の軍艦当港沖合に見ゆ。之に依りて推考すれば、未だ開戦せざりしものの如し。曩に耳にしたる砲声は何の音なりしや疑はし。八時軍艦及水雷艇は今尚碇泊せり」


二、戦禍に因る海難救助

   常陸丸佐渡丸遭難救助報告(明治三七年六月壱七日下関救難所長報告)
筑前沖の島沖合に於て御用船常陸丸及佐渡丸は敵艦の為め撃沈せられたる報に接し、当所は救助夫長をして汽船鴻城丸及び西山竹ノ子島両支所救助夫をして救助船を遭難地に発航、捜索に従事せしめたる状況左の如し
一、十六日午前七時救助夫長は汽船鴻城丸にて西山竹ノ子島支所救助船二艘に
  て遭難地に向け捜索中、鴻城丸は漁船四艘ボート三艘を発見し取調たるに之の
  漁船は遭難地方に漁業中ボート或は漂流の遭難者を認めたるより之れを漁
  船に救助して下関港に護送する所なるにより総員百九十八名を受取、鴻城丸に
  て都合三回に当救難所に護送し西山竹ノ子島支所は白島沖合に於てボートを
  認め直に現場に漕ぎ付け十六名の遭難人を救助して当所に護送し当所に於て
  は遭難者に対し衣服及び食物等を給与し懇切に救護をなし殊に重軽傷者に対
  しては医師をして充分の手当を施さしめ後門司碇泊司令部に引渡したり。
  一時多数の遭難人を救護し大に混雑を極めたり
一、十七日午前七時、再び鴻城丸にて遭難地及其近海の捜索に出向せしめ西山竹の子
  島支所救助夫は同日筑前沖合に同じく捜索に出向せしも遭難人を認めざるに
  より午後帰途中六連島沖合御用船の西洋形帆船を曳き来るを認め直ちに現場
  に漕付けたり。之の御用船は日の丸にして西洋形帆船は遭難地に於て佐渡丸
  遭難人約五百名を救助して帰港中に出会日の丸曳船して六連島に入港せしも
  のなるにより救助員一同は遭難人保護の為め諸用に従事中鴻城丸は未だ帰所
  せず。十六日及十七日出役したる救助夫氏名左の通り(氏名略)

    大海戦後の救助状況詳説(明治三八年六月九日下関救難所長報告)
  五月二十七、八日の大海戦に付当所は彦島村各支所員を召集し五月二十九日より開戦[ママ]附近の漂流人及漂流物拾得の為め現場に出張せしめたる状況左の如し。
一、五月二十七日午後五時飛脚を以て各支所へ開戦に付救助出船の準備を伝令し
  同二十八日午前五時各支所は竹ノ子島に召集せし処田ノ首、福浦、西山、竹ノ子島
  の四支所応召午前八時に集合せり依て本職は救助方法及遭難の取扱上に付き其
  の心得方を訓示する処あり一同手分をなし現場近く救助に出向せしも何の漂
  流物に出会せす午後七時一同六連島に着翌早々竹ノ子島に集合を約し一同解散せり
一、五月二十九日田ノ首、福浦、西山、竹ノ子島の四個支所午前三時竹ノ子島に集合し
  茲に於て糧食其他の準備を整へ沖ノ島附近を捜索中午前九時沖合に於てボー
  ト一艘に尚一個の漂流物を認めたるに付一同勇を鼓し現場に漕ぎ出したるに
  其附近に山口県鶴江の漁船通過の際同じく之の漂流物を認め現場に漕ぎ付救
  助せり。其内本救助船漕ぎ付たるに豈図らんや其の救助せられし人物は露兵に
  して二名共シヤツ一枚のまゝ一名はボートに避難し一名は浮輪に頭部を差し入
  れ漂流し居たる趣に付鶴江漁船と共に之れを救助し応急の手当を施し竹ノ
  子島支所長山崎彌助方へ連れ帰り、介抱を加へ一方は当所に急報し来りしによ
  り本職は之れを受取方出張後門司碇泊場司令部へ引渡したり。其の露兵は「アド
  ミラルナヒモフ号」艦長海軍大佐ロジヲノフ其一名は同号乗組海軍大尉ロヂヲ
  ウイスキーの二名なり。之の二名は懇なる救助に感し幾度となく謝辞を述へた
  り。後尚現場近く救助に出向捜索の後午後九時頃一同特牛[こっとい]港に到着せり。
  翌三十日午前五時一同豊浦郡特牛港を発し西山竹ノ子島の両所を合して一組
  となし田ノ首福浦を合して一組とし各方面を変して捜索する状況左の如し。
一、西山竹ノ子島両所は二手に分け竹ノ子島は方向を見島方面に西山は沖ノ島
  面に執り共に凡そ八九浬の沖合に出て捜索したるも何等漂流物を発見せず然
  する内に午前十一時頃より東風激烈となり波濤狂湧し来りしに依り進路を転
  し引返すこととなし共に角島附近にて出会し辛ふして午後二時三十分特牛港
  に寄港せり。其れより西市分署長に付捜索方協議せし処漁船等の話による時は
  今日の処にては北方沖合三十浬に多少漂流物ありたれは現今漂流方向は北方
  余程沖合に至らんとの事に付尚翌三十一日も北方沖合に捜索に出つる考なり
  しも前日来の風波止ます依て一応帰村するの決心をなし午前八時特牛を出発
  し沿海捜索しつつ午後五時無事竹ノ子島に帰港一同解散せり。
一、田ノ首、福浦の両所は三十日午前五時竹ノ子島西山両所と共に特牛を発し角島
  方面に航行中東風強く波濤高く豊浦郡神玉村沖合五六浬沖合捜索中雨風益々
  激烈となり以て目的地に至る事を得ず一同引帰し午後六時福浦に帰港一同解
  散せり。
 右の状況にして海上沖合東風激烈怒濤を冒し数日捜索を継続せしめたるも漂流物に取当らざるは遺憾の極なれ共救助夫今回の精励職務に熱注せしは常陸佐渡丸事件の比にあらざる事を認む。本件に従事せし救助夫の氏名は後日賞与上申と共に報告可致候。此段状況及報告候也。
---------------

