知・歴史学「日本近代の舞台設定」 2004-2013終了

2014年01月22日

2013年度後期「歴史学」は、2009年度・2012年度と同じ問題を用いて試験を行ないました。解答は以下のようになります。

(1) 大陸横断鉄道、運河、海峡
(2) 蒸気船、馬車、人力車
(3) 1866、留学生、藩
(4) 中間技術、ガラ紡
(5) 皇族、華族
(6) 横浜、敦賀、対岸貿易
(7) ロシア、ドイツ、自由民主党
(8) 内国勧業博覧会
(9) 戦争、徴兵制
(10) 冬の夜


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2012年08月22日

歴史学  柴崎  3年次〜  水曜・2時限  参照許可物等なし

1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。(1個4点、計100点)
遠目に見ると、A→Cと変化しているように見えるものも、接近して観察するとA→B→Cと、Bの段階が間に入っていたことに気づく。Bの段階として理解できる事例を、講義内容から列挙して見る。
(1) 鎖国により海外との出入が規制されていた江戸時代の日本と、航空機で世界中に旅行に行ける現在との間に、19世紀半ばから20世紀半ばにいたる地表交通の時代があった。大陸を横断する______________________、あるいは、大洋と大洋の間を隔てる狭い陸地である地峡に建設された______________________や大洋と大洋を結ぶ狭い自然水路である____________________を通って世界を結んだ航路により、世界規模の旅行が可能となった。
<選択肢> 運河網、大陸横断鉄道、道路、運河、地峡、海峡

(2) 日本国内における遠隔地交通の歴史を考えると、江戸時代の交通体系と明治時代に始まる鉄道交通の時代の間に、江戸時代と同じ交通ルートを、別の技術段階の交通手段が行き交った時代が存在した。沿岸航路や内陸河川水路においては、江戸時代と同様の動力源の船舶も運航していたが、新たに___________が導入されることで運航速度が向上し、また、定時運航が可能となった。陸上では街道は砂利で舗装され、そこを車輪を用いた交通手段である___________
や____________が行き交った。
<選択肢> 帆船、蒸気船、馬車、人力車、自転車、自動車

(3) 鎖国下の時代と、お金さえあれば一般人の海外渡航が可能となった__________年以降の時代との間に、当時の中央政府である徳川幕府の公務をもつ者のみが正規の海外渡航者であった時代がある。幕府派遣の外交使節、および、幕府派遣の__________が正規出国者の内訳である。また、幕府から見れば密航者であるこれ以外の渡航者には、自分の属する___________の命令による海外渡航者、ならびに、個人的な動機による私的密航者がいた。
<選択肢> 1853、1866、外交官、留学生、藩、府県

(4) 江戸時代以来の伝統技術と、西洋の近代的な先端技術が普及した段階の間には、先端技術の要素を取り入れつつ伝統技術を改良し従来の伝統技術とは質的に異なる生産性をもつ技術が普及した段階があった。第二次世界大戦後の開発援助の経験のなかからこうした技術の発展段階や、その段階にある技術を___________と呼ぶようになった。綿紡績における___________がその実例である。手回しや水車の力でで十数本の糸を同時に紡ぐことができる木製の簡易製糸機械であった。また、輸入した金属製ジャガード織機を、木製フレームで模造した京都西陣の職人の努力も、この技術段階の一例と言えるだろう。
<選択肢> 中間技術、模倣技術、ガラ紡、製糸機

(5) 江戸時代の身分制社会と、現在の日本、すなわち、日本国籍保持者が国民と___________という二つの法的に区別される身分から構成される社会の間に、明治維新から戦後改革までの時代の日本があった。この時代には、法的に区別される身分として、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵という五つの爵位に1884年以降区分されることになった___________があった。
<選択肢> 皇族、華族、士族、平民

また、この講義では、国内の出来事と国外の出来事とを関連づけ、相互の繋がりとして説明することを心がけた。以下はその実例である。

(6) 国外での世界交通の変化と、国内の交通体系の変遷は相互に関連する。世界交通で言えば、最初の北アメリカ大陸横断鉄道が開通し、スエズ運河が竣工した1869年以降、日本から北アメリカ大陸、さらに大西洋航路を経て西ヨーロッパにいたる経路の日本国内からの出発点は__________________港であり、瀬戸内海・関門海峡・上海・香港・マラッカ海峡・スエズ運河を経由し、フランスの地中海沿岸の港町マルセイユにいたる航路の出発点は、神戸であった。シベリア鉄道が1902年に開通することで地表交通の時代はつぎの段階に入ったが、その際、日本国内からの出発点も変化した。日露戦争後、明治末年までを視野に入れると、シベリア鉄道経由西ヨーロッパ行きの日本本土からの出発港は、下関と___________________となった。この変化を目にした日本海沿岸の各府県では、本州中央部と自らの地域を鉄道で結び、新たに整備した近代的な港湾に鉄道を繋げ、さらに、日本海の向こう岸の外国の地域との国際貿易の拠点としたいとの思いから、当時_______________________と呼ばれた地域発展策を試みることとなる。
<選択肢> 横浜、新潟、敦賀、長崎、対岸貿易、環日本海経済圏

(7) まず、19世紀中頃、欧米諸国の艦船が日本近海に出現し、太平洋が航路として着目されることで日本の開国、開港以降の歴史が始まった。明治維新や明治憲法体制は、地球全体が世界規模の交通・通信ネットワークに組み込まれる趨勢に対応した日本の反応から生み出されたものであった。つぎに、第一次世界大戦を契機として、ヨーロッパ文明世界は、第一に、1917年の革命で皇帝を戴く帝国が共産主義国家のソ連に変わった___________________、第二に、ファシズム国家となった____________________、イタリアなど、第三に、民主主義と資本主義を維持したイギリス、アメリカと、三つのモデルに分かれた。こうした情勢の国内への反映が大正時代後半から昭和時代戦前の国内政治であった。さらに、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国とソ連との間の東西冷戦の時代に対応した国内政治体制が、_____________________による長期政権だとすると、最後の四番目の時期、すなわち、1991年のソ連解体、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降の国際情勢に対応したものが、現下の日本の政治の姿であると見ることができる。
<選択肢> ロシア、トルコ、ドイツ、フランス、自由民主党、日本社会党

最後に、近代日本の舞台設定とそこでの出来事を階層構造として捉えた。|詫的条件、地理的条件の上に各時代の技術によって可能となった交通、通信インフラ、そのインフラの上で展開された産業、政治、軍事、教育など各分野の出来事、い修涼罎農犬譟∪長し、年老い、死んで行った各時代の人々による地域、日本、世界への理解とその場における自意識、イ海譴蕕鮟鳥紊箸靴督屬犬觜駝厩餡鳩狙のプロセス。こうした諸側面について講義した。

(8) 明治時代の国民国家形成のプロセスを観察すると、産業、政治、軍事のそれぞれが縦糸として機能した。地域(都道府県や市町村)、日本(日本国家全体)、世界(国際社会での日本の位置)という三領域をつなぐ、政治、産業、軍事の役割が相似形を示す。産業競争では、まず、地域の産物を府県内の共進会や近隣府県合同の地域博覧会へ出品し、その評価が出品元の市町村の評価として参加範囲全体へフィードバックされる。つぎに、政府が主催する日本全体の博覧会である____________________________に各府県から出品された産物は、品目ごとに金・銀・銅メダルなどの賞を天皇臨席の場で授与され、表彰のあり様が全国に報道されることを通じて、受賞地域の名声が日本全国に伝わる。さらに、世界的な博覧会である万国博覧会への出品は、現地での評判が報道記事として国内の全国紙・地方紙に掲載され、出品した府県の評価が日本全国に定着した。政治にも同様の構造があった。当時、府県会・郡会・市町村会からなる地方議会は、総称として              とよばれていたが、まず、その議員を選挙する。その自らの村や町から選出された議員の活躍が地方紙に報道され、府県内の各郡や各市町村における評判となった。つぎに国レベルでは、1890年に第一回総選挙が行われ、第一回______________________が召集されると、速記術によって議事録が作られ官報に掲載された。全国紙も地方紙も議会での演説や質疑を議事録にもとづき詳細に報道したため、地域から選出された議員の活躍が全国的に報道され、国内全域での評価対象となり、その評価が地域に還流するようになる。うちの府県の先生(代議士)たちはこんな活躍をしているという国内各府県間の「お国自慢」の対象となった。さらにその上に国際的な評価の世界がある。議員たちは、日本の国外から投射された「非白人の有色人種の国が憲法を定着させ、議会政治を運営出来るものか」という欧米諸国の視線を意識しつつ議場に臨んだ。その緊張感を選挙区の有権者も共有していた。政治における国際的契機はこうした国外からの評価への姿勢として存在した。
<選択肢> 内国勧業博覧会、全国産業博覧会、地方民会、地域議会、国民議会、帝国議会      

