<徳富蘇峰>

2013年09月25日

戦略研究学会『戦略研究 13 特集・東アジア戦略の新視点』(2013年8月刊)に、書評・澤田次郎著『徳富蘇峰とアメリカ』を掲載した。昨年10月末の締切りに投稿したものが、今回書店に並んだ。

rshibasaki at 20:50コメント(0)トラックバック(0) 

2011年11月08日

国家将来像と陸海軍備をめぐる海軍と徳富蘇峰
(Rivalry between TOKUTOMI Soho and Imperial Japanese Navy on Ground Strategy of Military Buildup)
大阪工業大学紀要 人文社会篇56巻1号



rshibasaki at 21:47コメント(0)トラックバック(0) 

2010年08月11日

昨日の読売新聞朝刊に、高野静子著『蘇峰への手紙』藤原書店の新刊広告が載っていた。ジュンク堂に行き確かめると、史料集としての翻刻ではなく、副題「中江兆民から松岡洋右まで」にあるように、蘇峰宛書翰についての評論集。肝付兼行からの書翰7通について言及があるわけではない。






rshibasaki at 19:53コメント(0)トラックバック(0) 

2010年03月25日

福島に来て、通覧した。分量は多くない。そのなかで中塚明さんが指摘した参謀本部内での1894年8月の議論を示す記述が残ったのは、僥倖といえそう(中塚明『歴史の偽造をただす:戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』高文研、1997年、166〜168頁に引用されている記述)。

当時のメディアの動向=報道の流れと、参謀本部内での検討との相互関係を想定してみるとなにか見えてくるかも知れない。台湾占領論を唱えたグループが世論喚起のためにメディアに台湾占領をリークしたなどという可能性を想定している。

*

[2010年3月30日(火)追記]
『軍事史学』45-4(180)が届いた。長谷川怜「福島県立図書館佐藤文庫」(軍事史関係史料館探訪54)が掲載されている。





rshibasaki at 19:43コメント(0)トラックバック(1) 

2010年03月02日

2月27日(土)、お茶の水図書館にて開催された第6回成簣堂文庫セミナーにおいて、澤田次郎「徳富蘇峰の見たイギリス」を聴講してきた。その際質問で言及した日清戦争中の国民新聞の社説の文言は、つぎのものである。澤田さんの論旨を補強する材料になりそうである。

-------------------------------
台湾を略するの時来る
台湾は如何なる場合にも、之を我が海図の中より逸せしむべからず。況んや之を清国以外の国に有せしむべからず。是れ独り清国を控制するがためのみにあらず。マレー半島の海峡を経て、東亜に入り来る勢力を控制せんがため也。
-------------------------------
(国民新聞1894年11月5日2面)

-------------------------------
何を以て欧州の勢力を支へん
他日、吾人にして、若し欧洲と事を構ゆるの時ありとせよ。凡ての軍需軍隊を、一旦此に集合して、以て漸く我に及ばん。而して其地は台湾を外にして、また何くにかあらん。台湾を我に収むるは、即ち敵国の根拠を奪ふて、更らに我が根拠となすもの也。
-------------------------------
(国民新聞1894年11月11日5面)

rshibasaki at 18:43コメント(0)トラックバック(0) 

2008年05月28日

1922年(大正11年)1月13日に没した肝付兼行について、翌月に発行された大日本水産会の機関誌『水産界』473号に、「肝付男爵薨去」という記事が掲載されている。これによると、1月16日に肝付邸で執り行われた告別式の出席者のなかに、徳富猪一郎の名が残る。

『財団法人徳富蘇峰記念塩崎財団 徳富蘇峰宛書簡目録』を見ると、明治期が6通、大正期が1通の書翰が現存する。二人はどういう付き合いであったのか、確認してみる必要がある。


rshibasaki at 20:47コメント(0)トラックバック(0) 

2008年05月07日

中塚明著『歴史の偽造をただす―戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」
高文研、1997年刊

福島県立図書館の佐藤文庫のなかに残る『明治廿七八年日清戦史』の草稿を読み込んで公刊された同戦史との内容の差を考察した著作である。

166〜168ページで、草案中「第七十二章 南方作戦に関する大本営の決心及びその兵力」を紹介する。将来の対英戦争を念頭に置き、そのための準備として台湾占領を日清戦争中に実行する発想が大本営にはあったという。

