<水難救済会>

2006年11月14日

「○帆船の沈没  再昨三十一日午前十時頃石州那賀郡都野津村小松原某所有の帆船大栄丸は朝鮮竹島に於て檜材四千八百才[さい]と瓦七千枚を搭載し馬関へ向ふ途中、彦島村沖合爼瀬[まなせ]へ乗揚げ、船底を破損し漸次潮水侵入せんとするを早くも認めたる田の谷より救難船急漕し来りて救助に尽力中、水上署よりも松井巡査部長、田中巡査、赤間丸にて出張し、福浦よりも救難船来援し、材木の大半と瓦の大半を他船に積替はしたる頃、本船は沈没せしかども人命は安全なりしと云ふ」

(防長新聞、明治35年6月3日3面3段)

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2006年08月30日

1908年5月24日、防府町宮市松崎神社境内酒垂公園を会場に、帝国水難救済会山口支部の発会式が挙行された。その席で、現在の県警本部長に相当する警務長が、水難救済会山口支部のナンバー2、支部副長として「事務報告」を行なった。

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   事務報告
我山口支部の管轄は長門周防の二国にして三面海に瀕し其沿岸に於ける海難は実に多大なり。而して之が救難の事業は他の慈善事業の如く非常の時にのみ其の活動を看るべきものにあらず。県下の地勢上常に海難を救済する用意なかるべからず。之れか救済の設備微々として振はさるは人道の為め大に遺憾とする処なりし。
是に於て明治三十年七月山口県委員部を置き各郡市に郡市委員部を設置し、地方有志の士に訴へ会員募集を図りたるに、続々入会者を得、目下終身名誉会員六拾人、名誉会員七人、終身特別正会員拾七人、終身正会員四千参百九拾四人、正会員五百四拾参人、終身賛助会員壱万四千五百六拾弍人、賛助会員四百六十九人、合計弍万五拾弍人に達せり。
其入会金及寄附金を合して収入せし総額は、金七万弍千三百九拾参円七銭六厘にして、其の内金七千弍百三十九円参拾銭七厘は本会へ納付し、金八千百五拾六円拾銭九厘は各郡市委員部及県委員部経費に充て、金六千九百九拾七円六拾六銭は設備費とし、残金五万円を支部基金として明治四十一年二月三日、支部設置の登記を経、今や社団法人として右基金より生する利子に依りて独立経営をなすの運に至れり。
而して之が救難機関は、救難所五箇所、同支所六箇所、救難組合拾壱箇所を置き、所長以下救助夫に至る総数七百九拾六人の職員を有し、前三ヶ年間に於ける壱ヶ年平均七拾弍万弍千八拾四円の遭難価格に対し五拾五万八千百八拾四円を救済し、人命に於て五百九拾四人の遭難者中五百八拾四人を救護す。以上事実は救難機関が海難者あるを現認し救済したるものにして尚此外に救難機関の設備なきか為め本事業の慈善に浴せすして空しく生命財産を海底に没了するの止むなきもの其数決して尠からざるを知るべし。故に将来之か機関を完備せんには会員其他の賛助に待つにあらざれば其目的を達する能はざる現況なりとす。
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(防長新聞、1908年5月26日2面)

