「英国外交官の見た幕末維新」日本の伝統と文化 2005-2017

2006年10月14日

日本の伝統と文化 2006年10月11日(水) 2時限

先週10月4日=第3回は、受講生全員がカゼで欠席したので、授業は進まず。今回より追加履修登録した2人が加わる。

第1章「日本への赴任」の途中まで読み進める。



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2006年09月27日

日本の伝統と文化 2006年9月27日(水) 2時限

先週はクラス分けだったので、今週から実質の授業開始。

テキストとしている『英国外交官の見た幕末維新』について、基本的な事項の確認。
著者のミットフォードの生年・没年。ともに幕末の日本を経験したアーネスト・サトウの生年・没年の確認。二人がそれぞれの回顧録を書いた前後関係。

巻頭の萩原延寿「ミットフォードとサトウ」に出てくる "「華やかなアマ」と「地道なプロ」の趣があったこの二人は、社会的出身や性格の相違がかえって幸いしたのか、五十年前に日本で結んだ親交を最後まで持ちつづけた"との文章を説明するため、つぎの本を用いた。
トレヴァー・レゲット著『紳士道と武士道: コモンセンスの思想、サムライの伝統』(麗澤大学出版会、2003年)、100ページ以下「紳士とプロのちがい」の項。

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2006年06月25日

出来のよかったレポートは保存していた。調査・発表対象ごとにフォールダーを作り、分類している。この科目の由来は以下の通り。

大学設置基準の大綱化を受けたカリキュラム改変が大阪工業大学工学部であったのは、1994年。改変に際して、「日本の伝統と文化」という3〜4年次対象の少人数講義・ゼミが始まった。当初は4単位の通年科目であったが、1998年度より、前期「日本の伝統と文化機(2単位)・後期「日本の伝統と文化供(2単位)となった。わたくしが担当した学期とテキストを列記する。

(1) 1996前 期、「蹇蹇録」(陸奥宗光)・「欧米回覧実記」(久米邦武)。シラバスにはこの2冊の名が挙がっている。実際には「蹇蹇録」だけをやったと記憶する。
(2) 1997前 期、「危機の構造」(小室直樹)
(3) 1998前 期、同上。
(4) 1999前 期、前年まで用いていたテキスト(中公文庫「危機の構造」)が品切れとなったので、急遽、徳富蘇峰『近世日本国民史 遣米使節と露英対決篇』(講談社学術文庫)を用いることとなった。シラバスには「危機の構造」を用いると記載されている。
(5) 2000前後期、「英国外交官の見た幕末維新---リーズデイル卿回想録」。シラバスには「近世日本国民史」(徳富蘇峰)を指定してあるが、工学部の学生にはことばの面で難しいところがあると考え、現行のテキストを初めて用いた。
(6) 2001前後期、同上。
(7) 2002 後期、同上。
(8) 2003前後期、同上。
(9) 2004前後期、同上。
(10)2005 後期、同上。
(11)2006前後期、同上。

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2006年06月10日

大阪歴史博物館第22回特別展、水都遊覧"大阪は実に橋の都なり水の都なり"を見学した。幕末以後の大阪の空間的なイメージを得るために、なにかビジュアルな情報に出会えるのではないかと期待して出掛けた。特別展の冊子をミュージアムショップで買おうかと探してみたが、そういうものは作成していないようである。入場者数との兼ね合いで、それまでは無理なのかも知れない。代わりに、『大正十三年 大阪市パノラマ地図[復刻版]』を購入してきた。


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2006年06月07日

1867年8月12日(月)、ミットフォードとサトウが金沢の城下に着いた時の経験。
「しばらくするうちに、我々が医療や薬を必要とするかもしれない場合に備えて、藩公の侍医数名が現れた。/当時は、まだ漢方の医学が全盛の頃で、なかでも鍼療法や灸治療が痛いけれどよく効くとされていたのだが、我々としては、その治療を、あえて受ける覚悟はできていなかった。そこで我々は、謝意を表し、治療を受けない口実として健康には全く心配ないと申し立てた」
(第3章「加賀から大坂への冒険旅行」75頁)

「八月十四日の朝、再来を請う人々の声に送られて、名残を惜しみながら別れを告げ、再び旅の途についた。宿の主人は自分の義父がやっている薬屋に立ち寄って、あらゆる病気に効く万能薬で、硝石と麝香[じゃこう]から作った紫雪[しせつ]という素晴らしい薬を買うように勧めた」
(同上、78頁)



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「騎馬の護衛は二人だけで、剣を抜いてパークス公使の両側を守った。サトウと私は彼のすぐ後に続いた。抜かれた剣は非常に重大な意味があり、京都の通りで人々を驚かす結果になったことを特に言っておきたい。なぜなら、日本では人を切る時以外は決して剣を抜くことはないので、抜かれた剣を見ることは、私の本の読者にはまず理解できない意味を持つことになるのである」
(第6章「天皇の謁見」172頁)

「乱暴者は外国人を憎々しげににらみつけ、一刀のもとに肩から腰まで切り下げようと、その鋭く重い刀を抜く素振りを時には見せたりするのである。その一撃のことは、我々もよく承知していたので、もし一インチでも刀が抜かれたら、ただちに暴漢を撃ち殺せと教えられていた」
(第2章「将軍との会見」48頁)

