工【歴史学供

2012年02月19日

歴史学供 2年次〜 木曜・2/4時限  参照許可物等なし

1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。    (1個4点、計100点)

(1) 本講義では、1863年(文久3)年に肥後国葦北郡____________(現在は同名の市となっている)に生れ、1957(昭和32)年、静岡県熱海市伊豆山で逝去した徳富蘇峰の生涯を中心に置き、その背景となった19世紀・20世紀の日本史を概観した。蘇峰は、郷里の熊本県で____________運動に加わり、大江義塾を経営した後、公刊された最初の著作であるデビュー作『_______________』の刊行が1886年に決まると上京し、「_____________」「生産主義」「平和主義」を主張した。従来の蘇峰研究においては、この日清戦争前の時期と、日清戦争後から、昭和戦前、太平洋戦争敗戦を経て逝去するまでの後半生に生涯を二分し、対比的に取り上げるのが通例であった。この二分法が通説化したことには奇妙な経緯がある。
<(1)の選択肢> 水俣、熊本、荒尾、尊皇攘夷、自由民権、大正デモクラシー、将来之日本、大日本膨脹論、時務一家言、貴族主義、平民主義、国家主義

(2) 最初に日清戦争で生涯を二分する説明をしたのは蘇峰自身であった。1913年刊『____________』が初出であり、講義中に関連部分を配布した1935年刊『_____________』においてもその説明は繰り返された。蘇峰は、日清戦争前を若気の至り、未熟さがあった時代とみなし、日清戦争以降を肯定的に評価し、現在の自分にいたる時代と位置づけた。蘇峰は、太平洋戦争中に__________________を務め、ラジオ放送に登場し戦意高揚の演説を行った。この蘇峰の姿を見、戦時中の_______________的な蘇峰の言動に強い印象を受けた青年たちがいた。戦後、その世代が担い手となり、蘇峰研究がスタートした。初期の蘇峰研究者は、日本国憲法の平和主義の理念に代表される戦後___________的な価値意識に類似した歴史的先例を求め歴史を遡上し、日清戦争前の蘇峰を「発見」した。こうした事情があり、先ずは、上京直後から日清戦争の数年後まで雑誌『_____________』を発行した時代の蘇峰について研究が蓄積されることとなった。
<(2)の選択肢> 将来之日本、大日本膨脹論、時務一家言、蘇峰自伝、勝利者の悲哀、国民新聞社社長、京城日報社監督、大日本言論報国会会長、国家主義、民主主義、国民之友、蘇峰会誌、欧文極東

(3) 日清戦争講和の___________の国民新聞に掲載された「欧米周遊に就て江湖の諸友に告く」(欧米周遊に出かけるに際した蘇峰から読者への挨拶文)には、1913年の著作や1935年の著作とは異なる三国干渉への論及がある。「我が朝野に於ける世界時務的知識の欠乏」「単に国力のみ進みて、国民の眼界の進まざりし不権衡」が原因となって_______________を引き起こしたとする把握が示されている。
<(3)の選択肢> 一年後、五年後、十年後、遼東還付、台湾占領、韓国併合

(4) 日清戦争前後の蘇峰の社会的活動形態の変化が、国家将来像・組織的基盤・国内政治観の三側面にわたって、1891(明治24)年、および、1898(明治31)年に生じたとする把握(1991年工大紀要に掲載)を講義した。後者の転換点に際し、蘇峰は、1898年8月末で『国民之友』『家庭雑誌』『欧文極東』を廃刊し、9月より『国民新聞』に統合した。これは、________________として国民新聞が遇されることを求めて、日清戦争前には批判の対象とした_______________のリーダーに接近したことにより生じた組織的基盤の編成替えであった。
<(4)の選択肢> 独立新聞、準政府機関紙、準政党機関紙、藩閥、民権派、在野

(5) 1913(大正2)年は、徳富蘇峰の生涯において後半生の発端となった年である。第一に、日露戦争以前から盟友関係にあった長州系陸軍出身の藩閥政治家______________が政治的に失脚し、ついで病死することにより、蘇峰が現役の政治記者である時代に終止符が打たれた。第二に、米国カリフォルニア州で排日土地法が成立したことを知り、欧米系の白人国家を指して「______________」という用語を初めて用いた。以後、太平洋戦争にいたる米国との対立が顕在化し始めた。第三に、日清戦争講和にロシア・ドイツ・フランスが干渉してきたことにより自分は「________________」に目覚めたという言説を用いるようになった。後半生の主な仕事となる『_________________』の執筆開始は1918年からであるが、そのきっかけが生起したのは1913年であった。
<(5)の選択肢> 山県有朋、桂太郎、寺内正毅、藩閥、白閥、力の福音、黄人の重荷、近世日本国民史
公爵桂太郎伝、吉田松陰

(6) 2011年3月11日以降の時代から徳富蘇峰の生涯を捉えた研究はまだ存在しない。蘇峰は、1923(大正12)年9月1日の________________により、国民新聞社の社屋が全焼し、その後の経営再建に失敗した自然災害により影響を受けた歴史上の人物である。いまのところ最新の研究は、2011年3月刊、澤田次郎『徳富蘇峰とアメリカ』である。同書本文末尾で、著者は、「生涯を通じてアメリカと心理的に格闘した蘇峰の体験は、現在のアメリカと日本の関係はもちろんのこと、アメリカと_____________、あるいはアメリカと______________世界の関係を考える上でも、比較の材料をもたらしてくれる」と述べる。2001年9月11日の同時多発テロ以降の世界状勢を踏まえて、日本近代を代表する歴史的人物として徳富蘇峰を位置づけていることが読み取れる。
<(6)の選択肢> 濃尾地震、関東大震災、南海地震、中国、東南アジア、イスラム、ヨーロッパ