この認識は、1894年後半『国民新聞』の社説欄に見られる論調と酷似する。川上操六参謀次長から、徳富蘇峰はブリーフィングを受け、自社の言説について自信を深めていたという解釈が可能である。

参考: 2005年12月25日のエントリー「徳富蘇峰における便宜主義と原理主義

rshibasaki at 12:16コメント(0)トラックバック(0) 

2007年05月01日

呑象[ガンショウ]高島嘉右衛門が、三国干渉を予言したとはこのことであろうか。
----------------------
本日某坐上に於て、高島呑象翁に面会致し候。翁は神易の解釈を持し、当局者の参考にもと存じ、百里の道を遥るばると当地に被参候。翁の説によれば、易の本文に、『速[マネ]かざるの客三人あり、敬して之を納る、吉』と有之。右の御客様は、申す迄もなく仲裁者にして、我邦は無下に之を排斥せず、能々[ヨクヨク]之を聴納する方然る可しとの儀に有之候由に承り及び候。
小生の不肖なる、神易の力を藉らざるも、此後速かざるの御客様が、二人や三人や来ることは、覚悟の前なれども、之を聴納するが吉とは、余り合点の行かぬ事に候。
兎角我々は、最初の大決心を貫徹するの外無之候。之を貫徹して、而して列国の感情を害せざるは、最上の手際に御座候。我々之を我が当局者に望むものに候。所謂る『敬して之を納る』とは、外交政略上の儀式に候。必らずしも一々他の申分を聴入る儀には無之候。此には裏もあり表もあることと存じ候。我々は当局者が、決して決して此の点に就て、ぬかりなきことを信ぜんと欲するものに候。
----------------------
(国民新聞1441号、1894年10月28日、1面、「大本営地に於ける見聞一斑 十月廿四日午後五時 広島に於て 蘇峰生」)


rshibasaki at 12:38コメント(0)トラックバック(0) 

2006年05月05日

日清戦争が終って初めての新年を迎えた明治29年元旦の国民新聞社説欄。国民新聞創刊以来の歴史のなかに、日清戦争への社の対応を位置づけ回顧する。
--------------------------------------
将来に於ける国民新聞の位置

