<海事・海軍史>

2007年05月16日

昨日、15日(火)は東京へ日帰りし、国会図書館で、海軍の将校団体である水交社の機関誌、『水交社記事』1号(1890年6月)〜44号(1894年2月)を通覧してきた。

寄書「海上ノ権力ニ関スル要素」「日本ノ海軍ニ関スル欧米学士ノ意見」が金子堅太郎から寄せられているのが、37号(1893年7月)であった。

その二つの論考の前に、『水交社記事』の編者によるつぎのような紹介がある。編者とは、肝付兼行と澤鑑之丞の二人である。
「此両篇ハ金子堅太郎氏ヨリ我か海軍大臣西郷伯ヘ贈呈セラレ同伯ヨリ又我カ社員参考ノ資ニトテ寄セラレタルモノナルガ、一ハ即チ彼ノ米国ノ海軍大佐マハン氏ノ近著ニ係ルゼ、インフリューエンス、オフ、シー、ポワー、アポン、ヒストリー第一篇中ノ要領ヲ綱訳セルモノニシテ、一ハ即チ同氏ノ先キニ欧米巡回中ニ面会セラレシ諸家ノ日本海軍ニ関スル各意見ヲ集メシモノニ係ル。乃チ前者ノ原書ハ我々ノ既ニ有益ノ著トシテ許ス所、後者又其各意見ノ切実ナルト切実ナラサルトニ論ナク特ニ我海軍ノ為メニ吐クル所ノ説ナルヲ以テ両者共ニ我カ社員参考ノ資ニ供シテ蓋シ必ス益アルベキモノナラント信ス」


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白石崇人さんのブログ「教育史研究と邦楽作曲の生活」のうち、発言「肝付兼行について

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2007年05月09日

大日本教育会雑誌を、1890年〜1895年の範囲を通覧。99号(1890年8月15日)に、論説「海事ヲ論シテ教育家諸君ニ望ム」有地品之允というのが目についた。日露戦争前後の帝国海事協会理事長が、現役時代にすでに、教育というチャンネルに着目している。

書き出しは、「余ハ海軍人ニシテ教育家ニ非ズ、然レドモ、今回大日本教育会会員ノ末席ニ列シタルニ依リ、一ノ海軍人タル資格ヲ以テ、教育家諸君、重モニ中小学ノ教員諸君ニ希望スルノ一事ヲ略述セント欲ス」である。


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ブログ「教育史研究と邦楽作曲の生活」発言「大和ミュージアム」

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2007年05月08日

帝国海事協会の機関誌となった『海事雑報』のうち、1906年、1907年の分を通覧するために、大阪中央図書館に往復した。実は、この時代、この雑誌に、匿名の「Q.S.T.」という人物が連載記事を書いている。1891年8月〜9月に『国民之友』に登場したのと同じ匿名である。肝付兼行、ないし、肝付兼行をリーダーとした匿名集団が「Q.S.T.」であると推測している。

以前は、市バス110系統で天満橋へ出て、谷町線から谷四で中央線に乗り換えるルートだった。これだと、70分かかる。市バスで太子橋今市へ出て、そこから今里筋線で緑橋、緑橋から中央線で近鉄へ入り一つ目の荒本下車のルートだと、50分で済む。

「Q.S.T.」とは、"Quest Sea Tide"ではないかと密かに考えている。


[追記、2007年5月12日] 伴正利・編『兵商論』が、1891年7月に出版されていたことを知る。内容は、『国民之友』掲載の「兵商論」とまったく同じ。奥付によると「売買禁止」の条件で出版され、帝国図書館の前身、東京図書館に納められたものが残る。

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2007年04月21日

CiNiiを「徳富蘇峰」で検索すると、三つ目に、梅津順一さん(聖学院大学政治経済学部)の論考「徳富蘇峰と『力の福音』---『将来之日本』から『時務一家言』へ」が表示される。全文が読めるので、印字して、通読してみた。
徳富蘇峰が、1913年12月刊行の『時務一家言』で過去を回想した枠組みに従い、『将来之日本』と『時務一家言』を対比的に読むと、この論文が示すような歴史イメージとなる。

海軍と政友会によって、桂太郎が政治的に失脚に追い込まれた直後に、1886年の上京以来歩んできた道を回顧すれば、日清戦争と三国干渉で前後に別つ、二期区分のパーソナルヒストリーとなる外ないであろう。
その際、蘇峰は、海軍(肝付兼行)と発言を共有し、薩派(松方正義)と行動を共にした1891年から1897年を自分の履歴として語るのを避けるため、三国干渉の衝撃を過大に叙述し、マンチェスター派を援用した若気の至りを強調した。
日清戦争以前の自分を低く位置づけ、日清戦争以後の自分を肯定的に描いた。しかし、実際には、米原謙氏のいわゆる「便宜主義」的戦略主義で一貫していただけである。

