神戸事件

2008年03月09日

別の目的で、谷光 太郎著『アルフレッド・マハン―孤高の提督』(白桃書房、1990年)を読んでいると、後に海軍理論家として著名となる彼が、幕末から明治初めの時期、日本に派遣された米艦に乗っていたことを知った。

同書第3章「日本来航」冒頭の「1 ニューヨークから長崎経由兵庫まで」は、つぎの文章で始まる。「1867年1月1日、マハンはイロコイ号に乗り組んだ。イロコイ号は、8年前マハンがアナポリスを卒業した年に進水し、長さ198フィート、1488トン、大砲の数は13門である」。艦長はアール・イングリッシュ中佐。マハン少佐は副長であった。

1867年
2月上旬、ニューヨーク出帆。喜望峰経由で
8月21日、アデン着。インド、シンガポールを経由し
12月7日、長崎着。米極東艦隊に編入される
12月(17)日、長崎発、関門海峡、瀬戸内海経由で兵庫へ。
1868年
1月1日、神戸港停泊中。ええじゃないかの乱舞に出会う。

「2 鳥羽・伏見の戦い」には、1868年2月20日付の母への手紙が引用されている。
「2月4日になると、ビゼン公の軍隊がオーサカに向けヒョーゴを通過しました。そのとき、彼らは外国人に発砲しました。イロコイ号の艦上からはよく見えませんでしたが、米、英、仏の各艦から急遽、守備兵を上陸させました」(同書56ページ)

イロコイ号を初めとする当時の艦船については、元綱数道著『幕末の蒸気船物語』(成山堂書店、2004年)に解説がある。


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2008年01月04日

1月3日、紀伊国屋大阪本店(阪急梅田駅ビル1階)の棚に、上記の新刊が並んでいるのを見つけた。大阪市北区の出版社が今月に上梓したもの。発生した事象の前半、<西国街道沿いでの備前藩の隊列を横断しようとした欧米人を制止しようとして発生したトラブル>を神戸事件として捉え、続いて生起した後半の<居留地予定地の測量をしていた各国公使一行に対して、小銃の水平射撃を加えた出来事>を過小評価する傾向のうちにある。この点で、戦前・戦後を通じた日本側の神戸事件に対する歴史叙述に共通する特徴を本書も有する。サトウの証言、パークスの証言、ミットフォードの証言、ブラントの証言、コリンズの証言を列挙しながらも、その内容をもう一歩踏み込まず、「疑わしい外国側の証言」と評価している。

ミットフォードが1915年に、1910年に上梓されたロングフォードの著作を批判していることは、1910年代のイギリスの読書階級相手の言説として位置づけた上で評価すべきであろう。ミットフォードのロングフォード批判は、西洋人たちの間での神戸事件についての回顧や体験談が歴史に繰り込まれて行くプロセスの一部として理解する必要がある。Adamsのつぎの著作が最も早い時期の叙述である。

Edition Synapse社が刊行する「Japan in English」シリーズの30巻、31巻にはつぎの本が復刻されている。
The History of Japan, Volume1 to the year 1864, published in 1874
The History of Jpaan, Volume2 1865-1871, published in 1875
by Francis Ottiwell Adams

Volume2 の102ページ以下に、サトウ、パークス、ミットフォード、ブラントらの証言と一致する叙述が残されている。ロングフォードの1910年の著書は、こうした初期の歴史叙述に対する反論として書かれた可能性がある。







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2007年06月14日

昨夜、6月13日(水)午後10時〜10時45分、NHK総合テレビジョン、
その時 歴史が動いた第292回
「ニッポン外交力誕生〜伊藤博文・神戸事件解決〜」


神戸事件の捉え方がひどく偏っていた。かつて、エントリー「徳富蘇峰著『近世日本国民史』には詳細な記述あり」で指摘したように、この事件には、つぎの二つの側面がある。

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(1) 西国街道沿いでの備前藩の隊列を横断しようとした欧米人を制止しようとして発生したトラブル
(2) 居留地予定地の測量をしていた各国公使一行に対して、小銃の水平射撃を加えた出来事
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滝善三郎が責任を問われ切腹したのは、(2) に対してである。独公使フォン・ブラントによれば、斉射は「六、七回」に及んだ。偶発ではなく意図的な行為である。ここの部分をおろそかにしては、神戸事件を扱ったことにはならない。

一方、日本側の神戸事件についての歴史叙述は、(1)の側面を強調することで、(2)を隠したり、相対化する努力の積み重ねであった。そうした通説の形成過程に、明治期における欧米人側の事件の説明の揺らぎが関連している可能性がある。