(9) 政治に比べると軍事は判りやすい。軍事における国際的な契機、世界的な評価とは、実際の____________________である。1894年〜1895年の日清戦争、1900年の北清事変、1904年〜1905年の日露戦争への欧米列強からの評価そのものである。ここで重要なのは、当時の軍隊は______________________を基盤として構成された兵士と、職業軍人からなる将校によって成り立っていたことである。全国が師団管区に分かれ、師団管区が連隊区に分かれていたので、連隊番号何番の連隊がどこどこの戦闘に勝利したとか、師団番号何番の師団がどこの地域を占領した等のニュースは、特定の府県や郡から出征した兵士が戦闘に勝利した、あるいは、占領に成功したことを意味した。これも、世界的・全国的な場での地域の評価が世界的・全国的に広まり、その評価が地域にフィードバックした一例である。戦前の日本には「郷土部隊」という言葉があった。当時の日本国民には、地域出身の兵士からなる陸軍部隊が国内的・世界的な場で評価の視線を浴びるという意識があり、日本のなかの我が郷土、世界のなかの我が地域という自意識をもっていたことを示す用語であった。
<選択肢> 戦争、演習、徴兵制、志願兵制

(10) 文部省編『尋常小学歌集』1911年刊は、義務教育の小学校で用いられた文部省編の唱歌集の第3版である。この教科書に初めて掲載された新作の唱歌「__________________________」には、「囲炉裏のはたに縄なう父は過ぎしいくさの手柄を語る」という歌詞が含まれる。(9)で述べた時代を無事に過ごし、自分の子供たちに戦争体験を語る父の姿が歌われている。
<選択肢> 螢の光、冬の夜


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2011年11月26日

歴史学  3年次〜  水曜・2時限  参照許可物等なし

1.つぎの各文章の下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入しなさい。    (1個4点、計100点)

(1) 地球上の2点を最短で結ぶ経路を______________と言う。関西国際空港から飛び立ったロンドン行きの便は、沿海州のハバロフスク上空から、ロシアの北極圏のツンドラ地帯上空を飛行し、北欧三国の上空経由で目的地へ向かう。ニューヨークへ向かう便は、千島列島沿いに飛び、ベーリング海からアラスカ上空に入り、カナダ上空を横断し、五大湖付近にいたる。こうしたほぼ直線の経路が可能となったのは_____________が航空輸送の主力となり、成層圏まで上昇し、対流圏の気象の影響を受けずに飛行経路を設定することが可能となったからである。
<選択肢> 等角航路、同緯度航路、大圏航路、プロペラ機、ジェット機、飛行船

(2) 地表交通の時代において世界一周航路を描く場合、陸地は障害となりえた。第一に、細い水路が向こう側の大洋に繋がっている場合、その水路を探し出し航路として利用した。日本にとっては、太平洋(南シナ海南部シンガポール付近)とインド洋(ベンガル湾南東部のアンダマン諸島付近)の間を結ぶ_____________海峡が1862年初めに幕府遣欧使節団が通過して以降、重要な海峡となった。
<選択肢> ボスポラス、マラッカ、スンダ

(3) 第二に、陸地の向こう側に別の大洋、ないしは、大洋に繋がる海がある地形がある。海と海の間に狭い陸地があり、船の行く手を阻む。この地形を_________と呼ぶ。1862年の幕府遣欧使節団は、エジプトでピラミッドとスフィンクスを見学している。インド洋から紅海を経て、________________を経由し、地中海に入り、フランスのマルセイユに至った。

(4) 1860年代前半、世界交通路に当たる(3)で取り上げた地形には、連絡鉄道が建設されているのが通例であった。1860年に幕府がアメリカ合衆国に派遣した使節団は、中部アメリカの____________に建設されていた連絡鉄道に乗り、太平洋岸から大西洋岸(カリブ海側)へ移動し、そこから別の船に乗りアメリカ東部にある首都ワシントンへ向かった。
<(3)(4)の選択肢> 陸橋、地峡、交通線、パナマ、スエズ、コリント、マゼラン

(5) (3)の地形の制約を越えるには二つの方法があった。一つは(3)の地形、すなわち海と海の間を遮る狭い陸地に人工的な水路を建設し、そこを船が通航することである。すなわち、____________の建設である。但しこの場合、船舶自体が自らの力で移動できる必要があり、土木技術の発展だけでなく、____________の時代を迎える必要があった。
<選択肢> 運河、用水、インクライン、帆船、蒸気船

(6) (3)の地形の制約を越えるもう一つの方法は、(3)の地形によって遮られた海と海の間に存在する大陸のうち、長距離鉄道を建設しやすい経路に、鉄道を建設することであった。すなわち、大陸横断鉄道である。北アメリカ大陸における最初の大陸横断鉄道の開通は、__________年であり、ユーラシア大陸における大陸横断鉄道としてのシベリア鉄道が開通したのは___________年であった。
<選択肢> 1869、1902、1914

(7) 現在、日本海側の道府県のうち、最も、________________構想に適合し、地域の発展を国内交通路と、日本海対岸との国際交通路を繋ぐ役割を実現しているのは新潟県である。ロシア共和国沿海州の州都ハバロフスクや、シベリア鉄道の起点都市_____________とを結ぶ国際航空路が新潟空港を発着している。しかし、明治時代にまで遡ると、新潟と東京を結ぶ鉄道は碓氷峠をアプト式で越える信越本線であり、1931年に上越線が開通する以前は、新潟は港湾都市としては国内交通路に恵まれていなかった。その時代、すなわち、明治・大正期に日本海側の港湾都市として国際貿易港の地位を得て繁栄したのは____________であった。東京発のシベリア鉄道連絡列車がこの港の桟橋に直結し、日本海対岸のシベリア鉄道の起点の都市との間を連絡船が往復した。
<選択肢> 対岸貿易、環日本海経済圏、ウラジオストク、大連、釜山、秋田、酒田、敦賀

(8) 江戸時代の日本では、街道は、一部の例外を除き、人か馬が歩く道であった。_____________は船に積まれ、河川や沿岸を水運によって運ばれた。例えば、山形県内陸部で収穫した米は、最上川の水運で河口の酒田に運ばれ、ここから_______________まで、関門海峡を経由し、沿岸航路の帆船である北前船で運ばれた。また北前船は、蝦夷地(現在の北海道)で昆布を積み、もう一方の起点でそれを販売した。現在、大阪で昆布が多く消費されるのはこの時代の名残である。
(9) 山形県の一つ北側の秋田県を、この講義では事例として取り上げた。現在の県庁所在地、秋田市に河口がある雄物川を遡った位置にある内陸都市が横手市である。この横手の名望家の家に生れた伊藤直純が1887年(明治20年)に、_________________を求めて陳情活動を行なうため上京した際の日記の一部を紹介した。厳冬期に横手を徒歩で出発した伊藤は、江戸時代同様の馬橇(そり)や徒歩での移動で山形県北部まで移動すると、そこから先の雪が消えた道は、明治以降に普及した_____________に乗った。車両が道路を通行する近代的交通体系の第一の段階に出会った。栃木県北部の黒磯まで来ると、そこから東京までは、近代の第二段階の交通体系の時代、すなわち、______________を中心とする陸上交通体系が実現していた。
<(8)(9)の選択肢> 軽量貨物、重量貨物、江戸、京都、大坂、鉄道建設、河川改修、人力車、自動車、鉄道

(10) 1887年(明治20年)の東京で、秋田県横手から上京した伊藤直純は、九州から上京した陳情活動のグループと交流を深めた。この九州グループの希望が実現し建設された鉄道が現在の鹿児島本線、長崎本線である。講義中では、徳富___________を事実上の主人公とする自伝小説『冨士』の一部を紹介した。1895年(明治28年)の冬、東京から郷里_____________県に戻る旅行の途上の主人公が、九州に上陸し、門司駅(現在の門司港駅)で、駅員に電報の発信を依頼している場面を紹介した。
<選択肢> 蘇峰、蘆花、一敬、熊本、長崎、佐賀

