工【歴史学供

2007年10月13日

2007年10月11日(木)、1・2時限。

『国民之友』126号(1891.08.03)から3号に亙って分載されたQ.S.T「兵商論」の冒頭「緒論」と、『国民之友』126号の社説「国民之友」欄掲載の「対外政策の方針」を対比させて読む。

rshibasaki at 13:27コメント(0)トラックバック(0) 

2007年10月04日

2007年10月4日(木)、1・2時限。

---------------------------------------------
1. 蘇峰自伝の前書きと目次
2. 第20章「自らを解剖す」二「反抗心と優越心」
3. 第10章「日清戦役時代と予」一「明治二十七八年役と予」
---------------------------------------------


rshibasaki at 21:32コメント(0)トラックバック(0) 

2007年09月27日

2007年9月27日(木)、1・2時限。

---------------------------------------------------------
1. 講義担当者の徳富蘇峰との出会い
2. 蘇峰の生涯を概観(年譜を用いて)
3.本講義では1886年から1913年の蘇峰をどのように把握するか
---------------------------------------------------------




rshibasaki at 20:51コメント(0)トラックバック(0) 

2007年09月20日

2007年9月20日(木)、1・2時限。

-----------------------------------------------
1. 授業の説明
2. 講義テーマの概要
3. 徳富蘇峰の生涯はどのように捉えられてきたのか
-----------------------------------------------

1. 定期試験で成績を付ける。問題は客観式。参考材料として4〜5回出席をとる。
2. 昨年は「徳富蘇峰と日清戦争再考」だったが、今年は「海上権力をめぐる海軍と徳富蘇峰」とした。「マハン海上権力論の日本への導入 → 徳富蘇峰と民友社・国民新聞社への影響」と捉えていたものを、「マハン海上権力論の日本海軍への影響 → 海軍が国内広報活動に活用 → 徳富蘇峰と民友社・国民新聞社への影響」と捉え直す。
3. 徳富蘇峰自身の大正・昭和の回想と、戦後の蘇峰研究者の蘇峰の生涯の捉え方が「日清戦争を前後して二期区分とする」点で共通。前者は日清戦争後を望ましい現在の自分に繋がる時代と捉え、後者は日清戦争前に戦後の価値観につながる輝いた過去を見ようとした。1886年の上京から、1913年の『時務一家言』執筆までの時期の捉え方がどちらも違っている。それを14週の講義で指摘、説明する。

rshibasaki at 21:23コメント(0)トラックバック(0) 
いままでの名称
>>▲「徳富蘇峰と日清戦争再考」工・歴史学2005-2007
をつぎのように変更した。
>>▲「海上権力をめぐる海軍と徳富蘇峰」工・歴史学2005-2007

rshibasaki at 21:10コメント(0)トラックバック(0) 

2007年06月17日

海軍拡張ノ議(←アジア歴史資料センター画像閲覧、公文別録・海軍省・明治21年〜大正6年・第1巻・明治21年〜明治30年、A03023081400)。閲覧にはアジア歴史資料センタートップページからプラグインを入手しインストールしてください。
-------------------------------------------------------------------------
  海軍拡張ノ議
右閣議ニ提出ス。
夫レ国ニ兵備アルハ以テ国土ヲ保全シ以テ国民ヲ防護スル所ナリ。若シ兵備ニシテ全カラサルトキハ国土安全ナルヲ得ス。而シテ国民ノ利益亦将ニ護ルヲ得サラントス。故ニ兵弱シテ国富マス、国貧シテ兵強カラス。内治固ヨリ忽ニスヘカラスト雖、兵備亦一日モ怠ルヘカラサルナリ。况ヤ欧洲諸強国ノ日ニ東洋ニ侵入シ印度ニ安南ニ既ニ之ヲ併呑シ、我カ対岸ノ朝鮮モ或ハ終ニ全キコトヲ得サルノ恐アル今日ニ於テヲヤ。
我陸海ノ軍備ハ維新以来欧州各国ノ兵制ニ就キ其ノ長ヲ取リ短ヲ補ヒ着々拡張ノ歩ヲ進メ、陸軍ハ其計画稍緒ニ就キタリト雖、海軍ニ至リテハ未以テ外侮ヲ禦キ我帝国ヲ防護スルニ充分ナラサル者アリ。盖兵ノ強弱ハ将帥ノ謀略士卒ノ精鋭如何ニ由ルト雖、今日専ラ器械ヲ戦ハスノ世ニ在テハ主トシテ兵備ノ標準ハ自国ノ地勢ト他国ノ兵力トヲ考ヘ、以テ之ヲ定メサルヘカラス。抑我国ノ地勢ハ四面海ヲ環ラシ沿海線殆ント八千海里ノ長ニ達ス。防備ノ道亦決シテ容易ナラス。顧テ我帝国海軍ノ形勢ヲ見ルニ、一旦事アルノ日ニ当リ、近クハ清国ニ対シ、遠クハ欧洲各国ノ東洋ニ派遣シ得ヘキ軍艦ニ対シ、果テ能ク之ニ匹敵シ得ヘキ勢力ヲ有スルヤ。今特ニ支那海軍ノ力ヲ以テ我カ海軍ノ力ニ対比スルトキハ、兵艦ノ数ニ於テ彼ノ我ニ優ルコト凡ソ三分ノ一ナリトス。此ノ薄弱ノ力ヲ以テ、而シテ四面環海ノ国ヲ守ル、果テ能ク我カ国土ヲ保全シ国民ノ利益ヲ防護スルヲ得ヘキヤ。
然ルニ海軍大臣請議ノ計画ニ基キ軍艦ヲ増製シ、沿海ノ警備ヲ完フセンニハ、今ヨリ七年ノ間、年々千有余万円ノ巨額ヲ支出セサルヘカラス。今我民力裕ナラス、国費多端ノ時ニ於て如此巨額ノ軍需ヲ支出スルハ容易ノ事ニ非ス。依テ其費用支出ノ財源ニ付キ宜ク先ツ大蔵大臣ヨリ計画ヲ定メ閣議ニ提出セラレ然ルヘシト信ス。
   閣議決定ノ上ハ大蔵省ヘ通牒ノ事
-------------------------------------------------------------------------
(内閣罫紙、墨書)