(7) 澤田氏の前著、1999年刊『近代日本人のアメリカ観』は、日露戦争から_______________終結までを扱った。この時代は日米対立が漸次増幅し、戦争に至る過程であった。「______________」と題された日露戦争直後の社説で、かつて蘇峰が危惧を示した将来シナリオ、すなわち、日本が有色人種のリーダーとして白人諸国家と戦うという望まない未来像が現実化する過程であった。
<(7)の選択肢> 第一次世界大戦、第二次世界大戦、高度経済成長、東西冷戦、黄人の重荷、朝鮮統治の要義
国民自覚論

(8) 澤田氏の2011年刊『徳富蘇峰とアメリカ』は、日清戦争後、日露戦争にいたる時代において、蘇峰は「シーパワーの日英________が結束してランド・パワーの_____________を封じ込める」という基本戦略を構想したと指摘する。この構想が長い中断の時期を経て、第二次世界大戦後、日米安全保障条約という日米提携によりソ連を盟主とする共産主義陣営の拡大阻止の構想として復活する。蘇峰の全生涯を対象としたことで初めて可能となった澤田氏の最新作の独自な主張である。
<(8)一つ目の空白の選択肢> 清、露、独、仏、米
<(8)二つ目の空白の選択肢> 清国、ロシア、ドイツ、フランス、アメリカ















【正解】
(1) 水俣、自由民権、将来之日本、平民主義
(2) 時務一家言、蘇峰自伝、大日本言論報国会会長、国家主義、民主主義、国民之友
(3) 一年後、遼東還付
(4) 準政府機関紙、藩閥
(5) 桂太郎、白閥、力の福音、近世日本国民史
(6) 関東大震災、中国、イスラム
(7) 第二次世界大戦、黄人の重荷
(8) 米、ロシア



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2011年11月08日

国家将来像と陸海軍備をめぐる海軍と徳富蘇峰
(Rivalry between TOKUTOMI Soho and Imperial Japanese Navy on Ground Strategy of Military Buildup)
大阪工業大学紀要 人文社会篇56巻1号



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2010年03月02日

 歴史学供 柴崎 2年次〜 参照許可物等なし
1.文章A〜Hは、それぞれどの記事・論文・書籍の一部分か。選択肢から選んで選択肢の番号を記入せよ。選択肢の同一番号は2回まで記入してよい。(1個4点、計32点)
A→____ B→____ C→____ D→____ E→____ F→____ G→____ H→____         
<選択肢>
1. 徳富猪一郎『将来之日本』経済雑誌社、1886年刊
2.『国民之友』連載「日本の国防を論ず」。『日本国防論』民友社、1889年1月刊
3.『読売新聞』1890年11月8日号「陸軍は半兵半農、海軍は半艦半船」
4. 有地品之允「海防意見書」1891年4月11日付
5.『読売新聞』1891年7月17日号「肝付海軍大佐の軍備論(六百五十万円の使途)」
6. 1891年7月刊『兵商論』。『国民之友』1891年8〜9月、Q.S.T.「兵商論」
7.『国民之友』1891年8月3日号社説「対外政策の方針」

