「明治期山口県における水難救済会」工・歴史学2006

2011年11月22日

2月末発行の紀要に載ることになった。

論文
明治期山口県における水難救済会の組織形成

研究ノート
早速丸沈没事件に見る20世紀初頭海事領域の象徴性



rshibasaki at 17:29コメント(0)トラックバック(0) 

2007年03月18日

構成はつぎの通り。

-----------------------------------
明治期山口県における水難救済会の組織形成

  はじめに
一、全国組織としての歴史・背景
 1. 募金組織と実行組織
 2. 自生的救難組織
 3. 外国船と沿岸民
 4. 水難救済会の創設
 5. 国庫補助と救難所設置
二、山口県における組織形成
 1. 救難所の配置
 2. 航路と海難
 3. 救助方法と人員
 4. 山口支部発会式
三、公益団体と地域
 1. 模範としての赤十字
 2. 諸団体の競合
 3. 警察組織と、武徳会、水難救済会
 4. 海事と地域社会
  結び
-----------------------------------

rshibasaki at 19:21コメント(1)トラックバック(0) 

2006年07月27日

<<試験問題>>

1.つぎの地図上に、1905年に救難所が設置された丸尾崎に「☆」印を、下関救難所の支所が複数置かれた彦島に「◎」印を記せ。                   (1個4点、計8点)