上記の文章に続いて、海軍罫紙に墨書で「海軍事業計画ノ議」が綴じられている。そのなかに、つぎのような文言がある。『日本国防論』的な議論への反論である。
-------------------------------------------------------------------------
或ハ説ヲ作シテ云ハン、我海軍ハ防御ヲ主トシ小艦ヲ造ルヘシ、敵国ニ航進スルヲ目的トスル大艦ハ造ルニ及ハス。然ルトキハ費用省ケント。是甚タ目的ヲ誤ル者ナリ。我国権ヲ維持スルトハ他ノ侮ヲ禦クヲ云、退テ守ルノ策アレハ進テ攻ルノ実無ル可ラズ。軍艦海上ノ勢力ハ攻守ノ別ナキモノナリ。敵国ニ進攻スルヲ得ヘキ艦ナキトキハ到底彼我匹敵スルモノアラサルナリ。
軍艦ハ平時ト雖モ負担スヘキ任務アリ。即チ商船、外国居留民ノ保護、密猟取締ノ如キ是ナリ。然ルニ今日之を充分ニ行フ能ハサルハ軍艦ノ足ラサルニ依ル。夫レ海軍ヲ張ルノ要ハ唯戦時ノ用ニ供スルノミニアラス、外侮ヲ受ケス、戦争ヲ未萌ニ防クニアリ。宜ク速カニ前記ノ軍艦ヲ増製スヘシ。
-------------------------------------------------------------------------
これは、同年11月に刊行された伴正利編『海軍振興論』と同じ反論の仕方である。なお、国会図書館の目録に伴正利が「著者」となっているが、奥付を見ると「編輯兼発行人」である。著者名は伏してある。
翌年7月の伴正利編『兵商論』がまったく別の立論で『日本国防論』を克服することになる。

rshibasaki at 13:50コメント(0)トラックバック(0) 

2007年04月29日

講義担当の曜日が、月、水、木、金なので、今年のゴールデンウィークは水曜日のみ授業がある。それ以外は、研究室に籠もって、パソコンと史料に向う。

rshibasaki at 17:54コメント(0)トラックバック(0) 

2007年04月21日

CiNiiを「徳富蘇峰」で検索すると、三つ目に、梅津順一さん(聖学院大学政治経済学部)の論考「徳富蘇峰と『力の福音』---『将来之日本』から『時務一家言』へ」が表示される。全文が読めるので、印字して、通読してみた。
徳富蘇峰が、1913年12月刊行の『時務一家言』で過去を回想した枠組みに従い、『将来之日本』と『時務一家言』を対比的に読むと、この論文が示すような歴史イメージとなる。

海軍と政友会によって、桂太郎が政治的に失脚に追い込まれた直後に、1886年の上京以来歩んできた道を回顧すれば、日清戦争と三国干渉で前後に別つ、二期区分のパーソナルヒストリーとなる外ないであろう。
その際、蘇峰は、海軍(肝付兼行)と発言を共有し、薩派(松方正義)と行動を共にした1891年から1897年を自分の履歴として語るのを避けるため、三国干渉の衝撃を過大に叙述し、マンチェスター派を援用した若気の至りを強調した。
日清戦争以前の自分を低く位置づけ、日清戦争以後の自分を肯定的に描いた。しかし、実際には、米原謙氏のいわゆる「便宜主義」的戦略主義で一貫していただけである。

大正政変以後のこの時点では、まだ、山県有朋、寺内正毅との交流は続いている。海軍中心の軍備を唱え、台湾占領を提唱した時代について蘇峰が語るのは、昭和に入ってからである。

*

1929年刊『台湾遊記』と1935年刊『公爵松方正義伝』において、松方正義の意見書起草を通じて、また、『国民之友』『国民新聞』の論調を通じて、台湾占領に関与したことを認めた。

しかし、この時代になっても、蘇峰は、自分をマハンに私淑した弟子筋であったと語ることはない。また、1886年刊『将来之日本』から1894年刊『大日本膨脹論』への主張の転換において決定的な影響を受けた海軍水路部長肝付兼行の名は、1935年刊『蘇峰自伝』にまったく一度も出てこない。

米国に対して19世紀末まで歴史を遡って、マハン、ロッジ、T・ルーズベルトを非難する以上、若い頃、同じ台本(マハン海上権力論)で自分も動いていたことを認めることはできなかったと推察される。

*

もう一つの事情がある。肝付兼行は、日本海員掖済会、帝国水難救済会、帝国海事協会を実質的な海軍の外郭団体化することに、継続的に関わった人物である。海軍の一般社会に対する関係構築の担当者、海軍の広報担当として有能な働きをした。大日本教育会、帝国教育会の幹部にも長くとどまり、学校教育というチャンネルを経由して、海事と海軍に対する理解と支援を得ることに努力した。

日露戦後における海軍と政友会の接近は、この海軍の「拡大された外延部分」を支援することを通じてなされた。

第1次西園寺公望内閣の内務大臣となった原敬は、(1) 港湾調査会を通じて、港湾整備に関して海軍との関係を深めた、(2) 海事協会が日露戦争中に始めた義勇艦隊建設募金を支援した。同時に原は、大浦兼武が関わった大日本武徳会の募金活動に警察官が関わることを掣肘するため、警察官の諸公共団体の募金活動への関与をやめるよう訓令した。

『蘇峰自伝』によれば、蘇峰は、大浦が調達した資金で、第2次桂内閣当時から、「勉強館」という名の記事情報提供センターを設け、各地方新聞に対して社説に使える論説を送るなどの活動を行ったという。山県有朋、桂太郎、寺内正毅たちと付き合ううちに、かつて日清戦争当時、同じ側にいた海軍、しかも、外郭団体や世論の支持を獲得する試みが成功しつつある拡大された海軍と、政治の場で対峙することになった。

こうした条件が、日清戦争前後を回顧する『時務一家言』の叙述に反映している。


rshibasaki at 18:42コメント(0)トラックバック(3) 

2007年04月03日

急いで書いてしまおうと始めた。構想の目次として。

--------------------------
徳富蘇峰と日清戦争再考

 はじめに

一、発端となる論点
1. 平民主義と生産主義は将来の軍拡を視野に入れていた
2. 蘇峰は、国内政治にも国際政治にも、戦略的発想をした
3. 蘇峰は、社会的影響力の獲得と行使を区別し、実行した
4. 日清戦争時、蘇峰は自らを、対外硬的スタイルの対極に位置づけた(意見修正↓)
5. 蘇峰は、松方正義を通じて台湾占領計画に関与した
6. 肝付兼行「兵商論」が『大日本膨脹論』への道を開いた(意見修正↓)
7. 肝付兼行は、マハン海上権力論の最も初期の紹介者であった
8. マハンの影響を受け義勇艦隊建設の発想が登場した

