【鶏肋】(捨てておくには惜しい史料・発想)

2009年10月04日

国立国会図書館憲政資料室「品川弥二郎関係文書」に1通のみ書翰が残る米田勝松について人物情報を確認したく、姫路市に往復した。碑文を撮影した後、文献史料がないかと姫路市立図書館にも赴いた。その場では不明なので、リファレンスの係の方にリファレンスの申請をし、なにか判ったら後日教えていただけるように頼んで帰って来た。

青山製紙組合顕彰碑-1
旧山陽道を歩く」のページにこの碑の位置を示す地図が載っている。
ブログ「興浜(おきのはま)で候」の「姫路市 青山地区へ」というエントリーには、「明治17年に青山村の山口重太郎が大阪から紙の製法を伝えた。その後このあたりで和紙の製造が盛んになり、製紙の創始者で組合の人々の世話をして功のあった米田勝松をたたえた石碑」と説明がある。
碑文は、品川弥二郎が揮毫した文字をそのまま石碑に刻んでいるようである。「念仏庵にてやじ」との署名がある。下に解読を試みる。
青山製紙組合顕彰碑の碑文
青山製紙組合顕彰碑の碑文-2
青山製紙組合顕彰碑の碑文-3











◇和歌の部分の読み
いたつきを積める功は
此の紙の雪の表に顕れにけり

◇変体仮名を元の漢字で表記してみると...
以多都幾遠「積」免流「功」盤
「此紙」延「雪」乃「表」仁「顕」禮尔計理

◇添え書きの部分...解読できない箇所が残る
  明治三十三年二月三日米田さんえ
  被受て遣文留 念仏庵にてやじ
  ~~~~~~~
 (↑下線部解読出来ず)


[2009年10月7日追記]
コメント欄で教えていただいた『兵庫県物産調査書』を、国会図書館の近代デジタルライブラリーで見ることがでる。明治33年7月に兵庫県が刊行した冊子で、105106頁(56〜57コマ)に関連記述がある。

[2009年11月25日追記]
10月9日付で姫路市立城内図書館から頂戴した回答には「『兵庫県飾磨郡誌』に8行程度の記載があり、少し詳しく没年享年等も書かれています。文化財見学シリーズの記載は『飾磨郡誌』によったものと考えられます」とあります。『兵庫県飾磨郡誌』(飾磨郡教育会、1927年)には、つぎのように書かれています。
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米田勝松は余部村青山の人にして今より三十余年前同村に於て製紙業を創め村内之を学びて製造家多く起り遂に青山の紙と言はるゝに至れり。明治三十三年二月三日。子爵品川弥二郎氏より「米田さんに贈る」とて
  いたつきを積める功は此の紙の雪の表に顕れにけり
といふ和歌を詠み其の功績を称へたり。此に於て有志集まり子爵の詠歌を刻みたる壮大なる顕徳碑を建て其徳に報ひたり。大正四年十一月二十七日行年六十九歳。
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2007年05月01日

呑象[ガンショウ]高島嘉右衛門が、三国干渉を予言したとはこのことであろうか。
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本日某坐上に於て、高島呑象翁に面会致し候。翁は神易の解釈を持し、当局者の参考にもと存じ、百里の道を遥るばると当地に被参候。翁の説によれば、易の本文に、『速[マネ]かざるの客三人あり、敬して之を納る、吉』と有之。右の御客様は、申す迄もなく仲裁者にして、我邦は無下に之を排斥せず、能々[ヨクヨク]之を聴納する方然る可しとの儀に有之候由に承り及び候。
小生の不肖なる、神易の力を藉らざるも、此後速かざるの御客様が、二人や三人や来ることは、覚悟の前なれども、之を聴納するが吉とは、余り合点の行かぬ事に候。