また同書『帝国水難救済会五十年史』には、続いて「戦時見張につき出願」としてつぎのように記されていることを紹介した。
---------------
       戦時見張につき出願
 同年三月四日、本会は露国との交戦を知るや、既設救難所二十四個所、支所二十七箇所、救難組合十個所に命して其見張を厳重にし海上の看守を怠ることなしと雖も軍国の事一に機密に属するを以て同しくは当局の認可を経て本会の見張か戦時中公の見張に任し猶海軍望楼の設備なき地に於ては本会は適宜望楼を新設して見張の完璧を期さんとす。以上の趣旨を逓信大臣に出願したり。
---------------


この講義を行っている4月21日に手元に筆写のあったつぎの『防長新聞』(山口町で発行)の記事を示した。
---------------
明治37年6月23日2面
「○水難救助部長の嘱託 下関水上警察署巡査部長加藤信太郎氏は帝国水難救済会下関救難所救助夫長の嘱託の辞令を一昨日総裁の宮殿下より拝受したり」

明治37年1月15日2面
「水難救済会の行賞 大日本水難救済会にては堀警察分署長、警部金子馨氏が佐波郡委員として大日本水難救済会事業の拡張を図り功労すこぶる顕著なりしを以て、之を表彰せん為め、特に終身正会員に列し、木杯壱個並に慰労金十五円を贈与し、又金子氏の指揮に従ひ会員の募集に努力したる同署員村田悟氏は金七円を、藤村常之進氏は金五円を、斎藤貞一氏は金四円を、岩崎佐一氏は金三円五十銭を、中原安次郎、綿貫誠四郎の両氏は各三円を、立野唯一氏は金二円五十銭を、久芳福松、石村力蔵の両氏は各金二円を、秦与一郎、品川道捨の両氏は各金一円五十銭を、何れも慰労として贈与し来りたる由」

明治38年2月23日2面
「○水難救済会監事の来関 帝国水難救済会監事村田寅太郎氏は、今度吉敷郡小郡町へ下関救護所支部設置に関し同村へ実地検分のため来りたる序を以て恰も同所より斎藤下関警察署所長の帰関に付き差廻はしたる水上署の鴻城丸に便乗して、去廿日下関市に来たり、救難事務を視察し同夜十時山鉄列車にて帰京したり」
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以上、第3回(2005年4月21日)。




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2005年07月05日

以下、第2回(2005年4月14日)。

水難救済会について、日露戦争時の読売新聞の記事を理解するために周辺の初歩的な調査をした。

まず、インターネットで検索すると、現在の社団法人 日本水難救済会のホームページが見つかる。そのなかで「事業の概要・沿革」をリソグラフで刷って配布した。
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1. 明治22年11月3日、金刀比羅宮宮司琴陵宥常氏の発意により讃岐琴平の地で大日本帝国水難救済会発会
2. 明治23年4月、有栖川宮威仁親王殿下を初代総裁にご推戴
3. 明治29年、本会事業の国家経営の建議案、貴・衆両院を通過、毎年補助金下付決まる
4. 明治31年11月、社団法人大日本帝国水難救済会と登記
5. 明治37年3月、社団法人帝国水難救済会と改称
6. 大正2年8月、東伏見宮依仁親王殿下を二代総裁にご推戴
------------
上記が日露戦争の時代に関係する沿革であるが、簡素過ぎてわかりづらい。