新年を迎へて、先づ祈るは、国運の長久と、国民の慶福となり。特に我が『国民新聞』読者諸君の平和と健全とは、吾人が中心希ふて、禁ずる能はざる所ろ也。
我が『国民新聞』と、読者諸君との関係は、単に尋常一様営業上の関係のみならず。彼等の中には、或は初号より愛読せらるゝ人士も尠からず。或は知己となり、同志となり、社友となり、直接間接を論ぜず。吾人に向て精神的幇助を与へらるゝの人士、亦た多からずとせず。要するに、『国民新聞』は、幾千百の、否な幾万余の、読者諸君の任意的擁護に拠りて、今日迄生存し、而して今日の如き発達を来したる也。吾人は此の天涯地角に点在する、未知の社友諸君に向て、少しく吾人前途の意見を開陳するの自由を得んと欲す。
言少しく述懐めけども、将来を語らんと欲せば、過去の事歴に溯るの必要なくんばあらず。抑も『国民新聞』発行の計画は、明治二十二年の晩秋に決し。其の初号は明治二十三年二月一日に発行せられたりき。何故に発行したるかは、今更ら事々敷言ふ迄もなく、吾人聊か筆墨の外、主張せんと欲する所ありたれば也。別言すれば、日本国民として、我が国民的生活に、多少の寄与せんと欲する所ありたれば也。
当時東京の文壇には、幾多の新聞雑誌対峙し、到底吾人が一頭地を出す可き余隙を見出す能はざるを以て。先づ倫敦に於ける毎夕新聞的の趣向を採り。寧ろ粗なるも鋭ならざる可からず、寧ろ拙なるも速ならざる可らず、寧ろ雑なるも新ならざる可らずと為し。遂に大新聞たらず、小新聞たらざる一種の特色ある新聞を作り。精神的に於ては、最上社会たり、資産上に於ては、中等社会たる、家庭の間に読者を求めんと欲したりき。
吾人が目的の果して達したるや否やは、暫らく別問題として。時は議会開設に瀕する明治二十三年なり、人は革新を鼓吹する青年気鋭の仲間なり、世は風雲変化、龍蛇出没の舞台なり。されば発行以来未だ半年を経過せざるに、『国民新聞』は、殆んど政治新聞となれり。総ての事物を記し、而して政治を其の一部として記すべかりし『国民新聞』は、政治を記し、而して総ての事物を、その一部として記するに到りぬ。
当時在野党の大活動たる、進歩党合同は、国民新聞その唯一の主唱者たらざるも、主唱者の一人、恐らくは最も熱心なる主唱者の一人たることは、読者諸君の記臆する所ならむ。
斯くて第一議会に際し、硬派の熱心なる味方となり、第二議会に際しては、民党聨合の鼓吹者となり。第三議会に際しては、撰挙干渉大弾劾の急先鋒となり。遂ひに松方内閣倒れて、伊藤内閣を見るに及びぬ。
吾人は此の戦闘の経過に就て、自から是非の評論を挿まざる可し。但だ吾人が意見は、多少政治的原動力となり、『国民新聞』は、眇々の力を以て、多少政党を動したれども、未だ如何なる政党よりも動かされず、横行濶歩して来たりたることは、吾人の聊か天下に公言して、愧づるなき所ろ也。
『国民新聞』は、政治新聞となりしと同時に、亦た文学新聞たるの評判を来たしぬ。蓋し我が社中には、各種の少壮者群がり、亦た社友として、幾多の学士論客を有す。故に各その所見を、紙上に掲載するに於ては、諷して詩歌となり、判して批評となり、凝りて論文となり、舒べて小説となる。其他幾多の雑著片編となる、固より怪しむに足らず。唯だ吾人が本領に就ては、序でながら一言せざる可らず。吾人は文学をば、技芸となし、技芸その物をば終極の目的となす意見に反対す。吾人は文学とは、善美の思想をば、善美の言を以て、謂ひ顕はしたるものと為す。而して此の文学や、必らず世道人心に補ひある可きものと為す。故に如何なる華言麗辞も、其の虚誕妄浮にして、人事に関渉せず。社会に不健全なる感化を与ふるものは、断々乎として之を排斥したりき。
扨も『国民新聞』は、政治、文学の二大潮勢に乗じて、社会に奮戦勇闘しぬ。而して政治上に於ては、一方には反動的保守党、尚ほ其の跋扈を逞ふし。他方には自由党なるもの、初心を失墜し、民党同志打を為し、款を藩閥政府に通じ。事躰甚だ容易ならざりき。我が『国民新聞』が、如何に此際に於て、迫害を被りたる乎、虐遇を被りたる乎、而して敢て畏避せずして、抗戦せし乎は、寧ろ他日政史の資料たらん。若しそれ文学上に於ては、一方には自由思想を圧迫せんとしたる頑固党。他方には厭世文学、凡神文学、恋愛文学、竹林文学、学究文学、幇間文学に反対して挑戦したるかは、是亦た我邦思想変遷の問題として、敢て今日に詳論するの必要を見ず。
『国民新聞』は、時と与に鈍歩ながらも、幾多の進境を開拓したり。甞て大ならず、小ならざるを目的としたる『国民新聞』は、今や中ならず、小ならざる、即ち一個の大新聞たる位地に達しぬ。是れ吾人に於ては、我が読者諸君に、最も多く感謝す可き一事と信ず。
吾人と伊藤内閣の関係は、今更ら謂ふ迄もなし。伊藤内閣の憲法擁護を声言して、松方内閣零落の上に立つや、吾人は多少の待望を有し、有したるが故に寛裕を以て、之を遇したり。然るに事実は全く逆行しぬ。吾人の待望は水泡に帰しぬ。
