<主力戦艦と関門海峡>

2007年09月08日

9月5日(水)〜7日(金)、台風9号が関東東海地方へ接近するなか、東京へ赴き、つぎの記事のコピーを入手。その他周辺の調査をした。

(1) 「軍艦富士馬関海峡通過顛末」海軍大佐井上敏夫(水交社記事1巻4号、明治35年12月)
(2) 「瀬戸内航行ニ就テ」海軍大佐井上敏夫(水交社記事2巻1号、明治36年3月)
(3) 「軍艦吾妻下関海峡通航記事」海軍大佐石橋甫(水交社記事4巻1号、明治40年3月)


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2007年07月22日

日露戦争中の1904年12月から1905年1月にかけて、仮装巡洋艦「香港丸」と「日本丸」は、シンガポール・ジャワ島付近に派遣され、別に巡洋艦からなる分遣艦隊(現実には存在せず)とともに派遣されたように偽装行動をとった。二艦でシンガポールに寄港し、欧米マスコミの取材を受けたことと、バルチック艦隊が泊地とする可能性のある個所の実地調査をした。この時、井上敏夫大佐は、香港丸艦長であり、また先任艦長であったので、二艦の指揮をとった。

アジア歴史資料センターを「香港丸」で検索すると「極秘 明治37、8年海戦史」の記事がヒットする)

仮装巡洋艦の遠隔海域への投入という作戦の経験をもったことは、退役前後に、義勇艦隊建設を遊説して回るときに、説得力をもったであろう。

またこの作戦には、佐藤鐵太郎中佐が同行している。曰く、「又上村第二艦隊司令長官ハ、伊集院軍令部長ヨリノ注意ニ基キ、後来ノ作戦ニ資スルカ為メ、参謀海軍中佐佐藤鐵太郎ヲ香港丸ニ便乗セシメタリ」(294頁、第1編「露国増遣艦隊に対する作戦準備」第5章「香港丸日本丸の南洋巡視」より)。

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2007年07月04日

国立国会図書館近代デジタルライブラリーを見ていたら、井上敏夫海軍中将に「日本海員掖済会理事」として著作があることに気づいた。『海国民之事業』という題名で、奥付が付いていない。内容から判断して、明治43年頃の出版と判断できる。マハンの海上権力論を下敷きにして、海軍の後備としての海員、民間船の世界の意義を説明している。

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2007年06月17日

昨16日(土)、大阪府立中央図書館に行って確認した。『原敬関係文書 第8巻 書類篇5』(1987年、日本放送出版協会)に収録されているのは、「港湾調査会議事速記録 第二号」(明治40年10月23日開会の議事、同書91〜162頁)であった。



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2007年06月12日

ジュンク堂大阪本店(堂島)に立ち寄り、日本近現代史の棚を眺めていると、副田義也著『内務省の社会史』(2007年3月、東大出版会)が並んでいた。内務省に関する概説的な内容であるが、そのうちで、港湾調査会関連のページを開いてみると、調査会の議事録の所在情報が出ていた。

『原敬関係文書』第4巻に収録されているという。いずれ確認するはずだった史料集だが、そのなかに入っていたとは見落としだった。これで、論文「主力戦艦の関門海峡通過と海軍・政友会」執筆に関して史料的な穴がなくなったということだ。

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2007年05月03日

内海孝さんの論考「日露戦後の港湾問題---『港湾政策』の成立過程」(社会経済史学47-6、1982年)を読む。ネット経由で本文も見ることができる。

註に「(14) 『港湾調査会議事速記録』第1号、1907年、5頁(運輸省所蔵文書、以下『速記録』と略記)。」と記されている。この論文が書かれた当時、運輸省に『港湾調査会議事速記録』が残っていたことがわかる。

国立公文書館の電子目録を引いても出て来ない。捜し方が悪いためだろうか。国立公文書館に移管されず、国土交通省に残っている可能性も考えてみなくてはならないだろう。

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2007年03月28日

昨日と本日、東京に往復した。明治30年と32年の「水路」の項に、関門海峡の水路整備が海軍から見るとどのような課題だったのかを示す書類が残っているのを確認した。

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2007年03月26日

「○富士艦本日通過すべし  同艦は本日午後二時より三時までの間に於て呉より当海峡を通過し佐世保に向ふべし」
(馬関毎日新聞、1903年9月15日2面)