そこで、『日本水難救済会100年史』(社団法人日本水難救済会、1990年刊)から、「年表」のうち、創立から日露戦争海戦までの部分を配布した。つぎの通りである。
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明治22年
 05月08日  本会創立出願、香川県知事に提出
 11月03日  開会式、於金刀比羅宮
明治23年
 02月04日  有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)に総裁請願。地方官に役員嘱託
 04月16日  総裁請願御聴許
明治25年
 02月15日  琴陵宥常(ことおかひろつね)会長逝去
 06月29日  本部東京芝公園内に移転
明治26年
 08年21日  大阪支部設置
明治27年
 08月01日  日清戦争始まる
明治28年
 03月    本部事務所麹町へ移転
明治29年
 02月    本会事業を国家が経営すべきであると言う建議案国会提出
 03月    上記満場一致可決
 04月27日  民法公布
明治30年
 04月    逓信省補助金 2万円下付決定
 05月19日  伯爵吉井幸蔵氏本会会長就任
明治31年
 01月04日  救難所定の服装規定制定
 07月02日  第一回総会開催於総裁邸
 10月14日  民法法人となる
 12月13日  支所制度逓信大臣認可
明治32年
 03月29日  水難救護法公布
 12月20日  米国より救命砲寄贈
明治33年
 03月31日  逓信省補助金継続認可
 07月    月刊誌「海」発刊
 11月    本部事務所築地へ移転
明治34年
 02月    米国水難救済局長に彫刻贈与
 03月    月刊誌「海」を本会報告に代用
 05月    東京市、区に各委員部設置、各地に委員部設置
 11月06日 旗号変更(現行の原型)
 11月08日 有功章制定
明治35年
 02月19日 会長以外の服制決定
 05月18日 通常総会、於商船学校内
明治36年
 02月14日 サンフランシスコ総領事に委員長嘱託
 02月20日 本部事務所京橋区に移転
明治37年
 02月09日 戦時心得訓令
 02月10日 日露戦争始まる
---------------

また、『日本史総合年表』(吉川弘文館、2001年刊)につぎのような項目があることを示し、第1回の授業で紹介した『読売新聞』記事との対応関係を確認した。
---------------
1904年・明治37年
6月15日
 ロシアのウラジオストク艦隊、対馬海峡において陸軍輸送船常陸丸・和泉丸を撃沈、佐渡丸に砲撃
8月10日
 第2艦隊、韓国蔚山沖でウラジオストク艦隊と海戦、撃滅させる
1905年・明治38年
5月27日
連合艦隊、日本海でロシアのバルチック艦隊を撃滅(〜28日、日本海海戦、戦艦スワロフなど24隻を撃沈・捕獲、ロシア側戦死・捕虜約1万1000)。
---------------

聴講者が工学部の学生であることを考慮し、ポケット版『新版 日本史辞典』(角川書店、1996年)の「日露戦争」の項目と、同『日本史年表 第四版』(歴史学研究会編、岩波書店、2001年)の1903・明治36年〜1905・明治38年の部分を示し、日露戦争について最小限度の概観を与えた。

つづいて、『帝国水難救済会五十年史』(同、1939年刊)より「帝国水難救済会救難所配置図」(昭和14年11月現在)を示し、ウラジオストク艦隊が出現した地域の救護所の名を確認した。また、当該救護所の設置年代も同所より確認した。因みに、山口県「下関」(明治30年11月3日設置)、千葉県「布良」(明治36年3月25日設置)、青森県「大間」(明治35年2月1日設置)・「下風呂」(明治35年3月1日設置)などである。