兎角我々は、最初の大決心を貫徹するの外無之候。之を貫徹して、而して列国の感情を害せざるは、最上の手際に御座候。我々之を我が当局者に望むものに候。所謂る『敬して之を納る』とは、外交政略上の儀式に候。必らずしも一々他の申分を聴入る儀には無之候。此には裏もあり表もあることと存じ候。我々は当局者が、決して決して此の点に就て、ぬかりなきことを信ぜんと欲するものに候。
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(国民新聞1441号、1894年10月28日、1面、「大本営地に於ける見聞一斑 十月廿四日午後五時 広島に於て 蘇峰生」)


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2006年11月14日

「○帆船の沈没  再昨三十一日午前十時頃石州那賀郡都野津村小松原某所有の帆船大栄丸は朝鮮竹島に於て檜材四千八百才[さい]と瓦七千枚を搭載し馬関へ向ふ途中、彦島村沖合爼瀬[まなせ]へ乗揚げ、船底を破損し漸次潮水侵入せんとするを早くも認めたる田の谷より救難船急漕し来りて救助に尽力中、水上署よりも松井巡査部長、田中巡査、赤間丸にて出張し、福浦よりも救難船来援し、材木の大半と瓦の大半を他船に積替はしたる頃、本船は沈没せしかども人命は安全なりしと云ふ」

(防長新聞、明治35年6月3日3面3段)

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2006年11月12日

日露開戦の前年、緊張感が漂う。現在の山口県阿武郡阿東町嘉年[かね]地区。

「○在郷軍人懇親会  過る十六日阿武郡嘉年村偕楽園に於て、後備陸軍看護手藤井家一、予備陸軍歩兵一等卒佐伯美品等両三名の発起にて在郷軍人の懇親会を催せり。会場は村役場背後の一小丘上にして土地平坦勝山の古城址に接し、南方は遥に十種峯[とくさみね]の聳ゆるを眺め、東北一帯の地は耕野にして北より南に貫く阿武川の流れは恰も帯にも似たり。前方は茫々たる上野の広原にて、遠く石見の国境に連るを見る。四時眺望佳絶にして中央には日清戦役の凱旋記念碑あり。一度此処に昇らば真に意気の慨然たるを覚ふ。入口には大なる国旗を交叉し、諸種の美花を以て現せる嘉年村在郷軍人懇親会場の十一字の大額を掛け、場内には高く幕を張り、数十の机腰掛を以て席を整へ、中央なる記念碑の前には大なる花瓶に黄金を散らせるが如き山吹の今を盛りと咲き乱れたる生花あり。午後二時、吉見喇叭手の吹奏せる喨々[りょうりょう]たる一声の喇叭、遠く山河に響き開会を報ずるや、山下の満寿楼に集へる軍人の多くは、胸間燦爛たる勲章を輝して着席し、嘉年村長助役を初め其他有志者数名亦来場せり。発起者を代表せる予備陸軍歩兵伍長木村今吉氏は、今や農家漸く繁忙の時期なるにも係はらず諸氏が速に発起者の意に賛成して正当の事故者を除くの外、直に参集せられしを喜ぶ、日清、北清の両役以来天下無事幸にして本日斯く一場に会合することを得しは一同の共に慶賀する所なれども、吾々軍人は此太平に馴れて決して安眠高臥すべきの時に非らず、諸氏の知れる如く雲か雨か彼の満州問題の結果は果して如何なるべきか、此際に於て吾人が協力同心以て益々武威の発揚を計るは国家に対する軍人の本分にして刻下の急務ならずや。即ち本日の会合も徒らに娯楽的に非らずして、時勢に鑑み深き慮りの存するに出たるを以て毫も華美に渡らず、専ら質素を旨とせるの所以を陳べ、更に来賓に対しては右の如き主意なるを以て敢て山海の珍味有るに非らず、只各会員が自家有り合せの物を持ち寄りたるものなるを以て、口に其味は薄しと雖も精神の存する所を汲み、充分歓を尽されんことを望むと演べ、村長波多野定彦氏は、本日此の盛会に列席するは栄とする所なりとて此挙の美なるを賛し、夫れより外交目下の形勢を説て警告する所あり、終りに軍人諸氏が今日に至る迄の名誉を益々将来に発揮せんことを臨み、それより数名の祝詞あり、演説あり。終りて大元帥陛下の万歳及嘉年村在郷軍人万歳を三唱して直に酒宴に移り、放言談笑時の進むを覚えず、三名の紅裙[こうくん]は常に其間を周旋して頗る盛会を極め、各十二分の歓を尽して散会せしは上野山麓円通寺の暮鐘阿武川の流れに響ひて金鳥西山に没したる後なりしと。因に言ふ、仝会は当日某氏の発言にて日清戦争の際、朝鮮国平壌船橋里の戦に於て名誉の戦死を遂げたる故陸口歩兵一等卒贈正八位藤井竹一、及北清事変の際天津野戦病院にて病没せる故陸軍輜重輸卒斉藤熊市二名の墓へ、在郷軍人一同の名を以て一名を選抜して参拝せしむる為香花料を寄附し不日実行せしむる由」