吾人は内政に於て、政府を国民的基礎の上に建つるを欲すると同時に、外交に於ては、国民的勢力を、外に膨脹せしむるを期す。要するに吾人は維新革新の目的を完成し、内には公議政躰を快復し、外には開国進取の大規模を達せんことを期す。されば国民的大同盟なるもの、責任内閣、自主的外交の二大政綱の下に出で来るや。吾人は実に其の発起者の一人にてありき。特に此の二大政綱を、幾多の問題中より撰択し。之を聨絡し、之を調和し、此れに適当にして正確なる定義を与へ、所謂る人権と国権とを併立せしめたる、新光輝の下に国権論を置き、国家の大問題を、保守党専売より〓〔「てへん」に「珍」の右を旁とする、「シン」と音読〕らして、之を国民の手中に安置したるか如きは、公平なる読者諸君は、或は少しく吾人の微志を諒する所ならむ。斯る間もなく、黒雲は朝鮮半島の天に重くなりぬ。吾人は当初よりして熱心なる主戦論者にてありき。少くとも明治二十七年五月下旬には、吾人が日韓清三国に関する終局の意見は、既に確定したりき。吾人敢て先見の明に誇らんと欲せず、発論者たるの誉を僣せんと欲せず。但だ吾人が主戦論は、形勢を観望して、附和雷同したるにあらず。又た世論より強制せられ、止むを得ずして戦ふたる如き政治家と同一ならざるを標識せらるゝを得ば足れり。吾人が何故に主戦論を主張したる乎は、今更ら縷述する程の面倒なる問題にあらず。唯吾人は之を以て国民的大活動の好機と信じ、国民的大膨脹の着歩と信じ、国家興隆の大動機と信じたるが故のみ。
されば吾人は大島旅団の宇品より朝鮮に赴くに際して、夙に一の決心をなしぬ。曰く今回の出来事は、国家存亡興廃の一大事なり。我社独り隆盛に赴きたりとて、国家の廃亡する時には、何かはせむ。若し国家隆盛ならんか、我社は如何なる運命に遭遇するも、到底隆盛なるに相違なし。されば国家の運命に、我社の運命を托するは、独り国民報国の義務を竭すのみならず、亦た事実上の大打算に於ても、最も安全なる方便なりと。故に征清の役に際しては、平生倹素を本位としたる我社も、其の平生に比して、頗る大胆痛快なる運動をなしぬ。吾人は敢て全幅の力を傾け尽したりと云はず。然れども半心を以て、之に処せざりしは、読者諸君の必らず首肯する所ならむ。惟ふに之れが為めに社員を戦地に特派し、若しくは社友に特別通信を委托したるもの、其の前後を通計すれば、殆んど三十名に垂んとす。若しそれ資金を消費したるもの、我社の経済に於て、決して軽々たらざるは、謂ふ迄もなし。吾人は其の結果に就て、毫髪遺憾なしと思はざれども、殆んど吾人が有する実力の大半を竭したるの一事は、聊か平生の志望に孤負せざりしを明言するに憚からず。
果然吾人の予測は、吾人を欺かざりき。吾人が区々の心事は、之れが為めに天下に証明せられ、社会に発揮せられたり。吾人は之れが為めに、陸海軍人の中に、多くの友人を得たり。彼等は吾人を以て、単に売文の生涯に安着するものにあらざるを悟り。而して吾人が筆と彼等の剣とは、同一目的に向て使用せられ、亦た殆んど同一効力あることを識認したるの士も尠からず。我が『国民新聞』が、陸海軍隊の間に愛読せられ、我が特派員が、戦地に於て懇篤なる待遇を受けたるは、吾人が今日に於て甚だ感謝に堪へざる処。特に軍人のみに止らず、吾人が社友とも云ふ可き読者は、之れが為めに全国良市民の間に播殖し、有形上の損失は、無形上の利益の為めに、相ひ償ふて余りありしは、吾人が欣喜に堪へざる処。
惟ふに『国民新聞』の大新聞たること、及び大新聞中に於て、特色ある位地を有することは、『国民新聞』自から定めずして、社会能く之を定めたるは。吾人が征清の役に際して、微力を致したる効果にして、吾人に於ては、殆んど望外の仕合と謂ふ可し。
吾人は『国民新聞』の社会に於ける、位地の進歩と同時に、其の調子も、多少の進歩を来たさんことを期したりき。具躰的に云へば、毎夕新聞の調子を一変して、毎朝新聞の調子となし。単騎突驟を変じて、正々堂々、大軍を行るの傾向を採らんと欲せり。人或は『国民新聞』は、鈍重に赴けりと非難すれども、其の鈍重は、吾人が竊かに自から期する所にして、其の非難は、寧ろ大ひに感謝する所なくんばあらず。
吾人は戦争未だ中ばなるに際して、早くも戦後の経営に就て、苦慮焦心したる所ありき。而して其の要たる、内に於ては富強の基を鞏ふするにあり、富強の基は、生産の発達にあるを察し、更らに精力の一半を、実業問題に傾けたり。如何に昨年の初より実業上の記事の、『国民新聞』に顕はれ、而して漸次増加しつゝあるは、敏慧なる読者諸君の必らず看破する所ならむ。
吾人が実業上の記事は、惟ふに必らず不完全ならむ。然も我社は之れが為めに、専門記者として、幾多の人を有し、幾多の人を教養しつゝあり。企てたる事は、必らず遂げざる可らず。思ふ事は、必らず行はざる可らず。行ふ事は、必らず成さゞる可らず。吾人は実業を名として、強欲を逞ふするを厭ふ。吾人は実業世界をば、破落戸、若しくは法律以外の強盗たる輩に壟断せしむるを悪む。吾人は紳士の躰面を全ふして、尚ほ実業界の勝利者たる可き、所謂る名教の中、殖産興業の余地あるを信ず。吾人の眼中には、政治と実業との区別なし。吾人が今後実業界に対する位地は、尚ほ従前政治界に対する位地と、同一なるを告白せざる可らず。