(11) 幕末、徳川幕府が欧米諸国と外交関係を結び、続いて、通商関係を開いた。開国と開港である。しかし、明治維新の数年前、1866年(慶應2年)までは、一般人の海外渡航が許されていなかった。現在で言えば、公用旅券のみ存在し、一般旅券のない時代とも言えよう。この時代に正規に出国したのは、___________が派遣する外交使節と留学生であった。一方、不正規出国者、密航者もいた。具体的には、藩命による渡航者と私的な渡航者がその内訳となる。長州藩が英国に派遣した留学生も藩命による密航者であった。かれらは「長州ファイブ」と呼ばれる__________、井上馨、野村弥吉(井上勝)、山尾庸三、遠藤謹助の5人であった。
<選択肢> 幕府、諸藩、朝廷、山県有朋、伊藤博文、木戸孝允

(12) 1871年(明治4年)の廃藩置県以後、1890年(明治23年)の帝国議会開設までの時代は、次第に地方議会が誕生したが、国全体の議会がいまだ存在しない時代であった。この時代の地方議会は、府県議会・郡会・町村会をまとめて、総称として、____________と呼ばれた。また、いまだ存在しない国全体の議会のことは、この時代においては、______________という一般名詞を用いて呼ばれた。
<選択肢> 地方議会、地方民会、帝国議会、国会

(13) 技術導入において、先端技術と伝統技術の中間の存在があった。先端技術の要素を簡略化した先端技術の廉価バージョンを一時的に採り入れ、技術としての最高度のものではないが、その時代の必要を満たし、利益を挙げて先端技術導入の基盤をつくる中間技術という存在を指摘した。明治初期から中期における_____________はその実例である。
<選択肢> ガラ紡、オート三輪車、固定焦点カメラ、軽便鉄道


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2010年08月15日

歴史学  柴崎  3年次〜  水曜・2時限  参照許可物等なし
1.つぎの各文章のうち、(1)〜(10)は講義シラバス「授業の内容・教育方法」欄の文章、(11)は今回起草した文章である。下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。  (1個4点、計100点)
(1) 第1回「導入」。
「地理的条件、地理的条件の意味を変化させる            の発達、その結果生じる時代の境界、各分野の時期区分の相互関係、別段階での類似事例の対比を発展の形として見る、など、講義を骨格となる基本発想を説明する」。
<選択肢> 技術、芸術

(2) 第2回・第3回「西ヨーロッパへの最短経路の変遷」。
「近代日本の空間的前提条件の確認。1869年の              鉄道と            運河の開通、1902年の           鉄道の開通による変化。20世紀後半の航空交通の時代において           機の登場が大圏航路を可能としたのと対比し、地表交通の時代における大陸横断鉄道の登場による交通路の変化を考える」。
<選択肢> 北米横断、シベリア、スエズ、パナマ、プロペラ、ジェット

(3) 第4回・第5回「初期の洋行と人材育成」。
「限られた時間・資金・人材を用いて近代化を始動させる際の知恵。 海外渡航許可以前の渡航者と明治国家、伊藤博文の場合。日本が採用したのは、正則教育・   A   教育・義務教育の三段構え。人材育成・国民統合における           化された地域との違い。技術導入における   B   に対比できる、人材育成における   A   教育という方法」。
<回答欄>   A →                   B →                
<選択肢> 一般人、幕臣、植民地、砂漠、不正規、変則、先端技術、伝統技術、中間技術

(4) 第6回「文部省唱歌「  C  」から「冬の夜」へ」。
「1881年の『小学唱歌集(初)』に掲載の「  C  」と、1912年の『尋常小学唱歌(三)』に初出の「冬の夜」の歌詞を対比させ、           の間に生じた国家への献身の質的な差を考える」。
<回答欄>   C →              
<選択肢> 一世代、二世代、螢の光、元寇

(5) 第7回・第8回「  D  著『民情一新』第3章を読む」。「1879年の  D  の著作から、   E   について考える」。
<回答欄>   D →                  E →                
<選択肢> 福沢諭吉、徳冨蘆花、国民国家形成、条約改正実現

(6) 第9回「   F   に見る産業競争と地域・国家・世界」。
「産業情報交換の場としての19世紀の   F   。万国   F   ・内国勧業   F   ・地方   F   の同時的進展を、地域社会から     E    への参加チャンネルとして捉える。   B   という手法」。

<回答欄>   F →              
<選択肢> 博覧会、共進会、商品見本市

(7) 第10回・第11回「交通体系の変容と地域  近世から近代へ、   G  から   H  へ」。
「交通体系の変転を時期区分するとき、近世の街道と   G  の体系と、近代の   H  中心の体系の間に、馬車・人力車と            の時代があった。   H  の時代は明治から大正にかけて、中央から地方へと波及する。             を事例として、鉄道・築港をめぐる地域間競争を例示し、明治・大正の「対岸貿易」と現在の「環日本海経済圏」を対比させる」。
<回答欄>   G →                   H →               
<選択肢> 陸運、水運、鉄道、自動車、帆船、蒸気船、福井、秋田

(8) 第12回「国際秩序の変遷と   I   」。
「巨視的には「国際環境→    I   」という変化の連鎖が複数回繰り返された。             後の現在を過去150年のなかで捉え直し、現在我々が越えようとしている転換期を考える」。
<回答欄>   I →              
<選択肢> 国際政治、国内政治、東西冷戦、第二次世界大戦

(9) 第13回「明治維新から帝国議会にいたる道のり」。
「軍事的・財政的に自立した幕府・            ・諸外国から構成される幕末政局から、廃藩置県、地方民会、国会開設を経て現在のような個人を最少単位とする「政界」が生み出されたプロセス」。
<選択肢> 諸藩、府県

(10) 第14回「身分秩序の長期的変遷と参政権の拡大」。
「「近世→(明治維新)→近代→(戦後改革)→現代」と時代を経るに従い、平準化と           の拡張が長期的に進展し、         と国民の二大身分に単純化されるまでを鳥瞰する」。
<選択肢> 政治参加、納税の義務、皇族、華族、士族

(11) 江戸時代以来の             と、西洋の近代的な技術が普及した段階の間には、後者の要素を取り入れつつ前者を改良し従来とは質的に異なる生産性をもつ技術が普及した段階があった。第二次世界大戦後の開発援助の経験のなかからこうした技術の発展段階や、その段階にある技術を   B   と呼ぶようになった。綿紡績における             がその実例である。手回しや水車の力でで十数本の糸を同時に紡ぐことができる木製の簡易製糸機械であった。また、輸入した金属製ジャガード織機を、木製フレームで模造した京都西陣の職人の努力も、この   B   段階の一例と言えるだろう。
<選択肢> 伝統技術、中間技術、先端技術、ガラ紡、バッタンの一例と言えるだろう。


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2010年03月02日

歴史学  柴崎  1年次〜  水曜・4時限  参照許可物等なし
1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。(1個4点、計100点)
遠目に見ると、A→Cと変化しているように見えるものも、接近して観察するとA→B→Cと、Bの段階が間に入っていたことに気づく。Bの段階として理解できる事例を、講義内容から列挙して見る。
(1) 鎖国により海外との出入が規制されていた江戸時代の日本と、航空機で世界中に旅行に行ける現在との間に、19世紀半ばから20世紀半ばにいたる地表交通の時代があった。大陸を横断する______________________、あるいは、大洋と大洋の間を隔てる狭い陸地である地峡に建設された______________________や大洋と大洋を結ぶ狭い自然水路である____________________を通って世界を結んだ航路により、世界規模の旅行が可能となった。
<選択肢> 運河網、大陸横断鉄道、道路、運河、地峡、海峡

(2) 日本国内における遠隔地交通の歴史を考えると、江戸時代の交通体系と明治時代に始まる鉄道交通の時代の間に、江戸時代と同じ交通ルートを、別の技術段階の交通手段が行き交った時代が存在した。沿岸航路や内陸河川水路においては、江戸時代と同様の動力源の船舶も運航していたが、新たに___________が導入されることで運航速度が向上し、また、定時運航が可能となった。陸上では街道は砂利で舗装され、そこを車輪を用いた交通手段である___________
や____________が行き交った。
<選択肢> 帆船、蒸気船、馬車、人力車、自転車、自動車