(防長新聞、明治36年5月23日2〜3段)

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2006年11月01日

「予て在京防長有志間に於て唱道せられたる防長史談会は二十七日の日曜日を卜して歴史に最も因縁を有せる九段靖国神社境内能楽堂に於て産声を挙げ、盛なる発会式を挙行せり。発起者たる本田稔介、河内山英人、船越源一、江原善槌等の諸氏は、早朝より諸般の準備に忙殺され、当日は生憎朝来覆盆の大雨間断なく降り続き、剰へ雷鳴さへ劇しかりしにも拘らず、定刻一時には清水男爵、岡村陸軍中将、江木貴族院議員等を始め会員の会集するもの無慮二百余名に及ぶ。先づ江原善槌氏は発起者を代表して一場の挨拶をなして曰く、抑も本会の創立は寧ろ時勢の必要に迫られて起りたるものにして一朝一夕の事にあらず、回顧すれば開港五十年にして当時長藩と国是を異にせし井伊掃部頭の銅像除幕式問題も紛議せり。飜て今日社界[ママ]の状態を観察せば、殆ど金本位となり、拝金宗と化し去り、世は利益主義に傾き上下挙て品性を害し、学生は栄誉心に駆らるゝの時に際会せり。此時に当て歴史の研究は一の品性の養成となり、先輩の嘉言善行を識ることは哲人君子に逢遇することゝなり、自然品性の陶冶となるものなり。今や仰で朝を観察せば台閣の枢機は防長の先輩に依て充され、即ち伊藤枢密院議長を始めとし、桂内閣総理、寺内陸相、曾禰統監、佐久間台湾総督、大島関東州都督、宇佐川東洋拓殖総裁等悉く防長人ならざるはなし。其他又野には遺賢満ち、今日の防長は全盛時代とも云ふべし。然れども盛時久しからず満れば欠ぐるは世の習、先輩の凋落老衰は早晩免かれず、此時に当り先輩の衣鉢を継承するは吾人青年の責任なりとの要旨を述べ降壇するや、次で磯部検三氏は「長藩奇兵隊脱退の事に関し」藩の旧記に徴して有益なる講演あり。次で村田清風翁の裔孫峯次郎氏は「毛利敬親卿事蹟概要」の演題にて詳細なる二時間余に渉る有益談を試み、次で毛利藩の編纂主任たる中原邦平氏は「長藩勤皇史の概括的観察」の演題の下に尤も趣味ある講演を為し、終て会員一同に折詰弁当を饗し、散会したるは午後七時なり。本会は将来に於ては尤も有力なる会長を戴き、其他役員の選挙も夫々為す筈なれども、夫迄は当分当日推選に係る本多稔介、千々松勝蔵、河内山英人、船越源一、小島七郎、江原善槌の六氏が幹事となり其事務を執ることとなれり。当日来会者の主なるものは男爵清水資治、陸軍中将岡村静彦、貴族院議員江木千之、衆議院議員山根正次、増上寺道重信教、奈良法隆寺執事律口龍教、元裁判所検事粟屋景明、弁護士中村豊次郎、文学士横山達三、法学士太田嘉太郎、白根勝次郎、中原邦平、村田峯次郎、磯部検三、布施清介等の諸氏なり。因に記す。磯部検三、村田峯次郎、中原邦平諸氏の講演は来月発刊の雑誌に掲載して会員に頒つよし」

(防長新聞、明治42年7月2日2面。適宜、句読点を付した)

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2005年11月10日

