「海上権力をめぐる海軍と徳富蘇峰」工・歴史学2005-2007

2006年10月26日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」 2006年10月26日(木)1,2時限

1. 先週までの内容を再確認
20061026先週までの内容の再確認
この講義は三つのモジュールに分かれる。前回までが第一。今回からしばらくが第二。最後に第一と第二を統合する。


2. 発信人と受信人の関係
20061026史料読解の4ポイント
史料を読み込むときのチェックポイントを埋めるかたちで、「台湾占領の意見書」を読み、その向こう側にある歴史上の出来事を再構成することに着手する。


配布物
1枚目(B4)=「台湾占領の意見書」(徳富猪一郎著『台湾遊記』、1929年、民友社、180〜186ページ)
2枚目(A4)=「台湾占領の意見書」現代語訳
3枚目(B4)=『朝日日本歴史人物事典』より「松方正義」「川上操六」「徳富蘇峰」「徳富一敬」「徳富蘆花」「伊藤博文」「陸奥宗光」「山県有朋」

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2006年10月19日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」 2006年10月19日(木)1,2時限

配布物(1枚)
公爵松方正義伝、徳富猪一郎編述、公爵松方正義伝記発行所、1935年7月、坤巻542〜547、552〜554ページ

先週配布した『蹇蹇録』最終章を読む。

20061019_講和条件についての意見分布

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2006年10月12日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」 2006年10月12日(木)1,2時限

配布物
1表=吉川弘文館『国史大辞典』より「対外硬派」「三国干渉」
1裏=同「蹇蹇録」の項、小学館『日本大百科全書』より「サンステファノ条約」「ベルリン会議」
2表裏=中央公論社『日本の名著35 陸奥宗光』より「蹇蹇録」第21章「露、独、仏三国の干渉(下)」

20061012_1先週先々週との関連
1935年に刊行された『蘇峰自伝』、1896年4月の「欧米周遊に就て江湖の諸友に告く」、『蹇蹇録』における陸奥宗光外務大臣、この三者を比較する。



20061012_2外交と世論の一般形
今週の月曜日、10月9日に北朝鮮が核実験を行なった以後の安倍内閣への弱腰だとのブログの世界の批判を引照し、世論と外交について一般的に説明。日清戦争は新聞が世論をつくり、影響力をもった事例。米国史における米西戦争と類似する。


20061012_3ポジショニングの移動
サッカーやラグビーの中継で聞く「ポジショニング」という概念を用い、日清戦争前後の時期の蘇峰は把握されるべき。国内政治に生息域をもった開戦1〜2カ月前までと、内外の情報流通に国民新聞社・民友社の存在意義を置くこととなった開戦1〜2カ月前以後。状況の変化を先読みし、能動的に果すべき社会的役割、立ち位置を変化させた。
[誤字訂正] 上の右下黄色字は「日清戦争開戦直前以後の役割」とあるべき。「以役」を「以後」と訂正。

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2006年10月05日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」 2006年10月5日(木)1,2時限

配布物
1表=「欧米周遊に就て江湖の諸友に告く 蘇峰生」(国民新聞1896・明治29年4月14日1面)
1裏=『蘇峰自伝』第十章「日清戦役時代と予」五「遼東半島視察中桂公と相識る」
2表=「欧米周遊に就て江湖の諸友に告く」現代語訳
2裏=岩波『日本史年表』より明治27〜29年

1裏は先週の話しの追加資料。「藩閥打破」から「白閥打破」への転換が日清戦争をきっかけとして起こったとする昭和初期の自画像。
下の板書は、1表=2表の内容を説明するため書いた。具体的には、来週の内容につづく。

20061005日清戦争前後の世界均勢

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2006年09月28日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」 2006年9月28日(木)1,2時限

配布物。
1=蘇峰自伝の前書き、目次、奥付
2=蘇峰自伝293〜299ページ、第十章「日清戦役時代の予」一「明治二十七八年役と予」(国民新聞と従軍記事、日清戦役と川上将軍)
3=蘇峰自伝639〜641ページ、第二十章「自らを解剖す(上)」二「反抗心と優越心」
番外=先週の板書メモ

主に、3枚目の内容をつぎのように板書にまとめた。1935(昭和10)年に刊行された『蘇峰自伝』に表現された、昭和初期の蘇峰の自己イメージの世界を知りえる。
20060928蘇峰自伝の自画像


日清戦争前の「藩閥打破」から、日清戦争後の「白閥打破」への変化。その背後には、幼少時にはじまり、生涯を一貫する「自分よりも権威や権力のある者へ反発心を抱く」という傾向があった。昭和初期の蘇峰は、そう主張する。