「○富士艦の通過 帝国一等戦闘艦富士は愈々本日午後の満潮時を以て当海峡通過佐世保に向ふ筈。同艦が昨秋通過の際は、海軍部内及び航海業者の注目を惹きしが、今回は兵器弾薬等を搭載せる為め先回より吃水約九吋を増加すべし。亀山社頭及び唐戸浜の見物者多からん。艦長は井上敏夫氏なり」
(馬関毎日新聞、1903年9月17日2面)


馬関毎日新聞は、1903年6月1日以降しか残存しないので、前年の第1回通過の記事は残らない。

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2006年08月18日

昨日から、つぎのようなキーワードでサーチエンジンを検索する人たちが訪れている。いったい何がどこで話題となっているのだろう。

「関門海峡 戦艦 航行」
「関門海峡 戦艦 通過」
「関門海峡 戦艦長門」
「関門海峡 戦艦」
「関門海峡 主力艦」


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2006年08月05日

井上敏夫について論及している先行研究はないかと探してみると、土田宏成(神田外国語大学教員紹介ReaD研究者DDB)さんが書いたつぎのものが見つかった。

土田宏成「戦前期陸海軍出身議員に関する予備的考察」(史学雑誌109-3、2000年3月)

"本稿では何よりも第一に、戦前期全般にわたって陸海軍出身者が貴衆両院に何名進出していたのかということを明らかにしたい"という目的から作成した「表1:陸海軍出身衆議院議員一覧」の上から5人目に、井上敏夫の名前が見える。

なお、土田さんは、現在書店に並んでいる『日本歴史』699号(2006年8月、吉川弘文館)の歴史手帳欄に「第一五回総選挙における軍人の立候補」を載せている。前稿の続編に当たる。

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2006年07月31日

「三重県 井上敏夫」および「代議士 井上敏夫」で検索して、当ブログにたどり着いた方がいた。どんなことから、海軍少将井上敏夫に興味をもったのだろう。

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2005年10月16日

「○大戦闘艦関門通過に就きて  有馬司令長官の率ゐる第一艦隊の鹿島、香取磐手の三大艦が舞鶴より呉へ廻航の途次八日午前十時舳艫相喞[「ふく」とルビ]んで西より東に関門海峡を無事通過したるが、斯る大艦の同海峡通過は実に今回を以て嚆矢とするものにして、頗る壮観を極めたると同時に、我海軍に於ける従来の所信を実証し、併せて各艦長以下艦員の技倆の卓絶せるを明示するものなることは、敢て多言を要せざる処なりとす。右に付き某海事通の語る処を聞くに、関門海峡の水深は如何なる大艦巨舶とて現在の吃水にては差支なく通過し得べしとは従来海軍の確信せし処にして、今回の如きは単に其所信を実証せんが為め司令長官が其幕下に在る各艦長の技倆を確信して之を断行し、所信の如く些の故障を見ず無事に通過して其成績を挙げたるものにて、特更に危険を冒して新航行を遂けたるものとは同一に談ず可らざるものなるも、左ればとて今回の如き大艦が無事に同海峡を通過したるは空前の事実なれば、将来に於ける利益も亦実に想像に難からず。曩に三十五六年頃に於て彼の富士も同海峡を通過し居り、次で其後常磐も亦之を実証し、近く昨三十九年に於ては吾妻之を通過したるの実例ありと雖も、一萬九千噸以上の大艦が而も三艦相率ゐて堂々之を通過したるは最も利益ある経験を得たるものなるは明なり。而して同海峡水道の狭隘なるは常に之を通過する船舶の憂とする所にして、之が為めに艦船の相行合ふ場合に於ては種々の危険を感じ、或は衝突し、或は浅瀬に乗上ぐる等の遭難少なからざりしものなるに、搗て[「かてて」とルビ]加へて同海峡水路の延長と潮流の急速とは其遭難に関つて大に力あるものとして航海業者の常に一致する処なり。之が為めに七八千噸以上の船舶は一般に同海峡の通航を避け遠く外海を迂回して航行するを適当と認め居るものなるにも拘はらず、彼の商船の如きは種々なる事情の下に止むを得ず同海峡通過の危険を冒すを稍普通の状態となすものなるが、今其理由とする二三の点を挙ぐれば、内外船に於ては門司に於ける石炭積込の必要を理由とし、亦外国船に於ては乗客の瀬戸内海観光の必要等を理由とし、尚此外に外海を迂回すると否とに依る航程の長短を斟酌するは何れも同一なり。而して以上の理由より彼の太平洋汽船会社船の如き大船も、概ね同海峡を通過し居れり。然れども軍艦としては以上の貯炭観光航程等の如きは何等の関係なきのみならず、却て他の船舶の障害たるべきを慮り常に外海を迂回するものなれど、外国軍艦にては必ずしも然らず、多少観光等の理由もあらんが大抵同海峡を通過し居り、昨年来訪したる彼の英国艦隊の如きも亦同様なりしなり。然れども、前后二回に於て二隻の英艦が馬関の西、海峡の北方西部に座礁したりし事ありしを記憶す。其他商船の如きは現に七八艘は沈没し居れり。尤も今回の如きは前日より海峡の両口に於て先払を為す為め他の船舶を避けしめ置き、潮流のタルミを待ちて午前十時に通過を遂げたるものなれども、常に斯の如き迂遠なる方法を取らんより寧ろ航路を外海に転じ他の支障なき大海に於て充分の速力を以て進行せば、却て其決行時期を待合すよりも遥に時間を節約し得べきものなる故、平時には敢て商船の如く危険を冒して同海峡を通過するの要なし。然れども一度び其実験を経たる上は一朝有事の場合に際せば彼の海上衝突予防法の如き束縛も敢て関する所に非らざるを以て、平時の如く彼の一小帆船などゝの衝突を避けんが為に大艦が自ら危険に陥るが如き愚を為さず、自艦に支障を生せざる範囲を限り是等を犠牲として通航せば、所信通り何時にても通過し得べきを確信せらるゝ事となりたるものなり。何にせよ今回の挙の如きは大快事にして亦一大実験なり云々」
(防長新聞、明治40年6月19日2面2段)