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2006年08月26日

1900年9月28日、山形県鶴岡にて、水難救済会会長吉井幸蔵の演説。

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本会の起源は明治十七八年の頃過般薨去せられたる黒田伯爵が欧米漫遊の際露国水難救済制を詳細に調査し其完備せるものを齎らし来り帰朝の後金刀比羅宮司琴陵宥常氏に示されたるに、同氏は感慨の情に堪へず憤然率先して私財を抛ち朝野知名の士に賛同を得て有栖川中将の宮殿下を総裁に仰ぎ奉り、鍋島侯を副総裁に推戴し、自ら進んで会長たる難局の地位に立ち、明治二十二年十一月三日、天長の佳節と東宮殿下冊立式当日の佳辰を以て創立発会式を讃岐の琴平に挙行し、本部を同所に設立し、爾来会規未だ緒に就かず事業経営の方針だに確率せざるに、不幸琴平氏は二十五年の春永眠せられたるにより、事業頓に伸張を欠き漸く萎靡するの不得止に至りたるも、尋で彼の二十七八年の戦役となり人心は之に趨り本会の納金を遅滞するもの頻出し益困難の逆境に迫りたるも、藤波氏等の奮励尽瘁せられし処ありて一縷の命脈を保つことを得たり。然りと雖ども斯る必要なる事業は永久不振に沈淪することなく、日清戦役已来航海は日を逐て頻繁に趣き恐るべき難破は続々其数を増し生命、財産の泡沫に帰し去る者枚挙に遑あらざるに至れり。茲に於て斯業の一日も海国たる我国に欠くべからざることを理由として、之を国家的事業として政府が当に施設すべきものなりとの建議を第九帝国議会に提出し、其後幾多の困難を経て第十議会に於て本会の請願を容れ、補助費として三十年度より向三箇年間毎年金弍万円宛を下付すべきことに協賛を与へられ、之と共に事業を挙て本会に委托の特命を受けたるは、実に本会の名誉幸福とする処なり。此時に当り不肖幸蔵海軍少佐の現職を辞し本会に入り総裁宮殿下より本会長の職を嘱託せられ、爾来乍不及鞠躬整理と拡張に奮励せるが、幸にして追日事業発達、救難所も今日十七箇所に及びしと雖とも、未だ予定の央にも達せざるは甚だ遺憾とする所なり。而かも救助成績は幾分の好果を得、即ち去る二十二年創業より卅年迄八箇年間に西洋形船十四隻、日本形船二百二十八隻、人員千二百八十三人、其被救助船体貨物の見積価格金八十三万五千円余なるに、三十年四月より本年三月に至る三箇年の成績は、西洋形船六十三隻、日本形船四百五十六隻、人員二千四百二十四人、被救船体貨物見積価格金百四十八万六千円余の多きに及びたり。此好果ヲ挙るに幾干の経費を要したるかと云へば、三十年来平均金二万五千円余の僅額にて多大の人名と財産とを救助し得たるは実に良好の成績と言はざるを得ず。山形県は幸に関知事公の御尽力と諸君の御賛助とに依り事業上前途有望の域に進むは信じて疑はざる所なりとす。
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(吉澤直興「庄内紀行」、水難救済会機関誌『海』第4号、26〜27頁、1900年10月18日)

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2006年08月05日

政府報告書に初歩的な誤植を見つけたので、メールで事務局に伝えようかと考えたが、アドレスが見つからない。仕方がないので、ここで指摘する。

中央防災会議(事務局 内閣府)・災害教訓の継承に関する専門調査会、平成17年3月「1890 エルトゥールル号事件」報告書である。

第4章の末尾付近、137〜138ページに問題の箇所がある。

まず、137ページ15行目に「逓信省管船局長長塚周三」とあるが、「長塚周三」ではなくて、「塚原周造」が正しい。

つぎに、138ページ12〜14行目に、1889年に「大日本帝国水難救済会」として成立したものが、「同会は1904(明治37)年に帝国水難救済協会と改称し、1949(昭和24)年に日本水難救済協会と改称して今日に至るまで、日本における民間の水難救済活動の中核として活動を続けている」と記している。

しかし、1904年に改称したのは「帝国水難救済会」であり、1949年には「日本水難救済会」となった。ともに「会」であり「協会」ではない。社団法人日本水難救済会のホームページのうち「事業の概要」「沿革」の項を参照されたい。

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2006年06月13日

「嚮には名古屋市の一博徒が、金鵄勲章を賜はりて、飜然悔悟し、正業に就きたる美談あり、吾人は今亦之に勝るとも劣らざる一美談を紹介するの喜を禁ずる能はざるものあり、岩手県下閉伊郡宮古町に設置せる帝国水難救済会宮古救難所救助夫長某は、元房州の産にして、幼時より狂瀾怒濤と闘ふもの数十年、六尺に垂んとする体躯は、さながら鉄の如く、楫櫂を取つては三陸に並ぶものなしと称せらるゝ、斯界の剛の者なるが、人毎に一つの癖は免れ得ざるものか、同人は第二の天性ともいふべき程の賭博好きにて、二六時中賽をいづくりて、丁よ半よの勝負を唯一の楽みとなし居たり、然れば救助夫長として、同人を推撰するに際し救済会の人々及び該地方の有志者も、頗る考慮する処ありしが、其船舶操縦の伎倆上他に適任者なき為、遂に同人に其旨を話したるに、身を捨てゝ他の危難を救助する同会事業の性質は、いたく彼の意に適し、「面白い、やりませう」と直様快諾し、今回愈総裁有栖川宮殿下の御依托書を彼に下附したるに、如何に慈善事業とは云へ、賤しき身にかゝる貴き方の御名前ある辞令書を拜したる畏さと、喜ばしさとは、深く彼の心魂に徹し、従来の非行を顧みて、つくづく慙愧に堪えず、爾来は命よりも大切にし賽をば忘れたる如く見向きもせず、孜々として其職務に従事し、以て御趣旨に酬ひんことを期し居れりといふ、教育とても無き彼が、此勇敢なる克己の行動は、現今の社会に対して、好個の教訓たるべきか、」
(水難救済会機関誌『海』第8年第2号、明治40年2月25日)