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2006年09月23日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」2006年9月21日 1,2時限
配布物
1(A4)表=梗概
1(A4)裏=シラバス
2(B4)表=「徳富一敬」「徳富蘇峰」「徳富蘆花」(朝日日本歴史人物事典)。「徳富蘇峰」(角川新版日本史辞典)。
2(B4)裏=山川・詳説日本史より近現代の略年表、日清戦争要図、日露戦争要図。「三国干渉」(角川甲板日本史辞典)。
3(B4)表裏=「年譜」(神島二郎編『徳富蘇峰集』巻末、筑摩書房近代日本思想大系8)

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【授業のねらい】
“台湾は、日清戦争を終結させるための下関講和条約により日本が領有し、その結果、中国本土とは別の歴史を歩むこととなった。それはいまから110年余り前、別の時代・別の場面・別の人々の世界の出来事であった。後期・歴史学IIでは、主題「日清戦争と台湾占領の起源−−徳富蘇峰研究から」を扱う。中心人物としては、民友社・国民新聞社のオーナー社長、兼、主筆記者であった徳富猪一郎(1863年〜1957年、蘇峰は号)に登場願う。後半生から晩年に若き明治の日々の若気の至りを語った蘇峰自身の回顧のトーンと、第二次大戦後の価値観を過去に投影した歴史研究が、奇妙に符合し、[日清戦争当時の蘇峰の行動の実相が]埋もれてしまった経緯を発掘する。研究プロセス自体を講義というかたちで提示するので、工学部の学生諸君には、研究の過程を観察し、自分の分野の同種の体験と対比するよい機会となるだろう。”

(1) 大正期・昭和期になってからの蘇峰の「遼東還付」言説の過去への投影を検討し、それを取り去った後に残る日清戦時の自己認識と行動の再構成。
(2) 日清戦争の「展開期」から「講和期」への転換点であった旅順要塞陥落直後の時点で、台湾占領の実行を政策化するプロセスに関与した蘇峰の姿を示す。
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上記下線部分を説明する板書。戦後の蘇峰研究の共通理解と、蘇峰自身が自伝などで語った把握は、日清戦争を境として蘇峰の生涯を二期区分で理解する点で共通する。
20060921徳富蘇峰の生涯二分



[註] 日清戦争の戦局を旅順占領を境として「展開期」「講和期」に区分するのは、『日清戦争の軍事戦略』における斎藤聖二さんの用語法。わたくし自身が以前から講義で使っていた表現だと「勝ち負けを争って戦闘がつづく前半」と「勝ち方の拡大と負け方の限定を争って戦闘がつづく後半」ということになる。但し、斎藤さんの「講和期」には休戦以後講和までも含まれる。

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2006年08月07日

以下の引用中「仄かに聞く所に拠れば」からわかる通り、蘇峰が日清戦争中に松方から聞いた内容が、その40年後に上梓された『公爵松方正義伝』に組み込まれている。文中「公」とあるのは松方正義である。また「更に一篇の意見書」とあるのは、前年1894年11月下旬の「台湾占領の意見書」(発信人:松方正義→受信人:川上操六)を踏まえて、それを一つ目の意見書、講和に際して「更に」二つ目の意見書を書いたという意味である。第一の意見書、すなわち「台湾占領の意見書」は、伝記では以下の文章の直前に全文引用されていた。

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 明治二十八年三月、我が征清大総督彰仁親王が、戦地に前進するに当り、我軍が澎湖島を占領するに至つたのは、公の意見の一端が実現されたものであつたが、講和談判の開始さるゝに及んで、公は更に一篇の意見書を草して、国家の大計を論じ、併せて講和条件に言及し、之を伊藤首相に贈り、其の注意を促した。記者の仄かに聞く所に拠れば、公の意見は、軍費賠償として十億円を要求すべく、土地の割譲は台湾、澎湖島に止むべしと云ふにありて、遼東半島の割譲には全然之に反対してゐた。
 遼東半島割譲論は、当時陸軍部内の輿論であつたので、公は伊藤に対して、反対の意見を述べ、其の注意を促したが、伊藤は陸軍の輿論を動すことは出来なかつた。一日、川上参謀次長、公を訪ひ諷諫の意を以て、之に謂て曰く、『聞く所に拠れば、世間には遼東割譲に反対するものある由なれども、遼東は大陸経営の為に之を割譲せしめねばならぬ』とて、遼東非割譲論に反対した。然るに、公は井上に対し、『遼東割譲の異議者は、言ふまでも無く、吾人である』と。公然其の所信を吐露したので、流石の川上も終に公と其の議論を闘はさずして去つたと云ふ。伊藤は公の説を聴き、意稍々動いたけれども、軍人の勢力に圧せられて、遼東割譲論を容れざるを得ざるに至つたものであつた。
 未だ幾くならず、三国干渉の問題起るや、公は舞子に赴き、伊藤と会して曰く、『卿等予の意見を容れず、徒に世論に迎合するを以て、終に今日の事あり。彼等をして干渉の口実を與へしめた。知らず卿等は如何にして善後を策せんとする乎』と。流石の伊藤も公に対して、其言ふ所を知らなかつたと云ふ。
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(公爵松方正義伝、徳富猪一郎編述、公爵松方正義伝記発行所、1935年7月、坤巻553〜554ページ)