山口県を中心とする地図


2.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。     (1個4点、計92点)
(1) 明治の警察を、現在の警察と同じ範囲の仕事をしていた組織であると速断してはならない。明治時代の警察官の殉職で一番多いのは、____________________________による死亡であることを知り、驚いたことがある。明治の警察=警察署+消防署+____________________________+海上保安庁、である。1938年、厚生省設置。1948年、消防庁設置。これと同様なことが、海軍の理解についても存在する。明治の海軍を、戦後の____________________________の占める位置を過去に遡らせて理解すると、思わぬ誤解となる。海上保安庁が設置された1948年以前、現在の海上保安庁の仕事は、遠方海域においては海軍、沿岸海域においては____________________________や沿岸民とそれらを指揮監督する市町村長・警察官によって担われていた。現在では、海事領域=海上自衛隊+海上保安庁+民間、となっている。一方、明治時代には、海事=海軍+民間、であった。海軍には、現在は海上保安庁に属し、数年前「海洋情報部」と改称した「____________________________」も属していた。
(2) 日本の近代において地域社会に外国軍が接近し戦場となった事例としては、第二次世界大戦の沖縄戦と本土の空襲以前には、____________________________当時の敵国艦隊の沿岸接近がある。その戦争で最後の海上の戦いとなった著名な海戦は、____________________________海峡付近で始まったものである。近隣諸県まで砲声が轟いたという。
(3) 中央では、皇族を総裁として戴き、その下で会長が実務を統括し、地方では、知事が府県支部長、市町村長が市町村支部長を務める組織形態をとった最初の公益団体は、____________________________である。この団体は、現在もほぼ同じ組織形態を維持している。社費あるいは寄付金を多く出した個人に、____________________________を与え表彰することも明治時代と同様である。なお、総裁は歴代の皇后陛下である。
(4) 明治時代における水難救済会の実行組織を考察するとき、比較すべきは____________________________である。ボランティアの地域住民が、警察官の指揮のもとで、実行に従事するという面が共通する。
(5) 日露戦後にいたるまで、日本の沿岸航路の高級船員の職は、多く____________________________に占められていた。この背景があるため、沿岸での和式帆船と汽船の衝突に際して救助に駆けつけることは、当時の国民の愛国心を高揚させる行為となった。そのため地域住民が個人単位で水難救済会会員となり、町村単位で寄付をすることが訴求された。同じ理由により、____________________________を行う海員掖済会にも寄付金が集まったものと思われる。
(6) 1903年5月5日、早速丸遭難を報ずる防長新聞の論調が、衝突相手の韓国船漢城号の____________________________人船長への不信感を強く表現しているのは、前項の事情が関係していたであろう。その記事でもう一つ注目すべきは、たまたま早速丸に乗船していた「____________________________」たちの行動の肯定的描写である。軍隊や軍人に対する肯定的姿勢は、消防組が「軍隊的に組織」され「____________________________」を多くメンバーに含むことをプラスに評価する新聞論調とも一致する。当時の時代思潮の表現であろう。
(7) 日露戦争後になると水難救済会の幹部から、遭難船に対する沿岸民の分捕りという悪習・旧慣を是正し、文明化するのに救難所の設置が役立ったという回顧的発言が出てくる。救済会総裁である____________________________にはさすがにそのような発言ないが、会長である退役海軍将校・伯爵____________________________、逓信省管船局長を長く務めた理事____________________________は、口を揃える。1907年、アメリカ汽船ダコタ号が千葉県白浜村、野島崎灯台の東方で難破しかけた時、それに気づいた白浜村村長が、____________________________に定められた義務に従い、村民を動員し十数艘の漁船を出して救助に赴いた際、ダコタ号船員から掠奪者に間違えられ 「足蹴に遭」ったとのエピソードも思い出される。
(8) 海軍少将井上敏夫の生涯は、「広義の海軍」、すなわち、海軍とその外郭団体が作り出す世界の存在を教えてくれる。日露戦争の直前、一等戦闘艦「富士」の艦長として、二度の関門海峡試験航行を成功させた。日露戦時には、掃海艇部隊の司令官を勤め、1906年に予備役となった。その2年後には三重県四日市市から衆議院議員に当選し、後に、立憲____________________________に所属することとなる。郷里の石川県では「半生を日本海員掖済会に捧げた」(石川百年史、石林文吉、1972年)と記憶される井上に四日市との縁が生じたのは、四日市に海員寄宿舎を設置するため、掖済会理事として同地を訪れたことがきっかけであった。またこの間、____________________________のための募金集めの遊説という帝国海事協会の活動に参加したこともある。
(9) 第一次西園寺公望内閣の内務大臣である____________________________は、港湾調査会を設置し、全国港湾の整備計画を策定した。____________________________の水路整備に関して、海軍は、内部に「委員を設置し既に調査を遂げたる結果に基き種々の注文を出」したという。ドレッドノート級戦艦の建艦競争が始まった時代背景においては、主力戦艦部隊の同地点通過による効率的な運用が必須となったのだろう。
<選択肢>
犯人との格闘、伝染病感染、水防活動、消化活動、山岳救助、税関、税務署、消防、保健所、検疫所、陸軍、海軍、海上保安庁、海上自衛隊、消防団、水難救済会、海員掖済会、海事協会、日本赤十字社、水路部、測量部、海図部、台湾出兵、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、津軽、大隅、対馬、宗谷、有功章、忠愛旗、義勇旗、消防団、消防組、篤志看護婦、愛国婦人会、在郷軍人会、西洋人、日本人、清国人、高級船員養成、看護婦養成、義勇艦隊建設、軍人援護、ドイツ、アメリカ、韓国、中国、軍艦富士乗組の水兵、第二十五連隊の兵士、退職警官、市町村職員、在郷軍人、現役軍人、有栖川宮威仁親王、佐野常民、吉井幸蔵、肝付兼行、塚原周造、水難救護法、海難救助法、商法、民法、警察法、市町村法、政友会、同志会、憲政会、民政党、伊藤博文、西園寺公望、原敬、大浦兼武、寺内正毅、桂太郎、山本権兵衛、紀伊水道、豊後水道、津軽海峡、関門海峡、東京湾口


<<回 答>>
1.
1905年に救難所が設置された丸尾崎
下関救難所の支所が複数置かれた彦島

2.
(1)伝染病感染、保健所、海上自衛隊、水難救済会、水路部
(2)日露戦争、対馬
(3)日本赤十字社、有功章、
(4)消防組
(5)西洋人、高級船員養成
(6)ドイツ、軍艦富士乗組の水兵、在郷軍人
(7)有栖川宮威仁親王、吉井幸蔵、塚原周造、水難救護法
(8)政友会、義勇艦隊建設
(9)原敬、関門海峡



rshibasaki at 13:33コメント(0)トラックバック(0) 