「畝傍艦の遺物か  去る明治二十二年仏国より廻航の途次新嘉坡以東にて行方不明となりし畝傍艦の事は今尚我国人の忘るゝ能はざる処なるが、此程に至り其消息の一端を窺ふべき一報を得たり。先頃台湾澎湖島西峭澳合界頭郷土名小門に於て、帝国軍艦の拝戴せる御真影の額縁と思はるゝ物を所持せる土人あるを探知し、種々取調べたるに、同所五番戸に住む許意と称するものゝ所有にして、同人は三十年前海岸にて拾ひたりとか、或は十年前に拾ひたりとか答へ要領を得ざれども、馬公要港部の鑑定によれば、右は全く我が軍艦に下賜されたるものに相違なけれども、同海岸にて二十八年軍艦廣丙及び水雷艇には御真影なく廣丙の御真影は当時引揚げ他に斯る品のあるべき筈なければ、多分去る二十二年中行方不明となりたる軍艦畝傍のものならんとの鑑定なりと云ふ。因に軍艦に下賜さるゝ額縁は何れも同じく縦一尺七寸四分、横一尺四寸にて、菊の御紋章に桐と鳳凰との金蒔絵の輪廓あり」
(防長新聞、明治42年1月16日1面5段)


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2005年10月16日

「○故品川子爵一周年追悼会  去る十日午後二時より東京麹町区中六番町なる防長学生寄宿舎楼上に於て、故品川子爵一周年追悼会を開催せり。席上多くの遺墨を陳列し先輩諸氏は交々同子爵に関する談話を為し、終て茶菓の饗応ありて全く散会せしは同五時頃なりしが、当日出席者の主なるものは島田蕃根、村田峰次郎、河村正之、柴田家門、山根正次、上山満之進、原田豊次郎の諸氏、其他東京帝国大学、東京専門学校、東京政治学校法学院、明治日本法律学校、各中学校等の学生約五六十名なり」
(防長新聞、明治34年3月16日3面3段。句読点を適宜付した)

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2005年10月09日

「○遠洋漁業者の義勇艦隊  本邦遠洋漁業者は時局切迫の為出漁危険を慮り過日海軍省へ照会する所ありしに、同省にては一時見合す方然るべしとの挨拶あり。依て漁業者は本年に限り韓国附近にのみ出漁せんとの相談ありしも、是とて開戦の場合には到底出来得可からざる事とて、寧ろ漁業者全体にて一種の義勇艦隊を組織せんとて其相談中なり」
(防長新聞、明治37年2月6日2面3段、句読点を適宜付した)


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「○韓海通漁組合聯合会(第一日)  関西及び九州に於ける朝鮮海通漁組合聯合会は去る二十一日午後二時福岡県会議事堂に於て開会、出席者は左記各府県の主任官吏及び当業者二十七名にして、牧水産局長は議長席に着き大要左の如き報告をなしたり。
 韓海通漁組合聯合会の補助費として金一万円下
 付のことゝなり別紙の如く外務、農商務両大臣
 より命令書を受領せり(命令書は氏自ら朗読す)
 尚ほ諸君に向つて報道すべきは漁業者の海外旅
 券廃止に関することにして即ち従来は朝鮮其他
 の海外渡航漁業者は普通人民と同じく外務大臣
 より下付せらるゝ海外渡航券を携へざるべから
 ざりしが斯くては往復頻繁なる海業者に取り不
 便少からざるを以て種々外務省と交渉の末遂に
 漁業者に限り一切海外旅券を要せず往来し得る
 ことゝなれり又た今回の聯合会に関する議案及
 び予算案は諸君へ配付しある如くなるを以て充
 分審議せられたし此内聯合会々長の撰択に就て
 は余程彼の地の事情に通じ加ふるに領事と同等
 の徳望あるものならでは叶はざる次第につき目
 下慎重に人物の撰択中なり尤も当分は理事の首
 席者に於て会長の職務を取扱はゞ敢て差支へな
 かるべし(下略)
これより議事に移りしに城野大谷両氏より先例に依り委員附託となさんとの発議ありて異議なく可決、直に委員撰挙に移らんとせしに、これまた先例に依り議長の指名に一任することに決し、即ち兵庫県の唐端清太郎、山口県の岡十郎、徳島県の久米勘四郎、長崎県の城野威信、熊本県の大谷高寛の五氏委員となり、議案の全部及び予算案を附議することゝなり、閉会せり」
(防長新聞、明治33年5月24日2面1段)