(3) 鎖国下の時代と、お金さえあれば一般人の海外渡航が可能となった__________年以降の時代との間に、当時の中央政府である徳川幕府の公務をもつ者のみが正規の海外渡航者であった時代がある。幕府派遣の外交使節、および、幕府派遣の__________が正規出国者の内訳である。また、幕府から見れば密航者であるこれ以外の渡航者には、自分の属する___________の命令による海外渡航者、ならびに、個人的な動機による私的密航者がいた。
<選択肢> 1853、1866、外交官、留学生、藩、府県

(4) 江戸時代以来の伝統技術と、西洋の近代的な先端技術が普及した段階の間には、先端技術の要素を取り入れつつ伝統技術を改良し従来の伝統技術とは質的に異なる生産性をもつ技術が普及した段階があった。第二次世界大戦後の開発援助の経験のなかからこうした技術の発展段階や、その段階にある技術を___________と呼ぶようになった。綿紡績における___________がその実例である。手回しや水車の力でで十数本の糸を同時に紡ぐことができる木製の簡易製糸機械であった。また、輸入した金属製ジャガード織機を、木製フレームで模造した京都西陣の職人の努力も、この技術段階の一例と言えるだろう。
<選択肢> 中間技術、模倣技術、ガラ紡、製糸機

(5) 江戸時代の身分制社会と、現在の日本、すなわち、日本国籍保持者が国民と___________という二つの法的に区別される身分から構成される社会の間に、明治維新から戦後改革までの時代の日本があった。この時代には、法的に区別される身分として、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵という五つの爵位に1884年以降区分されることになった___________があった。
<選択肢> 皇族、華族、士族、平民

また、この講義では、国内の出来事と国外の出来事とを関連づけ、相互の繋がりとして説明することを心がけた。以下はその実例である。
(6) 国外での世界交通の変化と、国内の交通体系の変遷は相互に関連する。世界交通で言えば、最初の北アメリカ大陸横断鉄道が開通し、スエズ運河が竣工した1869年以降、日本から北アメリカ大陸、さらに大西洋航路を経て西ヨーロッパにいたる経路の日本国内からの出発点は__________________港であり、瀬戸内海・関門海峡・上海・香港・マラッカ海峡・スエズ運河を経由し、フランスの地中海沿岸の港町マルセイユにいたる航路の出発点は、神戸であった。シベリア鉄道が1902年に開通することで地表交通の時代はつぎの段階に入ったが、その際、日本国内からの出発点も変化した。日露戦争後、明治末年までを視野に入れると、シベリア鉄道経由西ヨーロッパ行きの日本本土からの出発港は、下関と___________________となった。この変化を目にした日本海沿岸の各府県では、本州中央部と自らの地域を鉄道で結び、新たに整備した近代的な港湾に鉄道を繋げ、さらに、日本海の向こう岸の外国の地域との国際貿易の拠点としたいとの思いから、当時_______________________と呼ばれた地域発展策を試みることとなる。
<選択肢> 横浜、新潟、敦賀、長崎、対岸貿易、環日本海経済圏

(7) まず、19世紀中頃、欧米諸国の艦船が日本近海に出現し、太平洋が航路として着目されることで日本の開国、開港以降の歴史が始まった。明治維新や明治憲法体制は、地球全体が世界規模の交通・通信ネットワークに組み込まれる趨勢に対応した日本の反応から生み出されたものであった。つぎに、第一次世界大戦を契機として、ヨーロッパ文明世界は、第一に、1917年の革命で皇帝を戴く帝国が共産主義国家のソ連に変わった___________________、第二に、ファシズム国家となった____________________、イタリアなど、第三に、民主主義と資本主義を維持したイギリス、アメリカと、三つのモデルに分かれた。こうした情勢の国内への反映が大正時代後半から昭和時代戦前の国内政治であった。さらに、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国とソ連との間の東西冷戦の時代に対応した国内政治体制が、_____________________による長期政権だとすると、最後の四番目の時期、すなわち、1991年のソ連解体、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降の国際情勢に対応したものが、現下の日本の政治の姿であると見ることができる。
<選択肢> ロシア、トルコ、ドイツ、フランス、自由民主党、日本社会党

最後に、近代日本の舞台設定とそこでの出来事を階層構造として捉えた。|詫的条件、地理的条件の上に各時代の技術によって可能となった交通、通信インフラ、そのインフラの上で展開された産業、政治、軍事、教育など各分野の出来事、い修涼罎農犬譟∪長し、年老い、死んで行った各時代の人々による地域、日本、世界への理解とその場における自意識、イ海譴蕕鮟鳥紊箸靴督屬犬觜駝厩餡鳩狙のプロセス。こうした諸側面について講義した。
(8) 明治時代の国民国家形成のプロセスを観察すると、産業、政治、軍事のそれぞれが縦糸として機能した。地域(都道府県や市町村)、日本(日本国家全体)、世界(国際社会での日本の位置)という三領域をつなぐ、政治、産業、軍事の役割が相似形を示す。産業競争では、まず、地域の産物を府県内の共進会や近隣府県合同の地域博覧会へ出品し、その評価が出品元の市町村の評価として参加範囲全体へフィードバックされる。つぎに、政府が主催する日本全体の博覧会である____________________________に各府県から出品された産物は、品目ごとに金・銀・銅メダルなどの賞を天皇臨席の場で授与され、表彰のあり様が全国に報道されることを通じて、受賞地域の名声が日本全国に伝わる。さらに、世界的な博覧会である万国博覧会への出品は、現地での評判が報道記事として国内の全国紙・地方紙に掲載され、出品した府県の評価が日本全国に定着した。政治にも同様の構造があった。当時、府県会・郡会・市町村会からなる地方議会は、総称として              とよばれていたが、まず、その議員を選挙する。その自らの村や町から選出された議員の活躍が地方紙に報道され、府県内の各郡や各市町村における評判となった。つぎに国レベルでは、1890年に第一回総選挙が行われ、第一回______________________が召集されると、速記術によって議事録が作られ官報に掲載された。全国紙も地方紙も議会での演説や質疑を議事録にもとづき詳細に報道したため、地域から選出された議員の活躍が全国的に報道され、国内全域での評価対象となり、その評価が地域に還流するようになる。うちの府県の先生(代議士)たちはこんな活躍をしているという国内各府県間の「お国自慢」の対象となった。さらにその上に国際的な評価の世界がある。議員たちは、日本の国外から投射された「非白人の有色人種の国が憲法を定着させ、議会政治を運営出来るものか」という欧米諸国の視線を意識しつつ議場に臨んだ。その緊張感を選挙区の有権者も共有していた。政治における国際的契機はこうした国外からの評価への姿勢として存在した。
<選択肢> 内国勧業博覧会、全国産業博覧会、地方民会、地域議会、国民議会、帝国議会      

(9) 政治に比べると軍事は判りやすい。軍事における国際的な契機、世界的な評価とは、実際の____________________である。1894年〜1895年の日清戦争、1900年の北清事変、1904年〜1905年の日露戦争への欧米列強からの評価そのものである。ここで重要なのは、当時の軍隊は______________________を基盤として構成された兵士と、職業軍人からなる将校によって成り立っていたことである。全国が師団管区に分かれ、師団管区が連隊区に分かれていたので、連隊番号何番の連隊がどこどこの戦闘に勝利したとか、師団番号何番の師団がどこの地域を占領した等のニュースは、特定の府県や郡から出征した兵士が戦闘に勝利した、あるいは、占領に成功したことを意味した。これも、世界的・全国的な場での地域の評価が世界的・全国的に広まり、その評価が地域にフィードバックした一例である。戦前の日本には「郷土部隊」という言葉があった。当時の日本国民には、地域出身の兵士からなる陸軍部隊が国内的・世界的な場で評価の視線を浴びるという意識があり、日本のなかの我が郷土、世界のなかの我が地域という自意識をもっていたことを示す用語であった。
<選択肢> 戦争、演習、徴兵制、志願兵制

(10) 文部省編『尋常小学歌集』1911年刊は、義務教育の小学校で用いられた文部省編の唱歌集の第3版である。この教科書に初めて掲載された新作の唱歌「__________________________」には、「囲炉裏のはたに縄なう父は過ぎしいくさの手柄を語る」という歌詞が含まれる。(9)で述べた時代を無事に過ごし、自分の子供たちに戦争体験を語る父の姿が歌われている。
<選択肢> 螢の光、冬の夜