この辺は、同時代史が歴史になるプロセスを一般的なかたちで念頭に置き、この事例の通説形成を具体的に押さえて行く作業が必要となる。今後10年ほどのうちに、なんとかしたい。


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2006年11月27日

神戸事件についてのロングフォードへの反論を読むと、回顧録冒頭のこの文言を思い出す。
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 私は今まで、「神々の国」日本について何らかの形で、かなり書いてきたが、何世紀にもわたって、程度の差こそあれ、独立した公国の集合体であったこの国が、日本という一つの強固な国家に統一される結果を生んだ大動乱の最中に、この国で私が個人的に体験したことや、西洋人、特に英国公使館の果たした役割について多くを語ることを避けてきた。私は相当な年月が経過するまでは、軽々しく書くべきでないことが数多くあると感じていたからである。今や他に類を見ないたいへん興味深いドラマの幕が閉ざされてから、すでに半世紀が過ぎ去って、日本人でさえも、私が書こうとしているこの時代のことを古い「昔」のことと思っているのである。その頃活躍した人物は、日本人も外国人も相次いで世を去った。そこで私は、あのような偉大な成果をもたらした革命の最中に起きた事柄について、それが単に「歴史に役立つ資料」にすぎないとしても、私の知る限りのことを、ここに記録にとどめておくべき時が来たと思うのである。
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(英国外交官の見た明治維新、第一章「日本への赴任」冒頭、11頁)


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原文では、"I am such an admirer of Mr. Longford's "History of Japan" that it is with regret that I feel compelled to join issue with him upon his account of this affair, the importance of which he unaccountably slurs over."と書き出している段落は、つぎのように長岡祥三さんによって翻訳されている。
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 私はロングフォード氏の『古い日本の物語』を立派な著作であるとかねがね思っているので、この事件の説明に関し彼と意見を異にせざるをえないのは残念である。彼はこの事件の重要性をなぜか見逃している。現場に居合わせなかった何人かの新聞記者が、何らかの理由で、この襲撃事件の重要性を過小評価しようとし、ロングフォード氏もそれに同調しているのである。実際問題として、この事件はどう見ても明らかに合法的な慣習の破壊であり、人道上の掟を破ったものである。ロングフォード氏は、この事件について、その後の調査のことを彼一流の言い方で、「それはヨーロッパ人が今では誇らしく想えないようなやり方であった」と述べている。
 彼は事件のことを、こう書いている。「備前藩の武士の一隊が家老を護衛しながら、藩主の一行に加わるべく、神戸を通って京都へ行く途中であった。一人のフランス水兵が行列を横切ろうとし、それは日本人の武士たちの目から見ればはなはだしい侮辱と映ったので、阻止しようとしたが、水兵は強引に渡ろうとした。そのかいもなく、槍で小突かれたので、彼は仲間と一緒に逃げ出したが、その中の一人はかすり傷を負っていた。武士たちは彼らの後ろから散発的に銃撃したが、弾丸は当らなかった。銃撃が行なわれた方向にある、新しい外国人居留地の居住者全体に恐慌が起きたようだ。各国の大きな軍艦からおおぜいの軍隊がただちに上陸を開始した」。
 事件についてのこの記述は、最初から最後まで誤りである。ロングフォード氏は、備前兵の指揮をした士官の処刑は不当であったことを暗示しようとしている。私は断言するが、ロングフォード氏の説明は、全く誤解を招くもので、事実に反している。彼は当時、神戸にいなかったが、私はいたのだ。
〔原注〕彼は当時まだ日本に来ていなかった。翌年に見習通訳生に任命されたのである。」
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(英国外交官の見た明治維新、119〜121頁、下線は引用者による)

ロングフォードには、"History of Japan"という著作はない。ミットフォードの回想録が出版された1915年以前に上梓されたロングフォードの著作で該当しそうなのは "The story of old Japan" (初版1910年)である。1973年に復刻されていて、その復刻版が現在でも新刊書として入手可能である。注文してみた。ミッドフォードがどのような歴史語りに対して、激しく反論したのかを確かめることができよう。

「現場に居合わせなかった何人かの新聞記者」には、John R. Blackが含まれているようである。

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2006年11月26日

蘇峰徳富猪一郎著『近世日本国民史 67 官軍・東軍交戦篇』(1963年、時事通信社出版局内近世日本国民史刊行会)を見ると、複数史料を引用しつつ、詳細な検討と評価が行なわれている。巻頭の例言を見ると、「本篇は昭和十二年三月二十六日起稿、昭和十二年六月九日脱稿」とある。1937年書かれた内容である。「通算第六十七冊」は「明治天皇御宇史第六冊」に当る。第11章「戦争直後の対外問題」、第12章「神戸事件の交渉」が関連する章となる。