二、回想のなかの遼東還付
1. 『時務一家言』
2. 『蘇峰自伝』以後

三、海上権力と台湾占領
1. 『台湾遊記』『公爵松方正義伝』
2. 遼東半島割譲要求に反対という回想

 おわりに
--------------------------

内容を構成することが可能となった前提として。

1. 澤田次郎著『近代日本人のアメリカ観----日露戦争以後を中心に』(1999年)が、徳富蘇峰の言説における「白閥打破」の初出を、1913年5月4日の国民新聞社説「白閥」であることを確定したこと。
2. 斉藤聖二著『日清戦争の軍事戦略』(2003年)が、日清戦争が「緒戦期」から「講和期」へ移行する1894年11月〜12月において、台湾占領への道が現実のものとなった際、伊藤博文首相の意向が大きく関与したことを抽出したこと。
3. 米原謙著『徳富蘇峰』が蘇峰を「便宜主義」と捉えることから示唆を得て、蘇峰を戦略的な動きをする人物と理解できたこと。
4. 1891年の蘇峰における軍事政策論の転換が、海軍水路部長肝付兼行との関係を通じて生じたことを新たに見つけたこと。
5. 1896年4月の外遊事情説明の文章に、陸奥宗光外務大臣と同質の対外硬への批判的姿勢を見つけたこと。


[2011年11月15日、追記]
発端になる論点の「4.」「6.」は、意見が変わった。「6.」については、「兵商論」の著者は肝付兼行ではなく寺島成信であることを、この後に知った。最近紀要に載せた「国家将来像と陸海軍備をめぐる海軍と徳富蘇峰」にまとめた。「4.」については、日清戦争後の回想のなかではそのような言説があるが、日清戦争中には硬六派つながりから脱却したわけではない。回想と行動に落差がある。

rshibasaki at 12:53コメント(3)トラックバック(5) 

2007年02月08日

1.下線部に適合する語句を<選択肢>から選んで記入し、文章を完成しなさい。なお、同じ選択肢を2度使ってもよい。(1個4点、計 100点)
(1) 本講義のテーマは「徳富蘇峰と日清戦争再考」であった。再考である以上、既存の「徳富蘇峰と日清戦争」についての理解があり、それに別のイメージを対置する試みであろう。既存の理解とはどのようなものか。まずそれを確かめよう。1863年に、現在の________________________県に生まれ、同志社に学んだ蘇峰は、1886年、出身地を引き払い上京し、翌年には、雑誌『____________________________』を創刊した。__________________________という政治思想を鼓吹し、当時の青年たちに熱烈な歓迎を受けた。その思想は、英語の「デモクラシー」の翻訳語であって、政治参加の国民全体への拡大・経済成長の成果の分配を通じた国民の平準化を求めるものであった。数年後の1890年には、日刊紙『________________________』を創刊し、首都の新聞界にデビューした。ところが、日清開戦を迎えると、対外膨張主義を唱え、政府や軍の戦争指導に協力し、雑誌と書籍を出版する________________________と新聞社の総力を挙げて戦時報道に邁進した。
(2) 過去のある時点での一連の出来事がある。例えば、日清戦争中の徳富蘇峰の思想と行動もその一例となろう。渦中にいて体験した者が、当時書き残した文書や書簡、後に思い出して語ったり書いたりしたもの。そうした過去の出来事について残された情報が累積し、過去のイメージが形成される。本講義は、こうした歴史データの累積と歴史像の形成のプロセスを、理解し直そうという試みであった。蘇峰が他界した1957年頃から開始された蘇峰研究は、日清戦争以前の蘇峰を、第二次世界大戦後の価値観にもとづき________________________に評価し、具体的なあり方を研究することからスタートした。ところが、1935年に刊行された『蘇峰自伝』では、日清戦争以前は、藩閥政府の国家権力独占を打ち破り(1) で述べた政治思想の実現を目指し__________________________に務め、日清戦争後は、欧米三ヶ国、すなわち、__________________________、__________________________、__________________________による日清講和条件への干渉をきっかけとして、日露戦争から大正期、昭和戦前までつづく__________________________に努力する時代を迎えることになると自分の生涯を概観している。昭和初期の自分を説明するのに都合のよい側面に限って、過去を思い出し、語っている。
(3) 三国干渉から1年後の蘇峰も、また、その時点での自分に都合のよい側面に限って、日清戦争中の自分を語っている。蘇峰が、1896年4月に所有する新聞の社説欄に署名入りで掲載した「________________________________」は、「我が朝野に於ける世界時務的知識の欠乏」「単に国力のみ進みて、国民の眼界の進まざりし不権衡」が原因となって「____________________」を引き起こしたとしている。これは、日清戦争中の外務大臣____________________________が前年末に書き上げた著書『________________________________』最終章と三国干渉原因論としてはほぼ同趣旨である。日清戦争後、日露戦争を終えるまでの蘇峰は、政府・軍首脳部との密接な関係を維持しつつ、日本国民を指導するとともに、対外的には、日本政府の意向を代弁する新聞として自社を位置付けようと試みる。日清戦争1年後の時点では、その方向へハンドルを切り始めたところであるが、構想としては、日英同盟締結から日露戦争中に総理大臣を務めた__________________________との関係で最終的に実現した方向性を思い描き、その構想との関連で日清戦争中の自分の行動を意味づけ、説明しようとしていた。蘇峰とこの日露戦争中の総理大臣とは、日清戦争中は戦地で第三師団を率いる師団長と取材記者という関係で初対面しており、また、____________________________まで政治的盟友としての関係を続けることとなった。
(4) 『蘇峰自伝』と同じ1935年に出版された『________________________________________』の編述者は、徳富猪一郎、すなわち、蘇峰である。このなかで蘇峰自身が起草者となった「台湾占領の意見書」という手紙形式の意見書を全文転載し、日清戦争中、その伝記の主人公が台湾占領を唱えるだけでなく、三国干渉の結果、清国へ返還せねばならなくなった地域を割譲要求することに________________________態度をとったと記述している。しかし、これは後知恵である可能性が大きい。当時の陸軍参謀次長川上操六は、この伝記の主人公と同じ現在の________________________県出身者であった。
(5) 日清戦争に際し、徳富蘇峰はなぜ、台湾占領を主張したのか。その背景には、1886年の上京と論壇へのデビュー作である『将来之日本』出版以後・日清戦争にいたる時期において、国家将来構想の一部分を形成する「軍事政策論」の転換が事前に発生し、国民の海外発展を支援する平和にあっても有益な軍備としての海軍という発想が蘇峰とかれが所有する言論集団に採用されていたことを指摘することができる。そもそも、『将来之日本』の各論として、軍事を論じた『______________________________』(1889年)では、その情報とアイディアの出所は退役陸軍中将____________________________であった。これに対し、第一帝国議会が終ったのち数ヶ月の間に、大津事件とシベリア鉄道着工、清国北洋艦隊の神戸・横浜への友好訪問、が起こった1891年、蘇峰が経営する雑誌の8月3日号には、社説「対外政策の方針」と特別寄書「兵商論」が掲載された。特別寄書とは、現在のことばで特別寄稿という意味で、匿名の寄稿家「Q.S.T.」が「兵商論」を投稿していた。講義の中ではこの寄稿家を__________________________と推定した。かれが責任者を務めたのは、現在の海上保安庁海洋情報部に系譜が連なる組織で、第二次世界大戦前は海軍に属し、____________________________と呼ばれていた。日本人が商業活動上、また、移民として海外へ渡る以上、邦人の居留民を保護する海軍が必要とされるという論理である。日清戦争開戦の年の暮れ、12月に出版された蘇峰が経営する雑誌の社説から編集された単行本『__________________________________』の巻末近くの一章に「経世の二大動機」がある。「膨脹的日本」「国民を挙げて万里の波濤を開拓する」という発想の背後には、海軍とその広報活動があった。