文章−A 「吾人は実に云ふ富の力は以て兵に敵す可し。兵の力は以て富に敵す可らす。何となれは今日の世界に於ては兵は富に依て維持することを得るも富は兵に依て維持することを得されはなり」。「今日の常備軍は人民を保護し、人民の生産を保護せんか為に存在すれとも、昔時の人民は此の武士、及ひ高等なる武士を奉養せんか為に存在したりしなり」
文章−B 「日本に於ては(第一)殖民地無し(第二)将来に於ては、或は繁盛するかも知らざれども、今日に於ては、大いなる手広き海外貿易無し、即ち我国人各処に出張するに非すして、外国人等が我邦に出張して取引を為し居れり、去れば海外出交易者を保護するの必要も別段多からざる可し」。「吾人は始終防御のみを説て、敢て一歩も国境を越へて外国に威武を伸ふることに説き及はす、思ふに世の壮士は或は之を不満とするものあらん、〔中略〕、吾人と雖他日事ある時に於ては、太平洋の水、中央亜細亜の野、欧州諸強国と抗衡して、日本の国旗を輝かすことを欲せさるにあらす、唯た其の実力なきを恐るゝのみ」
文章−C 「人は言ふ、兵は凶事なり軍備は不生産的なりと、是れ海陸軍任務の差別を識らざる者の言なり、苟も文明海陸軍任務の在る所を知了せは容易に斯る説の誣妄なるを弁すへし、夫れ海軍の任務は、戦時に於て攻撃又防守上の主働者たるに止らす、尚ほ平時に於て商業漁猟を保護し商民移住民を衛護する等、全く国益の増進を資くるに在れは、寧ろ平和の保証者にして間接には国家の生産を助長する者なり」
文章−D 「平和的政策は何ぞ、其精神とする所は、自衛防御を主とし、其目的とする所は、貿易を盛にし、各国間の好意を敦くし、或は移住と云ひ、或は殖民と云ひ、其他国家の福利と尊栄とを挙て、之を外交的機能の上より補はんと欲する者なり、外交的機能の後には、戦艦軍兵、固より是が後楯たるなり、而して国民の大精神更に之が後楯たるなり、文略的対外政策は、独り内政の改良に衝突せざるのみならず、偶以て内政の改良を成就せしむる、一の方便と為る者あり、何となれば、其貿易を盛にし、其関門を開き、天下の利をして、己れに聚めしむるを主とするが故に、是が為に、積極的に於ては、国民の生産力を加へ、国家の財用を富贍ならしめ、消極的に於ては、国民の壮丁を不生産的に使用し、国家の資本を不生産的に消費するが如きことなきを以て也」
文章−E 「魯国に行はるゝ海軍の組織に倣ひ今後普通の軍艦の外に尚軍艦の用をなすべき商船を造り置き、平時は商船として動かしめ戦時は軍艦の助けをなさしむること恰も陸軍の屯田兵に於るが如く、彼れが半農半兵の組織に倣ひ我は半商半兵、即ち半船半艦の軍艦を備へ置かんことを望む」
文章−F 「以上陳述せし所の計画を実行せらるるに至らば、条約改正の実効を見ることは勿論、平時は貿易の安全を保護し以て東洋の商権を握ることを得、戦時は強敵を海上に邀撃(ようげき)する等の運動を為すは自在たるべきなり。斯の如くして始めて日東一帝国の真面目を発揚し併せて民力休養の実利を享有せしむるに庶幾(ちかか)らん乎。希くば此計画を称賛し以て直に之を実行せられんことを」
文章−G 「此頃横浜に停泊中なる清国北洋艦隊の来航は、我海軍社会に非常の感動を与へたるものの如し。大佐が此頃某氏への嘆息談を聞くに、定遠号は到底水雷の力にあらざれば迚も大砲などにては敵し難し。隣邦既に斯る堅艦を有す。我国豈黙視して止むべきならんや。第一期議会の賜物六百五十万円あり。須く以て世界一等に位する大艦製造費に充つべしと」
文章−H 「平時に於ては、貿易郵送に従事して積極的に国家の利益を進め、戦時或は事変あるに於ては、忽然兵装を施して軍務に従事し、消極的に国家の利益を保護するは、洵に策の得たるものならずや、或は今日軍艦の精鋭なる、到底平時の商船を以て戦時の需要に適し能はさるを疑ふものあらんなれとも、是れ事実の真相を察せさる想像のみ、固より純然たる戦闘艦に比較すへからさるは当然の理なりと雖も、速力を高め、防水区画を多くし、汽機汽罐を保護し、且つ新式大砲を搭置するの準備あるに於ては、所謂兵装巡航船に変して交戦爪牙の間に周旋し、或は偵察用に或は迅速の通報用に或は敵の商船を破壊するに適応すへきは、各国の既に経験せる所なり」

2.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。(1個4点、計68点)
本講義の主題は「国家将来像をめぐる海軍と徳富蘇峰」であった。現在の我々が見落としがちな国家将来像、海軍、徳富蘇峰それぞれの過去の側面を指摘し、それらが組み合わさった場面を、歴史の流れの一例として示した。
(1) 昭和戦前、日本はユーラシア大陸に領土と勢力圏をもつ国家だったが、明治時代まで遡るとそれ以外の可能性も存在した。日本は____________の結果、台湾を領有した。戦後、国土は、千島列島・日本列島・琉球列島・台湾から構成されることになった。当時の日本人は自国を国土の形から「_______________」であると考えた。日本の商社や銀行の支店網がアジア各地に広がり、日本人が各港に居留民団を結成するようになった。こうした状況を背景に、国家の将来を_____________として思い描く基盤が成立した。
<選択肢> 日清戦争、日露戦争、島帝国、大陸帝国、通商国家、軍事大国

(2) 第二次世界大戦の太平洋戦線を華々しく戦い、敗北した_____________の印象が強く残るため、今日、海軍というと__________における戦闘組織として理解される傾向がある。しかし、レーダーもなく、無線電信も開発途上であった明治時代、軍艦であろうと、商船・漁船であろうと、航海から無事に帰港すること自体が困難さを含んでいた。今日、地球の周回軌道の利用が、防衛上、商業上、ともに技術的な困難さを伴っているのと同様の事情があった。明治時代の海軍の活動には、商船・漁船など____________における民間の海洋利用を保護し、また、____________の保護を任務とし、一国の海洋を通じた活動全般を庇護する国家機関の姿があった。
<選択肢> 大日本帝国海軍、アメリカ合衆国海軍、戦時、平時、在外邦人、在日外国人

(3) 徳富蘇峰を人名辞典で調べると、新聞記者・ジャーナリストなどと前半生の職業が記されている。しかし、慎重に眺めてみると、雑誌『____________』および書籍を発行する出版社としての民友社と、1890年以降、『______________』を発行する新聞社の個人経営者としての立場を背負っていたことに気づく。すなわち、____________を主張し、藩閥政府の政権独占を批判した日清戦争前の蘇峰は、自己の経営する新聞雑誌の社会的影響力を確立することを当面の課題としていたとの解釈も可能である。
<選択肢> 東京経済雑誌、国民之友、東京日日新聞、国民新聞、国民主義、平民主義