2006年07月26日

25日(火)、27日(木)に実施する歴史学気了邯殻簑蠅鮑鄒した。27日午後、ここで、問題と正解を公表する予定。

-------------------------------------------------
出題方針

1. 出席・欠席の多寡に応じて点数が決まるように配慮する
2. 設問は聴講者への最後のコミュニケーション
3. 到達目標を確認するための試験として
   ↓
「過去から現在へ、そして未来へという時間のなかで国家・社会・生活の変化を相互に対比しつつ、一連の流れとして大掴みにする視点・視角・認識スタイルの第一歩を得ること」
-------------------------------------------------

rshibasaki at 00:44コメント(0)トラックバック(0) 

2006年07月23日

第14回、7月13日。

配布資料、なし。

1. 試験の予告。
2. 評価基準。
3. 復習。


シラバスの「授業のねらい」欄には、つぎのように記した。その意図との関連で、講義内容を振り返った。
---------------------
史料と先行研究の検討から過去の世界---本講義においては約100年前の日本である---を訪問する楽しみの一つは、別の時代・別の場面・別の人々という鏡に、われわれが暮らす「いま」という時代を映し出すことである。20世紀初頭、すでに近代国家であった明治日本における諸側面をなぞっているうち、100年後=21世紀初頭の現在も、歴史の一コマに見えてくる。前期・歴史学Iでは、昨年度にひきつづき、山口県の地方新聞を丹念に読み込み、主題「山口県から見た水難救済会の成立と日露戦争」を扱う。まず、対馬海峡における日本海海戦の後、その救助を、水難救済会下関救難所が担当していたことを知り、つぎに、水難救済会のもつ日本赤十字社や愛国婦人会などと同様の愛国的公共団体としての側面に気づき、さらに、海事という領域に導かれる。研究プロセス自体を講義というかたちで提示するので、工学部の学生諸君には、研究の過程を観察し、自分の分野の同種の体験と対比するよい機会となるだろう。【到達目標】としては、「過去から現在へ、そして未来へという時間のなかで国家・社会・生活の変化を相互に対比しつつ、一連の流れとして大掴みにする視点・視角・認識スタイルの第一歩を得ること」とする。
---------------------

rshibasaki at 19:59コメント(0)トラックバック(0) 
第13回、7月6日。

配布資料。

1表=山川出版社『詳説日本史』内表紙「政党・政派の変遷」
2表=長谷川正安著『昭和憲法史』(1961年)22〜23頁より、第一次伊藤博文内閣から犬養毅内閣までを超然内閣と政党内閣に分類し交代の流れを説明した表

前回までが特殊研究だったのに対し、この回は概説・通史の講義だった。幕末から大正末までの政治史を概観し、そのなかに日露戦後の政友会と海軍の接近を位置づけた。

rshibasaki at 19:09コメント(0)トラックバック(0) 
第12回、6月29日。

配布資料。

1表=
(1) 「関門海峡暗礁撤去」(読売新聞、明治40年5月4日)
(2) 「関門海峡の岩礁」(読売新聞、明治40年6月21日)
(3) 「二大戦艦建造」(防長新聞、明治40年7月27日)
(4) 「馬関海峡改築方針」(防長新聞、明治40年8月22日)
(5) 「明治39年1月1日辞典での大艦の建造状況」「起工、竣工比較」(『東郷平八郎 空白の四年間』遠藤昭著、芙蓉書房出版、2005年、107頁)
1裏=三重県立図書館へ井上敏夫について問い合わせのメール、と、その回答
2表=
(1) 石川県立図書館「石川県関係人物文献検索」を「井上敏夫」でサーチした結果
(2) 『石川県百年史』(石林文吉著、石川県公民館連合会、1972年)より石川県出身海軍将官列伝のうち井上敏夫の記述(746〜747頁)
(3) 井上敏夫死亡記事(北国新聞、大正13年3月15日)
2裏=
(1) 『対支回顧録』下巻(対支功労者伝記編纂会、1936年)676〜677頁、「井上敏夫君(海軍少将)」の項
(2) 『日本交通史辞典』(吉川弘文館、2003年)より「港湾調査会」の項
3表=「築港と"強兵富国"策」(内海孝執筆)、週刊朝日百科日本の歴史105・近代-6 鉄道と港---明治の交通・通信体系(朝日新聞社、1988年)より日清戦後・日露戦後の部分
3裏=『国史大辞典』第6巻(吉川弘文館、1985年)より「西園寺内閣」の項(第一次西園寺公望内閣の部分)