そこに引用されている内外の記録を、現在の史料の所在と対応させて確認・理解するのは大変な作業になりそうだ。


神戸事件が発生した陰暦1月11日、当日に、兵庫でアーネスト・サトウと面談した長州の片野十郎の証言が、つぎのように引用されている(同書250頁)。
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  何分備前暴動、甚以不相済、元来行軍へ失礼致候にもせよ、
  仏蘭西マトロスの事に付、其者を如何様に致候とも、異論
  無之候得共、其跡にて各国留館へ銃撃致候段、何共不相心得、
  今般日本政府改革の趣に付ては、決て破約の国論に相成候故と
  推察致候との事。
 此れは英国公使館通訳サトーの申分だ。勿論新政府が、条約諸国と破約するが如き非常識の事ある可き筈無く、又た斯く信ず可き理由は無い。但だ彼等は感情が昂奮し、議論の行掛りにて、斯くは申したものだ。
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ここでわかるのは、サトウは二つのことを区別し、一方は、フランスの水兵を「如何様に致候とも、異論無之」と譲歩し、一方「其跡にて各国留館へ銃撃致候段、何共不相心得」と非難する。当時の記録から現在の研究にいたるまで、すべてのなかで、いちばん明確に事態を整理している。

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神戸事件について調べ始めたが、これは、神戸事件自体への興味ではない。むしろ、神戸事件という史実をどのような視角・視点から取り上げるかという、神戸事件の歴史叙述の変遷に興味をもったからである。それぞれの時代の自意識、および、事実確定の水準が、どのように神戸事件の歴史像に反映しているのかが面白そうだ。

The History of Japan, Volume 2, 1865-1871, Francis Ottiwell Adams, 1875. この復刻が Edition Synapse社の"Japan in English: Key Nineteenth-Century Sources on Japan"シリーズの31巻として復刻されている。かなり細かい記述がある。神戸事件の8年後の出版である。(別エントリーでいずれ触れる)

柳田国男著『明治大正史 世相篇』で有名な朝日新聞社のシリーズのうち、永井萬助著『明治大正史 2 外交篇』(1930年)には、つぎのような簡単な言及がある。
明治元年1月15日、「詔を国内に下し、また朝議の上断然和親の国是を定めたから、上下一般疑惑を生じない様せらるべき旨の沙汰を発したが、攘夷を主張し外人を禽獣視する諸藩士等猶多く、正月十一日に備前藩士兵庫において仏国水兵に発砲し、二月十五日には土佐藩士また堺において仏国の士官及び水兵に対して発砲し、何れも累を当局者に及ぼした。新政府成つて斯くの如く外人に暴行を加へるもの多くては、何時如何なる事変を外国との間に構へるに至るかも測られないので、廟議のある所を知らせんため、此所に外使謁見の議が起り」
(同61頁、太字は引用者による)

なお、大津淳一郎著『大日本憲政史』第1巻(1927年)、三宅雪嶺著『同時代史』第1巻(1949年)には、関係する記述はなかった。

東京大学史料編纂所蔵版『明治史要 全』(1933年)明治元年1月11日の項。
「○備前藩老臣日置忠尚帯刀ノ従兵、英人ト神戸駅ニ争闘ス。(池田章政家記、慶明雑録)」

信夫清三郎編『日本外交史 1853-1972』機碧萋新聞社、1974年)では、つぎのような叙述となる。
「2月4日、神戸事件が突発した。この日、備前藩家老日置帯刀の軍隊は、天皇政府の命令で西宮警備におもむくために神戸を通行中、行列の前方を横切った外国人を攻撃し、これをきっかけに各国公使館の衛兵と交戦した。各国は海兵を揚陸して神戸市街を封鎖し、港内にいた諸藩の船舶6雙を抑留した。各国は、天皇政府の出方を注目した。それは、新政府の統治力と権威にたいする試金石であり、問題の処理如何は政府の命運を左右するかにみえた。政府は、パークスの勧告をいれて、8日、勅使東久世通禧一行を兵庫に派遣し、6国代表と会談に入った。これは、天皇政府と各国外交団との最初の公式接触であった。勅使は、天皇が<内外政事>を親裁し、大君がむすんだ条約は天皇の名で継承すること、をのべた国書(勅書)を外交団に手交した。そして、神戸事件の謝罪と責任者の処罰という各国の要求をうけいれた。各国は、予想外な天皇政府の対外協調的な態度に満足した。新政府はじめての外交は、成功であった。政府首脳は、部内の尊攘的反対論をおしきって備前藩を説得し、日置に謹慎を命じ、隊長滝善三郎を切腹させた。処刑の理由は、<宇内の公法>によるという漠然としたものであった。それは、外交政策上の見地から処罰したことを意味し、司法は外交に従属したといえよう。しかし、政府の意外に迅速な処置は、その対外信用を格段に増した」
(同書72頁、下線は引用者による)