(4) 徳富蘇峰と海軍の両者に国家将来像をめぐる論争上の接触を強いたのは、1890年以降帝国議会が開設されて、__________年度以降の海軍費を含む国家予算は、帝国議会の承認が必要となった制度的な条件の誕生にあった。特に、各地の選挙区から選出された___________議員は、地域の将来についての具体的な構想とその実現を期待していた。海軍軍人として記者のインタビューに応じた____________は、水路部長として日本の沿岸各地の測量に従事した経歴をもち、こうした地方の実情に通じていたと思われる。
<選択肢> 1890、1891、衆議院、貴族院、肝付兼行、川上操六

(5) _____________を卒業した後、第一回帝国議会頃、海軍編修書記として海軍参謀部に勤務していた__________は、陸海軍備についての新聞雑誌記事を収めた資料集『_____________』を編纂したり、議員や記者に配布する小冊子の執筆を担当した。後に日本郵船に転じて同社の調査部門の創設者となった。かれは、日清戦争前は、「軍用商船」や「兵装巡航船」という名称で、戦時に武装し、国際法上の軍艦として用いるある程度の防備区画をもつ高速商船の建造補助と平時における航路補助金の制度の整備を主張した。この種の商用・軍用兼用の艦船を、日露戦争から第一次世界大戦当時の日本では_____________と呼んだ。バルチック艦隊を発見した信濃丸が著名である。
<選択肢> 東京帝国大学、慶應義塾、寺島成信、曾我祐準、軍備論集、兵商論、特設巡洋艦、仮装巡洋艦











【正解】
1.
A → 1
B → 2
C → 6
D → 7
E → 3
F → 4
G → 5
H → 6

2.
(1) 日清戦争、島帝国、通商国家
(2) 大日本帝国海軍、戦時、平時、在外邦人
(3) 国民之友、国民新聞、平民主義
(4) 1891、衆議院、肝付兼行
(5) 慶應義塾、寺島成信、軍備論集、仮装巡洋艦

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2009年01月28日

歴史学供ー萄蝓。嫁次〜 木曜・2/3時限 参照許可物等なし

1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。(1個4点、計 100点)

(1) ある技術、ここでは交通・通信に関する技術が現実に用いられるにつれて、地理のもつ意味が変わる。その実例が本講義では三つ出てきた。第一は、第5回「台湾の位置」で紹介した論考、田中宏巳「東シナ海と対馬・沖縄」の指摘である。帆船の時代、日本に大陸から侵攻する唯一可能なルートは、朝鮮半島沿岸から北九州への上陸であったが、______________の時代になると、沖縄・台湾の重要性が増す。この点に最初に気づいたのは米国海軍の______________提督であり、____________藩の藩主、島津斉彬であった。
<(1)の選択肢> 蒸気船、鉄道、航空機、ペリー、マハン、ミニッツ、長州、肥前、土佐、薩摩

(2) 新たな技術の適用が地理を変える可能性の第二は、中部アメリカに大西洋と太平洋とを結ぶ運河を建設することであった。1891年に米国海軍のテイロル大佐が東京で講演した際には、__________________運河の建設計画であった。後に、米国政府の手によって、1914年に至り__________________に運河が完成する。この運河は現在も用いられている。
<(2)の選択肢> スエズ、ニカラグア、パナマ、ボリビア

(3) 第三は、____________________の建設であった。1891年にロシアの皇太子が来日したのは、この鉄道の着工式典に出席するための極東旅行の途上であった。日清戦争の時には、この鉄道は未完成であった。日本が、下関講和会議において、結局は三国干渉の結果として返還することになる__________________を清国に割譲させ、獲得しようとしたのは、ロシアの南下に備えようとする意図があったためである。
<(3)の選択肢> 南満州鉄道、シベリア鉄道、シルクロード鉄道、朝鮮半島、遼東半島、山東半島、九龍半島

(4) 日清戦争以前、日本が将来に起こり得る欧州一か国との戦争を想定した戦力見積もりとして、第9回において「有地海軍中将 海防意見書」を紹介した。欧米が極東海域に派遣可能なのは、__________________の通航可能性と、日本周辺における石炭供給の制約から、____________________から構成される艦隊となろう、としている。日清戦争中の国民新聞1894年11月11日号社説「何を以て欧洲の勢力を支へん」にも、将来における欧州のある国との戦争の予想が登場する。「他日、吾人にして、若し欧洲と事を構ゆるの時ありとせよ。彼等は必らず海峡殖民地の内に、一根拠を占め、凡べての軍需軍隊を、一旦此に集合して、以て漸く我に及ばん。而して其地は台湾を外にして、また何くにかあらん。台湾を我に納むるは、即ち敵国の根拠を奪ふて、更らに我根拠となすもの也」というその社説の文言のうち、「海峡殖民地」とは__________________のことである。また、将来を考え、日清戦争が________________であるうちに、台湾を獲得すべきであるとの論旨は、第2回〜第4回で取り上げた「台湾占領の意見書」と同様であった。
<(4)の選択肢> スエズ運河、マラッカ海峡、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、ホンコン、シンガポール、ペナン、戦時下、平時、休戦中

(5) 「台湾占領の意見書」とは、元老__________________が、同じ________________出身の______________軍人、川上操六に宛てて投じた書翰で、その起草を__________________が担当した。差し出し時期は、______________要塞陥落直後の1894年11月下旬である。
<(5)の選択肢> 伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義、大山巌、長州藩、肥前藩、肥後藩、薩摩藩、土佐藩、陸軍、海軍、予備役、樺山資紀、徳富蘆花、徳富蘇峰、深井英吾、釜山、青島、旅順、威海衛、大連、天津