rshibasaki at 18:52コメント(0)トラックバック(0) 
第11回、6月22日。

配布資料。

1表=
(1) 「水雷敷設の付属船」「富士艦の通過」(防長新聞、明治35年8月26日)
(2) 「艦船通過と海峡航路標識」(同、明治36年2月4日)
(3) 「関門海峡試航」(同、明治36年9月18日)
(4) 「各艦長等の更迭」(同、明治36年9月30日)
1裏=
(1) 『陸海軍将官人事総覧<海軍編>』(外山操編、芙蓉書房出版、1981年)より「井上敏夫」の項
(2) 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』(衆議院・参議院編、大蔵省印刷局、1990年)より「井上敏夫」の項
(3) ウェッブページ「明治・大正・昭和にわたる帝国海軍艦艇」より「戦艦富士」の項
2表=「大戦闘艦関門通過に就きて」(防長新聞、明治40年6月19日)
2裏=「関門水路整理策(井上海軍少将談)」(防長新聞、明治40年7月6日)
3表=「関門間海難減少策ニ関スル意見」(『山口県警察施設ノ主眼』、山口県警察部、明治42年、国立国会図書館近代デジタルライブラリーでネット閲覧可)

rshibasaki at 18:37コメント(0)トラックバック(0) 
第10回、6月15日。

配布資料。

1表=『逓信事業史』第6巻(1941年、逓信省)目次
1裏=吉川弘文館『国史大辞典』より「逓信省」の項
2表〜4表上=『逓信事業史』第6巻より、第7章「海事団体」のうち、第1節「日本海員掖済会」・第2節「帝国水難救済会」・第3節「帝国海事協会」(1210〜1231頁)。
4表下=同巻より、第6章「海員」のうち、第1節「海員不足時代(明治維新後)」第1款「明治維新前の海員」(1116〜1117頁)。
4裏=同第4款「日清戦後に於ける海員増加」・第5款「日露戦争以後の海員」(1134〜1137頁)。

rshibasaki at 18:30コメント(0)トラックバック(0) 

2006年07月13日

本日は、歴史学気梁14回、最終出講日であった。わたくしの担当する歴史学が楽勝科目であるという根拠のない噂が流れているらしい。例えば、日経「みんなのキャンパス」におけるつぎの発言。
>>柴崎力栄先生 (06/06/11) 私はほぼ出席してました が、1回も出席しなくても
>>運がよければ単位が取れます。講義に出てだいたいの話を覚えて いればもっと楽かも。
>>テストはほとんどが穴埋めです(選択肢はあります)。

以下に、事実を示す。

2005年度前期「歴史学機
木曜日1時限 受験者中の合格率 65.0%
木曜日2時限 受験者中の合格率 72.7%

2005年度後期「歴史学供
木曜日1時限 受験者中の合格率 79.3%
木曜日2時限 受験者中の合格率 84.6%

低くもなく、高くもない。絶対基準で付けるとこの位になる。ふだん出席せず、試験だけを受けた履修者の多いクラスは合格率が低くなっている。前期よりも後期が合格率が高く、また、1時限よりも2時限が合格率が高くなっているのは、受験者の出席率がそれだけ高いことを反映する。

rshibasaki at 21:32コメント(0)トラックバック(0) 

2006年06月11日

第9回、6月8日。

配布資料。

1=「再び我が救済会の事業に就て 会長伯爵吉井幸蔵」(『海』第20号、明治39年10月25日、2〜3頁)
2表=「米国船の難破」「白浜村長」(『海』第8年第3号、明治40年3月25日、3頁)
2裏=「水難救済事業 理事塚原周造」(『海』第8年第4号、明治40年4月25日、3頁)
3表=水難救護法(現行条文、総務省行政管理局「法令データ提供システム」)
3裏=「我水難救済事業発展の方針≪善意と徽章に就て≫ 会長伯爵吉井幸蔵」(『海』第8年第4号、1頁)


rshibasaki at 20:07コメント(0)トラックバック(0) 