「○海外渡航者と旅行券  従来外国渡航者には其所属官庁より特に旅行券なる者を下附し馬関長崎等発航の際及び到着の際に於て厳重なる警官の検閲あることなるが、右は元来移民取締規則と混交せるものにして、未知の外国に於ける便宜を得んが為めの紹介状同様なる旅券の有無を必ずしも問に及ばずとの議論は曾て屡耳にする所なりしが、今回外務省に於ても海外渡航者の自由を図らん内議ありて、先ず支那朝鮮地方の渡航者に限り旅券の有無を問合はさざることにすべしと聞く」
(防長新聞、明治34年8月14日2面2段)

「●清韓旅券の不用 清韓渡航者は旅券の携帯を必要とせしが自今韓国へ渡航するものは本人希望の外一切旅券を要せざる旨外務次官より各地方庁へ通牒せり」
(防長新聞、明治38年11月8日1面6段)

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2005年06月23日

この当時は山陽鉄道は三田尻(現在の防府市)まで開通しています。但し、下関・門司方面に行くには、手前の徳山駅で降りて、徳山港から山陽汽船に乗り換えねばなりませんでした。その乗り換えポイントを通過した外国人数が新聞記事になっています。これは、外事警察が扱う事項ですので、警察から取材したデータでしょう。

「○徳山通信    (略)    ▲客月中徳山駅及び山陽汽船にて通過せし外国人員を聞くに惣計二十二名にして此の内最も多きは英国人なりと云ふ」
(防長新聞、明治32年6月15日2面4段)



2005年6月19日、山口県立図書館にて調査

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「○在郷軍人心得  従来台湾に寄留せし在郷陸軍々人は本人の願に依り勤務演習の猶予及び簡閲点呼の免除許可せしとの事なるも、客年十一月陸軍服役条例改正の結果に依り、自今在郷の陸軍々人にして一箇年以上台湾に寄留する者は本人の願に依り同地に於て勤務演習に応じ得る事と定められたるに付、該当者は所管聯隊区司令官に願出で同官の許可を得て其の趣を台湾守備混成旅団長に届出づれば、即ち同地に於て勤務演習に応ずる事を得べきなり。尤も台湾には当分簡閲点呼は施行せざる事と定められたるに付、同地へ寄留の在郷陸軍下士以下は、自然の結果、寄留届のみにて免除となるべきに付、別段従来の如く免除出願を要せず。又た在郷軍人(将校を含む)願届書は総て本籍所管の郡町村長を経て聯隊区司令部へ差出すべき成規の処、従来往々本人より直接聯隊区司令部へ差出し来る者ありて聯隊区司令部の事務及び経費上其の不都合尠なからざる由なれば、将来充分の注意を要すべしとなり」
(防長新聞、明治33年1月24日2面3〜4段)


以下の記事と対比。結局、明治33年には、山口県の第42聯隊は、北清事変への出動があり、簡閲点呼は執行されなかった。

「○簡閲点呼に就ての注意  本年山口聯隊区管内簡閲点呼は来る八月一日より施行せらるゝ由なるが、寄留地に於て点呼に参会せんとするものは点呼施行期に切迫せざる以前、予め其の旨を願出づるを要するといふ」
(防長新聞、明治33年4月28日3面2段)

「○在郷下士以下の注意  山口聯隊区管内の簡閲点呼は既記の如く来る八月一日より執行の筈なるが、寄留地に於て点呼に参会せんとする者は来る七月二十五日までに同聯隊司令部に到着すべく出願せざれば一切許可せざる筈なる由」
(防長新聞、明治33年6月24日2面5段)


百科事典の説明。
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かんえつ-てんこ(簡閲点呼)