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2009年12月09日

カテゴリー「知・歴史学『日本近代の舞台設定』2004-」を、上の方へ移動しました。過去の試験問題を確認するのに、どこを見たらいいのか判らないとの質問を受けたためです。

第1回の内容だけは、過去の年度とは異なっていますので、その分の問題は正解がわからなくても気にしないでください。それ以外は、説明の仕方は少しずつ変えていますが、同じ内容です。


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2009年09月21日

2009年9月16日(水)、4時限。

1年生科目として知的財産学部で「歴史学」を講義するのは、今年が最後となる。来年度からは3年生・4年制向けの開講枠に出講することになる。

第1回の内容を変えてみた。昨年までは、麻生太郎外務大臣の演説を導入に用いた。今年は、講義を組み立てる基本的な発想や枠組みについて説明することにした。基本事項についての繰り返しの回数を確保し、聴講者の頭に基本的な考え方を定着させるためである。

【基本】
-------------
地理

技術の発達

時代の区切り

過去の出来事を比較してみる
--------------

【応用】
-------------
地理

地理 → 技術の発達 → 地理的条件の変化

地理 → 技術の発達 → 地理的条件の変化 → 国際社会の舞台設定の変化 → 時代の区切りの発生

地理 → 技術の発達 → 地理的条件の変化 → 国際社会の舞台設定の変化 → 時代の区切りの発生 → 時代の区切りを前提として、過去の出来事を比較してみることで、各段階ごとの共通点と相違点が浮き上がって見えてくる
--------------

近代日本の個々の出来事よりも、その出来事が生起した空間的舞台設定に着目し、講義する。奥山真司さんのブログ「地政学を英国で学ぶ」のエントリー「北極海の「北西ルート」で初の商業航行」が、あと3日早く出ていたら、講義で配布し、北極海が通航不可能だった時代に、西ヨーロッパから地理的に最も遠い北半球の土地に国土があったことが、近代日本の前提そのものであった、と、説明しただろう。


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2009年01月28日

歴史学  柴崎  1年次〜  水曜・4時限  参照許可物等なし

1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。(1個4点、計100点)

(1) 1853年の米国ペリー艦隊来航から現在に至る一世紀半余りは、日本におけるネイションビルディング、すなわち、漢字語で言い換えれば、___________________の発端から成熟までの期間であった。日本の経験をネイションビルディングの一事例として把握することを通じて、他国の現在や近い過去を理解する手がかりとすることができる。第1回「歴史的対比について」で、外務大臣時代に____________________が行った演説「わたくしのアジア戦略」を紹介したのは、この趣旨を説明するためであった。
<(1)の選択肢> 国民国家形成、民主国家建設、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎

(2) 19世紀における文明の中心地、西ヨーロッパから日本にいたる道は、第一に、ユーラシア大陸の南側を大きく回り込むルート。これにはアフリカ南端を船で回るルートと、___________________地峡を地中海から紅海、インド洋へと抜けるルートに分かれる。この地峡に運河が完成したのは ________________________が開通したのと同じ年であった。第二は、アメリカ大陸を横断し、大西洋から太平洋へ出て、日本へと航海するルートであった。第三は、ユーラシア大陸を横断するルートで、ヨーロッパからユーラシア大陸の太平洋岸に至る最初の鉄道が開通したのは、_________________開戦の数年前であった。
<(2)の選択肢>  スエズ、パナマ、ニカラグア、ダーダネルス、マラッカ、シベリア鉄道、ヒジャズ鉄道、北アメリカ横断鉄道、パナマ地峡連絡鉄道、台湾出兵、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦

(3) 国際的な場面の変化を受けて、国内的な状況も変化するが、国内には別にローカルな時期区分があった。技術や制度が変遷する具体的な場面の中で、人々は生まれ、成長し、年老いて、死んでいった。1881年に文部省が刊行した『小学唱歌集』初版に収められた「__________________ 」 の歌詞のうちに「筑紫のきわみみちのおく海山とおくへだつとも」の文言がある。当時、大阪や東京から「筑紫」にいたるには _________________に乗るのが、お金さえあれば最速の旅行手段であった。一方、明治末年、1912年に刊行された文部省『尋常小学唱歌』第3版に収録の唱歌「___________________ 」には、「過ぎしいくさの手柄を語る」「囲炉裏のはたに縄なう父」の姿が歌われている。この父が体験した戦争では、輸送船に乗る港、例えば広島の宇品港までは、陸軍部隊は_________________で輸送され、そこから戦地へ渡海したであろう。この二つの時代の差は、第10回「交通体系の変容と地域」で、「近代機廚了代から「近代供廚了代への変化として説明した。第7回「福沢諭吉著『民情一新』第3章を読む」で配布したプリント、すなわち、_________________が著した自伝小説『冨士』では、1889年に主人公が郷里熊本から上京した時には、まだ、滋賀県内の琵琶湖東岸地域の東海道線は工事中であった。その際「博多から大阪まで汽船に乗つた」山陽道は、1895年2月に帰省する時には、広島まで山陽鉄道が開通し、九州方面への旅客は、途中の港、 _________________から連絡船に乗り、門司へ向うこととなっていた。これも「近代機廚ら「近代供廚悗琉椶衒僂錣蠅鮗┐梗体磴任△襦
<(3)の選択肢> 汽船、鉄道、馬車、人力車、汽車の旅、旅愁、冬の夜、同胞すべて五千万、みがかずば、螢の光、菅公、鉄道唱歌、徳富蘇峰、徳冨蘆花、神戸、姫路、尾道、広島、下関

(4) 三角形を三つ並べた板書で「身分秩序の長期的変遷と参政権の拡大」の話をした。ここでは「身分」という言葉を、________________に区別される社会階層の意味で用いた。第二次世界大戦後、戦後改革以後における日本国籍を持つ者は、大きく「国民」と「皇族」とに分かれる。国民にとっての戸籍に相当するものは、皇族の場合には、___________________であり、ここに名が記されることで日本国の皇族の一員である法的根拠となった。これは、国民の戸籍が民法・戸籍法に規定されているのと同様に、___________________という法律に規定されている。戦後日本における国民と皇族の法的な扱いの最大の違いは、_________________が皇族には存在しないことである。一方、戦前においては、帝国議会の上院、すなわち_________________に、皇族の各宮家の当主が___________________として議席をもっていて、戦後の皇族のあり方とは異なっていた。
<(4)の選択肢> 社会的、法的、経済的、皇籍、皇統譜、皇室典範、皇族法、納税の義務、参政権、貴族院、華族院、衆議院、皇族議員、華族議員、勅撰議員

(5) 第5回「初期の洋行と人材育成(その2)」で、三角形を二つ並べ、日本の場合と、____________________となった経験をもつ地域、民族とを対比させた。前者の日本では、明治維新以後1885年に至るまで、政府が設立した高等教育機関では、留学経験のある日本人、ないし、外国人教師が、___________________で講義を行っていた。一方、法学・工学・医学などを、日本語に翻訳した教科書を用い、日本人講師が日本語で講義する別コースが設けられた。前者の教育方法を、当時、___________________と呼び、後者の外国語能力を学生に要求しない速成コースのやり方を__________________と呼んだ。
<(5)の選択肢> 自治領、独立国、植民地、欧米語、日本語、正規教育、正則教育、速成教育、変則教育

(6) 第4回「初期の洋行と人材育成(その1)」では、1866年に一般庶民の海外渡航が可能となる以前に、当時の中央政府であった_________________が公務派遣した外交使節と正規留学生以外に、現在の言葉でいえば「地方政府」とでもいうべき_________________が派遣した密出国留学生・視察旅行者、さらに、個人的資格で渡航した密航者が存在したことを指摘した。長州が英国に派遣した留学生には、初代の総理大臣となり、日露戦後、初代の韓国統監となった __________________ 、その生涯を通じた親友であり、ともに留学を中断して長州藩と欧米諸国との戦争を未然に防止しようとして急遽帰国した__________________ 、明治維新後に帰国し、鉄道局長を長く務め日本の鉄道の父と呼ばれることになる井上勝などがいた。
<(6)の選択肢> 明治政府、徳川幕府、朝廷、諸藩、天領、府県、伊藤博文、井上馨、井上準之助、林薫


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2008年01月24日

1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。(1個4点、計100点)