『新版日本外交史辞典』(外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会編、山川出版社、1992年)には、つぎのように記述されている。
「神戸事件 こうべじけん  備前藩兵が新政府の命により1868年2月4日(慶応4年1月11日)西宮の警備のため神戸を行進中、前方を横断した外国人を攻撃し、各国公使館の衛兵と銃火を交えた事件。英仏米各国海軍指揮官は各国代表の委任の下に神戸居留地を警備し、武士の通行を禁止し、一時軍事的に占領した。2月8日勅使東久世通禧は兵庫に赴き、各国代表に王政復古の国書を伝達し、外国人保護のための守備兵の到着を告げた(新政府官員が外人と正式に応接した嚆矢)。各国代表は兵力を撤退させ、抑留中の日本汽船を釈放し、かつ責任者の極刑と天皇政府の謝罪を要求した。外国事務総督伊達宗城は3月2日(2月9日)陳謝し、発砲を命令した士官滝善三郎に切腹を命じた旨を伝え、滝はこの夜神戸英福寺で切腹して事件は解決した。/秋本益利
  ◎日本外交文書(明1-1)
  ◎石井孝、増訂・明治維新の国際環境、1966
  ◎内山正熊、神戸事件、1983
  ◎瀧善成、神戸事件と瀧善三郎の切腹(歴史研究166、167)」

『国史大辞典』第5巻(1985年、吉川弘文館)に掲載されている「神戸事件」の項目。
「こうべじけん 神戸事件 明治維新直後、武士の攘夷感情が爆発した事件。明治元年(一八六八)正月十一日、新政府によって西宮の守備を命ぜられた岡山藩家老日置帯刀の部隊が神戸を行進していたとき、外国人が部隊の前方を横断したのがきっかけで、武士の間に潜む攘夷感情が爆発した。藩兵の部隊は外国人に対して発砲、負傷者を出し、英・仏・米各国の守備兵がこれに応戦した。翌十二日、外国側は岡山藩兵の行動に対する報復として、港内にある艦船をすべて抑留し、また神戸居留地を軍事的に占領した。このように強硬な処置をとる一方、イギリス公使パークスは、吉井幸輔(友美)・寺島陶蔵(宗則)に対し使節を派遣して外国側と接触をはかるよう勧告した。その結果、同十五日、参与兼外国事務取調掛東久世通禧が勅使として兵庫に赴き、各国代表と会見、王政復古を告げる国書を伝達した。その際、勅使は対外条約の遵守を保証し、外国人の安全を誓約した。この勅使の態度は外国側の好感を買った。その後、外国代表は協議の結果、日本政府への要求として、発砲を命じた士官の極刑と関係諸国政府への陳謝の二つを決め、十六日、その要求が東久世に伝えられた。当時、新政府は、旧幕府に対抗するため外国側の支持を得る必要があったので、その要求をすべて呑むことに決し、もし岡山藩が犯人の提出を拒めば討伐を加える方針であった。それから岡山藩を説得するのに若干の日数を要したが、ついに二月二日、発砲を命じた責任者に各国見証のもとで切腹を命ずることを通達した。二月九日、外国事務総督伊達宗城は、外国人襲撃を陳謝し発砲を命じた責任者に切腹を命ずる旨の書簡を、各国代表に伝えた。そして同日夜、神戸の永福寺で責任者滝善三郎の切腹が行われた。ハラキリが外国人の前に公開されたのは、これが最初である。このような事件の敏速な処理によって、新政府は最初の外交的危機を脱したのみでなく、かえって天皇政府が権力をもっていること、および対外友好関係を深めようと意図していることを外国側に証明した。
参考文献 石井孝『増訂明治維新の国際的環境』、岡義武『黎明期の明治日本』
(石井 孝)                              」 