(6) 「台湾占領の意見書」の末尾近くに、「小生も過日来伊藤伯と会見し、此問題に就ては、篤と打合せ致し置き候。伊藤伯にも小生の意見に異論なきのみならず、飽迄同感同情にして、大本営地に到着の上は、此論を開陳相成候旨約束相成候間、定めて閣下に於ても御聴取の事と存じ候」とある。「伊藤伯」とは、__________________を務める伊藤博文であり、「大本営地」とは、大本営の置かれた________________であった。
<(6)の選択肢> 枢密院議長、外務大臣、内閣総理大臣、大蔵大臣、韓国統監、東京、広島、下関、旅順、大連

(7) 伊藤博文は、1894年12月4日、「台湾占領の意見書」の論旨を汲んだ意見書を大本営に提出した。その中に「台湾ノ諸島ハ、戦争ノ結果トシテ、我有ニ帰セサルヘカラスト論スル者、輓近朝野ノ間益々多キヲ加フ」という文言がある。第5回「台湾の位置」で紹介した________________により伊藤博文に宛てて投じられた書翰もその一つであったと推測される。この意見を伊藤に寄せた者は、徳富蘇峰と同じく熊本県の出身者である。
<(7)の選択肢> 陸奥宗光、井上毅、伊藤巳代治、金子堅太郎

(8) 前項(7)の伊藤博文意見書は、「______________ヲ衝キ台湾ヲ略スヘキ方略」という題名である。即ち、清国北洋艦隊が逃げ込んだ山東半島____________にある要塞を陸軍を用いて攻略し、黄海・渤海の制海権を確立した上で、台湾占領の軍を南方に送るとの趣旨が説かれていた。
<(8)の選択肢> 青島、膠州湾、威海衛、北岸、南岸

(9) 徳富蘇峰の日清戦争中における取材活動については、第8回、第9回に『____________________』の記述を用いて紹介した。1894年8月、大本営が(6)に既出の「大本営地」に移動するに際し、徳富蘇峰は、参謀次長であり兵站総監を兼ねていた________________の従者として、特別列車に乗り、移動した。
<(9)の選択肢> 将来之日本、大日本膨脹論、蘇峰自伝、樺山資紀、川上操六、桂太郎

(10) 本講義をしていて一番不思議に思ったことは、徳富蘇峰には、日清戦争中の一時期しか、地政学的な発想がその文章に見られないことであった。頭の中に地図を描き、地理的な条件とその将来における変化を前提として、国家の商業的、外交的、軍事的な行動を構想、考察する態度が欠けていたことである。蘇峰が言論人の先輩として意識していた__________________などは、前項(2)に出てくるテイロル大佐の講演を前提として、自ら経営する『時事新報』の社説で新しい交通路の出現の世界交易への影響を論じている。第10回「海洋通商国家構想と中央アメリカ運河」では、この人物の著作『________________』の関連個所を紹介した。
<(10)の選択肢> 大隈重信、田口卯吉、金子堅太郎、福沢諭吉、民情一新、実業論、時務一家言

















正解
(1) 蒸気船、ペリー、薩摩
(2) ニカラグア、パナマ
(3) シベリア鉄道、遼東半島
(4) スエズ運河、巡洋艦、シンガポール、戦時下
(5) 松方正義、薩摩藩、陸軍、徳富蘇峰、旅順
(6) 内閣総理大臣、広島
(7) 井上毅
(8) 威海衛、北岸
(9) 蘇峰自伝、川上操六
(10)福沢諭吉、実業論



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2009年01月08日

2009年1月8日(木)、2・3時限。

講義の全体を、評価基準との関連で位置づけ直し説明した。
試験について、必要な告知を行った。

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2008年12月26日

2008年12月18日(木)、2・3時限。

いままでの話のまとめ。

福沢諭吉、田口卯吉、福本日南、肝付兼行、井上毅、陸奥宗光、桂太郎、松方正義など、徳富蘇峰が意識したり、交流があった同時代人は、当時の「地政学コミュニティ」のメンバーと言ってよい人々であった。その中で、蘇峰のみ、空間認識を欠いているというのは不思議な現象である。

日清戦争中、台湾占領を唱えたのは、蘇峰自身の発想というよりも、彼が取材のため接触した松方正義、川上操六、樺山資紀らの見解がそのまま社説などに反映したものと推測される。

蘇峰の言説に(将来予見的な)地政学的な発想が散見されるのは、青年時代の日清戦争中と、晩年の朝鮮戦争時である。

*

[12月28日追記]
上記には補足が必要なことに気づいた。『将来之日本』(1886年刊)には、西力東漸についての記述があり、(少なくとも過去から現在に至る)地政学的な観点が全くないとは言い切れない。『時務一家言』(1913年刊)には、地政学的な現状認識が語られている。とすれば、1891年に、シベリア鉄道とニカラグア運河が話題になった時に抑制的な対応しかとれなかったのは、『日本国防論』(1889年刊)の陸軍中心の軽武装論からの論理的制約があったためかと推測することができよう。

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2008年12月24日

2008年12月11日(木)、2・3時限。

蘇峰は、地政学的な発想をしない人だったことに気づいた。地理的な広がり、交通路となる海路・陸路の存在、技術革新による交通路の変化が地理的な広がりの中に存在する国家間の関係を変化させる等々、こうしたことへの着目がほとんど見られない。