大正政変以後のこの時点では、まだ、山県有朋、寺内正毅との交流は続いている。海軍中心の軍備を唱え、台湾占領を提唱した時代について蘇峰が語るのは、昭和に入ってからである。

*

1929年刊『台湾遊記』と1935年刊『公爵松方正義伝』において、松方正義の意見書起草を通じて、また、『国民之友』『国民新聞』の論調を通じて、台湾占領に関与したことを認めた。

しかし、この時代になっても、蘇峰は、自分をマハンに私淑した弟子筋であったと語ることはない。また、1886年刊『将来之日本』から1894年刊『大日本膨脹論』への主張の転換において決定的な影響を受けた海軍水路部長肝付兼行の名は、1935年刊『蘇峰自伝』にまったく一度も出てこない。

米国に対して19世紀末まで歴史を遡って、マハン、ロッジ、T・ルーズベルトを非難する以上、若い頃、同じ台本(マハン海上権力論)で自分も動いていたことを認めることはできなかったと推察される。

*

もう一つの事情がある。肝付兼行は、日本海員掖済会、帝国水難救済会、帝国海事協会を実質的な海軍の外郭団体化することに、継続的に関わった人物である。海軍の一般社会に対する関係構築の担当者、海軍の広報担当として有能な働きをした。大日本教育会、帝国教育会の幹部にも長くとどまり、学校教育というチャンネルを経由して、海事と海軍に対する理解と支援を得ることに努力した。

日露戦後における海軍と政友会の接近は、この海軍の「拡大された外延部分」を支援することを通じてなされた。

第1次西園寺公望内閣の内務大臣となった原敬は、(1) 港湾調査会を通じて、港湾整備に関して海軍との関係を深めた、(2) 海事協会が日露戦争中に始めた義勇艦隊建設募金を支援した。同時に原は、大浦兼武が関わった大日本武徳会の募金活動に警察官が関わることを掣肘するため、警察官の諸公共団体の募金活動への関与をやめるよう訓令した。

『蘇峰自伝』によれば、蘇峰は、大浦が調達した資金で、第2次桂内閣当時から、「勉強館」という名の記事情報提供センターを設け、各地方新聞に対して社説に使える論説を送るなどの活動を行ったという。山県有朋、桂太郎、寺内正毅たちと付き合ううちに、かつて日清戦争当時、同じ側にいた海軍、しかも、外郭団体や世論の支持を獲得する試みが成功しつつある拡大された海軍と、政治の場で対峙することになった。

こうした条件が、日清戦争前後を回顧する『時務一家言』の叙述に反映している。


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2007年04月03日

急いで書いてしまおうと始めた。構想の目次として。

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徳富蘇峰と日清戦争再考

 はじめに

一、発端となる論点
1. 平民主義と生産主義は将来の軍拡を視野に入れていた
2. 蘇峰は、国内政治にも国際政治にも、戦略的発想をした
3. 蘇峰は、社会的影響力の獲得と行使を区別し、実行した
4. 日清戦争時、蘇峰は自らを、対外硬的スタイルの対極に位置づけた(意見修正↓)
5. 蘇峰は、松方正義を通じて台湾占領計画に関与した
6. 肝付兼行「兵商論」が『大日本膨脹論』への道を開いた(意見修正↓)
7. 肝付兼行は、マハン海上権力論の最も初期の紹介者であった
8. マハンの影響を受け義勇艦隊建設の発想が登場した

二、回想のなかの遼東還付
1. 『時務一家言』
2. 『蘇峰自伝』以後

三、海上権力と台湾占領
1. 『台湾遊記』『公爵松方正義伝』
2. 遼東半島割譲要求に反対という回想

 おわりに
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内容を構成することが可能となった前提として。

1. 澤田次郎著『近代日本人のアメリカ観----日露戦争以後を中心に』(1999年)が、徳富蘇峰の言説における「白閥打破」の初出を、1913年5月4日の国民新聞社説「白閥」であることを確定したこと。
2. 斉藤聖二著『日清戦争の軍事戦略』(2003年)が、日清戦争が「緒戦期」から「講和期」へ移行する1894年11月〜12月において、台湾占領への道が現実のものとなった際、伊藤博文首相の意向が大きく関与したことを抽出したこと。
3. 米原謙著『徳富蘇峰』が蘇峰を「便宜主義」と捉えることから示唆を得て、蘇峰を戦略的な動きをする人物と理解できたこと。
4. 1891年の蘇峰における軍事政策論の転換が、海軍水路部長肝付兼行との関係を通じて生じたことを新たに見つけたこと。
5. 1896年4月の外遊事情説明の文章に、陸奥宗光外務大臣と同質の対外硬への批判的姿勢を見つけたこと。