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2006年11月25日

「無煙火薬(スモークレスパウダー)は、明治18(1885)年、フランスで発明された。英語ではコットンパウダー(綿火薬)ともいう。
 成分分類的にはダイナマイトの親類であるこの火薬は、燃焼速度は黒色火薬(ガンパウダー)よりも遅いが、発生する燃焼ガスの仕事量はより大きい。
 そのため、小銃の銃身に破壊的な衝撃を及ぼすことなく、弾丸を超音速まで加速されるのによく適していた。
 初速が大きくなって好ましいことは、小銃の実用射程内での命中率が高まることである。
 例えば、500m先で密集横隊を組んでいる敵歩兵を、照準眼鏡などが付いていない歩兵銃で狙撃することを考えてみる。試みに、今の高層ビルの最上階の窓の大きさは地上からはどのくらいに見えるかを実験されたい。500mといえば、東京タワーの高さよりもある。裸眼狙撃の限界に近い距離と考えていいだろう。
 旧来の、黒色火薬の力で弾を射ち出す歩兵銃では、500m先の標的を正しく狙うためには、照門(リアーサイト)の高さをやや変更して、銃口が少し天を向くように構えなければならなかった。
 射ち出された重い弾丸は、ゆるやかな弧を描いて飛んで行くが、その弧の頂点を「最高弾道点」という。黒色火薬を推進役に用いる歩兵銃から500m先の目標を狙った弾丸は、飛翔経路中間附近での最高弾道点が、地表から2・5m以上にも達する。
 標的として仮想する敵歩兵の身長は1・67m、騎兵のシルエットの高さなら2・5mと、当時はみなされていた。
 つまり、射距離500mでの最高弾道点が地上1・6mを越える銃は、照門の高さをちょっと間違えただけでも(すなわち射撃指揮官が敵兵との距離をよほど正確に測って兵士たちに教えてくれない限り)、よく狙って放ったはずの弾丸が、敵の頭上高く越えていってしまったり、敵の足元のモグラを脅かすだけにおわる可能性が高かった。
 逆に、諸距離500mにおける最高弾道点が、1・6m以下にしかならない銃ができたとすれば、その銃の射手は、敵歩兵がはっきりと見分けられる距離(だいたい500〜700mとされている)であるのならば、照門を500mに合せて、ともかく相手の足首を狙って発砲すればよい。弾丸は、敵兵が0〜500mの間のどこかの距離に存在する限りは、必ずやその頭部より下、足首より上に命中するはずである。」
(有坂銃---日露戦争の本当の勝因、1998年、62〜63頁)

「歩兵銃の実用射距離は、錯雑地形で散兵を相手にするときは200m以上にはならないし、まっすぐにこちらを襲撃し来る騎兵集団に対するときには、逆に800m以上から狙っていかなくてはなるまい。面目標とみなせる敵密集部隊に対しては2000mで発砲する場合すらあった。
 それでも、弾道が低伸する(=最高弾道点が低い)ほど、上下方向への外れ弾が減る原理は、射距離に関係なく同じである。
 そうした低伸弾道を得る唯一の方法は、弾丸の初速を高めることだった。
 弾丸の初速が大きくなりさえすれば、弾道は低伸し、最高弾道点は敵歩兵の中腰の突撃も許さないほどに低くなるわけである。」
(同、63〜64頁)

*

内山正熊著『神戸事件---明治外交の出発点』(中公新書681、1983年)は、こうした小銃の弾道特性と照準の問題を考慮に入れていない。 
ミットフォードが頭上を飛翔する弾丸に殺意を感じたのは、この種の小銃射撃についての知識をもっていたからであろう。 

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2006年11月23日

萩原延壽さんによる記述。
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 神戸の外国人居留地は、海岸に沿って横約六百ヤード(約五百五十メートル)、奥行き約四百ヤード(三百七十メートル)の平坦な土地で、当時はまだ海岸に近い東南の一隅に三つの建物、運上所、保税倉庫、イギリス領事館があるだけで、それ以外は目路をさえぎるもののない野であった。備前藩兵の一斉射撃にあった外国人が、野を駆けて逃げ込んだのはこの三つの建物である。
 神戸の町は居留地の西側に接し、そこを通る街道は居留地の西北の隅をかすめ、居留地の北側に沿って走っていた。
 この日の午後二時半ごろ、パークスはスタンホープ艦長(オーシャン号)、ブラッドショー陸軍中尉などと、居留地の西北の一隅のあたりを散歩していた。そこへジョゼフ・コリンズ(Jeseph Collins)というイギリス人が駆けつけ、事件の勃発を告げた。パークス自身、たまたま備前藩兵が行進していた街道のかなり近いところにいたわけである。