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2005年09月17日

以下は、前回『防長新聞』を通覧した時には、その重要性に気づかずメモを取り忘れた記事である。探し出し、コピーをとった。
井上敏夫は、前年、明治39年に予備役となった。退役後のこの頃は、帝国海事協会の義勇艦隊献金集めのための遊説などに参加している。三重県から衆議院議員に当選するのは、翌年、明治41年5月15日の第10回総選挙のことであった。
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○関門水路整理策
     (井上海軍少将談)
嘗て戦艦富士の艦長として馬関海峡を通過し当時内外航海家をして驚嘆せしめたる現井上海軍少将は同海峡の整理に関し語つて曰く
▲マカロフ中将の言 露国海軍の名将故マカロフ中将は常に部下の将校に対し「戦時に冒すべき危険は平時より之を冒すことを練習せざるべからず」と戒飾せり是れ啻に露国海軍の服膺すべき至言たるのみならず世界列国海陸軍々人の共に採つて以て他山の石とすべきもの余の如きも深く其言を理ありとし可及的之が実行を期し来れり嘗て富士の艦長として関門海峡の通過を計りたるが如きも畢竟同海峡が戦略戦術に密接至大の関係を有し我海軍将士が之を熟知すると否とは延て国運の泰否にも影響する所あるべきを深く信じたるが故にして其実行には優に一年の水路海底の調査及び先輩の助言を得て三十五年八月廿六日午前十時より十一時の間に於て之を決行し幸に成効[ママ]する事を得たり而かも当時富士の艦橋にありし余は自から禁じ難き戦慄と常になき渇を覚えて前後二回水を呼びたる程なりし是れ実に我邦海軍ありて以来平時に於ける一大果断的行動たりしを以てなり然るに近く富士の排水一万二千四百五十噸に比し大艦香取、鹿島が舳艫相喞んで同水路を無事通過したるは実に我海軍の為めに慶すべき事なると共に前記マカロフ中将の金言実行の時来りしを併せ祝するものなり
▲同海峡の潮候と範囲 所謂馬関海峡なるものは東口の部崎より西口六連島に至る一道の狭水路にして其間彦島、巌流嶋、與次兵衛岩、干珠、満珠両嶋其他数個の島嶼碁布し東口の檜ノ山砲台、門司岬端間の如きは僅に一ケーブルの幅員を有するのみ(嘗て日露戦役記念橋架設の説ありし個所)

▲理想的整理

▲関門両市の移転

▲第二第三の策

▲泥の港と金貨の港

(入力途中)


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2005年08月24日

山口県立山口図書館にて、『防長新聞』明治36年6月〜10月上旬を読む。

7月上旬、武徳会山口県支部の発会式。

10月上旬、系統農会の県支部が未設置だった沖縄県・山口県のうち、山口県の支部が発足。知事渡辺融は、知事や郡長が長となるのは避けるべきとの意志を示し、実際、県農会長にはなっていない。県知事が県支部長になる官製団体とそれ以外の組織形態との境界がどこにあり、なぜそうなのかという疑問から気になった事柄。