「我々が日本との交際を始めた初期の頃の生活の状況を、今日では理解することが難しいであろう。ほとんど四年の間、書類を書く時は必ず机の上にピストルを置いておく習慣であったし、寝室に入る時は手もとにスペンサー銃と銃剣を必ず置いていたのである」
(同上、49頁)


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第2章「将軍との会見」60、62頁に、1867年5月2日の大坂城での将軍徳川慶喜と英国公使の会見の叙述がある。
「今まで、どこの国でも私の見た宮廷服は美しさを競うものであったが、この国ではそれは全く異様な服装で、それを着ると、きわめて不様に足を引きずって歩かざるをえないようになる」

また、第6章「天皇の謁見」172〜173頁に、御所についての記述がある。
「天子様の宮殿は「東洋的な華麗さ」という言葉がよく使われるように、外観を派手に飾り立てることの好きな普通の東洋の有力者の屋敷と違って、気高く簡素な造りが特徴である。特に防備は施されていなかったが、灰色の瓦をのせた白塗りの壁で取り囲まれていた。そこには九つの門があり、前述したように、ある大名の軍隊がそれぞれ警備の任に当たっていた。それは不自然なほど簡素であったが、御所はそれ自体がもつ威厳を備えていた。場所の節約は常にみすぼらしい結果を生むものだが、ここではそれが全くなかった。中庭は広々として美しい白砂が最新の注意をもって整然と敷き詰めてあった。建物は普通の形だったが、全く飾りがなく、大きく広々として威厳に満ち、それが大きい特徴になっていた」

北京の紫禁城や、ソウルの景福宮を見学したあとで、京都御所の一般公開に出掛けると、いまでも同じような感想を実感することができる。

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50頁1〜2行目に、大坂城は、「城壁の周囲には濠がめぐらしてあり、淀川と柏原川の二本の川で守られていた」とある。淀川は旧淀川=大川であろうが、現在「柏原川」という川は、大阪城周辺にはない。

原文では、"Walls moated by two rivers, the Yodo and the Kashiwari."である。ミットフォードやアーネスト・サトウの回顧録には、固有名詞の微妙な聞き違いが頻出するから、「柏原」を"Kashiwari"とすることもあり得よう。

大阪城の直ぐ東側の現在環状線の線路のある近くを、猫間川という川が南から北へ流れていたことは知られている。1957年に埋め立てられて完全に消滅してしまったという。→「猫間川覚え書き」。ごく小さい川であり、濠としての機能は果さなかったので、これではない。

とすると、大坂城の東北側を占める平野川である可能性が大きい。平野川を上下する川舟を「柏原舟」と呼んだので、川自体も異称として「柏原川」と呼ばれていても不思議ではない。また、上記「猫間川覚え書き」末尾に掲載の地図からも幕末の平野川が濠として機能するかたちになっていたことが確認できる。


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きょうは、前期科目「日本の伝統と文化機彖14週のうち第8週。講義形式で各章の内容を説明してきたことの理解度合いを見るため、小テストを論述式で行った。問題は以下の通り。

1.「華やかなアマ」と「地道なプロ」(4頁終りから2行目)とは、それぞれ、ミットフォードとサトウを指している。「社会的出身や性格の相違」とは具体的にどのようなことなのか、対比的に述べよ。

2.「パークス公使とフランスのレオン・ロッシュ公使の二人の間の支配権争い」(17頁8〜9行目)とは、どのようなことか、簡単に説明せよ。また、どちらが最終的に勝ったのか。

3.第二章「将軍との会見」冒頭(43頁2行目)に、「どちらの側」という表現がある。またこれは、45頁11行目「相反目する二派」と同じ内容であろう。第二章の叙述からわかる範囲で、この両派についてその構成要素(藩や個人名)を整理して表として書き抜け。
     〔大君側〕
     〔幕府に不満を持った大名たち〕

4.第三章「加賀から大坂への冒険旅行」において、「公使が望んでいた情報」(85頁終りから2〜3行目)とはどのようなことか、箇条書きにせよ。また、探索の結果、ミットフォードは、どのような報告を公使に対してしたと考えられるか。

5.徳川慶喜(57頁)、山内容堂(139〜152頁)、東久世通禧・伊達宗城(192〜193頁)などの人物描写のなかに、ミットフォード自身の出自がどのように反映されているだろうか。考えるところを述べよ。

6.本書が、20世紀初頭に書かれたことを推測させる部分を少なくとも一ヶ所、指摘せよ。また、なぜその部分から、そのように推測することができるのかを説明せよ。


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2006年04月12日

本日2時限、日本の伝統と文化気梁1回はクラス分けだった。この科目のシラバスはつぎの通り。わたくしのクラスは20名の履修となった。少し人数が多いので、発表を廻すのが大変。調査・発表の督促、連絡用に学生のメールアドレスを集めた。


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2005年08月12日

九州工業大学教授で、アーネストサトウ研究を主要研究テーマとしている方。
大学のウェッブlulu.comというインターネット書店内のページ

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2005年06月22日

このカテゴリーは、2005年度後期に工学部共通科目「日本の伝統と文化供(総合人間学系人文社会科目、3〜4年次対象)で行う少人数ゼミに対応します。講談社学術文庫に収録されている A.B.ミットフォード著『英国外交官の見た幕末維新』を講読します。その関連の内容を夏以降、書いて行きます。

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