「コリンズは、大名の行列に加わっている兵士のひとりによって殴打されたと云った。そのとき、その行列の先頭が街道を進んでくるのが見えた。われわれとの距離は約六十ヤード(約五十五メートル)であった。コリンズのはなしがまだおわらないうちに、行列が停止した。二十名ないし三十名の槍を持った男が、隊長命令で縦列をつくり、街道上のだれかを攻撃するかの如く、槍を構えるのが見えた。それにつづいて叫び声がおこり、混乱がはじまった。行列の一行は戦闘隊形をとって居留地の野に散開し、わたしやわたしに同行していた士官をふくめて、そのあたりに居合わせたすべての外国人にむかって発砲を開始した。かれらは元込めのライフル銃を使っていたので、射撃は迅速であった。居留地の野には遮蔽物がないので、こんなやり方で攻撃をうけた外国人は、ちょうど反対側の隅にある運上所などの建物に逃げ込む以外に、身を守る方法はなかった。しかし、そこへたどりつくには、敵の砲火を浴びながら、ひろい野を駆け抜けなければならなかった。」

 この一斉射撃によって外国人を威嚇したことを見とどけた備前藩兵は、ふたたび隊伍を整え、西宮方面へむかって行進を開始し、まもなく視界から姿を消していった。
 その後これを追撃するために英米仏の三国が兵を繰り出し、数度の射撃の応酬があった後、備前藩兵の行方を見失ったため、追跡を断念して居留地に引き返してきたことは、サトウが述べている通りである。なお、前述の一斉射撃の前後、外国人側に負傷者は出たが、死亡者はひとりも出ていない(パークスよりスタンレー外相への報告、一八六八年二月十三日付、および附属文書)。
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(遠い崖6、175〜177頁)

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以下は、ミットフォードの回顧録の中に引用されたフォン・ブラント著『東アジアで過ごした三十三年間』の文面である。

「我々が−−というのは、イタリア公使のド・ラ・トウール伯爵とアメリカの軍艦イロクオイ号とオウナイダ号の艦長たちと、私のことだが−−税関の建物からその周囲の砂っぽい空き地に出た時に、おおぜいの外国人たちがそこにいるのが見えたが、彼らは行進する日本の軍隊を見ようと集って来たものらしかった。軍隊は数百人もおり、北側の開けた広い土地に接した道路を大坂に向けて隊列を整えて行進していた。
 我々は軍隊の列から三百歩か四百歩ほど離れていたが、外国人の大多数は、それよりずっと近い所にいた。突然、兵隊が立ち止まり、正面を向いたのが見えたが、それからすぐに小銃を連射する音が聞こえて、その大部分は我々の頭上をうなって飛んで行った。最初、私はそれを天皇側の軍隊と幕府側の軍隊との戦いかと思ったので、外国人居留地で、こんなことが起こってもよいものかと憤慨の言葉を口に出そうとした時、二度目の射撃が始まって、我々と日本人との間にいた外国人たちが逃げ始めたので、それが思い違いだと分かった。日本の軍隊は歩いていた人の群れに銃火を浴びせたのであって、その中にはハリー・パークス公使もいたのである。率直にいって、その時思ったのは我が身を守るために戦わなければならないということだけで、それは日本人が我々を追いかけて来ると考えざるをえなかったからである。
 彼らが六、七回射撃をした後で−−彼らは連発銃を装備していた−−静かに行進していったのを見て、少なからず、驚いたものである。(この後に水兵と海兵隊が上陸して日本軍を追跡したが、徒労に終ったという記述がある。)
 若い水兵が一人ともう一人の外国人が軽傷を負っただけで済んだのは、日本軍の照準が高すぎたことが幸いしたのである。彼らは税関の建物の上に翻っていた条約諸国の国旗目がけて何度も射撃したに違いない。ともかく、建物は弾丸で穴だらけであった。とかくするうちに、備前の軍隊についての新しい情報が入り、それによって確かめることができたのは、兵庫から神戸にかけて行進している間に会ったすべての外国人に対して侮辱的な振る舞いをし、多くの者を脅かして、その中の二人を槍で傷つけたということであった」
(英国外交官の見た明治維新、121〜122頁、太字と下線は引用者による)

1. 「若い水兵が一人ともう一人の外国人が軽傷を負っただけ」は、ミットフォードとサトウの証言と一致
2. 「兵庫から神戸にかけて行進している間に会ったすべての外国人に対して侮辱的な振る舞い」をし、「その中の二人を槍で傷つけた」という
3. 「若い水兵が一人ともう一人の外国人」以外に、別の「二人を槍で傷つけた」のか否は、この文面だけでは確認できない

*

なお、フォン・ブラントの著書は翻訳されている。『ドイツ公使の見た明治維新』(原潔・永岡敦訳、新人物往来社、1987年)である。その133〜136頁に、上記引用個所がある。

「若い水兵が一人ともう一人の外国人が軽傷を負っただけで済んだのは、日本軍の照準が高すぎたことが幸いしたのである。彼らは税関の建物の上に翻っていた条約諸国の国旗目がけて何度も射撃したに違いない」
(英国外交官の見た明治維新、長岡祥三によるミットフォードの英訳からの重訳)。元のミットフォードの英訳ではつぎのようになっている。
"Only one ship's boy and another foreigner had been slightly wounded, a piece of luck which I attribute to the Japanese having fired too high; they must have fired many times at the flags of the treaty Powers which were flying over the Custom House, at any rate the building was riddled with bullets."