*

戦艦富士が二度目の関門海峡試航を実施。今回は弾薬、石炭を満載にした状態での通過。開戦後の運用を意識したもの。艦長井上敏夫は間もなく艦長職を離れる。

井上は、明治39年、予備役に編入。帝国海事協会の義勇艦隊募金の遊説に参加。第10回・第11回総選挙に三重県より選出。第2次桂内閣時に、船舶検査法の中改正案を議員提案し、立憲政友会を基盤に成立させている。

第一次西園寺公望内閣時に原敬内務大臣の手によって行われた関門海峡の港湾・航路整備が、政友会と海軍の接近の伏線になっているのではないかと気づく。日露戦争後の主力戦艦が関門海峡を通過できるように航路を整えることは、なによりも海軍にとって重要なこと。


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2005年07月27日

以下、第13回(2005年7月7日)。

つぎのように書いたメモを配布。
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 先週から今週・第13回までの間、山口県立図書館で防長新聞の1902・明治35年を閲覧した。この年2月、日英同盟締結が公表されたが、しかし、直ちに日露戦争に直結する動きは出ない。中央では、第三次海軍拡張の予算をどうするかについて議会が紛糾し、地租増徴が継続されることとなった。山口県では、武徳会の山口支部が設置され、支部旗が本部からもたらされた。また、海員掖済会の会員募集の記事も散見される

 同年8月26日2面3段のつぎの記事が目につく。先週配布した『山口県警察施設ノ主眼』(山口県警察部、明治42年)のうち「附 関門間海難減少策ニ関スル意見」と照合すると、海軍の艦隊運用にとって関門海峡のもつ重大性と、その関連で、海軍水路部(水路調査)・逓信省管船局(民間船舶管理)・内務省土木局(港湾整備)・山口県および福岡県警察部(下関水上警察署、門司水上警察署)が関連する課題が存在したことが推測される。

「○水雷敷設の付属船  呉水雷団敷設隊付属船那沙美丸は去る二十三日下関港に碇泊し同港附近に於ける海上の調査に従事しつゝありしが、同船には牧村海軍中佐以下十九名乗組み居れり」
「○富士艦の通過  帝国軍艦富士艦は一昨日午後六時六連島沖合に投錨、昨日一日間は碇泊し、本日午前十時抜錨、東に向ひ関門海峡を通過する筈なるが、同艦は実に一万二千六百八十七噸の大戦闘艦にして、此の海峡を通過するは今回を以て之を嚆矢とす。右に付水上警察署は他船に於て此航路を妨害せんことを慮かり、一昨日港湾内に繋泊の船舶に対し相当の注意を促したる由」
(防長新聞、明治35年8月26日2面3段)

 明治39年か40年に、この時の艦長へのインタピュー記事あり。メモ未採取
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この日、講義全体のまとめを試みたが上手く行かなかった。翌週までに出会った史料と視点を欠いていたためと思われる。

以上、第13回(2000年7月7日)。







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2005年07月05日

日露戦争当時の主力艦が関門海峡を通過できるのか否は、海軍省水路部(水路調査)・逓信省管船局(民間船舶管理)・内務省土木局(港湾整備)の境界領域にあり、また、戦時における艦隊の運用にかかわる可能性のある事項である。


防長新聞、明治34年(1901年)

「○山県管船局長の視察  逓信省管船局長山県伊三郎氏は去る十二日港湾巡視管船事務調査の為め馬関に来たり春帆楼に投宿中なるが、今日午後四時より藤井門司港務局長及び目下滞関中の河北本県代議士と共に下の関港湾を巡視し港務上諸般の調査を遂げたり。本日帰京の途につく筈なりと聞く」
(防長新聞、明治34年6月16日2面1段)

「○将校の出発  [略]   九州各地沿岸視察中の水路部長海軍少将肝付兼行氏は五日馬関発鉄路神戸に向ひたり」
(防長新聞、明治34年9月7日2面5段)

「○石川海事官の来県  逓信省海事官石川武之氏は去る五日本県へ出張を命ぜられ不日来県の筈」
(防長新聞、明治34年9月10日2面5段)