(1) 講義の導入として、元外務大臣________________が、2005年12月7日、日本記者クラブで行った演説「わたくしのアジア戦略」を配布した。その演説は、「日本は19世紀中葉以来、アジアにおいて政治経済、社会の近代化を、最も早く経験した国」であり、「民主主義と市場経済の建設において、日本はアジア諸国にあって比類なく豊かな経験を積んできた」ことを指摘している。一方、1871年12月14日、_________________での歓迎会に臨んだ___________________の副使、__________________は、後に「日の丸演説」と呼ばれるようになるスピーチを行った。この二つの場面、日本の近代化の始点、終点の間における舞台設定の変遷を概観し、他国、他地域との比較対象の素材として日本近代史を把握するのがこの講義であった。
(2) 上記の日本政府代表団歓迎会が開催された都市は、その2年前に開通した最初の_________________の終点であり、ここより_________________航路を経由してアジア各地へつながる陸路と海路の結節点、乗り換え・積替え都市としての性格をもっていた。その地の人々は、地域の将来発展の可能性をアジア貿易に見出していた。この講義では、また、日本国内における「交通体系の変容と地域」の事例として秋田県を紹介し、本州中央部と鉄道でつながり、さらに、国際航路へつながることに地域の将来発展の途を見出している姿を紹介した。明治・大正時代においては、日本海沿岸各地域と日本海対岸の地を結ぶ国際貿易のことを__________________と呼んだ。一世紀後の現在、日本海沿岸各地域において国際的な交通・交易の可能性に地域の将来発展を構想することを___________________構想と呼ぶようになっている。
(3) 青森県と山口県を除く本州日本海沿岸の各地域に所在する港湾のうち、上記(2)で述べた国内の鉄道と日本海の向こう岸を結ぶ航路に連なる貿易港として現実に発展したのは、明治・大正時代においては____________港であり、昭和時代に入り、1931年に上越線が開通したのちの_____________がこれに続いた。その2年後に発表された川端康成の小説『雪国』、その舞台となった越後湯沢は、東京から満洲国へ向うショートカットルート上に存在していた
<(1)〜(3)の選択肢> 陸奥宗光、小村寿太郎、内田康哉、小泉純一郎、川口順子、麻生太郎、高村正彦、バンクー バー、シアトル、サンフランシスコ、ウラジオストック、遣米使節団、遣欧使節団、岩倉使節団、井上馨、伊藤博文、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛、北米大陸横断鉄道、ユーラシア大陸横断鉄道、中近東縦貫鉄道、太平洋、大西洋、インド洋、対岸貿易、沿海州貿易、環日本海経済圏、ユーラシア経済圏、青森、秋田、酒田、新潟、直江津、富山、敦賀、境、下関

(4) 本講義では、また、時期区分・時代区分ということに意を用いた。第12回「国際秩序の変遷と国内政治」では、国際政治の場面変化の背景に、幕末以降(石炭燃料に基づく蒸気船、蒸気鉄道による世界交通の成立)、1918年の第1次世界大戦終結以降(石油燃料による内燃機関の時代)、1945年の第2次世界大戦終結以後(石油に原子力を加えた時代)、1991年の______________終結以後(つぎのエネルギー源への模索の時代)、という巨視的な区分を見る。世界交通の変遷という観点から同じ時代、19世紀半ばから現在までを見ると、第2回・第3回「西ヨーロッパへの最短経路の変遷」で取り上げたように、1930年代から1940年代の間に転換期があり、それ以前は、国際航路と______________による地表交通の時代、それ以後は、航空交通の時代という二期区分となる。
(5) 航空交通の時代内部には、_______________の登場の前後で様相の変化、区切りがあった。それまでは、飛行高度・航続距離・速度に制約が大きく、地形と気流にそった飛行経路となっていた。ところが、上記の区分以後は、成層圏を飛行し、出発地と目的地を最短経路で結ぶ_______________を採ることとなり、地表交通の時代の海上交通における_____________の登場と同様に、経路に関する変化をもたらした。
<(4)〜(5)の選択肢> ベトナム戦争、朝鮮戦争、東西冷戦、自動車交通、大陸横断鉄道、航空路、ジェット機、プロペラ機、飛行艇、大圏航路、等角航路、巡航航路、チャイナクリッパー、蒸気船、スクリュー船

(6) 国際的な場面の変化を受けて、国内的な状況も変化するが、国内には別にローカルな時期区分があった。技術や制度が変遷する具体的な場面の中で、人々は生まれ、成長し、年老いて、死んでいった。1881年に文部省が刊行した『小学唱歌集』初版に収められた「_______________」の歌詞のうちに「筑紫のきわみみちのおく海山とおくへだつとも」の文言がある。大阪や東京から「筑紫」にいたるには_______________に乗るのが普通の旅行手段であると当時の人々は考えていたであろう。一方、明治末年、1912年に刊行された文部省『尋常小学唱歌』第3版に収録の唱歌「_______________」には、「過ぎしいくさの手柄を語る」「囲炉裏のはたに縄なう父」の姿が歌われている。この父が体験した戦争では、輸送船に乗る港までは、陸軍部隊は______________で輸送され、そこから戦地へ渡海したであろう。この二つの時代の差は、第10回「交通体系の変容と地域」前半週で、「近代機廚了代から「近代供廚了代への変化として説明した。第7回「福沢諭吉著『民情一新』第3章を読む」前半週で配布したプリント、すなわち、_______________が著者である自伝小説『富士』では、1889年に主人公が郷里熊本から上京した時には、まだ、滋賀県内の琵琶湖東岸地域の東海道線は工事中であった。その際「博多から大阪まで汽船に乗つた」山陽道は、1895年2月に帰省する時には、広島まで山陽鉄道が開通し、九州方面への旅客は、途中の港、_____________から連絡船に乗り、門司へ向うこととなっていた。これも「近代機廚ら「近代供廚悗琉椶衒僂錣蠅鮗┐梗体磴任△襦
<(6)の選択肢> 汽船、鉄道、馬車、人力車、汽車の旅、旅愁、冬の夜、同胞すべて五千万、みがかずば、螢の光、菅公、鉄道唱歌、徳富蘇峰、徳富蘆花、神戸、姫路、尾道、広島、下関

(7) 本講義の柱となる視点の一つに、日本国内の中央と地方、それを取り巻く国際的な環境という空間的な配置のなかで、日本近代を把握するという発想があった。1890年頃、政治・産業・軍隊など各分野で、地域から国全体や世界的場へ参加し、そこでの評価、評判が地域にフィードバックされる仕組みが成立した。政治においては、地元選挙区選出の_________________が東京の帝国議会で行った演説が全国的に報道され、さらに、欧米諸国での日本の議会政治に関する評判が紹介される。産業分野では、地元の物産・製品が、政府主催の全国規模の博覧会である______________に出品され、そこでの受賞が全国的に報じられる。政府と府県庁の勧めに応じて参加した万国博覧会での評判が、新聞報道というかたちで国内に還流する。軍事について言えば、明治維新以後、第二次大戦終戦にいたる日本陸軍は____________の軍隊であった。兵士は、師団管区・連隊区に_______________府県・郡町村の出身者から構成された。その部隊が残した戦績は、郷土の他地域への自慢、郷土意識を高めるものとなる。延いては日本全体として、ナショナリズムを高める基盤となった。
<(7)の選択肢> 貴族院勅撰議員、枢密顧問官、衆議院議員、華族議員、共進会、地方博覧会、内国勧業博覧会、国際博覧会、徴兵制、志願兵制、対応した、無関係な


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2008年01月10日

2008年1月9日(水)、4時限。

この講義の最終回。2週間後に定期試験内での筆記テスト。

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2007年10月24日

2007年10月24日(水)、4時限。

1881年『小学唱歌集(初)』に掲載の「螢の光」と、1912年『尋常小学唱歌(三)』に初出の「冬の夜」の歌詞を対比させ、一世代の間に生じた国家への献身の差を考える。

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2007年10月17日

2007年10月10日(水)&10月17日(水)、4時限。

昨年度と同じ内容。

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2007年10月03日

2007年9月26日(水)&10月3日(水)、4時限。

昨年の第2回第3回第4回と同じ内容。但し、第4回における「20世紀初頭における西太平洋の国際電信網」の話題を除く。



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2007年09月19日

2007年9月19日(水)、4時限。

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1. Lonely Planetと地球の歩き方の違い
2. 科目の説明
3. 麻生前外相演説
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2007年01月10日