[2011年11月15日、追記]
発端になる論点の「4.」「6.」は、意見が変わった。「6.」については、「兵商論」の著者は肝付兼行ではなく寺島成信であることを、この後に知った。最近紀要に載せた「国家将来像と陸海軍備をめぐる海軍と徳富蘇峰」にまとめた。「4.」については、日清戦争後の回想のなかではそのような言説があるが、日清戦争中には硬六派つながりから脱却したわけではない。回想と行動に落差がある。

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2006年12月21日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」 2006年12月21日(木)1,2時限


垣田純朗編『日本国防論』(明治22年1月、民友社)について、『蘇峰自伝』(1935年、民友社)第10章「日清戦役時代と予」一「明治二十七八年役と予」には、つぎのように記されている。川上操六との出会を回顧するなかで、曾我祐準への論及がある。
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従来予は川上将軍とは、何等の縁故も無かつたと云はんよりも---川上将軍が予に対して如何に思うてゐたかは知らぬが---予としては、川上将軍には決して好感を持たなかつた。と云ふ訳は、予は父の執[とも]として曾我老将軍と懇意であつた。而して老将軍と共同して、『日本国防論』なるものを、明治二十一二年の頃『国民之友』に掲げて、手酷く当時の陸海軍に対する批評を試みた。而して曾我将軍等は、当時の参謀次長川上操六、陸軍次官桂太郎等に排斥せられたる人々であれば、その人々が彼等に対して、好感を持つ筈はなかつたからだ。
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(同書、296頁)
もともと、『国民之友』の連載なので、編者の垣田は、それを本に編集する担当者ということである。論考の筆者は蘇峰であると考えてよい。

ところが、1891年8月3日付『国民之友』第126号には、匿名の寄稿家「Q.S.T.」による特別寄書「兵商論」が掲載される。「Q.S.T.」は、水路部長肝付兼行である。(判断の理由はいずれ発表原稿に書く)

この民友社・国民新聞社の国防論の転換、即ち、輕武装の陸軍中心の軍備政策により国防費の抑制を図ることから、民間船舶や海外居留邦人を保護する平時にも有用な軍備としての海軍中心の政策への主張転換は、曾我祐準から肝付兼行へのアイディアと情報源の変更によって発生した。

20061222明治の海軍・平成の海軍
明治の海軍とは、現在の海上自衛隊と海上保安庁を併せた領域を担当する国家組織であった。
明治期における海事とは、現在の海洋開発・宇宙開発を併せたフロンティアを意味していた。

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2006年11月14日

「  会員諸君へ広告
来る四月十日神戸港外に於て挙行せらるゝ
観艦式へ本会々員の陪観差許さる拝観
を望まるゝ向は会員章佩用九日正午迄
に神戸市東川崎町五丁目本会事務所へ
御申出の上乗船券を受取らるべし
   東京麹町区八重洲町
      日本海員掖済会
●拝観船は汽船広島丸とす●但乗船員満員に達し
 たる後は陸上観覧場へ案内す●当日船内にて昼
 食弁当を供す●服装男子は洋服若くは羽織袴女
 子は着服御注意の旨           」

(防長新聞、明治36年3月31日4面3段、広告欄)


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2006年11月12日

「○外国船和船を沈没せしむ  去一日午前八時頃広島県豊田郡佐伯村谷本嘉四郎所有の帆船福栄丸(九十噸)は石炭廿六万斤を若松にて積込み泉州堺へ回航途中、豊浦郡長府満珠島の沖合に於て、独逸郵船スタカルト号の東上し来りたるより、福栄丸は危険々々を絶叫するうち、早や郵船は肉迫しアワヤと云ふ間もなく衝突し、船体大に破壊し僅々五分間にして福栄丸は沈没し、五人の乗組人は船体破砕の木片に取付き漂ひ居たるを、スタカルト号より短艇を卸ろし四人を救助して本船に引揚け其侭東行し、残り一人は通り掛りし小形汽船旭丸に救助せられたるが、此事実を聞きたる下関水上警察署は直に現場へ出張し取調を遂げたりと云ふ」
(防長新聞、明治36年2月4日3面2〜3段)