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2006年08月06日

日清戦争の講和に際し、松方正義は「遼東半島割譲よりも台湾占領を優先すべし」と主張した。史料的には、徳富蘇峰が松方からの聞き取りに基づき記述した『公爵松方正義伝』(徳富猪一郎編述、1935年)であり、先行研究としては室山義正さんの言及がある。室山さんの近著の『松方正義---我に奇策あるに非ず、唯正直あるのみ』(ミネルヴァ日本評伝選、2005年6月)ではなくて、初著『近代日本の軍事と財政---海軍拡張をめぐる政策形成過程』(東京大学出版会、1984年12月)247ページに、註「21)」としてつぎのように記されている。

「日清戦時中も財政運営をめぐって松方と伊藤はことごとく対立したが、日清講和談判においてもまた然りである。松方は、初めより遼東半島割譲は列国の干渉を招くから絶対に不可であるとし、これに対して10億円の賠償金を要求すべきであると主張したが、伊藤・陸奥はこれを拒否する。しかし松方の予言通り三国干渉が起こると、松方は伊藤の失策を詰責し、これがまた両者の対立に油を注ぐことになった(『松方伝』坤巻、553-4頁参照)」

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2005年12月29日

徳富蘇峰を、原理主義ならぬ、便宜主義的と評したのは、米原謙氏であった。『徳富蘇峰---日本ナショナリズムの軌跡』(中公新書1711、2003年8月)において、大隈条約改正案に関する蘇峰の評価を、陸羯南のそれと対比しつつ、つぎのように述べている。

「みずからの原則に忠実で現実と妥協することが少なかったという意味で、羯南が原理主義的だったのに対して、蘇峰は便宜主義的で、必要と判断すれば妥協を辞さなかった。この便宜主義(オポチユニズム)が蘇峰の生涯にわたる長所であり短所でもあつた。ここで便宜主義と形容するのは、所与の状況でベターなものを選択するという態度をさす。この態度は政治的判断の不可避な一面であるが、長い視野でみれば状況に流されやすいという致命的な欠点がある。短期的な利害判断ではベターでも、長期的には無原則の妥協に終ってしまうことが多いからである。「オポチュニズム」という言葉が「日和見主義」という悪い語感をともなうのは、無原則と同義になりがちだからである。しかし便宜主義は、本来は一定の価値観にもとづく冷靜な利害計算による行為である。この観点から蘇峰の態度をみれば、大隈条約案を基本的に支持しながら、いくらか斜に構えた姿勢をとったことがわかる。反対論が圧倒的に強いなかで、正面からそれを支持してあえて不利な立場を取ることは、営業面からも熟慮を要した。『自伝』はそれを「負け戦」だったと回想しているが、そのような不利な状況でも、蘇峰は大隈案を擁護した。反対運動で保守的風潮が強まることを強く恐れていたからである」
(同書、71〜72ページ)

ここでは、便宜主義の背景に「藩閥打破」(『蘇峰自伝』1935年)について戦略的な判断をもった人物として、蘇峰は描かれている。
わたくしは、つぎに示す諸史料の文言にみるように、別の主題に関する側面=「白閥打破」(出典同じ)でも「便宜主義の背景に戦略的な判断をもった人物」として蘇峰を見ている。

「吾人は始終防御のみを説て、敢て一歩も国境を越えて外国に威武を伸ふることに説き及はす、思ふに世の壮士は或は之を不満とするものあらん、[中略]、吾人と雖他日事ある時に於ては、太平洋の水、中央亜細亜の野、欧州諸強国と抗衡して、日本の国旗を輝かすことを欲せさるにあらす、唯た其の実力なきを恐るゝのみ」
(『日本国防論』、1889年1月、末尾)