<選択肢>
鹿児島、熊本、福岡、山口、国民評論、国民之友、太陽、国粋、国民主義、平民主義、平等主義、国民主権主義、東京新聞、国民新聞、東京日日新聞、国民日報、平民時報、平民社、時勢社、民友社、大江社、肯定的、否定的、藩閥打破、白閥打破、憲政擁護、普選実現、平和主義、国際法確立、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ロシア、ソ連、オーストリア、ドイツ、スイス、イタリー、フランス、オランダ、ベルギー、イギリス、台湾占領の意見書、欧米周遊に就て江湖の諸友に告く、世界漫遊の趣意と日程、松方正義意見書、威海衛を衝き台湾を略すべき方略、伊藤博文意見書、威海衛還付、平壌還付、遼東還付、山東還付、天津還付、直隷還付、井上馨、川上操六、曾我祐準、山県有朋、陸奥宗光、林薫、小村寿太郎、蹇蹇録、寒寒禄、塞塞禄、回顧録、三年有半、鶏肋記、伊藤博文、松方正義、西園寺公望、寺内正毅、大正初期、昭和初期、第二次大戦後、陸軍大将川上操六、公爵伊藤博文伝、公爵松方正義伝、公爵山県有朋伝、山本権兵衛、東郷平八郎、肝付兼行、伊東祐亨、井上敏夫、日本国防論、大日本膨脹論、海外移民論、海洋部、海上諜報部、水路部、海図部





【正解】
(1) 熊本、国民之友、平民主義、国民新聞、民友社
(2) 肯定的、藩閥打破、ロシア、ドイツ、フランス、白閥打破
(3) 欧米周遊に就て江湖の諸友に告く、遼東還付、陸奥宗光、蹇蹇録、桂太郎、大正初期
(4) 公爵松方正義伝、否定的、鹿児島
(5) 日本国防論、曾我祐準、肝付兼行、水路部、大日本膨脹論


rshibasaki at 15:34コメント(0)トラックバック(0) 

2007年01月18日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」 2007年1月18日(木)1,2時限

(以下、配布物)
-----------------------------------------
1. 試験の形式と採点基準
2. 講義のまとめ
3. 授業アンケート
-----------------------------------------

1. 試験の形式と採点基準
【試験日時】 2月8日(木) 1時限、2時限
【問題形式】
a. 講義内容を文章化し、文中に空白を25箇所設ける
b. 問題の末尾に、選択肢を置く
c. 回答者は、最もよく当てはまることばを選び空白に記入する
d. 記入の際、転記ミスによって誤字となったものは、点にならない
e. 1個4点、100点満点
f. 参照物等なし
【採点基準】
a. 点数の刻みは、100, 96, 92, 88, 84, 80, 76, 72, 68, 64, 60, 56, 52, 48, 44, 40, 36…
b. すべての回に出席し内容を理解した受講生は88点以上になるようにと考え、問題を作成する。但し、問題文を誤読するなどのケアレスミスもあるので、過去の実績では「80, 76」ないし「76, 72」を、「5」と「4」の境界とした。(なお回答の結果により最終判断するので、この区切り位置を約束するものではない)
c. 「これほど出来ない人には単位を出せない」点数と、「随分間違っているが講義を聞いて理解している部分もあることが確認できる」点数との間を、「2」と「3」の境界とする。過去の実績では、このラインは「64, 60」から「52, 48」の範囲にあった。
d. 「5」と「4」の境界と「3」と「2」の境界の中間地点に、「4」と「3」の境界を置く。
e. 「4」の幅 =「3」の幅 =「2」の幅とし、「2」と「1」の境界を引く。
【過去問】
「歴史学供廚硫甬醋笋聾開していないが、つぎの二科目については公開してある。
・2006前「歴史学機http://rshibasaki.livedoor.biz/archives/50469094.html
・2005後「現代日本への歩み」http://rshibasaki.livedoor.biz/archives/50475421.html
  なお知財「現代日本への歩み」(2007年度より「歴史学」と改称)は、他学部履修可能。


2. 講義のまとめ

【各週の表題と3部構成】
09/21 第1回 導入
後半生から晩年に若き明治の日々の若気の至りを語った蘇峰自身の回顧のトーンと、第二次大戦後の価値観を過去に投影した歴史研究が、奇妙に符合し、「日清戦争当時の蘇峰の行動の実相」が埋もれてしまった経緯を発掘する。
(1) 大正期・昭和期になってからの蘇峰の「遼東還付」言説の過去への投影を検討し、それを取り去った後に残る日清戦時の自己認識と行動の再構成
(2) 日清戦争の「展開期」から「講和期」への転換点であった旅順要塞陥落直後の時点で、台湾占領の実行を政策化するプロセスに関与した蘇峰の姿を示す
戦後の蘇峰研究の共通理解と、蘇峰自身が自伝などで語った把握は、日清戦争を境として蘇峰の生涯を二期区分で理解する点で共通する。
--------------------------------------------------------------------------------
09/28 第2回 蘇峰自伝の自画像「藩閥打破」から「白閥打破」への転換が日清戦争をきっかけとして起こったとする昭和初期の自画像、その背後には、幼少時にはじまり、生涯を一貫する「自分よりも権威や権力のある者へ反発心を抱く」という傾向があった。昭和初期の蘇峰は、そう主張する。
10/05 第3回 1896年4月の自己認識
「欧米周遊に就て江湖の諸友に告く」を読む
10/12 第4回 陸奥宗光『蹇蹇録』との対比
『蘇峰自伝』「欧米周遊に就て江湖の諸友に告く」『蹇蹇録』の遼東還付についての言説を比較、世論と外交について一般的に説明(現実主義的対外政策と対外硬)、
国内政治に生息域をもった開戦前と内外の情報流通に存在をかけた開戦後の対比
10/19 第5回 蹇蹇録と公爵松方正義伝に見る講和要求の分布
前回配布した『蹇蹇録』最終章を読む、公爵松方正義伝の史料的説明
-----------------------------------------------------------------------------------------
10/26 第6回 台湾占領の意見書(その1)
発信人と受信人の関係、史料を読み込むときのチェックポイントを埋める
11/09 第7回 台湾占領の意見書(その2)---その論旨---
北進論と南進論(近代日本の拡張方向)、宣戦→休戦→講和(典型的な戦争プロセス)
11/16 第8回 台湾占領の意見書(その3)---起草と発信の事情---
発信日時の推定、関連人物の動向
11/30 第9回 伊藤博文意見書
台湾占領の意見書のまとめ、「威海衛ヲ衝キ台湾ヲ略スヘキ方略」を読む
12/07 第10回 斎藤聖二『日清戦争の軍事戦略』を読む---先行研究との対比
台湾占領の意見書(1894年11月26〜27日頃)、伊藤博文意見書(同12月4日)から抽出したイメージを斎藤さんの著書と対比
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------
12/14 第11回 まとめと補遺---第1部と第2部を通じて
1. 第2の松方意見書(1895年3月、伊藤首相宛)の論旨を推測する
2. 1896年4月と1894年4月(1年後の回顧と当時の言動との落差)
3. 1991年に工大紀要に載せた拙稿の論旨
12/21 第12回 1891年、『日本国防論』から「兵商論」へ---台湾占領論の前提成立
輕武装の陸軍中心の軍備政策により国防費の抑制を図ることから、民間船舶や海外居留邦人を保護する平時にも有用な軍備としての海軍中心の政策への主張転換(曾我祐準→肝付兼行)
01/11 第13回 日清戦争中のポジショニングの転換と、講和条件に関する論調
1894年12月28日付阿部充家宛徳富猪一郎書簡(国内政治改革から対外膨張への転換)
日清戦争中の国民新聞の記事から講和条件に関する切り抜き(白閥打破の一貫性)
-----------------------------------------------------------------------------
01/18 第14回 まとめと残された課題