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2006年06月12日

「我が水難救済事業の如きは、婦人も亦大に力を尽して貰ひたい。併しこれも愛国婦人会のやうにお祭騒ぎをのみこれ事とせられては困る、あれ丈の大袈裟の会でお祭騒ぎの費用は実収入に幾倍する騒ぎをしても、その実に置いて挙がる所が少いから、物足らぬから、軍人遺族救助とか廃兵救護とか云ふ目的もありながら、然も他に之と拮抗する将校婦人会など云ふのが出来たのでも解る、かゝるお役所風のお祭騒的婦人の加勢は真平である、貴婦人が戦地へでも行かれて、看護に従事せられたのなら得心も行つたが、馬車に乗つて包帯巻に出懸けた位ではあまり、篤志の事とも思はぬ、故に慈善事業には飽くまでも真面目にして、その実の挙ることを主とし徽章を下げてお祭騒ぎにならぬやうにしたいもので、我救済事業もこれのなき婦人の賛助を乞ひたいものである」
(談話筆記「我水難救済事業発展の方針≪善意と徽章に就て≫ 会長伯爵吉井幸蔵」、帝国水難救済会機関誌『海』第8年第4号、明治40年4月25日、1頁)

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2006年06月05日

国会図書館へ赴き、『海』を閲覧してきた。昨年5月2日に通覧し、主な記事についてメモを採ることはしていた。今回は再度見落としがないかを確認し、その上、以下の記事の電子複写を入手した。

(1) 「庄内紀行 吉澤直興」(『海』第4号、明治33年10月18日、25〜30頁)
(2) 「再び我救済会の事業に就て 会長伯爵 吉井幸蔵」(『海』第20号、明治39年10月25日、2〜3頁)
(3) 「海上の仕事 山科礼蔵」(同上、8頁)
(4) 「所感を述ふ 会長伯爵吉井幸蔵」(『海』第22号、明治39年12月25日、2頁)
(5) 「海難と法律 法学士市村富久」(同上、3頁)
(6) 「総裁宮の辞令書に船夫その行を悛む」(『海』第8年2号、明治40年2月25日、7頁)
(7) 「米国船の難破」(第8年3号、明治40年3月25日、3頁)
(8) 「我水難救済事業発展の方針<<慈善と徽章に就て>> 会長吉井幸蔵」(『海』第8年4号、明治40年4月25日、1〜2頁)
(9) 「水難救済事業 理事塚原周造」(同上、3頁)
(10)「総会に就て 会長伯爵吉井幸蔵」(『海』臨時号、明治40年6月2日、1頁)
(11)「水難救済事業に於ける一大急務 会長伯爵吉井幸蔵」(『海』第8年6号、明治40年6月25日、1頁)

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2006年06月04日

海軍水路部長・肝付兼行が「我が海国的価値を論じて国民の覚悟に及ぶ」(帝国水難救済会機関誌『海』第1号、明治33年7月18日発行、3頁)のなかで語ったつぎの文言あり。

「海権即ち海上権力なるものを論ずるには、我海軍水交社の反訳にして、前年已に宮内省より全国の師範学校及中学校等へ下賜ありし所の海上権力史論と称する書に依るに若かずと信ず」
「我海軍水交社に於て翻譯し、東方協会に出版せしめたるに、特に宮内省へ三百部御買上になり全国の師範学校、中学校へ下賜あるに至りしも偶然ならざるなり」


水交社訳『海上権力史論』は1896年刊。



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ブログ「教育史研究と邦楽作曲の生活」発言「大和ミュージアム」

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2006年05月16日

Googleアラートに「水難救護法」を設定していたら、北陸放送のニュースが
ヒットした。
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「内灘町役場で信号弾暴発 (16日)」というタイトルのニュースで
「15日、午後4時35分ごろ、内灘町役場5階の総務課事務室で船舶が
遭難した時に使う救命用信号弾が突然、暴発しました。この信号弾
は14日に内灘町の海岸で見つかった2本のうちの1本で、水難救護法
によりますと海岸の漂着物は地元自治体に引き渡すことになってい
ることから津幡署員が段ボール箱に入れて役場に持ち込んでいまし
た。受け取った男性職員が箱から取り出し、再びしまおうとした際
に突然信号弾が音を立てて飛び出し、少し離れた湯沸し室に飛び込
みました。この暴発で男性職員は右手に軽いやけどを負いました」
という内容。
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「警察官」「市町村長」という主体がいまでも、法律通りやって
いる。