現代日本への歩み 2007年1月10日(水) 4時限

軍事的・財政的に自立した幕府・諸藩・諸外国から構成される幕末政局から、廃藩置県、地方民会、国会開設を経て現在のような個人を最小単位とする「政界」が生み出されたプロセス。

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2006年12月20日

現代日本への歩み 2006年12月20日(水) 4時限

機∨詼から明治、大正初期
供第1次世界大戦〜第2次世界大戦
掘東西冷戦の時代
検東西冷戦以後

巨視的には「国際政治→国内政治」という変化の連鎖が複数回繰り返された。東西冷戦後の現在を過去150年のなかで捉え直し、現在我々が越えようとしている転換期を考える。

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2006年12月13日

現代日本への歩み 2006年12月13日(水) 4時限


地域の将来構想における交通体系整備への欲求。


対岸貿易の時代(19世紀末〜20世紀前半): 築港(港湾整備)+鉄道敷設

環日本海経済圏の時代(1980年代末〜現在): 空港+コンテナ港+高速道路+新幹線



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2006年12月09日

現代日本への歩み 2006年12月6日(水) 4時限

水運の時代から鉄道の時代への以降に伴う、物流ラインの変化

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2006年11月29日

現代日本への歩み 2006年11月29日(水) 4時限

三段階の変化を板書して示す。


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2006年11月22日

現代日本への歩み 2006年11月22日(水) 4時限

『民情一新』第3章の内容を文章に即して確認した。このテーマのまとめの部分が来週にずれ込む。



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2006年11月16日

現代日本への歩み 2006年11月14日(水) 4時限

国民国家=nation state
cf. ethnic groups
国民国家形成=nation-building

それを成り立たせる諸要素を考える。
20061115タイトル20061115諸要素




福澤もまた、歴史的対比を用いて、自国の将来をイメージしようとした。
19世紀初頭から19世紀の79年目=明治12年までの欧米諸国の経験、←→、1879年以降同じ時間距離を隔たった日本の将来予測。


配布物
『福澤諭吉著作集』第6巻(2003年、慶応義塾大学出版会)より第3章「蒸気船車、電信、印刷、郵便の四者は千八百年代の発明工夫にして、社会の心情を変動するの利器なり」

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2006年11月08日

現代日本への歩み 2006年11月8日(水) 4時限

長州藩士としての密出国しての英国留学と帰国。大蔵少輔としての米国出張。岩倉使節団への副使としての参加。伊藤の生涯における、1866年以前の初期洋行者としての条件と、同じ出国をした5人のうちで、井上馨とともに早期に帰国したことの影響を考える。

この講義の第1回で、麻生太郎外務大臣の外交演説を紹介した。それと対比するようなつもりで、岩倉使節団のサンフランシスコでの歓迎会における伊藤博文の「日の丸演説」を紹介した。

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2006年10月25日

現代日本への歩み 2006年10月25日(水) 4時限

配布物(A4一枚)
「南校の集合写真」(先週のエントリーからリンクを貼った先、東京大学附属図書館特別展示会「東大黎明期の学生たち」より)



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2006年10月18日

現代日本への歩み 2006年10月18日(水) 4時限

1. 日本の経験と植民地となった経験のある国の対比
2. 正則教育と変則教育



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2006年10月14日

現代日本への歩み 2006年10月11日(水) 4時限

1. 20世紀初頭における西太平洋の国際電信網
2. ゲートウェー都市としての敦賀
3. シベリア鉄道で欧州のどこまで行けたのか

配布物
1表=図録『開港100周年記念 みなと敦賀の歴史展』(敦賀市立博物館、1999年)第1章「開港以前の敦賀港」4「開港までの歩み」(12ページ、「明治時代」年表を含む)、第2章「国際港・敦賀」1「開港」(13ページ)
1裏=同図録第2章「国際港・敦賀」2「欧亜国際連絡列車」(14・15ページ)
2表=同図録第2章「国際港・敦賀」3「第一期敦賀港改修工事」(16ページ、「大正・昭和(戦前)時代」年表を含む)、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より「シベリア鉄道」のうち「歴史」
2裏=THE INVISIBLE WEAPON: Telecomunications and International Politics 1851-1945, Daniel R. Headric, Oxford University Press, 1991, p.95, "Figer 5. Pacific and East Asian Cables, c. 1905."

[参考]
戦前の国際連絡運輸の沿革、戦前最盛期の日本からシベリア鉄道への経路(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
百年の鉄道旅行---黄金時代の鉄道をめぐる旅

〔講義中提示したエピソード〕
薄久代(すすきひさよ)さん(1944年3月、東京帝国大学附属図書館に勤務。1985年3月、東京大学附属図書館を定年退職)から直接お聞きした話し。東京大学百年史編集室時代のことなので、他の室員も記憶しているのではないだろうか。
開戦前に米国の出版先に予約した学術雑誌のうち、文系のものは、ソ連経由で1年ほどかかって、図書館に届いていたという。シベリア鉄道ルートであった。


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2006年10月04日

現代日本への歩み 2006年10月4日4時限(19名)

地表交通の時代について、1868年以前、1868年〜1902年の二つの時期について説明。

配布物(1枚)
表=ジュール・ヴェルヌ『八十日間世界一周』(岩波文庫)カバー、鈴木明著『維新前夜:スフィンクスと34人のサムライ』(小学館、1988年)カバー
裏=原暉之著『ウラジオストク物語:ロシアとアジアが交わる街』(三省堂、1998年)より「1914年のシベリアと東アジア」地図


〔講義中提示したエピソード〕
川端康成の『雪国』は、清水トンネル開通によって、新たに満州国への最短経路上となった越後湯沢を舞台とする。

1931(昭和6)年9月1日、上越線全通。水上〜越後湯沢間の清水トンネル営業運転はじまる
1933(昭和8)年5月3日、新潟〜北鮮航路開設。満州国新京へショートカット路
1935(昭和10)年、上越線開業当時の越後湯沢を舞台とする小説、川端康成『雪国』の個々の章が、短編として独立して発表。
1937(昭和12)年、一冊にまとめられて『雪国』創元社から発行。


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2006年09月27日

現代日本への歩み 2006年9月27日 4時限(21名)

つぎのようなレジュメを配布。説明は途中で時間切れ、次回に続く。
---------------------------------------------------
19世紀半ば〜20世紀半ば: 地表交通 〜 大洋や大陸を越えて
20世紀半ば〜現在   : 航空交通 〜 地形を飛び越えて
*この二つの時代のパタンを対比させて理解する

1. 過去500年のうち最初の400年におけるヨーロッパ勢力の世界への拡張、その際、極東へ到達する三つの経路。ユーラシア大陸南回り、ユーラシア大陸北方を東進、アメリカ大陸経由

2. 19世紀から20世紀前半における地表交通路の変遷
地峡
海峡
等角航路
蒸気船
大圏航路
大陸横断鉄道
運河
1869年
1902年
1914年

3. 20世紀後半における航空路の変遷
プロペラ機
南回りルート
ジェット機
大圏航路
北極上空ルート
シベリア上空ルート


インターネットから航空交通について検索:

1935年 パンアメリカン航空、飛行艇でサンフランシスコ〜香港線開設(チャイナクリッパー)
1957年 スカンジナビア航空、アンカレッジ経由の北極上空ルートを開設
-----<1970年代は東西緊張緩和=デタントの時代>-----
1970年 日本航空、初めてシベリア上空通過
1971年 昭和天皇が訪欧、アンカレッジでニクソン米大統領が出迎え。(初訪米は1975年)
1983年 フィンエア、燃料タンクを増設した機体で、アンカレッジ上空経由北極上空ルートでヘルシンキ直行便を開設
1989年 ------<ベルリンの壁撤廃>------
1991年 フィンエア、ヘルシンキ行きをシベリアルートに変更

   シベリア上空経由          約12時間
   アンカレッジで給油、北極上空ルート 約17時間
---------------------------------------------------


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2006年09月19日

現代日本への歩み 2006年9月20日4時限
シラバスによれば、第一回の内容はつぎの通り。
---------------------------
第1回 歴史的対比について
現在の他国特に開発途上国の現状を理解する上で、近代日本の歴史的体験を比較・対象の素材として用いることが如何に有用かを説明。
---------------------------