ブログ「研究と教育 柴崎力栄(大阪工業大学 知的財産学部 人文社会研究室)業務日誌」のなかの本講義についてのカテゴリーを参照のこと。
http://rshibasaki.livedoor.biz/archives/cat_1081522.html

1年次科目「人文社会入門」の教科書、『人間・その総合的理解』のうち、柴崎執筆分「歴史をどのように学ぶか」に記した歴史研究方法論を具体的に適用したのがこの講義である。相互に対照して読んでみて欲しい。

(以上、配布物)

rshibasaki at 16:43コメント(0)トラックバック(0) 

2007年01月11日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」 2007年1月11日(木)1,2時限

(配布物)
・1894年12月28日付阿部充家宛徳富猪一郎書簡(部分)
・日清戦争中の国民新聞の記事から、講和条件に関する切り抜き

20070111割譲要求の範囲



20070111白閥打破の継続性

rshibasaki at 13:34コメント(0)トラックバック(0) 

2006年12月21日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」 2006年12月21日(木)1,2時限


垣田純朗編『日本国防論』(明治22年1月、民友社)について、『蘇峰自伝』(1935年、民友社)第10章「日清戦役時代と予」一「明治二十七八年役と予」には、つぎのように記されている。川上操六との出会を回顧するなかで、曾我祐準への論及がある。
-------------------------
従来予は川上将軍とは、何等の縁故も無かつたと云はんよりも---川上将軍が予に対して如何に思うてゐたかは知らぬが---予としては、川上将軍には決して好感を持たなかつた。と云ふ訳は、予は父の執[とも]として曾我老将軍と懇意であつた。而して老将軍と共同して、『日本国防論』なるものを、明治二十一二年の頃『国民之友』に掲げて、手酷く当時の陸海軍に対する批評を試みた。而して曾我将軍等は、当時の参謀次長川上操六、陸軍次官桂太郎等に排斥せられたる人々であれば、その人々が彼等に対して、好感を持つ筈はなかつたからだ。
-------------------------
(同書、296頁)
もともと、『国民之友』の連載なので、編者の垣田は、それを本に編集する担当者ということである。論考の筆者は蘇峰であると考えてよい。

ところが、1891年8月3日付『国民之友』第126号には、匿名の寄稿家「Q.S.T.」による特別寄書「兵商論」が掲載される。「Q.S.T.」は、水路部長肝付兼行である。(判断の理由はいずれ発表原稿に書く)

この民友社・国民新聞社の国防論の転換、即ち、輕武装の陸軍中心の軍備政策により国防費の抑制を図ることから、民間船舶や海外居留邦人を保護する平時にも有用な軍備としての海軍中心の政策への主張転換は、曾我祐準から肝付兼行へのアイディアと情報源の変更によって発生した。

20061222明治の海軍・平成の海軍
明治の海軍とは、現在の海上自衛隊と海上保安庁を併せた領域を担当する国家組織であった。
明治期における海事とは、現在の海洋開発・宇宙開発を併せたフロンティアを意味していた。

rshibasaki at 10:58コメント(0)トラックバック(1) 

2006年12月14日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」 2006年12月14日(木)1,2時限


これから4回は、3部構成の講義の第3部。

1. 第2の松方意見書(1895年3月、伊藤首相宛)の論旨を推測する
2. 1896年4月と1894年4月(1年後の回顧と当時の言動との落差)
3. 1991年に工大紀要に載せた拙稿の論旨(当時の水準として見る)

20061214第11回まとめと補遺

rshibasaki at 21:00コメント(0)トラックバック(0) 

2006年12月09日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」 2006年12月7日(木)1,2時限


台湾占領の意見書(1894年11月26〜27日頃)、伊藤博文意見書(同12月4日)から抽出したイメージを斎藤さんの著書と対比。

斎藤さんは、未発に終わった直隷作戦の実施プランの変遷を軸に、日清戦争の戦局を検討している。その話に、台湾占領の意見書の示すイメージ領域を付加したら、どのような日清戦争の理解になるのか。

rshibasaki at 19:33コメント(0)トラックバック(0) 

2006年11月30日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」 2006年11月30日(木)1,2時限

1. 台湾占領の意見書、まとめ
20061130板書


2. 伊藤博文意見書を読む

配布資料
「威海衛ヲ衝キ台湾ヲ略スヘキ方略」(伊藤博文伝下巻、1940年、春畝公追頌会、134〜138頁)

rshibasaki at 20:02コメント(0)トラックバック(0) 

2006年11月16日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」 2006年11月16日(木)1,2時限