「何を以て台湾を取らんと欲する乎。之に拠つて九州より琉球、琉球より八重山、八重山より相聯絡して、更らに南洋に備へて以てマレー海峡を経て、来るものを制せんとする也」
(「削地の目的」、『国民新聞』1894年11月1日5面、社説欄)

「台湾は如何なる場合にも、之を我海図の中より逸せしむべからず。況んや之を清国以外の国に有せしむべからず。是れ独り清国を控制するがためのみにあらず。マレー半島の海峡を経て、東亜に入り来る勢力を控制せんがため也。国家百年の大計は、北を守つて南を略するにあり。而して台湾占領は、実に其第一着歩なりと知らず耶」
(「台湾を略するの時来る」、『国民新聞』1894年11月5日2面、社説欄)

「他日、吾人にして、若し欧州と事を構ゆるの時ありとせよ。彼等は必らず海峡殖民地の内に、一根拠を占め、凡べての軍需軍隊を、一旦此に集合して、以て漸く我に及ばん。而して其地は台湾を外にして、また何くにかあらん。台湾を我に納むるは、即ち敵国の根拠を奪ふて、更らに我根拠となすもの也」
(「何を以て欧洲の勢力を支へん」、『国民新聞』1894年11月11日5面、社説欄)

この場合の欧州勢力としては、短期的には、フランス・ドイツ・ロシアが想定される。仏・独・露とは三国干渉の当事国である。シベリア鉄道開通以前のこの時代には、ロシアもマラッカ海峡経由で沿海州への物資輸送を行っていたから、当該諸国に含まれる。また、米国のハワイ併合・フィリピン領有が未だ将来のことに属する日清戦争時には、米国は視野の外に置かれていることがわかる。

しかしながら同時に、「海峡植民地」とは英領シンガポールであるから、遠い未来のこととしては対英戦争もありえると考えていたことを窺わせる。徳富蘇峰は、日清戦争の時点で、「国家百年の大計」の射程としてはこのようなイメージの世界をもっていた。



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これは、日露戦争中のことを言っているのではない。その10年前の日清戦争中も、蘇峰が自己の社会的ポジショニングとして考えていたのはそういうことではなかったのか。本講義でいちばん言いたかったことの根底には、こうした把握がある。

これは一見、古くは、梶田明宏氏の諸論考、最近では、小宮一夫氏の著作『条約改正と国内政治』が提供するイメージとまっこうから対立するように見える。しかし、わたくしの把握と両氏の研究とは、内容的に両立すると考える。

殊に、小宮一夫氏の最近の論考「党首なき政党の模索---立憲革新党論」(『日本立憲政治の形成と変質』、吉川弘文館、2005年2月)は、先の著書が日清開戦前を扱っていたのに対して、日清開戦後を扱っており、そこに登場する蘇峰については、わたくしの解釈が可能なのではないかとの思いを強くしている。


上述の経緯を、説明する準備作業として、本講義を構成した。

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第1回から第6回まではシラバス通り、以後は、シラバスとは異なり、試行錯誤しつつ講義を組み立てた。その各回のタイトルはつぎの通り。

第1回(9月22日)/台湾占領の意見書(その1)---どのような性格の史料か
第2回(9月29日)/台湾占領の意見書(その2)---1894年11月、日本の優勢が確定した時
第3回(10月6日)/台湾占領の意見書(その3)---政策決定への影響

第4回(10月13日)/三国干渉(その1)---公爵松方正義伝が示す遼東割譲要求への賛否
第5回(10月20日)/三国干渉(その2)---蹇蹇録に見る、外務大臣陸奥宗光の立場
第6回(10月27日)/三国干渉(その3)---徳富蘇峰の遼東還付原因論

(学園祭休講)

第7回(11月10日)/『蘇峰自伝』を読む
第8回(11月17日)/『時務一家言』を読む

第9回(11月24日)/先行研究の検討(その1)---澤田次郎『近代日本人のアメリカ観』、小宮一夫『条約改正と国内政治』
第10回(12月1日)/先行研究の検討(その2)---斎藤聖二『日清戦争の軍事戦略』

第11回(12月8日)/1890年代前後の徳富蘇峰(その1)---「台湾占領の意見書」の背景とその後、国家将来構想の変遷
第12回(12月15日)/1890年代前後の徳富蘇峰(その2)---「台湾占領の意見書」の背景とその後、組織的基盤と政治への関与の変遷

第13回(12月22日)/日清戦争中の『国民新聞』を読む
第14回(1月12日)/全体のまとめ [予定]

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2005年06月22日

このカテゴリーは、2005年度後期に工学部共通科目「歴史学供(総合人間学系人文社会科目)で講義する内容に対応する。夏休み頃から徐々に書き始める。

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