これを具体化するため、2005年12月5日、日本記者クラブにおける麻生太郎外務大臣の演説「わたくしのアジア戦略:日本はアジアの実践的先駆者、Thought Leaderたるべし」を配布。



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2006年08月03日

1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。(1個4点、計100点)
(1) 「19世紀の世界交通と日本」では、19世紀中頃から20世紀前半において、日本から西ヨーロッパにいたる最短経路がどのように変遷したのかを扱った。航空機による海外旅行が普及する以前、人々は大洋を船で進み、地球上の他の地方へ旅した。こうした「地表交通」の時代にあって交通の要衝となったのは、大洋と大洋を結ぶ海峡であり、大洋と大洋を隔てる陸地のうち、陸上を横断するのが容易な細い陸地の部分、すなわち、地峡であった。前者については、太平洋とインド洋を結び、シンガポールがその水路に面している________________海峡が重要であり、後者には、インド洋と地中海との交通路となった_______________地峡、太平洋と大西洋の連絡路となった_______________地峡がある。この二つの地峡には、徳川幕府が最初の外交使節団を派遣した1860年代初頭には、ともに連絡鉄道が敷設されていて、後に、運河が建設されることになる。この第一の時期にあっては、東回りでも西回りでも西欧への時間距離はほぼ同等であった。そうした「洋行」の時代の第二期は、1869年の________________の開通によって始まる。西ヨーロッパへの最短経路は、_______________の国土内を経由する道となった。明治時代の日本人に多くその国への親近感が見られるのは、同国が海外に未だ植民地をもたないヨーロッパ系国家であるというだけでなく、交通路の面で隣国と認識されるという事情もあった。西ヨーロッパへの最短経路に生じた第二の変化は、1902年における_______________の開通であった。以後、日本において西欧に最も近いゲートウェー都市は、それまでの横浜・神戸・長崎に代わって、敦賀あるいは_______________となった。_______________とは、地球上の二点を直線で結んだ交通ルートである。「地表交通」の時代においては、蒸気機関が交通手段の動力源として用いられるようになることで蒸気船が大洋を直線的に横断するようになり、大陸横断鉄道が大陸を交通可能な空間に変えた。一方、「航空交通」の時代における変化は、プロペラ機から________________への機種転換によって可能となり、北極上空ルートやシベリア上空ルート経由ヨーロッパ行きの航空路が開設された。
(2) テーマ「初期の洋行と人材育成」では、1866年に一般人の海外渡航が可能となる以前に、当時の中央政府であった________________が公務派遣した外交使節団と正規留学生以外に、地方政府たる_______________が派遣した留学生・視察旅行者、個人的資格で渡航した密航者が存在したことを指摘した。長州が英国に派遣した留学生には、初代の総理大臣となった_______________、その生涯を通じた親友であり、ともに留学を中断して長州藩と欧米諸国との戦争を未然に防止しようとして急遽帰国した_______________、明治維新後に帰国し、鉄道局長を長く務め日本の鉄道の父と呼ばれることになる井上勝などがいた。
(3) テーマ「交通体系の変容と地域」では、近世→近代帰近代兇噺鯆未陵り様の段階的変化が、具体的な地域においてはどのような変化を生み出したのかを、東北の秋田県を事例として考えた。近世から近代気悗琉楾圓蓮⊃緇絽鯆未砲ける__________________という機械動力の導入、そして、陸上道路交通における__________________や人力車の登場によって特徴づけられる。水上陸上どちらの場合も、交通経路の変化は発生せず、近世と同じ経路を運航・運行する交通手段が変化し、置き換えられた。近世を通じて繁栄した河口積替え都市、河川流域の船着場、街道に沿って整備された宿場、などの交通インフラは、近代気了代にあっても、近世同様の賑わいを見せた。しかしながら、近代気ら近代兇悗琉楾圓蓮_________________の時代の到来であり、国内幹線交通網が新たなネットワークによって担われることとなった。
(4) 第一次世界大戦は、それまでのヨーロッパ中心の世界秩序に大きな変更をもたらした。その変化は、日本の国内政治にも大きな影響を与えざるをえなかった。幕末・維新以来、日本がお手本にしてきたヨーロッパ文明圏の諸国は、第一次大戦の結果、三つのタイプに分裂した。第一は、英米の自由主義経済、民主主義体制。このモデルに親近感をいだく国内政治勢力は、自由民権派→初期議会の民党以来の伝統を受け継ぐ_________________であり、また、経済界も明治以来の自由経済思想の影響下にあり、このモデルの影響下にあった。第二は、独伊を代表とするファシズム政権で、統制経済と一国一党による政治を標榜した存在。このモデルに接近したのが、陸軍の親ドイツ派、統制経済を研究しつつあった革新官僚などであった。第三は、1917年の__________________により成立した世界最初の共産主義政権。日本共産党の結党は、日本国内へ直接的にその影響が及んだ例である。なお、明治時代の社会主義研究会以来の系譜をひき、後には戦後の日本社会党へつながる__________________と呼ばれる諸政党(労働、農民、無産などの言葉がこの類の政党の名に散見される)が、この時代に離合集散を繰り返した。それらは、第二と第三の国際潮流の影響下に生じた国内政治現象であったと大づかみに捉えることができる。
(5) 最近数年のイラクやアフガニスタンに関するニュースを見ると、地方勢力が軍事的に中央政府に対して自立していて、独自に国外勢力に結びつき、中央政府の武装解除要求に応じようとしていない。日本の近代史に、類似した状況を捜すと、少なくとも地方政治勢力が、軍事的・財政的に自立していた1871(明治4)年の__________________以前に対比すべきものであろう。その後、徴兵制の軍隊の整備が始まる。
(6) 明治10年代の高等教育機関(後の大学に相当)を見ると、外国人教師ないしは留学経験のある日本人教師から、欧米語で教授をうける「本科」と、日本人教師から、翻訳書を教科書として用い、日本語で教授をうける「別科」に別れていた。当時の用語で、前者を正則教育とよび、後者を__________________と呼んだ。限られた予算と人材のなかで、近代化に必要な各分野の実務家を速成するために、採用された二段構えの方式であった。近代法を運用する裁判官・検察官・弁護士、西洋医学を習得した医師などは、この後者の方法により多量に育成されることになった。
(7) 19世紀における博覧会とは、まず、産業技術の交流の場として始まった。明治政府は、1873年のウィーン万博に、各分野の職人等を政府の費用で派遣し、技術習得に努めた。西陣の職人が、ジャガード織機を持ちかえり、研究の上、政府主催の全国規模の博覧会である__________________にその国産化した試作品を出品している。興味深いのは、稼働部分以外は鉄ではなく木を素材として製作していることで、人材育成の場合と同様、当面の必要に応じるために、性能は落ちても直ぐに活用できる材料で役に立つものを一定量速成する戦略と判断できる。そのような技術導入戦略を、__________________と呼ぶ。
(8) 第二次世界大戦後、1991年のソビエト連邦解体にいたる国際政治は、__________________の時代であった。この時代の国内政治は、「保守」対「革新」の二大陣営の対抗によって演じられた。まず、「保守」陣営は、自らを自由主義と自由経済を守る「自由勢力」と見做し、「革新」陣営を共産主義を容認する「容共」勢力であると非難した。一方、「革新」陣営は、自らを日本国憲法の平和主義を護る「________________」勢力であると規定し、「保守」陣営は日本を戦前の軍国主義へ引き戻そうとする「反動」勢力、「戦争」勢力であると非難した。
<選択肢>
マラッカ、ダーダネルス、ジブラルタル、スエズ、パナマ、コリント、ロシア、アメリカ合衆国、フランス、ドイツ、北米横断鉄道、シベリア横断鉄道、ヒジャズ鉄道、シルクロード鉄道、函館、青森、富山、下関、鹿児島、大圏航路、等角航路、レシプロ機、ジェット機、明治政府、徳川幕府、朝廷、諸藩、天領、府県、伊藤博文、井上馨、井上準之助、林薫、蒸気船、蒸気機関車、馬車、自動車、路面電車、鉄道、既成政党、無産政党、保守政党、革新政党、ロシア革命、フランス革命、明治維新、廃藩置県、秩禄処分、西南戦争、変則教育、予備教育、地方博覧会、共進会、内国勧業博覧会、先端技術、伝統技術、中間技術、東西冷戦、緊張緩和、護憲、自衛、保守


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