実業の方面と同時に、更らに手を拡げたるは、外交の方面なり。世界的知識の普及に就ては、吾人夙に関心する所ありき。故に『国民新聞』は、世界時事の報道者として、亦た世界に於ける思想潮流の観測者として、最初より其特色を有したりき。而して戦後の経営に就て、更らに其の切要を急加したるが故に、我が『国民新聞』は、愈々其の特色を発揮したり。如何に戦争中に於て、欧州列国の日本に対する傾向を報じたる乎、如何に列国局面の変遷を報じたる乎、如何に其の干渉の成らんとするを予報したる乎、將た終局の前後に就て、如何に形勢急転の情状を報じたる乎。抑も亦た現時に於て、如何に航海士が経緯度を観測して、大洋に於ける船の位地を定むる如く、我が大日本の世界に於ける位地を、恒に我が国民に報ずるを怠らざる乎。是等の事は、今更ら吾人が繰り返す迄もなし。但だ世或は『国民新聞』は、外国の記事多きが故に、面白くなしとありと聞く。是れ吾人が嘆惜に堪へざる所なれども、さりとて新聞は、唯だ娯楽のみを主とするにあらず。特に吾人は読者諸君の玩弄物として、新聞を発行するにあらず。故に事若し国家の大事に関渉あるものは、或は諸君の趣味に適せざるものありとするも、少しく寛恕を請はざる可らざるものなからず。吾人は日本的眼孔を以て、世界を観察し、世界的眼孔を以て、日本を観察し、世界を日本に紹介すると同時に、日本を世界に紹介せんと欲す。是れ吾人が一方に於ては、『国民新聞』に、海外の記事を増加し、其の分量に於てのみならず、其の性質に於て増加すると同時に、更らに他方に於て、『英文国民之友』を新刊して、世界の公論に訴へんと欲する所以也。
されば国民新聞は、今後政治、文学、実業、外交等に就て、各その精力を公平に排置せんことを期す。若しそれ極東の大勢に到りては、各地の要所、必らず通信員を設け、歴々として、我が読者諸君の眼中に映ぜしめ、決して脚下より鳥の立つが如き悔を来たさゞらんことを欲す。
吾人は政治を以て、漫に国民物質上の快楽を充たすの具と信ぜず。吾人は政府を以て株式会社となし、国民を以て株主となし。国民の政府に於ける、恰も株主の会社に於けると一般、其の権理も義務も純益配当の一事にありと信ぜず。吾人は天下泰平、国家安全を以て、人類終極の大目的を達したるものと信ぜず。吾人は国民的生活の一致を信ず。国民的生活の要素としては、政治も、文学も、宗教も、実業も、美術も、各其の要求あるものと信ず。詳言すれば、大臣も、議員も、著作者も、僧侶も、軍人も、会社員も、絵画家も、音楽師も、哲学者も、職工も、農夫も、凡そ正経なる業務に従事するものは、皆な応分の天職を有し、而して其の天職は、最後の目的に於て、必らず一致するを信ず。故に吾人の眼孔は、社会の全面に反射せんことを期す。彼の政治、文学、実業、外交を挙げたるは、其の重なる要素にして、且つ当今に切要なるが為めのみ。吾人は将来に於て、多少の画策なきにあらず。然れども、言の出でざるは、躬の〓〔「しんにゅう」に「台」を旁とする、「およぶ」と訓読〕ばざるを恥てなりとの古訓を服膺し、唯だ将来の実行をして、之を説明せしめんと欲す。
志士の世に処する、甚だ苦辛多し。碩学スペンセル氏の如き、其の心理学原理を出版せんと欲するも、書肆の以て応ずるなく、遂ひに自から出版し、僅々たる七百五十部の書籍も、其の幾分は、人に贈与し。その残部は十二年半を経過して、漸く売り捌かれ。其他著作出版の為めに、凡そ十五年間に一千二百磅の損失を来たせりと云ふ。亦た米国に『吾人の日』なる雑誌あり。頃ろ其の主筆博士カツビー氏、読者に訴へて曰く、一千の講読者、更らに次年の講読を申込まず。社運甚だ困しむ。余は徹頭徹尾、無給にて従事せり、然も助筆者には、一百弗の月給を支払ふ可き必要あり。敢て読者の公義心に訴へ、其の寄附を促がし、且つは新講読者を募らんことを願ふと。吾人は一読して、深く同情を表せざるを得ず。而して自個の境遇に顧りみて、実に我が読者の厚情義心を感謝せざるを得ず。吾人が傍若無人、独立独行、言はんと欲する所を言ひ、行はんと欲する所を行ひ、其の道路は、崎嶇険艱なるに係らず、毫も顧慮するを要せざるは何ぞ。幾多未知の知己、同志、社友の吾人の後楯となり、遥かに吾人を擁護し、吾人に声援を与ふるか為めにあらずや。吾人は独り彼等の物質上助力に感荷するのみならず、亦た実に其の精神的幇助に感謝し、更らに将来に向て、深く待望する所あり。然りと雖も、吾人豈に諸君に向て、独り諸君が為めに、其の幇助を哀求するものならんや。所謂る志同じく義合するに於ては、共同の目的に向つて、共同の力を竭すは、人生の通義なれば也。
---------------------------------------
(国民新聞、1896年1月1日2面、1785号)