最後に、同『五十年史』より、日露戦争に際して出された「戦時心得」の文言を確認した。即ち、以下の通り。但し、原文仮名は片仮名。
----------------
同年二月九日各救難所、救難支所、見張所、救難組合に対し左の戦時心得を訓令したり。
  戦時心得
一、本会救難所は戦時に於ても平時に於けるか如く施行すへし。
一、敵国商船遭難の場合は勿論戦闘力を失ひたる軍艦の遭難若くは艦員にし
 て生命を喪失せんとする場合は直ちに之を救助し市町村役場又は警察署
 に引き渡すへし。
三、救難所、救難支所、見張所、救難組合附近を通航する船舶の挙動に注意し若尋
 常に非すと認めたるときは直ちに最寄警察署に通知すへし。
四、敵国軍艦と認むへきものの通航を認めたる時は直に左の事項を本部へ電
報し同時に最寄警察署に通知すべし。
  一、往来の方向
  一、時刻
  一、船体の大小及塗色
  一、掲揚したる旗
  一、檣数
  一、煙突数
  一、その他目標とすへき重なるもの
五、天候その他重要事項は必ず日誌に記載すへし。
----------------

以上、第2回(2005年4月14日)。

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以下、第1回(2005年4月7日)。

「日露戦争」and「水難救済会」で検索した三つの読売新聞の記事を紹介し、その内容から読み取れる情報を確認する。

1. 1904年6月22日2面7段「水難救済会の活動 運送船常陸丸、佐渡丸の遭難事件」
2. 1904年7月26日2面6段「勝浦沖の砲声 東京湾汽船会社へ電報▽房州白浜沖の砲声 水難救済会本部へ電報」
3. 1904年11月26日2面6段「水難救済会総会へ寄付」
4. 1905年5月30日4面1段「水難救済会下関支部、大海戦の漂流死体及び付属物救護に従事」

「日露戦争」and「水難救済会」で検察すると上の四つがヒットする。そのうち、「4.」は一つ前の発言で紹介した日本海海戦後、下関の水難救済会が現場海域へ赴いたという短い記事である。「3.」はつぎの通りの記事で、調査目的には直接関係しない。
「●水難救済会総会へ寄附  明二十七日日比谷公園に於て開催する水難救済会総会の余興として浅草区須賀町玉屋(福田精吉)京橋区南新堀町玉屋(粟屋品三)の両名は花火を、本所区表町精行堂(倉地義勇)は来会者休憩所用として燐寸一万個を寄附したりと」


「1.」「2.」はロシアウラジオストク巡洋艦隊の日本沿岸への出現に関連するものである。


「1.」は、「●浦塩艦隊の報告(スクルイドロフ中条発電) ルーター電報に依るにスクルイドロフ海軍中将は六月十九日電信を以て左の旨を露国皇帝に上奏せり」という記事が掲載されている同じページの最下段に載ったもので全文はつぎのようになっている。

「●水難救済会の救助顛末  筑前沖の島沖合に於て御用船常陸丸及び佐渡丸は敵艦の為め撃沈せられたる報に接し、水難救済会下の関救難所は救助夫長をして汽船鴻城丸及西山、竹の子島支所救助夫をして救助船を遭難地に発航、捜索に従事せしめたる状況左の如し
▲十六日午前七時救助夫長は汽船鴻城丸にて西山、竹の子島支所救助船二艘を率ゐて遭難地に向け捜索中、鴻城丸は漁船四艘ボート三艘を発見し取調たるに、該漁船は遭難地方に漁業中ボート或は漂流者を認めたるより之れを漁船に救助し下の関港に護送する所なることを確め、総員百九十八名を受取、鴻城丸にて都合三回に当救難所に護送し、西山、竹の子島支所は白島沖合に於てボートを認め直に現場に漕付け十六名の遭難者を救助して当所に護送し、当所に於て遭難者に対し衣服及食物等を給与し懇切に救護をなし、殊に重軽傷者に対しては医師をして充分の手当を施さしめ、後、門司碇泊司令部に引渡したり。一時多数の遭難人を救護せし事とて、大に混雑を極めたり
▲十七日午前七時、再び鴻城丸にて遭難地及其近海の捜索に出向せしめ西山、竹の子島支所救助夫は同日筑前沖合に同じく捜索に出向せしも遭難人を認めざるにより、午後帰途中、六連島沖合御用船の西洋形帆船を曳き来るを認め、直に現場に漕付けたり。この御用船は日の丸にして帆船は遭難地に於て佐渡丸遭難人約五百名を救助して帰港中に出会、日の丸曳船して六連島に入港せしものなるにより、救助員一同は遭難人保護の為め諸用に従事中、鴻城丸は未だ帰所せず。右両日出役しをる救助夫は十六日五十名、十七日卅九名」

この記事は、水難救済会の下関救護所から、東京にある水難救済会本部への報告がそのまま記者発表され、東京で発行される読売新聞の紙面に掲載されたものと推測される。引用中「白島」など地名については、山口県西方海域の地図と彦島の地図を参照のこと。彦島の北西側、あるいは、彦島の南東側として、倍率を上げると関連する地名がすべて表示される。