「日本軍の第一回射撃の時でも、アメリカ軍艦の見習い水夫と、ほかに一人の外国人とが軽傷を負っただけであった。これは幸運だった。日本兵が銃をかなり上に向けて射撃したためである。彼等は税関の上に翻っていたアメリカ合衆国、イタリア、北ドイツ連邦のそれぞれの国旗を狙ったものらしく、少なくとも北ドイツ連邦の旗にはたくさんの弾痕があった」
(ドイツ語原文から原潔・永岡敦の翻訳)。

ブラントの本は2000年に復刻されており、近隣大学で所蔵するところも多い。相互貸借を依頼した。

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「二月四日の午後二時頃、外国公使たちが外国人居留地として割り当てられた神戸の土地の検分に余念がなかった時、兵庫側の門から入って来た備前藩の兵士の一団が、命令に従って立ち止まるや否や、外国人目がけて殺意をこめて銃火を浴びせてきた。幸いだったのは、兵士たちが銃の照準の合せ方が分かっていなかったことで、後で判明したことだが、最近、アメリカから買い入れたばかりの銃だったのである。私の古い友人ドーチェスター卿がセバストポリの要塞攻略の話をしてくれたことがあったが、彼ら備前兵の発砲の仕方は、その要塞戦で軍曹が部下に命令したのと同じやり方だった。ロシア人の頭が要塞の胸壁の上に見えた。英国近衛歩兵連隊の一兵卒が「照準をどのくらいにしますか」と尋ねた。その答えは、「照準一○○○ヤードにして敵を仕留めろ」であった。一齊射撃が何度か行なわれた。ハリー・パークス公使とスナップ艦長もその真っただ中にいた。他の公使たちや、その他おおぜいが銃火にさらされた。幸いにも、オウナイダ号の若いアメリカ水兵が軽い怪我をしただけであった」
(英国外交官の見た明治維新---リーズデイル卿回想録、117〜118頁、太文字と下線は引用者による強調)

「さて、この暴力行為を正当化するような挑発があったのかどうかである。我々の得られた限りの証拠は、攘夷思想の旺盛なことで有名な備前兵が途中で出会った外国人を、誰彼なく侮辱する機会を見逃さなかったということであった。彼らが外国人居留地の北側の道を隊列を組んで歩いていた時、ロッシュ公使の護衛の一人であったカリエというフランス人が、酒屋から出て来ると、日本人から荒々しい言葉で話しかけられたので、どうしたんだと尋ねた。これに対し、日本人は答える代わりに威嚇するような身振りをした。そこで騒ぎが起こり、兵士の一人が槍の覆いをとってカリエを突いたので、彼は急いで片側に逃げて一軒の家の中に飛び込んだ。この時、指揮官の滝善三郎が馬を下りて、集まっていた外国人目がけて射撃するよう命令したのである」
(同、119頁)

「この攻撃は、西洋との交際に特に敵意を持っていることで知られた藩の仕業であって、条約諸国全体に対して向けられたものである。条約諸国の旗は、そのために特に新たに建てられた建物の上に翻っていたのであって、条約の権利のもとに安心して新しい居留地を設計しようとして、おおぜいの部下を連れて現地を検分していた各国の公使たちは、奇跡的に死を免れたのである。この暴力行為は、故意に行なわれたもので、挑発されたものでは全くない。行列を横切ったという話は、後からの作り事である。当時、我々はそんな話を聞かなかったし、日本人自身も同じ見解をとっていたので、責任者の士官は腹切りを宣告されたのである
(同、123頁、太文字と下線は引用者による)

どうやら...。
1. 「照準一○○○ヤード」とは、照準を914.4メートルに合せるとの意。
1. 撃たれた「オウナイダ号の若いアメリカ水兵」は「軽い怪我をしただけ」
2. 「ロッシュ公使の護衛の一人カリエというフランス人」が槍で刺された(生命は無事)
3. 外国人が「行列を横切ったという話は、後からの作り事」