rshibasaki at 17:48コメント(0)トラックバック(0) 

2006年05月02日

以下は、徳富蘇峰が1896年から1897年にかけての欧米漫遊に出かけるに際して、読者への挨拶文である。三国干渉から1年経過した1896年4月の時点に立ち、近い過去を回顧し、未来を見通して、国民新聞社・民友社のオーナーとして如何なる言論活動・政治活動を内外の状況のもとで行うべきかの自己意識を表出している。わたくしは、この文章のなかの遼東還付原因論に注目している。この文章は外遊を決心した動機を三つ順に述べている(ゴチックで示した)。そのうち第一の動機の説明のなかに、三国干渉を招来した日本側の要因についての言及(下線で示した)がある。原文では行替えだけで段落を示していたが、下の転載では一行空けによって、文章全体の構成を示すこととした。「第一の動機」「第二の動機」「第三の動機」「結語」という四つの部分である。
---------------------------------------
欧米周遊に就て江湖の諸友に告く
                          蘇峰生
国民新聞の余白を仮りて、江湖の諸友に告ぐ。余が欧米周遊の途に上らんとするは、近頃の事なれども、その企画は一日にあらず。
有躰に云へば、従来幾多の便宜と利益とを擁して、余に外行を慫慂したる者、一にして足らざりき。余は思ふ仔細ありて、之を謝絶しぬ。併ながら機会もあらば自力にて、思ふ侭なる漫遊を為して見たしと考へ居れり。折りしも明治二十七八年征清の役は、余をして一層此の念を適切ならしめたりき。
若し明治二十七年に出版したる拙著『大日本膨脹論』及び同年下半期の首より今日に到る『国民新聞』『国民之友』等を一読せらるゝ諸君は、余が何故に此の念を適切ならしめたるかを知るに於て、余師あらむ。
余は当初に於て、日清開戦は、大日本国運一転の大機なりと信じたりき。大日本が世界均勢の一要素となり、世界的共通政務に向て、発言権を有し。維新の大目的たる開国進取の活勢に鞭ち、国民的生活より超躍して、世界的生活に入るの大機と信じたりき。されば大日本が世界に知らるゝの必要と同時に、世界を知るの必要は、著しく倍加し来り。最早大日本国民は、局部的眼孔を以て、国民的境遇を観察するのみならず。又た全局的眼孔を撥して、宇内大勢の潜旋明転を詳にせざる可からざるの時機に迫り。再言すれば我が国民の倫敦、伯林、巴里、聖彼得堡の出来事に痛痒を感ずる、恰も大阪、京都、名古屋の出来事に於けるが如く。亜非利加、中央亜細亜、南部亜米利加、濠州等の事情を知ること、恰も函館、長崎、新潟、馬関等の事情に於けるが如くならざる可からずと信じたりき。
されば『国民新聞』『国民之友』の調子も、当時よりして著しく世界的記事論文を増加し、為めに愛読の諸君をして、国民記者は種に窮したるが故に、殊更らに我等に縁遠き事項を掲載し、我等を困殺するものならんと邪推せしむる程にてありき。
斯くお客の嗜好に適せぬ御馳走を強ふるも、主人に於ては、お客の滋養となり、健康に益ありとの存念に外ならざりき。所謂日本的眼孔を以て世界を観察し、世界的眼孔を以て、日本を観察し、恒に大日本の世界に於ける比較的地位を詳かにす可しと颺言したるは、吾人当時の警語にして、又た今日に於ても警語と為す所なり。此の如く国勢既に一転し、その国勢を利導する新聞雑誌の調子も一転し来らんとするに於ては新聞記者の眼界も亦た一転せざる可らざるは、固より論を俟たず。余が世界周遊の必要を感じたるは素より以上の理由あるが為にぞある。
征清役の結果は、吾人が予想に違はざりき。而して我が朝野に於ける世界時務的知識の欠乏は、果して苦がき経験を与へたりき。吾人が、大日本国の位地の世界的均勢の一要素となりたるを誇りたると同時に、吾人が脚下より意外の椿事こそ出来したれ。単に国力のみ進みて、国民の眼界の進まざりし不権衡は、取りも直さず過重なる代価を、遼東還附てふ一事によりて払はしめられたりき。吾人が当時に於て、世界時務的知識の普及を、我が同胞国民に促がしたるの偶然ならざることは、此に於て愈々明白となりぬ。而して余が新聞記者の本分として、十年編集机案の上に商量したる問題をば、実地に就て解釈し、若しくは解釈の端緒を得んと欲するの念は、此に於て倍々其の必須を感ずるに到りぬ。