「水難救済会下の関救難所は救助夫長」が現場の指揮者であり、「西山、竹の子島支所救助夫」が実働員であるらしい。「汽船鴻城丸」は、下関水上警察署の汽船である(『山口県警察史』上巻、535〜538頁、山口県警察本部、1978年)。「西山、竹の子島支所救助船」とは、八丁櫓の和船であることが、第8回(6月2日)で紹介する史料から推測できる。


「2.」は、ウラジオストック艦隊が津軽海峡を抜け、遠州灘沖まで来て反転した時の関連ニュースである。

「●白浜沖の砲声   昨日午後三時三十二分布良救難所発にて水難救済会本部に達したる電報左の如し。今帰りたる漁船の談に依れば今朝六時頃白浜沖にて砲声を聞けり(因に白浜は房州の東南岸にして布良より約一里半東にあり)」。館山市布良付近の地図を参照のこと。「布良」は「めら」と読む。


同紙面には複数筋の情報が集まっている。

(1) 「●日英商船の撃沈  昨朝八時半横浜へ入港したる英国船テンナン号の船長の報告によれば同船は一昨日午後五時伊豆大島附近に於て露艦の為め抑留され約一時間半の検査を受けたり。同時刻英国汽船ナイトコマンダー号は露艦の為めに撃沈され上等船員は捕虜となり、下等船員二十一名はテンナン号にて横浜へ送還せられたり....〔以下省略〕」
(2) 「●英船撃沈詳報(乗組員の直話)  露艦に撃沈されたるナイト、カンマンダー号乗組員中にて稍英語を解する印度人の頭なる某は昨朝入港のテナン号船長ヴラウン氏と共に横浜に上陸したるが、その語る所に依れば....〔以下省略〕」
(3) 「●露艦神子元島沖を通過す(七月廿五日午前大本営着伊豆南海岸発)  廿四日午後十一時半頃敵艦と認む可きもの三艘燈火を滅し神子元島沖約五海里の沖を東に向へるを漁船認めたり」、「●救助船帰る(同上)  昨日午後六時四十分救助船帰りたれ共砲撃されし商船に関しては何等の得る所なし」。伊豆半島と神子元島の位置関係。同、より広域
(4) 「●露艦の逆航  昨朝房州野島燈台より其筋へ達したる電報によれば、同燈台東南即ち勝浦沖合に当り砲声聞ゆとあり。要するに該露艦は一昨二十四日午前九時頃伊豆石室岬沖合にて商船撃沈後遠州灘なる天竜河沖合まで西行し、更に引返して昨朝勝浦方面へ逆航したるものならんと」
(5) 「●露艦の東行(廿五日午後大本営着電千葉県発)  廿五日午後一時廿分露艦三隻夷隅郡波花村沖合八浬に於て東に向ひて只今進航中なり」。JR浪花駅が赤い印
(6) 「●勝浦沖の砲声  昨日午前八時十分発勝浦支店より東京湾汽船会社に到着したる電報左の如し。今露艦二隻根中七浬沖非常の砲声船見る(因に記す根中は勝浦湾入口中央に在る中根と云へる一小嶼を云ふには非ざる乎)」
(7) 「●同上後報  昨日午後三時勝浦発にて東京湾汽船会社に左の電報ありたり。『露艦三隻根中沖七浬の処に於て汽船一隻を囲みつゝあり』。又午後五時三十五分勝浦発にて東京湾汽船会社へ左の電報ありたり。『露艦は捕獲船一隻を伴れ東に向つて去れり。第二房州丸は無事勝浦にあり』」

これにつづき八番目として出てきたのが、既に引用した布良救難所から救済会本部への報告電報の記事であった。


以上、第1回(2005年4月7日)。

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2005年04月26日

「明治の読売新聞」CD-ROMを、「日露戦争」で検索していると、「水難救済会下関支部、大海戦の漂流死体及び付属物救護に従事」とデータベースのタイトルが付された記事に出会った。以下のような文面である。

「●大海戦と救済会 一昨日来沖ノ島付近の海戦に就き漂流せる人体及付属物救護の為め、水難救済会下の関救護所にては昨朝未明各支部救助夫を召集し沿岸警戒に従事せしめたり」

この記事をハードコピーし、山口県立図書館に最初の調査に赴いたのは、2004年3月のことであった。その時の感触にもとづき、1年後に授業をしつつ調査を継続する計画を立てた。2005年度前期、大阪工業大学工学部「歴史学 I」(共通科目総合人間学系人文社会科目)で講義する概要をこれから、同時進行で記述していきたい。

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