1891年当時の状況を確認するため、国民新聞から、つぎの二つの記事を紹介した。
1. 1891年1月29日、東京地学協会において米国アジア艦隊所属アライアンス号艦長テイロル氏(Henry Clay Taylor)が行った演説「ニカラグア運河開鑿企業に就て」を紹介する記事(国民新聞1891年1月29日3面、30日1面)。
2. ロンドンタイムズに掲載のシベリア鉄道についての記事の紹介記事「西比利亜鉄道の実況」(1891年7月18日1面、19日2面)。

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2008年12月17日

2008年12月4日(木)、2・3時限。

蘇峰にとって言論とは社会的影響力を獲得するための手段であった。少なくとも、日清戦争前は明確にそう言える。日清戦争後はその影響力を行使する段階へ移ったとも言える。
1884年12月28日付阿部充家宛徳富蘇峰書翰を紹介し、『蘇峰自伝』の日清戦争中の記述の続き「威海丸にて旅順に随ふ」「遼東半島視察中桂公と相識る」を読み、1896年4月14日の社説「欧米周遊に就て江湖の諸友に告ぐ」の論旨を確認した。その上で、国家将来像についての立論、組織的人的な依拠基盤、国内政治への関与の仕方のなかに位置づけた。



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2008年12月11日

2008年11月27日(木)、2・3時限。

北岡伸一「海洋国家日本の戦略---福沢諭吉から吉田茂まで」(防衛研究所戦争史研究国際フォーラム、2003年、第2回「日米戦略思想の系譜」基調講演)の前半部分(25〜30頁)を配布し、通覧。

福沢諭吉著『実業論』(福沢諭吉著作集第6巻、342〜349頁)を配布し、ニカラグワ運河建設計画についての福沢の論及を紹介。



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2008年11月20日

2008年11月20日(木)、2・3時限。

『蘇峰自伝』(1935年)第10章「日清戦役時代と予」一「明治二十七八年役と予」(国民新聞と従軍記事、日清戦役と川上将軍)、二「探訪記者としての予」(川上邸訪問と高島氏の八卦、樺山邸訪問と豊島沖海戦の号外)、三「大本営の移動と予」(広島に於ける人々)を紹介した。「台湾占領の意見書」に出てくる松方正義、川上操六も取材対象として回顧に登場。

伊藤博文編『秘書類纂 兵政関係資料』収録「明治24年4月11日/有地海軍中将/海防意見書」を原文に現代語訳を付して紹介。日清戦争前に想定した戦争とそれに必要な海軍軍備、その背後の戦略環境(スエズ運河は戦艦が通れない、東アジアでの石炭産地は日本、中央アメリカの運河開通による通商路の変化の予想)。


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2008年11月18日

2008年11月13日(木)、2・3時限。

日清戦争中の国民新聞、主に社説欄を通覧し、切り抜きを作った。通しで見ることで、日清戦争で何を獲得しようと、どの段階から主張していたのかを示した。
松方正義や川上操六のような中枢にいるものから、早い時期から情報提供を受け、世論を誘導しようと、紙誌面を用いていたと推測できる内容である。

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2008年11月6日(木)、2・3時限。

(1) 今年の講義がつぎの4つの部分からなることを説明
機嵋命箆摺→南進論」
供屮薀鵐疋僖錙滋→シーパワー」
掘屮轡戰螢鉄道着工と中米運河の計画」
検屬海譴蕕紡个垢詁蘇拜品の言説の位置関係」

(2) 三国干渉について一通りのことを説明
配布資料
1. 『国史大辞典』から「日清講和条約」「三国干渉」の項
2. 『日本外交年表並主要文書』から「露仏独三国の遼東半島還付勧告」、1894年11月から1895年6月の年表
3. 『肝付大佐演説の要領』(1897年、高岡市にて)から日清戦争時、東亜に派遣された欧米各国の海軍艦隊のトン数を述べた部分

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2008年10月23日

2008年10月23日(木)、1・2時限。

1. 清国政府お雇いドイツ人、デトリングが招商局の汽船レーユウ号で神戸港に来着し、2日後の1894年11月28日に出帆帰清した関連の新聞記事を示し、「台湾占領の意見書」説明の補足とした。

2. 斎藤聖二著『日清戦争の軍事戦略』(芙蓉書房出版、2003年)を紹介し、直隷作戦が優先順位1番から、2番目に置き換えられたのが、旅順占領後の「講和期」に入ったときであったことを紹介。台湾占領計画が講和までの作戦に組み込まれたのはこの時だった。

軍略的には、直隷作戦(北京占領)が主攻だが、政略的には、台湾占領が主攻であり、直隷作戦はむしろ助攻だったのではないか。

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2008年10月22日

2008年10月16日(木)、2・3時限。

田中宏巳「東シナ海と対馬・沖縄」(防衛大学校紀要人文社会科学編40、1980年)を配布し、内容を通読。
論旨が現代語訳のうえ紹介されている伊藤博文宛井上毅意見書(1894年10月11日付、井上毅伝資料篇第二、688〜689頁)を、読み下し、現代誤訳を付して配布。松方正義「台湾占領の意見書」と内容の異同をチェックした。

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2008年10月11日

2008年10月9日(木)、2・3時限。

1894年11月下旬の各人の動き。伊藤博文首相、松方正義前首相、徳富蘇峰、川上操六参謀次長。清国お雇い外国人、ドイツ人デトリングの神戸来航と書翰の発信時刻との関連。