「○外国船和船に衝突す  去七日午後三時三十分頃諾威[ノールウエー]国汽船ドラデス号は豊浦郡彦島村舞子島沖合にて大島郡某の石炭船に衝突して石炭船は沈没し三人の乗組は漁船に救助さる。又香港シャーデンマヂソンの郵船ヒンサン号は同日午後一時頃豊後沖合にて一隻の和船に衝突し、是又沈没せしめたる旨一昨朝下関水上警察署へ通報し、本船の停船を出願せり」
(防長新聞、明治36年3月14日3面2段)


2006年度前期「歴史学機迷7週〕山口県における水難救済会の成立(その3)---地域における海事3団体 」、あるいは、2005年度前期・歴史学機明治期の海事にかかわる状況。総括的まとめ〔第14週〕」に追加してともに理解すべき素材。

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2006年08月05日

海事協会を海軍協会と誤読・誤記する例がある。本来の歴史上実在した海軍協会は、土田宏成さんの研究している団体で、創立は1917年(大正6年)10月、機関誌の創刊は1922年(大正11年)3月である。

ところが、国会図書館や国立公文書館の電子目録を検索していると、それ以前の時期に「義勇艦隊」建設募金や「船級検査」を行なっている団体として「海軍協会」という団体が存在するような項目が散見される。→国立国会図書館近代デジタルアーカイブポータル。→国立公文書館についてはつきの画像をクリック。
海軍協会



これは、「海事」協会を、「海軍」協会と誤読・誤記したのに違いない。草書体でも活字体でも「事」と「軍」は似ているし、海「事」協会という団体の存在を事前に知っていないと、海「軍」協会といういかにもありそうな団体名として読んだ上で、書いてしまうことになる。

また類似例として、逓信省編『逓信事業史』第6巻(財団法人逓信協会、1941年2月)の目次において、第十篇「管船」のうち、第七章を「海軍団体」と誤記している。なお同巻本文では第七章「海事団体」とある。本来、目次でも「海事団体」と記されるべきものであった。


[2012年7月6日(金)追記]
国会図書館HPから「問い合わせ」にメールして訂正していただきました。


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2006年06月04日

海軍水路部長・肝付兼行が「我が海国的価値を論じて国民の覚悟に及ぶ」(帝国水難救済会機関誌『海』第1号、明治33年7月18日発行、3頁)のなかで語ったつぎの文言あり。

「海権即ち海上権力なるものを論ずるには、我海軍水交社の反訳にして、前年已に宮内省より全国の師範学校及中学校等へ下賜ありし所の海上権力史論と称する書に依るに若かずと信ず」
「我海軍水交社に於て翻譯し、東方協会に出版せしめたるに、特に宮内省へ三百部御買上になり全国の師範学校、中学校へ下賜あるに至りしも偶然ならざるなり」


水交社訳『海上権力史論』は1896年刊。



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ブログ「教育史研究と邦楽作曲の生活」発言「大和ミュージアム」

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2006年04月30日

文京区片町の杉原書店「古書目録 No.195 2006年5月」に、「6043 帝国海事協会沿革史 同協会用箋に毛筆記述 1綴  明治32  31,500」とあるのを購入した。「明治32」とは、内容の始まりが「明治三十二年十一月十五日帝国海事協会創立総会」となっているため、古書店がそのように筆記したためである。記述の終りは、「有地副総裁薨去」(大正8年1月17日)である。

帝国海事協会や、そこから分離した義勇財団海防義会については、つぎのような年史が上梓されている。刊行年順に列記すると。
(1) 『義勇財団海防義会十五年史』、義勇財団海防義会、1938年4月。
(2) 『日本海事協会五十年史』、財団法人日本海事協会、1949年11月。
(3) 『日本海事協会七十五年史』、財団法人日本海事協会、1976年10月。
(4) 『日本海事協会----その100年の物語』、財団法人日本海事協会、1999年11月。
(1)の冒頭、第一「本会設立由来」は、つぎのように書き出されている。「大正十一年一月社団法人帝国海事協会(現在は財団法人)は時勢の必要に適応するため、曩に其の事業の一部として明治三十七年十月創設したる帝国義勇艦隊部を同協会より分離し、之に所属する資産を以て寄附行為に依り別に財団法人を設立せり。是れ即ち現今の『義勇財団海防義会』にして、其の目的とする所は、義勇艦隊建設の精神に則り帝国の海防に貢献するに在り」。この組織分離の前後の時期に、未完に終った『帝国海事協会沿革史』が試みられていたのかも知れない。