1. 発信日時の推定
2. 関連人物の動向
20061116発信の事情


配布物
(1表)「黄海海戦」「旅順」「旅順の戦」「北洋艦隊」「威海衛」(吉川弘文館『国史大辞典』)
(1裏)「戦時国際法」「中立」(小学館『日本大百科全書』)
(2表)「旅順口陥落〔11月24日、時事〕」「御前会議夜に入りて決せず 首相と海軍軍令部長大議論〔11月28日、郵便報知〕」(『新聞集成明治編年史』9巻、1936年、166・167ページ、1894年の記事)
(2裏)「軍事電報 清国講和の使者来朝 神戸発(廿七日正午)」(国民新聞、1894年11月28日2面1段)、「伊東巳代治氏兵庫に赴く」以下の記事(国民新聞、同11月30日1面1・2段)


rshibasaki at 16:40コメント(0)トラックバック(0) 

2006年11月09日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」 2006年11月9日(木)1,2時限

1. 北進論と南進論(近代日本の拡張方向)
20061109北進論と南進論



2. 宣戦、休戦、講和(典型的な戦争プロセス)
20061109宣戦休戦講和

rshibasaki at 16:07コメント(0)トラックバック(0) 

2006年10月26日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」 2006年10月26日(木)1,2時限

1. 先週までの内容を再確認
20061026先週までの内容の再確認
この講義は三つのモジュールに分かれる。前回までが第一。今回からしばらくが第二。最後に第一と第二を統合する。


2. 発信人と受信人の関係
20061026史料読解の4ポイント
史料を読み込むときのチェックポイントを埋めるかたちで、「台湾占領の意見書」を読み、その向こう側にある歴史上の出来事を再構成することに着手する。


配布物
1枚目(B4)=「台湾占領の意見書」(徳富猪一郎著『台湾遊記』、1929年、民友社、180〜186ページ)
2枚目(A4)=「台湾占領の意見書」現代語訳
3枚目(B4)=『朝日日本歴史人物事典』より「松方正義」「川上操六」「徳富蘇峰」「徳富一敬」「徳富蘆花」「伊藤博文」「陸奥宗光」「山県有朋」

rshibasaki at 19:31コメント(0)トラックバック(0) 

2006年10月19日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」 2006年10月19日(木)1,2時限

配布物(1枚)
公爵松方正義伝、徳富猪一郎編述、公爵松方正義伝記発行所、1935年7月、坤巻542〜547、552〜554ページ

先週配布した『蹇蹇録』最終章を読む。

20061019_講和条件についての意見分布

rshibasaki at 19:35コメント(0)トラックバック(0) 

2006年10月12日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」 2006年10月12日(木)1,2時限

配布物
1表=吉川弘文館『国史大辞典』より「対外硬派」「三国干渉」
1裏=同「蹇蹇録」の項、小学館『日本大百科全書』より「サンステファノ条約」「ベルリン会議」
2表裏=中央公論社『日本の名著35 陸奥宗光』より「蹇蹇録」第21章「露、独、仏三国の干渉(下)」

20061012_1先週先々週との関連
1935年に刊行された『蘇峰自伝』、1896年4月の「欧米周遊に就て江湖の諸友に告く」、『蹇蹇録』における陸奥宗光外務大臣、この三者を比較する。



20061012_2外交と世論の一般形
今週の月曜日、10月9日に北朝鮮が核実験を行なった以後の安倍内閣への弱腰だとのブログの世界の批判を引照し、世論と外交について一般的に説明。日清戦争は新聞が世論をつくり、影響力をもった事例。米国史における米西戦争と類似する。


20061012_3ポジショニングの移動
サッカーやラグビーの中継で聞く「ポジショニング」という概念を用い、日清戦争前後の時期の蘇峰は把握されるべき。国内政治に生息域をもった開戦1〜2カ月前までと、内外の情報流通に国民新聞社・民友社の存在意義を置くこととなった開戦1〜2カ月前以後。状況の変化を先読みし、能動的に果すべき社会的役割、立ち位置を変化させた。
[誤字訂正] 上の右下黄色字は「日清戦争開戦直前以後の役割」とあるべき。「以役」を「以後」と訂正。

rshibasaki at 19:36コメント(0)トラックバック(0) 

2006年10月05日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」 2006年10月5日(木)1,2時限

配布物
1表=「欧米周遊に就て江湖の諸友に告く 蘇峰生」(国民新聞1896・明治29年4月14日1面)
1裏=『蘇峰自伝』第十章「日清戦役時代と予」五「遼東半島視察中桂公と相識る」
2表=「欧米周遊に就て江湖の諸友に告く」現代語訳
2裏=岩波『日本史年表』より明治27〜29年

1裏は先週の話しの追加資料。「藩閥打破」から「白閥打破」への転換が日清戦争をきっかけとして起こったとする昭和初期の自画像。
下の板書は、1表=2表の内容を説明するため書いた。具体的には、来週の内容につづく。

20061005日清戦争前後の世界均勢

rshibasaki at 12:49コメント(0)トラックバック(0) 

2006年09月28日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」 2006年9月28日(木)1,2時限

配布物。
1=蘇峰自伝の前書き、目次、奥付
2=蘇峰自伝293〜299ページ、第十章「日清戦役時代の予」一「明治二十七八年役と予」(国民新聞と従軍記事、日清戦役と川上将軍)
3=蘇峰自伝639〜641ページ、第二十章「自らを解剖す(上)」二「反抗心と優越心」
番外=先週の板書メモ

主に、3枚目の内容をつぎのように板書にまとめた。1935(昭和10)年に刊行された『蘇峰自伝』に表現された、昭和初期の蘇峰の自己イメージの世界を知りえる。
20060928蘇峰自伝の自画像


日清戦争前の「藩閥打破」から、日清戦争後の「白閥打破」への変化。その背後には、幼少時にはじまり、生涯を一貫する「自分よりも権威や権力のある者へ反発心を抱く」という傾向があった。昭和初期の蘇峰は、そう主張する。

rshibasaki at 15:25コメント(0)トラックバック(0) 

2006年09月23日

歴史学供崙蘇拜品と日清戦争再考」2006年9月21日 1,2時限
配布物
1(A4)表=梗概
1(A4)裏=シラバス
2(B4)表=「徳富一敬」「徳富蘇峰」「徳富蘆花」(朝日日本歴史人物事典)。「徳富蘇峰」(角川新版日本史辞典)。
2(B4)裏=山川・詳説日本史より近現代の略年表、日清戦争要図、日露戦争要図。「三国干渉」(角川甲板日本史辞典)。
3(B4)表裏=「年譜」(神島二郎編『徳富蘇峰集』巻末、筑摩書房近代日本思想大系8)