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2008年10月02日

2008年10月2日(木)、2・3時限。

欧米列強が中立国の義務と、相互の牽制のために、台湾に手を出せないうちに占領し、講和条約で割譲を求める根拠とするとの論理。


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2008年09月29日

2008年9月25日(木)、2・3時限。

今後3回を使って「台湾占領の意見書」を読む。それからその周囲へ話を拡大する。

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2008年09月18日

2008年9月16日(木)、2・3時限。

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1. 授業の説明
2. 講義テーマの概要
3. 徳富蘇峰の生涯はどのように捉えられてきたのか
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テーマ名を「日清戦争と徳富蘇峰をめぐる地政学」とする。

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2008年07月13日

「海上権力をめぐる海軍と徳富蘇峰」という原稿を書き上げた。1991年に勤務先の紀要に載せた下記の論考で未解決になっていた問題に回答したつもりである。

「日清戦争を契機とする徳富蘇峰の転換について----海軍力と国際情報への着目」(大阪工業大学紀要人文社会編 36-1、1991年)


[2011年11月15日、追記]
この原稿はボツになった。再度書き直したものが、2011年10月末に紀要に載せた「国家将来像と陸海軍備をめぐる海軍と徳富蘇峰」である。但し、上記ボツ原稿で気になっていた問題はあと半分残っている。

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2008年01月24日

1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。同じ選択肢は一回のみ使うこと。(1個4点、計 100点)
(1) 徳富蘇峰は、1863年に生まれ、__________________年に死去した。その死の前後から歴史上の人物として研究対象となった。初期の蘇峰研究者は当然、自らが属した時代の価値意識から蘇峰の生涯を捉えた。彼らは、直前の大東亜戦争中ラジオ放送に登場し、戦意高揚の演説を行った蘇峰の姿を鮮明に記憶していた。一方、明治まで遡ると、日清戦争前・議会開設以前に雑誌『__________________________』を創刊した頃の蘇峰は、______________________者を自称しており、戦後の蘇峰研究者には、近代日本の____________________________的伝統の先駆者の姿と見えた。
(2) この対照的な青年蘇峰と老人蘇峰の間には、その途中のいずれかの時点に、大きな転換点、境目があったに違いないと考えるのが自然である。その疑問に先回りして答えたような本が、昭和戦前にベストセラーとなっていた。徳富猪一郎著『____________________________』(1935年刊)である。そこでは、__________________________という歴史上の出来事が自分の人生における「一大回転機」であると記されている。
(3) その出来事を人生の前半・後半を画するものとする回顧が初登場するのは、______________________年に刊行された徳富猪一郎著『_______________________________』であった。「力の福音の洗礼」という表現が出てくる。
<(1)〜(3)の選択肢> 1941、1945、1957、1964、日本人、国民雑誌、国粋、国民之友、青年之友、帝国主義、軍国主義、平民主義、民主主義、皇室中心主義、三代人物史、勝利者の悲哀、蘇峰自伝、時務一家言、大日本膨脹論、将来之日本、台湾出兵、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、第二次大戦、1886、1891、1895、1907、1913、1918、1929

(4) 田口卯吉の経済雑誌社からデビュー作『__________________________』を出版し、翌年、雑誌を創刊した頃の蘇峰の主張は、軍事費を抑制してその余力で経済成長を実現するというものであった。その議論を具体化し、軍備政策について具体策を述べた各論が、自分の経営する雑誌に連載され、継いで『______________________________』というタイトルで単行本として刊行された。その論旨は、__________________________中心の軽武装で国防、すなわち、____________________________________は可能であるとするものであった。
<(4)の選択肢> 新日本之青年、将来之日本、日本之将来、日本の国防を論ず、国防を論ず、日本国防論、大日本膨脹論、陸軍、海軍、国土防衛、海外居留民保護

(5) 1889年、大日本帝国憲法が発布され、翌1890年7月、第1回衆議院議員総選挙が行われ、同年11月末、第1議会が召集された。これ以後、毎年度の政府予算案は______________________の審議・承認を経て成立する必要が生じた。かつて、1874年の________________________当時、清国に対して優勢を保っていた海軍は、1880年代に入ると、建艦競争に力を入れる清国に競り負けて、比較劣位に陥っていた。定遠・鎮遠に対抗できる______________________の建造費を獲得するため、世論に海軍軍備の必要性、優先的整備の必須を説得する論理を必要としていた。
(6) 1891年(明治24年)4月、__________________________________が起草した「海防意見書」は、__________________における戦略・戦術を詳述している。海軍の作戦指揮の責任者の立場・思考を反映した意見書であった。一方、同年7月に非売品の小冊子として発行された『兵商論』は、______________________における陸軍と海軍の任務の区別、社会的な機能の差を指摘する。海軍編修書記__________________________________が起草したこの小冊子は、広く配布されたと推測される。世論対策を考慮した立論となっている。
(7) 日清戦争__________________の国民新聞に、1894年10月24日から11月1日にかけて、8回にわたり連載された記事「海上の権力 <<肝付海軍大佐の意見>>」は、その3年数か月前、『兵商論』が執筆されるに際して、米国海軍の理論家、アルフレッド・T・マハン著『海上権力史論』が、日本海軍の世論対策担当者たちによって、どのように受容され議論の組み立てに生かされたのかを推測させる素材である。
(8) 講義では、平間洋一氏の二つの論考を紹介した。「A・T・マハンが日本海軍に与えた影響」(1993年)は、「マハンの日本海軍に与えた影響について、兵力整備および戦略戦術面から考察するもの」で、講義を担当した柴崎の表現では、________________________________論としてのマハンの受容を論じたことになる。一方、平間「『陸奥海王国』の建設と海軍---大湊興業を軸として---」(1997年)は、「海軍を支えるシーパワーである港湾、商船隊、漁船隊を整備し造船所を起こし、貿易を振興させて日本に富をもたらし、それを保護する海軍を整備すべきであるとの海権論」としてのマハンの受容を扱う。この後者の論考は、明治から大正時代の日本海軍が、民間人の海洋活動・海外への展開をサポートする国家組織、すなわち、______________________________としての自覚をもち、その自覚を言語化するに当たってマハンとの出会いが契機となった歴史的経緯を指摘した最初の研究と位置づけられる。
<(5)〜(8)の選択肢> 枢密院、貴族院、帝国議会、台湾出兵、西南戦争、朝鮮出兵、日清戦争、主力艦、補助艦、肝付兼行、寺島成信、山本権兵衛、有地品之允、東郷平八郎、戦時、平時、前、中、後、狭義の海軍、広義の海軍