2006年06月03日

第8回、6月1日。

配布資料。

1表裏=沼津救難所(MRJ沼津)の歴史
2表=金指正三著『近世海難救助制度の研究』(吉川弘文館、1968年)目次、「序説」「一 研究の目的」(1〜2頁)、奥付。
2裏=『防長新聞』の3記事を対比して読む。(1)明治33年5月5日「漂流物隠匿者罰せられる」、(2)明治33年1月23日「難破船を救助して賞金を受く」、(3)明治32年2月5日「遭難船救助者の賞与」。
3表=『日本百科大辞書』第5巻(三省堂書店、明治44年)より「水難救護法」と「水難救済会」の項目。中央防災会議(事務局 内閣府)・災害教訓の継承に関する専門調査会 平成17年3月「1890 エルトゥールル号事件」報告書の概要
3裏=同上報告書、第1章「「エルトゥールル号事件」に至る歴史的背景」第1節「明治時代の海難対策」のうち、「江戸時代における海難救助制度」「明治時代初期の海難救助制度」「外国船の海難救助制度」。印刷不可のPDFファイルだったため、キーボード入力で配布資料を作成。

rshibasaki at 19:34コメント(0)トラックバック(0) 
第7回、5月25日。タイトルの海事3団体とは、日本海員掖済会、帝国水難救済会、帝国海事協会。

配布資料。

1表=
(1) 防長新聞・明治42年7月2日時事評論(社説)「寄附勧誘と官庁」、...「地方人民の頭上に落下する寄附の重立ちたるものを列挙すれば、赤十字社、武徳会、水難救済会、海員掖済会、愛国婦人会、軍人後援会、義勇艦隊資金等屈指に遑あらず」。
(2) 防長新聞・明治43年11月3日「旧式銃器の払下」、...「村田歩兵銃其他左の物は学校及び在郷軍人其他に対し夫々払下を許可せらるゝ事となりたれば」。
(3) 防長新聞・明治43年8月28日「水難救済会寄附者表彰」、...「帝国水難救済会に金円を寄附したる左の特志者に対し今回頭書の通り表彰せらる」。○○村字××の「代表者」や「惣代」の個人が表彰されている。
1裏=
(1) 防長新聞・明治32年2月23日「日本海員掖済会山口支部」、前年31年11月に発会、「赤十字社の組織の如く」拡張。
(2) 防長新聞・明治32年6月15日「徳山村長の管船事務取扱」。
(3) 防長新聞・明治33年1月23日「大島郡に海務署を置かんとす」。
(4) 防長新聞・明治33年3月11日「海員掖済会幹事の談話」、阿武郡会議事堂での勧誘演説。
2表=
「帝国海事協会の義勇旗寄贈」(防長新聞、明治40年2月9日2面)
「海事協会義勇旗」(防長新聞、明治40年4月10日1面)
「義勇艦隊建設章」(金色章と金錨金色章の写真)、「義勇旗」の着色スケッチ(『日本海事協会--その100年の物語』、財団法人日本海事協会、1999年、31頁)
2裏=
「船の管海官庁と主な法令」(同上『100年の物語』14頁)
「海事協会組織の推移」(同18頁)
「日本海事協会の歩み」 (同148頁、巻末年表1899〜1947年の部分)
3表=
「義勇艦隊建設に就て 理事有地品之允」(海事雑誌197号、明治38年2月10日)より、水難救済会が行う海難救助と、海事協会が担当する海難救助(サルベージ)の区別。『日本海事協会五十年史』(財団法人日本海事協会、1949年11月)20〜21頁から同文を切り貼りした。
掖済会の歩み」(社団法人日本海員掖済会ホームページ)
3裏=
「早速丸の沈没」(防長新聞、明治36年5月5日3面)
4表=
「海事思想(承前)(菅野商船学校長の演説)」(防長新聞、明治36年10月17日)