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2005年07月14日

すゐなん−きうさいくわい

海上の変災により生ずる人命・財産の危難を救助するを目的とする団体。ヨーロッパ諸国大抵其設立を見るところにして、イギリスには数多の団体あり。中にも帝国救命艇協会(一八三九年創立)最も著名にして、皇帝陛下これが総裁たり。ロシアの救済会(一八七一年創立)は海軍省の所管に属し、皇后陛下を総裁に戴き、プロシアの救済会(一八六五年創立)亦皇帝陛下を総裁に戴けり。フランスの救済会(一八五五年創立)は政府より毎年補助金を受く。(オーストリアは海国にあらざるがゆゑに此種の団体なし)。アメリカ合衆国(一八七八年創設)・ベルギー(一八三八年創設)・デンマルク(一八五二年創設)等には此種の団体なきも政府は特に水難救済局を設けて救済の事務を掌らしむ。我国の水難救済会は金刀比羅宮宮司琴陵宥常の主唱に係り、明治二十二年十一月三日讃岐琴平に於て開会式を挙げたるものにて、帝国水難救済会と称し、三十一年十一月社団法人とせり。本会会員はこれを名誉会員・正会員・賛助会員に分ち、総裁は皇族を推戴するものとし、現に有栖川宮威仁親王殿下を奉戴し、副総裁は評議員会に於て名誉会員中より推薦するものとし、侯爵鍋島直大其任にあたる。本会の役員は会長一名・理事六名・監事三名・評議員七十名を置き、三十年度以来毎年国庫より補助金を受く。

(日本百科大辞典第5巻、明治44年12月、三省堂書店発行)


現在の名誉総裁は、憲仁親王妃久子殿下である。

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すゐなん−きうごはふ(水難救護法)

遭難船舶の救護、漂流物又は沈没品に関し規定したる法律。明治三十二年三月法律第九五号を以て公布せられ、三章三十九条より成る。本法に拠れば、救護の事務は最初に事件を認知したる市町村長これを行ふものとし、遭難の船舶あるを発見したる者は、其の何人たるを問はず、遅滞なく最近の市町村長又は警察官に報告すべきことを命じ、漂流物又は沈没品を拾得したる者は遅滞なくこれを市町村長に引渡すべく、市町村長の召集に応ぜざるか、又は救護事務の妨害をなしたる者に刑罰を科する等其の主要なるものとす。

(日本百科大辞典第5巻、明治44年12月、三省堂書店発行)


この法律は基本的な枠組みをそのままに現存している。現在では、118番で海上保安庁に連絡するというのが現実的なあり方であるが、制定当時は、文字通り連絡を受けた市町村長が、沿岸住民たる漁民などに指示して救難に当たった。水難救済会の発足以降、徐々に、江戸時代以来浦々にあった救護組織を、救済会の活動として位置づけ直すということとなった。「沼津救難所(MRJ沼津)の歴史」はその好例である。

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2005年05月18日

帝国水難救済会が昭和3年、1928年に編集・発行した『海の赤十字』という本がある。webcatで検索すると、大阪市立大学、神戸大学、神戸市立図書館が所蔵している。

神戸市立中央図書館が所蔵している本には「帝国水難救済会寄贈 昭和13年10月13日」と記され、「昭和13年10月31日登録」となっている。

その「はしがき」の冒頭にはつぎのように本の成立が説明されている。

「他国の水難救済機関の状況を詳にする事に就ては、従来相当に力を用いて居たのであるが、何分にも直接人を派遣すると云ふ事が出来なかつたので、僅かに書籍、年報若くは文書に依て、其外貌を窺ひ得るに過ぎなかつた。然し其等の断片的な資料も、年月を経るに従つて相当な量となり、一括して国別に書き下して見れば、幾分組織的なものが出来相に考へられたので、英、米、独、仏、伊五ヶ国の分を比較的同一項目に分けて版に起したのが、此書である。」

「海の赤十字」というタイトルについてはなんの説明もないが、国際的なつながりをもつボランティア組織として、日本赤十字社との対比を意識したことを窺わせる。水難救済会が活動のかたちをつくっていった明治年間、先行する赤十字社を参考としていたものと思われる。



2005年5月17日、神戸市立図書館にて調査

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