--------------------------------------------
【授業のねらい】
“台湾は、日清戦争を終結させるための下関講和条約により日本が領有し、その結果、中国本土とは別の歴史を歩むこととなった。それはいまから110年余り前、別の時代・別の場面・別の人々の世界の出来事であった。後期・歴史学IIでは、主題「日清戦争と台湾占領の起源−−徳富蘇峰研究から」を扱う。中心人物としては、民友社・国民新聞社のオーナー社長、兼、主筆記者であった徳富猪一郎(1863年〜1957年、蘇峰は号)に登場願う。後半生から晩年に若き明治の日々の若気の至りを語った蘇峰自身の回顧のトーンと、第二次大戦後の価値観を過去に投影した歴史研究が、奇妙に符合し、[日清戦争当時の蘇峰の行動の実相が]埋もれてしまった経緯を発掘する。研究プロセス自体を講義というかたちで提示するので、工学部の学生諸君には、研究の過程を観察し、自分の分野の同種の体験と対比するよい機会となるだろう。”

(1) 大正期・昭和期になってからの蘇峰の「遼東還付」言説の過去への投影を検討し、それを取り去った後に残る日清戦時の自己認識と行動の再構成。
(2) 日清戦争の「展開期」から「講和期」への転換点であった旅順要塞陥落直後の時点で、台湾占領の実行を政策化するプロセスに関与した蘇峰の姿を示す。
---------------------------------------------

上記下線部分を説明する板書。戦後の蘇峰研究の共通理解と、蘇峰自身が自伝などで語った把握は、日清戦争を境として蘇峰の生涯を二期区分で理解する点で共通する。
20060921徳富蘇峰の生涯二分



[註] 日清戦争の戦局を旅順占領を境として「展開期」「講和期」に区分するのは、『日清戦争の軍事戦略』における斎藤聖二さんの用語法。わたくし自身が以前から講義で使っていた表現だと「勝ち負けを争って戦闘がつづく前半」と「勝ち方の拡大と負け方の限定を争って戦闘がつづく後半」ということになる。但し、斎藤さんの「講和期」には休戦以後講和までも含まれる。

rshibasaki at 15:28コメント(0)トラックバック(0) 

2006年08月07日

以下の引用中「仄かに聞く所に拠れば」からわかる通り、蘇峰が日清戦争中に松方から聞いた内容が、その40年後に上梓された『公爵松方正義伝』に組み込まれている。文中「公」とあるのは松方正義である。また「更に一篇の意見書」とあるのは、前年1894年11月下旬の「台湾占領の意見書」(発信人:松方正義→受信人:川上操六)を踏まえて、それを一つ目の意見書、講和に際して「更に」二つ目の意見書を書いたという意味である。第一の意見書、すなわち「台湾占領の意見書」は、伝記では以下の文章の直前に全文引用されていた。

---------------------------------------------
 明治二十八年三月、我が征清大総督彰仁親王が、戦地に前進するに当り、我軍が澎湖島を占領するに至つたのは、公の意見の一端が実現されたものであつたが、講和談判の開始さるゝに及んで、公は更に一篇の意見書を草して、国家の大計を論じ、併せて講和条件に言及し、之を伊藤首相に贈り、其の注意を促した。記者の仄かに聞く所に拠れば、公の意見は、軍費賠償として十億円を要求すべく、土地の割譲は台湾、澎湖島に止むべしと云ふにありて、遼東半島の割譲には全然之に反対してゐた。
 遼東半島割譲論は、当時陸軍部内の輿論であつたので、公は伊藤に対して、反対の意見を述べ、其の注意を促したが、伊藤は陸軍の輿論を動すことは出来なかつた。一日、川上参謀次長、公を訪ひ諷諫の意を以て、之に謂て曰く、『聞く所に拠れば、世間には遼東割譲に反対するものある由なれども、遼東は大陸経営の為に之を割譲せしめねばならぬ』とて、遼東非割譲論に反対した。然るに、公は井上に対し、『遼東割譲の異議者は、言ふまでも無く、吾人である』と。公然其の所信を吐露したので、流石の川上も終に公と其の議論を闘はさずして去つたと云ふ。伊藤は公の説を聴き、意稍々動いたけれども、軍人の勢力に圧せられて、遼東割譲論を容れざるを得ざるに至つたものであつた。
 未だ幾くならず、三国干渉の問題起るや、公は舞子に赴き、伊藤と会して曰く、『卿等予の意見を容れず、徒に世論に迎合するを以て、終に今日の事あり。彼等をして干渉の口実を與へしめた。知らず卿等は如何にして善後を策せんとする乎』と。流石の伊藤も公に対して、其言ふ所を知らなかつたと云ふ。
---------------------------------------------
(公爵松方正義伝、徳富猪一郎編述、公爵松方正義伝記発行所、1935年7月、坤巻553〜554ページ)


rshibasaki at 22:22コメント(0)トラックバック(0) 

2006年08月06日

日清戦争の講和に際し、松方正義は「遼東半島割譲よりも台湾占領を優先すべし」と主張した。史料的には、徳富蘇峰が松方からの聞き取りに基づき記述した『公爵松方正義伝』(徳富猪一郎編述、1935年)であり、先行研究としては室山義正さんの言及がある。室山さんの近著の『松方正義---我に奇策あるに非ず、唯正直あるのみ』(ミネルヴァ日本評伝選、2005年6月)ではなくて、初著『近代日本の軍事と財政---海軍拡張をめぐる政策形成過程』(東京大学出版会、1984年12月)247ページに、註「21)」としてつぎのように記されている。

「日清戦時中も財政運営をめぐって松方と伊藤はことごとく対立したが、日清講和談判においてもまた然りである。松方は、初めより遼東半島割譲は列国の干渉を招くから絶対に不可であるとし、これに対して10億円の賠償金を要求すべきであると主張したが、伊藤・陸奥はこれを拒否する。しかし松方の予言通り三国干渉が起こると、松方は伊藤の失策を詰責し、これがまた両者の対立に油を注ぐことになった(『松方伝』坤巻、553-4頁参照)」

rshibasaki at 15:34コメント(0)トラックバック(0) 

2005年12月29日

徳富蘇峰を、原理主義ならぬ、便宜主義的と評したのは、米原謙氏であった。『徳富蘇峰---日本ナショナリズムの軌跡』(中公新書1711、2003年8月)において、大隈条約改正案に関する蘇峰の評価を、陸羯南のそれと対比しつつ、つぎのように述べている。