「千島艦事件」(小学館日本大百科全書)

rshibasaki at 16:34コメント(0)トラックバック(0) 
第6回、5月18日。

配布資料。

1表=
「帝国水難救済会山口支部発会式」(防長新聞、明治41年5月26日2面)
1裏=
「水難救済功労者授与式」(防長新聞、明治42年10月14日2面)
「救助夫等特別賞与授与式」(防長新聞、明治42年9月29日2面)
「遭難船の数々」(防長新聞、明治43年3月13日3面)
「大味警務長の帰任」「消防組の改良」(防長新聞、明治40年4月28日2面)
「明木村消防組員の任命」(防長新聞、明治43年2月24日3面)
「消防組員の行賞」(防長新聞、明治43年1月5日2面)
2表=
『原敬日記』(福村出版、1965年)明治40年8月11日の条「渡辺昇、北垣国道来訪し、先般余が訓令したる警察官は一切会員を募集し金銭を醵出せしむる勧誘等なすべからずとの事に関し...」
「原敬」「大浦兼武」の項(朝日日本歴史人物事典、1994年)
「大浦兼武」「渡辺昇」の項(戦前期日本官僚制の制度・組織・人事、1981年)
「北垣国道」の項(議会制度百年史、貴族院議員名鑑、1990年)
2裏=
『角川新版日本史事典』(1996年)より第4次伊藤博文内閣から原敬内閣までの内閣交代・閣僚一覧
「大日本武徳会」「愛国婦人会」の項(小学館日本百科全書)
3表=
「在郷軍人」「在郷軍人会」の項(小学館日本百科全書)
「在郷軍人団条例」(防長新聞、明治40年8月3日1面)
「在郷軍人会の活躍」(防長新聞、明治40年9月5日)
4=
授業直前の週に、町内会の回覧板で廻ってきた「5月・6月は赤十字社員増強運動月刊」との日本赤十字社大阪府支部のビラ。



rshibasaki at 16:11コメント(0)トラックバック(0) 
第5回、5月11日。連休明けの授業。

配布資料。

1枚目=
「海国的国民の大覚悟(十二)(廿一日県立師範学校に於ける演説の要旨) 帝国水難救済会理事 海軍中将肝付兼行君述 第四章 水難救済機関の必要(上)」(防長新聞、明治39年5月6日2面)
「海国的国民の大覚悟(十三)(廿一日県立師範学校に於ける演説の要旨) 帝国水難救済会理事 海軍中将肝付兼行君述 第四章 水難救済機関の必要(下)」(防長新聞、明治39年5月9日2面)
「黒田清隆」の項(戦前期日本官僚制の制度・組織・人事、1981年、東大出版会)
「環游日記 黒田清隆著 明治20.11」の項(国立国会図書館蔵書目録 明治期 第2編 歴史・地理、1994年)
「肝付兼行」の項(陸海軍将官人事総覧<海軍編>、1981年、芙蓉書房出版)
「肝付兼行」の項(日本人名大辞典、第2巻、1979年、平凡社)

2枚目=
「原内相大浦男の確執に就て 武徳会員募集の件」(防長新聞、明治41年5月3日1面)
「水難救済会発会式」(防長新聞、明治41年5月3日2面)
「水難救済会発会式事務章程」(防長新聞、明治41年5月9日2面)
「水難救済会支部発会式順序」(防長新聞、明治41年5月10日2面)
「広告」(5月24日水難救済会山口県支部発会式、6月1日愛国婦人会山口支部総会が並列)(防長新聞、明治41年5月19日3面)
「水難救済会山口支部発会式」(防長新聞、明治41年5月23日2面)
時事評論「水難救済会支部発会式」(防長新聞、社説欄、明治41年5月24日)

3枚目=
「救難所跡」の項(吉村富雄著『丸尾の歴史あれこれ』、平成12年3月、自費出版、162〜169頁)

4枚目=
手持ちの県分地図帳から山口県。丸尾崎の位置に矢印を付して示す


rshibasaki at 16:08コメント(0)トラックバック(0) 

2006年04月30日

第4週、4月27日。連休前最後の講義。

日本赤十字社以下、水難救済会を含む明治時代に組織された公益団体は、「募金組織」としての側面と、「実行組織」としての側面を区別して、それぞれについて、ある時は全国規模で、またある時は府県・郡・市町村規模で具体的に考察されねばならない。例えば、山口県の場合、実行組織としては、下関救難所が明治30年11月3日に創立されている。一方、募金組織として、山口県支部が発会式を挙行したのは、日露戦後の明治41年5月24日であった。
公益事業の内容に応じて、募金は全国規模で行うが、実行はその必要がある特定の場所で行われることになる。たまたま山口県の場合には、募金額も多く、三方を海に囲まれた地勢のため、沿岸海域が実行の場でもあった。内陸県の場合、募金組織は組織されたが、実行組織は存在しないことになる。