「○海務打合せ会  一昨日午後一時より赤間関水上署、下の関海務署、門司港務局、関門両税関署、門司検疫所の官吏等は右検疫所に会合して海事に関する総ての打合せをなしたり」
(防長新聞、明治34年11月27日2面4段)


防長新聞、明治35年(1902年)

「○海事官の出張(二十日午前十一時東京発)  石川海事官山口県下へ出張を命ぜらる」
(防長新聞、明治35年8月21日2面1段)

「○水雷敷設の付属船  呉水雷団敷設隊付属船那沙美丸は去る二十三日下関港に碇泊し同港附近に於ける海上の調査に従事しつゝありしが、同船には牧村海軍中佐以下十九名乗組み居れり」
「○富士艦の通過  帝国軍艦富士艦は一昨日午後六時六連島沖合に投錨、昨日一日間は碇泊し、本日午前十時抜錨、東に向ひ関門海峡を通過する筈なるが、同艦は実に一万二千六百八十七噸の大戦闘艦にして、此の海峡を通過するは今回を以て之を嚆矢とす。右に付水上警察署は他船に於て此航路を妨害せんことを慮かり、一昨日港湾内に繋泊の船舶に対し相当の注意を促したる由」
(防長新聞、明治35年8月26日2面3段)

「○海底の測量  横浜航路標識管理所の山中技師及び柴田海軍少佐等は逓信省の小形汽船水の子丸にて佐賀関より彦島村に来たり其の附近の海底を測量し且山野の地質調査中なるが、来る十四五日頃には全く結了すべしとの事にて、或は燈台建設の計画ならんと云ふ」
(防長新聞、明治35年10月9日2面2段)


防長新聞、明治36年(1903年)

「○那沙美丸の入港  呉鎮守府の御用船那沙美丸は十四日午後六時下関へ入港、阿弥陀寺町沖合に碇泊せしが、其用務は壇之浦及び彦島等に分派の交代水兵輸送及び壇之浦六連間水雷敷設の用務を帯びてなりと云ふ」
(防長新聞、明治36年1月17日2面4段)

「○艦船通過と海峡航路標識  昨年一等戦闘艦富士の馬関海峡を試航したることあり。当時同艦長たりし海軍大佐井上敏夫氏は、此程其実見并に所感を精細に記述して発表したる中に、馬関海峡の航路標識に関する意見あり。曰く、馬関海峡に於ける航路標識は殆ど完備し普通艦船の航路には遺憾なきが如くなるも、吃水大なる艦船、特に暗夜の通過には猶未だ全からざるものあるが如し。富士艦の実験に於ても門司崎より中の洲東端の浅堆を通過し終るまでの航路に於ては頗る不便を感じたり。依りて今後更に左の如く設備を加ふれば、今日我海軍既存の大吃水艦に対し極めて便利なるべし。
 東口中の洲東端現存の浮標を撤去し更に左の三
 浮標を新設すること
 満珠島の東端と北八度西に望む一線と部崎燈台
 を南二十七度西に望む一線との交叉点唐櫃山と
 北六十九度西に望む一線と部崎燈台を南二十六
 度に望む一線との交叉点
 筆立山と中の洲西浮標とを一線に望む線と部崎
 燈と満珠島の東端とを接する一線との交叉点
 前記三浮標共に点燈装置を要す
馬関海峡の潮候即ち潮流の速度、方向、高低、憩潮時、反回時等の風の強弱、風向、温度、気圧高低等に従ひ大なる差異を生ずるが故に、之か定率を検定し且つ航路標識を整備し大艦の航通を容易ならしむることは、軍事上に至大の関係を有するものなれば、其筋に於て充分の調査を遂げられ相当の設計を立て関係者に交渉して一日も速に之が完備を期せられんことを望む。特に航路標識の如きは少なくとも呉鎮守府出師準備計画中に規定し置かれんことを希望す云々」
(防長新聞、明治36年2月4日1面3段)

「○下関海峡の掲燈浮標  長門国下関海峡の西口俎掲燈立標の南微東浅洲上に定置せる高瀬掲燈浮標は燈器破損のため当分の内白色不動の碇泊燈点火の旨告示せしところ、本年一月二十八日より従前の通りピンチ式瓦斯明暗燈を点火せる旨逓信省より告示せり」
(防長新聞、明治36年2月10日3面2段)



同紙には、日露戦後になって、この時の艦長がインタビューに答えた記事があった。メモを取り忘れたため、もう一度さがさないと特定できない。




2005年7月2日、3日、9日、山口県立山口図書館にて史料調査

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