将た彼を知るのみならず、又た彼より知らるゝ必要もあるなり。世界的交渉の一要素となるからには、他より誤解せられず、又た我が真相を知悉せらるゝの必要は、他の真相を知悉するの必要に比して、更らに其の軽重ある可らず。日清戦争は、我邦の大広告、大吹聴には相違なかりしも、果して我が真相を彼等の眼中に発揮せしめて余憾なき乎、随分疑点なきに非ず。されば吾人は機に触れ会に応じ、独り彼等の為めに知らるゝのみならず、又た彼等をして、我が真相を知らしむるの注意を怠らず。現に百艱を排して、本年二月より発刊したる『英文国民之友』の如きは其の一例にぞある。さりとて、此れしきのことのみにて満足すべきにもあらず。されば我が大日本国民の正当なる志望と意気とを世界に知らしめ我が大日本国が文明世界の列国中に介立して、其の一坐を占むるに於て、正当なる要求ある事。又た極東の平和を維持するに於ては、是非大日本国の主力を要する事等に就て、世界の公論に訴へ度事も尠からず。
斯る事をも実地に就て観察したらば、幾分か方便もあらむ、手段もあらむと思ふにぞ。更らに愈々欧米周遊の必須を感ずるに到りぬ

斯く感じつゝも、俗縁甚だ浅からず、空しく歳月を蹉蛇たらしめたるに。熟ら惟れば、今や天下泰平。海波静かにして、春風枝を鳴らさず。上には泰平の宰相あり、下には従順なる議会あり。歓楽極りて哀情未だ多からず、上下恬然、鼓腹撃壌泰平の余沢に酔ひ、復た殆ど吾人が縦論横議を容るゝの余地なきが如し。之に加ふるに欧洲中原の局面は、一動一揺、旧均勢破れて、新均勢未だ整はず。風雲百変、朝夕を測らず。正に是れ観察寓目の好機と為す。余は実に内外の事情に向て、余が多年の企画を実行せしむるの時節を到来せしめたるを感謝せずんばあらず。