「みずからの原則に忠実で現実と妥協することが少なかったという意味で、羯南が原理主義的だったのに対して、蘇峰は便宜主義的で、必要と判断すれば妥協を辞さなかった。この便宜主義(オポチユニズム)が蘇峰の生涯にわたる長所であり短所でもあつた。ここで便宜主義と形容するのは、所与の状況でベターなものを選択するという態度をさす。この態度は政治的判断の不可避な一面であるが、長い視野でみれば状況に流されやすいという致命的な欠点がある。短期的な利害判断ではベターでも、長期的には無原則の妥協に終ってしまうことが多いからである。「オポチュニズム」という言葉が「日和見主義」という悪い語感をともなうのは、無原則と同義になりがちだからである。しかし便宜主義は、本来は一定の価値観にもとづく冷靜な利害計算による行為である。この観点から蘇峰の態度をみれば、大隈条約案を基本的に支持しながら、いくらか斜に構えた姿勢をとったことがわかる。反対論が圧倒的に強いなかで、正面からそれを支持してあえて不利な立場を取ることは、営業面からも熟慮を要した。『自伝』はそれを「負け戦」だったと回想しているが、そのような不利な状況でも、蘇峰は大隈案を擁護した。反対運動で保守的風潮が強まることを強く恐れていたからである」
(同書、71〜72ページ)

ここでは、便宜主義の背景に「藩閥打破」(『蘇峰自伝』1935年)について戦略的な判断をもった人物として、蘇峰は描かれている。
わたくしは、つぎに示す諸史料の文言にみるように、別の主題に関する側面=「白閥打破」(出典同じ)でも「便宜主義の背景に戦略的な判断をもった人物」として蘇峰を見ている。

「吾人は始終防御のみを説て、敢て一歩も国境を越えて外国に威武を伸ふることに説き及はす、思ふに世の壮士は或は之を不満とするものあらん、[中略]、吾人と雖他日事ある時に於ては、太平洋の水、中央亜細亜の野、欧州諸強国と抗衡して、日本の国旗を輝かすことを欲せさるにあらす、唯た其の実力なきを恐るゝのみ」
(『日本国防論』、1889年1月、末尾)

「何を以て台湾を取らんと欲する乎。之に拠つて九州より琉球、琉球より八重山、八重山より相聯絡して、更らに南洋に備へて以てマレー海峡を経て、来るものを制せんとする也」
(「削地の目的」、『国民新聞』1894年11月1日5面、社説欄)

「台湾は如何なる場合にも、之を我海図の中より逸せしむべからず。況んや之を清国以外の国に有せしむべからず。是れ独り清国を控制するがためのみにあらず。マレー半島の海峡を経て、東亜に入り来る勢力を控制せんがため也。国家百年の大計は、北を守つて南を略するにあり。而して台湾占領は、実に其第一着歩なりと知らず耶」
(「台湾を略するの時来る」、『国民新聞』1894年11月5日2面、社説欄)

「他日、吾人にして、若し欧州と事を構ゆるの時ありとせよ。彼等は必らず海峡殖民地の内に、一根拠を占め、凡べての軍需軍隊を、一旦此に集合して、以て漸く我に及ばん。而して其地は台湾を外にして、また何くにかあらん。台湾を我に納むるは、即ち敵国の根拠を奪ふて、更らに我根拠となすもの也」
(「何を以て欧洲の勢力を支へん」、『国民新聞』1894年11月11日5面、社説欄)

この場合の欧州勢力としては、短期的には、フランス・ドイツ・ロシアが想定される。仏・独・露とは三国干渉の当事国である。シベリア鉄道開通以前のこの時代には、ロシアもマラッカ海峡経由で沿海州への物資輸送を行っていたから、当該諸国に含まれる。また、米国のハワイ併合・フィリピン領有が未だ将来のことに属する日清戦争時には、米国は視野の外に置かれていることがわかる。

しかしながら同時に、「海峡植民地」とは英領シンガポールであるから、遠い未来のこととしては対英戦争もありえると考えていたことを窺わせる。徳富蘇峰は、日清戦争の時点で、「国家百年の大計」の射程としてはこのようなイメージの世界をもっていた。



rshibasaki at 19:22コメント(0)トラックバック(0) 
これは、日露戦争中のことを言っているのではない。その10年前の日清戦争中も、蘇峰が自己の社会的ポジショニングとして考えていたのはそういうことではなかったのか。本講義でいちばん言いたかったことの根底には、こうした把握がある。

これは一見、古くは、梶田明宏氏の諸論考、最近では、小宮一夫氏の著作『条約改正と国内政治』が提供するイメージとまっこうから対立するように見える。しかし、わたくしの把握と両氏の研究とは、内容的に両立すると考える。

殊に、小宮一夫氏の最近の論考「党首なき政党の模索---立憲革新党論」(『日本立憲政治の形成と変質』、吉川弘文館、2005年2月)は、先の著書が日清開戦前を扱っていたのに対して、日清開戦後を扱っており、そこに登場する蘇峰については、わたくしの解釈が可能なのではないかとの思いを強くしている。


上述の経緯を、説明する準備作業として、本講義を構成した。

rshibasaki at 18:25コメント(0)トラックバック(0) 
第1回から第6回まではシラバス通り、以後は、シラバスとは異なり、試行錯誤しつつ講義を組み立てた。その各回のタイトルはつぎの通り。

第1回(9月22日)/台湾占領の意見書(その1)---どのような性格の史料か
第2回(9月29日)/台湾占領の意見書(その2)---1894年11月、日本の優勢が確定した時
第3回(10月6日)/台湾占領の意見書(その3)---政策決定への影響

第4回(10月13日)/三国干渉(その1)---公爵松方正義伝が示す遼東割譲要求への賛否
第5回(10月20日)/三国干渉(その2)---蹇蹇録に見る、外務大臣陸奥宗光の立場
第6回(10月27日)/三国干渉(その3)---徳富蘇峰の遼東還付原因論

(学園祭休講)

第7回(11月10日)/『蘇峰自伝』を読む
第8回(11月17日)/『時務一家言』を読む

第9回(11月24日)/先行研究の検討(その1)---澤田次郎『近代日本人のアメリカ観』、小宮一夫『条約改正と国内政治』
第10回(12月1日)/先行研究の検討(その2)---斎藤聖二『日清戦争の軍事戦略』

第11回(12月8日)/1890年代前後の徳富蘇峰(その1)---「台湾占領の意見書」の背景とその後、国家将来構想の変遷
第12回(12月15日)/1890年代前後の徳富蘇峰(その2)---「台湾占領の意見書」の背景とその後、組織的基盤と政治への関与の変遷

第13回(12月22日)/日清戦争中の『国民新聞』を読む
第14回(1月12日)/全体のまとめ [予定]

rshibasaki at 17:55コメント(0)トラックバック(0) 

2005年06月22日

このカテゴリーは、2005年度後期に工学部共通科目「歴史学供(総合人間学系人文社会科目)で講義する内容に対応する。夏休み頃から徐々に書き始める。

rshibasaki at 13:54コメント(0)トラックバック(0) 
Categories
Profile
Recent Comments
Archives
訪問者数

QRコード
QRコード
「日本の伝統と文化」教科書
  • ライブドアブログ