配布資料。

1表裏=『水難救済会百年史』巻末「年表」明治37年〜昭和45年(338〜341頁)。
2表=社団法人日本水難救済会ホームページより「事業の概要」「沿革」。
2裏=日本赤十字社ホームページより、「創立」および「沿革」の明治時代の部分
3表=読売新聞・明治39年3月26日3面「帝国水難救済会総会」、朝日日本歴史人物事典(朝日新聞社、1994年)より「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみや・たるひとしんのう)および「有栖川宮威仁親王」(ありすがわのみや・たけひとしんのう)の項目。
3裏=読売新聞・明治15年3月11日3面「○昨年の十一月英国の商船が一艘難風に出遇ひ岩手県下東閉伊郡重茂村の海岸へ漂着せしかば...」、および、同・明治20年8月20日3面「○大島海防組 福岡県下宗像郡大島は神湊の西北を距る凡そ六海里にして玄界海中の一孤島なり...」
4表=防長新聞・明治37年6月23日2面「○水難救助夫長の嘱託」、同37年1月15日2面「水難救済会の行賞」、同明治38年2月23日2面「水難救済会監事の来関」。昨年の〔第3週〕末尾に収録してある。


rshibasaki at 15:16コメント(0)トラックバック(0) 

2006年04月24日

第3週、4月20日。履修登録の締切日。やっと履修者が確定する。

配布資料。

1枚目表=(左半分)『日本史総合年表』(吉川弘文館、2001年)より1904・1905年。(右半分)『日本水難救済会100年史』(日本水難救済会、1990年)337頁より「年表」(明治22年の設立から明治37年の日露開戦まで)。
1枚目裏=国土地理院5万分の1地形図「小倉」より、関門海峡・彦島付近。下関水上警察署、北九州水上警察署、竹ノ子島町、西山町、福浦町、田の首町、六連島などの地名が見える。
2枚目表=「救難所発達史」(『帝国水難救済会五十年史』177〜179頁)、「戦時心得」(同49〜50頁)。
2枚目裏、3枚目表・裏=「戦時下救難所の活動」「一、救難所敵艦監視報告」「二、戦禍に因る海難救助」(同50〜61頁)。


rshibasaki at 22:01コメント(0)トラックバック(0) 

2006年04月18日

第2週、4月13日。第1週につづき第2週も学生は科目選択のため、複数の同じ時間に開講する科目を移動することができる。履修者はまだ確定していないため、先週の内容をまず繰り返した。新しい内容としては、この講義でお話しする内容に興味をもつ発端となった三つの新聞記事の紹介。昨年の第1週とほぼ同じ内容。

配布プリント。

1枚目表=読売新聞、1904(明治37)年6月22日、2面7段目、記事「●水難救済会の救助顛末」。
2枚目表=読売新聞、1904(明治37)年7月26日、2面6段目、記事「●勝浦沖の砲声」「●同上後報」「●白浜沖の砲声」。
3枚目表=読売新聞、1905(明治38)年5月30日、4面1〜2段目、記事「●大海戦と救済会」
3枚目裏=「ウラジオ巡洋艦戦隊行動図(1904年2〜8月)」(軍事史学会編『日露戦争(二)---戦いの諸相と遺産』、2005年6月、112〜113頁)。
4枚目表=歴史学研究会編『日本史年表 第四版』(岩波書店、2001)のうち1903(明治36)〜1905(明治38)年。『新版 日本史辞典』(角川書店、1996年)のうち「日露戦争」の項目。
4枚目裏=「帝国水難救済会救難所配置図」(帝国水難救済会編『帝国水難救済会五十年史』、1939年)。



rshibasaki at 17:28コメント(0)トラックバック(0) 

2006年04月06日

木曜日午前中の1時限・2時限は、歴史学気旅峙繊昨日書き込んだ話しをした。1時限でこのブログを紹介したのに、2時限ではブログの存在に言及し忘れた。来週、訂正する。

rshibasaki at 21:11コメント(0)トラックバック(0) 