帝国海事協会の機関誌を確認した上で、この史料が翻刻する価値がありとすれば、紀要に載せようかと思う。また、いずれ、公的史料保存機関へ寄贈したい。

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2006年04月05日

★この発言から「新谷恭明の講義と演習」のなかの「歴史的想像力について」という昨年10月の発言へ、トラックバックを投げた。分野は違うが、本発言末尾(4)に類似した発言があったためである。
================================================
明日から、前期14週の授業期間が始まる。本学のシステムだと最初の2週間は履修登録が確定しない。シラバスに特記事項があり、1週目から出席をカウントすると宣言している場合や、1週目の欠席は履修が不可能になるとの告知がある以外は、学生が選択のために同じ時間帯の複数の講義を比較するため、出入りすることを認めている。徐々にエンジンをかけてゆこう。

配布プリント。
1枚目表=2006年度前期・歴史学汽轡薀丱
1枚目裏=2006年度後期・歴史学競轡薀丱
2枚目表=唐津海上保安部ホームページの内、佐賀県水難救済会紹介のページ、および、海難救助のしくみの説明
2枚目裏=当ブログのリンク集ににある「War Birds」(第二次世界大戦以前の軍用機)ページ内のQ&Aにあるつぎの質問から始まる掲示板スレッドの記録。→「第二次世界大戦終戦以前、日本において現在の海上保安庁が行う業務はどこの官庁がおこなっていたのでしょうか?海軍でしょうか?

講義内容(予定)

(1) 評価方法と基準について。定期試験だけで評価する。

(2) 担当者の自己紹介。一応の経歴を話す。工学部の歴史学気販鮖乏忰兇、わたくしが興味をもっている二つの分野に対応。最近、その二つが内容的に結びつき始めている。以前工学部でやっていた通史的講義は、知的財産学部「現代日本への歩み」(後期学期、水曜4時限)で開講しているので、工学部の学生は他学部履修できる。

(3) 現在の海難救助体制、現在の日本水難救済会についての説明。

(4) 「過去から現在へ、そして未来へという時間のなかで国家・社会・生活の変化を相互に対比しつつ、一連の流れとして大掴みにする視点・視角・認識スタイルの第一歩を得ること」という講義の【到達目標】への導入として、つぎのような話しをする。
→明治の警察を、平成の警察から直感的に理解してはならない。秋田市千秋公園(秋田城址)にある秋田県警察官殉職慰霊碑に刻まれた明治時代の殉職警官の死亡事由で一番多いのは、コレラやペストなどの伝染病に感染しての死亡であったことに驚いたことがある。明治の警察=警察+消防+保健所、であることをついつい忘れがちになる。1938年、厚生省設置。1948年、消防庁設置。
→これと同様なことが、海軍や海事の理解についても存在する。
明治の海軍を、昭和戦前の海軍や戦後の海上自衛隊の占める位置を過去に遡らせて理解すると、思わぬ誤解となる。海上保安庁設置は、1948年。それ以前、海上保安庁の仕事は、海軍、および政府(逓信省管船局)からの補助金を得て運営された公益団体、帝国水難救済会によって担われていた。現在、海事領域=海上自衛隊(海軍)+海上保安庁(海上警察・救難・国境警備)+民間(海運業・漁業・海底資源開発)、となっている。これが明治時代には、海事=海軍+民間、である。その海軍には、現在は海上保安庁に属す「海洋情報部」(以前の「水路部」)も所属していた。明治の海軍は、軍事組織としての性格だけでなく、海洋というフロンティアに進出する民間をサポートする性格を強くもった「広義の海軍」として理解する必要がある。
その際、明治国家にとっての「海」(海軍・海事領域)は、現在の時代状況では「海」+「空」+「宇宙」の軍事的・商業的利用に相当する位置を占めていたと考えるべきであろう。不平等条約下における海難事故のもつ象徴的政治性は、こう考えて初めて現在のわれわれに理解可能となろう。また、海軍力整備になぜ多大な税金投入が可能となったのかの説明の一部も、純粋の軍事力の外側にまで領域を広げる広義の海軍としての性格から理解可能とも思える。

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2005年09月17日

「●海図作成の依頼 海軍水路部にては常に海面の測量に従事し居るも県下各地の漁業者にして自然暗礁又は瀬戸発見の際は直ちに本県水産組合に届出でしめ組合より海図を調製し海軍水路部へ報告方を同部より依頼し来れりと」
(防長新聞、明治41年3月24日2面5段)

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