蛇足なから最後に一言したきことあり。余が明治十九年十二月、家を携へて東京に来りて以来、僅かに十年。而して病に罹る既に五回。「今尚ほ病床に在り」。其の長きは三個月に渉り、其の短きも一個月を出づ。之を合計すれば十個月以上を過ぎ、之を比例すれば、十年の中一個年は、殆んど病床に在りと云ふも不可なし。それ十年の浪走、剰し得たるものは、蒼顔と臞骨のみ。身不肖にして亜聖の徳なきも、満頭の白髪は、顔回をして、三舎を避けしめんとするが如き、自分でさへ訝敷次第なれば、知友間の疑問となるも不思議にあらじ。余も自から顧みて、病福に富みたるを驚くのみ。さればとて敢て遥々と欧米迄出懸けて、白髪染の妙薬を詮索せんとするにあらざるも、切めて今後一個年の休養を得て是非身躰の健全を恢復したく思ふ也。仮令余自から愛惜せざるも、師友知己の忠告に孤負するに忍びず。是れ今日に於て、外行を決する最後の動機たる也。社中諸君の寛厚なる、余に仮すに休養の時日を以てし、知己親友の二三子、亦た余が旅装を調へ、余が空橐を充たす。乃ち余が最初の目的たる自力旅行をなすの余裕あらしむ。余豈に一片感謝の情なきを得んや。

此行固より風雅でもなく、洒落でもなく、御用旅行の贅沢もなければ、学問旅行の究窟もなし。所謂る保養旁の漫遊にして、唯だ熱海、大磯に遊ぶの時日を利用して、倫敦、巴里、聖彼得堡、羅馬、紐育等に遊ばんとするのみ。
既に保養旁の漫遊とすれば、前述の目的の如き果して幾分を成就するや否や余に於ても甚だ覚束なきことぞかし。去りながら余や生来、無芸無能にして、何の遊戯も解せず、何の歓娯にも関からず。漫遊中の快楽とても、唯だ観察寓目の一あるのみ。且つ『国民新聞』『国民之友』『家庭雑誌』等の如きは、余が生命の一部とも云ふ可きものなれば、如何に天涯地角にあるも、忘れんとするも忘る可きにならず。故に余は見るに随ひ、聞くに随ひ、感来り、興湧くもの、皆な悉く以上の新聞雑誌に郵寄す可し。特に余が旅中の消息は、日刊の便ある『国民新聞』に於て、知悉せられなば大幸之に過ぎず。
若しそれ国家民人の利害得失に関係ある幾多の問題に到りては、幸ひに余に於て得る所あらば帰朝の上徐ろに諸君の教を請ふことあるべし。余が発程の日は未だ分明ならざれども、蓋し遠きにあらじ。病後の疲労未だ恢復せず、故に留別送別の儀は勿論、旅行の通知さへも、此の公開状にて用捨を蒙るべし。江湖の諸友、幸ひに余が疎濶を恕せよ。
---------------------------------------
(国民新聞、明治29年4月14日1面)

rshibasaki at 18:25コメント(0)トラックバック(0) 

2005年11月07日

民友社から刊行されていた三つの雑誌『国民之友』『家庭雑誌』『欧文極東』が、1898(明治31)年8月で廃刊となり、翌9月1日から国民新聞の文芸欄、家庭欄、欧文欄になるかたちで統合された。このことは徳富蘇峰や民友社・国民新聞社についての研究では周知の事実である。

しかし、"The Far East"という題字をもつ欧文欄がいつまで続き、いつ廃止されたのかは研究上、論及されることはなかった。

調べてみた結果、1911(明治44)年3月19日号、3頁に掲載されたものが最後であることを確認。この日は日曜日である。廃止についての説明はその前後を読んでも、まったく記されていない。

rshibasaki at 20:53コメント(0)トラックバック(0) 

2005年06月06日

「●徳富蘇峰の来萩  東京国民新聞主筆蘇峰徳富猪一郎氏は吉田松陰先生に関する事蹟研究の為め不日来萩の筈」
(防長新聞、明治41年7月12日2面5段)

「●徳富蘇峰氏の来萩延期  吉田松陰先生に関する事蹟研究の為め近々来萩すべき筈なりし東京国民新聞主筆徳富猪一郎氏は今回内閣大変動の為め寸暇を得ざるを以て当分は来萩し能はざる旨在東京吉田庫三氏より松陰先生の実兄なる杉民治翁の許へ通報ありたりと」
(防長新聞、明治41年7月19日2面5段)

[注] 第二次桂太郎内閣の成立は、7月14日。




2005年6月5日、山口県立図書館にて調査

rshibasaki at 14:31コメント(0)トラックバック(0) 
Categories
Profile
Recent Comments
Archives
訪問者数

QRコード
QRコード
「日本の伝統と文化」教科書
  • ライブドアブログ