ミットフォードの"Memories"が執筆されたのは、その内容に出てくる徳川慶喜や井上馨の死去についての言及から判断して、1914年から1915年の間であると推定できる(出版は1915年)。神戸事件を体験した1868年以降、47年の歳月の間に、記憶が変形した部分もあり、それまでに出版されたものの内容と体験からの情報が混淆した可能性も考えられる。上記3.の"外国人が行列を横切ったのは後からの作り事だ"というのは記憶の変形の結果である可能性が大きい。

1915年に回想録に固定された歴史像がどのような過程で形成されたのかを、確かめたい。

なお、アーネスト・サトウの回顧録、すなわち『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)の原本の出版は、1921年であり、1916年に亡くなったミットフォードは、生前に読む機会はなかった。ミットフォードが執筆に当り参考にしたのは、サトウの日記である。1921年1月の日付の付された『一外交官の見た明治維新』の序文の最後は、つぎのような断り書きとなっている。
「この本のある部分では、私の友人で、すでに故人となっているリーズデール卿の著書『回想録』と数頁にわたり重複するところがあると思う人もあるかも知れない。それは、同卿がその著述をやっていた際に、卿と一緒に日本に滞在していた時分につけた私の日記の一部分を、同卿に借覧させたことがあったからだ。だから、私が自分の本を書くにあたって、同卿の著書を参考に使ったというわけではないのである」
(一外交官の見た明治維新、上、10頁)

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2006年11月22日

「二月四日(訳注 明治元年一月十一日)、この日早朝から備前の兵士が神戸を行進しつつあったが、午後二時ごろ、その家老某の家来が、行例のすぐ前方を横ぎった一名のアメリカ人水兵を射殺した。日本人の考えからすれば、これは死の懲罰に値する無礼な行為だったのだある。
 そのあとで、彼らは出会った外国人を片っぱしから殺害しようとしたが、幸いにも大事には至らなかった。後に外国人居留地となった場所は、当時は広々とした野原で、その奥の端を大きな道路が通っていたが、そこを行進中の備前の兵士が確かに元込銃で突然火ぶたを切ったのである。すると、外国人が平地を横ぎって、ころげるように逃げていくのが見られた」
(一外交官の見た明治維新・下、130頁)

"shot an American sailor"は「一名のアメリカ人水兵を射殺した」と訳されているが、これは「射撃した」あるいは「撃った」とすべきものであろう。一方、萩原延壽氏は、つぎのように訳している。

「二月四日(陰暦一月十一日) 早朝から備前(岡山)藩兵が神戸を通過してゆくのを見たが、午後二時頃、ある家老の行列が一名のアメリカ水兵を射撃した。その水兵は、行列のすぐ前方を横切ろうとしたのである。この発砲につづいて、かれらは出逢った外国人をひとりのこらず殺害しようとしたが、幸いにも大事にいたらなかった。かれらは居留地の奥の端を通る道をすすんでいたが、いっせいに射撃を開始したのである。かれらが使っていたのは元込め銃だったと思う。外国人が、平地をころげるように逃げてゆくのが見えた」
(遠い崖6、172〜173頁)

「若い水兵が一人ともう一人の外国人が軽傷を負っただけで済んだ」(英国外交官が見た明治維新、122頁)とミットフォードは記す。撃たれたアメリカ水兵も命には別状なかったと思われる。

*

なお、『神戸事件---明治外交の出発点』(中公新書681、1983年)において、内山正熊さんは、"shot"を「射殺した」の意味で捉えた上で、つぎのように、アーネストサトウの証言に疑問を呈している。原文を確かめれば、アメリカ水兵が死んだとは書いていないことに気づいたはずである。
「総じてパークス公使以下英国人の記述は、慎重に検討すべきである。パークスは、神戸事件の蔭の主役であるから、この事件について何かと日本側の暴挙であると強調しているのが目立つ。当時パークスを補佐していたアーネスト・サトウの記すところも、神戸事件に関する限り信憑性に欠けているのは、つぎの部分だけ見ても明らかであろう。/アーネスト・サトウは有名な回想録(A Diplomat in Japan, London, 1921, p.319)で、「備前事件」(The Bizen Affair)という一章を設けているが、その冒頭に「二月四日、この日早朝から備前の兵士が神戸を行進しつつあったが、午後二時頃、その家老が行列のすぐ前方を横切った一名のアメリカ水兵を射殺した(shot an American sailor who had crossed the street just infront)」と書いている。これは間違いで、衝突の発端について無知だったことを示している」
(同書、83-84頁)


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