(9) 日清戦争から数年後の1898年は、極東情勢が緊迫化した年であった。同年11月に成立した第一次山県有朋内閣の下で海軍拡張のための地租増徴が実現すると、蘇峰は、山県に接近するとともに、________________________________にも重点を置いた軍備拡張を主張するようになった。
(10) 1900年、北清事変にともないロシアが満洲を占領した。清国領土である満洲からの撤退をロシアに要求するため、翌1901年6月に成立した第1次______________________________内閣の下で、日英同盟が締結され、日露戦争が遂行されることとなった。蘇峰と国民新聞社は、日露戦争の講和、すなわち、ポーツマス講和条約の締結を______________した。
<(9)(10)の選択肢>  仮装巡洋艦、陸軍、沿岸警備隊、海軍、原敬、寺内正毅、小村寿太郎、伊藤博文、山県有朋、桂太郎、支持、批判











【正解】
(1) 1957、国民之友、平民主義、民主主義、
(2) 蘇峰自伝、日清戦争
(3) 1913、時務一家言
(4) 将来之日本、日本国防論、陸軍、国土防衛
(5) 帝国議会、台湾出兵、主力艦、
(6) 有地品之允、戦時、平時、寺島成信
(7) 中
(8) 狭義の海軍、広義の海軍
(9) 陸軍
(10) 桂太郎、支持


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2008年01月10日

2008年1月10日(木)、1・2時限。

講義全体を振り返った。

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2007年12月21日

2007年12月20日(木)、1・2時限。

講義した内容を文章化しているものの「はじめに」の部分と、『時務一家言』の「緒言」にある1886年の上京以来の来歴を語った部分とを配布し、説明した。講義全体が今回まで来て鳥瞰できることになった。

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2007年12月15日

2007年12月13日(木)、1・2時限。

平間洋一さんの二つの論考、「A・T・マハンが日本海軍に与えた影響」(1993年)と「「陸奥海王国」の建設と海軍---大湊興業を軸として」(1997年)を読む。後者は、マハンの海上権力論が、まず「広義の海軍」に関して受容されたことを指摘した画期をなす業績である。この講義では、それを継いで、議論を組み立てようとしている。


平間洋一 歴史・戦略・安全保障研究室



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2007年12月08日

2007年12月6日(木)、1・2時限。

日清戦争中、黄海海戦の後の時期、1894(明治27)年10月24日〜11月1日にかけて8回に分けて国民新聞に掲載された記事を読む。民友社の「奇骨」記者が、水路部長肝付兼行にインタビューした内容。前年、1893(明治26)年に水交社記事に掲載された金子堅太郎によるマハン『海上権力論』の第1章の論旨要約に対して、肝付が口頭でコメントしたもの。

日本海軍によるマハンの受容は、まず、広義の海軍に対応するものであったことを示す。

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2007年11月29日

2007年11月29日(木)、1・2時限。

マハン著『海上権力史論』受容の特質を考察する前提として、『兵商論』の第5章「軍用商船の製造」と第6章「海軍予備員の養成」を読む。


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2007年11月22日

2007年11月22日(木)、1・2時限。

寺島「兵商論」第7章「結論」と、有地品之允「海防意見書」のそれぞれに説かれている政費節減650万円の使途について対比的に読む。

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2007年11月17日

2007年11月15日(木)、1・2時限。

『伊藤博文秘録』兵政資料に残る「明治24年4月11日 有地海軍中将 海防意見書」を、現代語訳して示す。



20071115_第8回

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2007年11月11日

2007年11月8日(木)、1・2時限。

草創期の海軍を理解するための枠組みを考えるため、吉村正彦「台湾出兵---明治海軍建設過程とのかかわりにおいて---」(防衛学研究24、2000年11月)を示した。明治海軍としての初発の経験を確認し、1890年〜1891年当時への影響を推測した。

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2007年10月25日

2007年10月25日(木)、1・2時限。

明治維新から大正政変までを通覧。そのうちでの蘇峰の支持関係の変遷を見る。

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2007年10月18日

2007年10月18日(木)、1・2時限。

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1. 1891年前半の出来事
2. 経済(商)と軍事(兵)
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20071018_第5回_120071018_第5回_2

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