2006年04月05日

★この発言から「新谷恭明の講義と演習」のなかの「歴史的想像力について」という昨年10月の発言へ、トラックバックを投げた。分野は違うが、本発言末尾(4)に類似した発言があったためである。
================================================
明日から、前期14週の授業期間が始まる。本学のシステムだと最初の2週間は履修登録が確定しない。シラバスに特記事項があり、1週目から出席をカウントすると宣言している場合や、1週目の欠席は履修が不可能になるとの告知がある以外は、学生が選択のために同じ時間帯の複数の講義を比較するため、出入りすることを認めている。徐々にエンジンをかけてゆこう。

配布プリント。
1枚目表=2006年度前期・歴史学汽轡薀丱
1枚目裏=2006年度後期・歴史学競轡薀丱
2枚目表=唐津海上保安部ホームページの内、佐賀県水難救済会紹介のページ、および、海難救助のしくみの説明
2枚目裏=当ブログのリンク集ににある「War Birds」(第二次世界大戦以前の軍用機)ページ内のQ&Aにあるつぎの質問から始まる掲示板スレッドの記録。→「第二次世界大戦終戦以前、日本において現在の海上保安庁が行う業務はどこの官庁がおこなっていたのでしょうか?海軍でしょうか?

講義内容(予定)

(1) 評価方法と基準について。定期試験だけで評価する。

(2) 担当者の自己紹介。一応の経歴を話す。工学部の歴史学気販鮖乏忰兇、わたくしが興味をもっている二つの分野に対応。最近、その二つが内容的に結びつき始めている。以前工学部でやっていた通史的講義は、知的財産学部「現代日本への歩み」(後期学期、水曜4時限)で開講しているので、工学部の学生は他学部履修できる。

(3) 現在の海難救助体制、現在の日本水難救済会についての説明。

(4) 「過去から現在へ、そして未来へという時間のなかで国家・社会・生活の変化を相互に対比しつつ、一連の流れとして大掴みにする視点・視角・認識スタイルの第一歩を得ること」という講義の【到達目標】への導入として、つぎのような話しをする。
→明治の警察を、平成の警察から直感的に理解してはならない。秋田市千秋公園(秋田城址)にある秋田県警察官殉職慰霊碑に刻まれた明治時代の殉職警官の死亡事由で一番多いのは、コレラやペストなどの伝染病に感染しての死亡であったことに驚いたことがある。明治の警察=警察+消防+保健所、であることをついつい忘れがちになる。1938年、厚生省設置。1948年、消防庁設置。
→これと同様なことが、海軍や海事の理解についても存在する。
明治の海軍を、昭和戦前の海軍や戦後の海上自衛隊の占める位置を過去に遡らせて理解すると、思わぬ誤解となる。海上保安庁設置は、1948年。それ以前、海上保安庁の仕事は、海軍、および政府(逓信省管船局)からの補助金を得て運営された公益団体、帝国水難救済会によって担われていた。現在、海事領域=海上自衛隊(海軍)+海上保安庁(海上警察・救難・国境警備)+民間(海運業・漁業・海底資源開発)、となっている。これが明治時代には、海事=海軍+民間、である。その海軍には、現在は海上保安庁に属す「海洋情報部」(以前の「水路部」)も所属していた。明治の海軍は、軍事組織としての性格だけでなく、海洋というフロンティアに進出する民間をサポートする性格を強くもった「広義の海軍」として理解する必要がある。
その際、明治国家にとっての「海」(海軍・海事領域)は、現在の時代状況では「海」+「空」+「宇宙」の軍事的・商業的利用に相当する位置を占めていたと考えるべきであろう。不平等条約下における海難事故のもつ象徴的政治性は、こう考えて初めて現在のわれわれに理解可能となろう。また、海軍力整備になぜ多大な税金投入が可能となったのかの説明の一部も、純粋の軍事力の外側にまで領域を広げる広義の海軍としての性格から理解可能とも思える。

rshibasaki at 21:31コメント(0)トラックバック(2) 
Categories
Profile
Recent Comments
Archives
訪問者数

QRコード
QRコード
「日本の伝統と文化」教科書
  • ライブドアブログ