【兵】予備役・後備役下士卒(陸海軍共通)及帰休兵・第一補充兵(陸軍のみ)を召集してこれを点検実査すること。陸軍の簡閲点呼は其地所管の師団長これを掌り、海軍の簡閲点呼は其地所管の鎮守府司令長官これを掌り、各々これが時期を定め、簡閲点呼執行官(陸軍にては佐官又は尉官に就きてこれを任命し、海軍にては鎮守府兵事官又は海兵団分隊長に就きてこれを任命す)を任命して必要なる訓示を授け、以てこれを行はしむ。簡閲点呼執行官は、指定したる日時に指定の場所に召集せられ出頭したる者に対し、点呼名簿に依りて点呼し、所要の調査をなし、必要の訓示を与ふる職務のものとす。而して其場所・区域及日割等は、陸軍に於ては師団長の通達に依りて聯隊区司令官これを定め、海軍に於ては鎮守府司令長官の命令を受けて簡閲点呼執行官これを定む。点呼令状は、陸軍に於ては聯隊区司令官これを作り、海軍に於ては鎮守府司令長官これを作り、以て郡市長に送付し、郡長はこれを町村長に送付し、市長及町村長は規定の手続に依りてこれを招集せられたる各自に交付す。これが交付を受けたる者は指定の日時に指定の場所に出頭すべきものにして、傷痍・疾病其他事情に依りて出頭すること能はざる者(若くは本人に代りて令状を受取りたる者)は、点呼執行日時までに規定の手続を履みて簡閲点呼執行官に届出づるを要す。もし理由なくして出頭せず又は届出をなさざる者、又点呼の場所に於て簡閲点呼執行官の命に服せず又は其職務執行を妨害したる者は、科料又は拘留に処せらるゝものとす。詳細の手続に至りては、陸軍召集条例(三十二年勅令三九八号)及同施行細則(三十二年陸令二九号)、海軍召集条例(三十一年勅令二四七号)及同施行細則(三十二年海令一○号)を見よ。」
(日本百科大辞典第2巻、明治42年6月、三省堂書店発行)

 

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2005年06月21日

「○台湾航海定期船無料便乗券  貴衆両院議員及び商業会議所会員には、此度台湾総督府に於て発行せし台湾航海定期船便乗券及び台湾鉄道及び軽便線無料乗車券を与へ、無料にて旅行し得らるべき由は、本紙に記載せしか、右便乗券及び乗車券は昨日県庁に到達したるを以て、望みの者には申込次第直ちに発送する都合なりと云ふ」
(防長新聞、明治32年5月17日2面2段、引用に際し適宜読点を付した)



2005年6月18日、山口県立図書館にて調査


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いろいろと面白そうな断片を並べるためのカテゴリーです。
あとで適当なカテゴリーを作り、発言を移動することがあります。

鶏肋とはとりのあばらぼねのことで、大したものではないが捨ててしまうには惜しいものの例えです。料理法によっては、おいしい出汁[だし]がとれるかも知れません。

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2005年06月13日

遼東半島の戦跡見学を内容とした修学旅行に関する新聞記事を見かけた。山口県の地方紙に掲載のもの。

「○満韓修学旅行に就て   文部省にては本年も昨年の如く陸軍省へ交渉の結果、満韓修学旅行学生の為め諸般の便宜を与ふることとなり、来る十五日迄に県下に於ける修学旅行生の希望者取調方を本県庁へ照会し来りたり。因みに汽船は無賃乗船、満鉄は八割引、韓国鉄道は四割引にて乗車せしむることゝなりたるも、各宿泊料は一日に付一円乃至一円五十銭を要する由。而して船名乗船班其他は左の如し。
船 名 乗船班  人員  乗船地 乗船予定日数 揚陸地
吉林丸 第一班 八○○ 宇品  七月十五日   大連
樺太丸 第二班 五○○ 同    七月廿一日   同
吉林丸 第三班 八○○ 同    同 卅一日    同
樺太丸 第四班 五○○ 同    八月七日     同
吉林丸 第五班 八○○ 同    同十六日     同   」

(防長新聞、明治40年6月12日2面5段)




2005年5月29日、山口県立図書館にて調査

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